反俗日記

多方面のジャンルについて探求する。

白井聡「永続敗戦論~戦後日本の核心~」のヨーロッパ哲学の系譜をひく論述方法とアメリカ手法の違い。フランス人権思想と無宗原則(ライシテ)国家の関係から、ムハマッド風刺漫画のフランス的精神を探る。

 今、ちらっと「永続敗戦論~戦後日本の核心~」の一節に目を通してみた。なかなかのものである。独特の文脈の流れを駆使できる、ここがこの書を他の<時事的政論>ときっぱりと区別できるところである。
文体の中に、読者を一種の直接的に実践的義務感や切迫感に>駆り立てる何物かを自然に埋め込むことができる。コレが誰にも真似のできない白井の最大の武器である。
この書は白井のあとがきを解釈すると、「時速100キロに満たないど真ん中のストライクを投げた」ということになる。
また、「元来政治哲学や社会思想を専門とする研究者である私が、本書のような時事的政論を主題とする書物を書く日が来るとは、考えたこともなかった。一種の直接的に実践的義務感や切迫感に駆られてこれだけの量の原稿を書いたのは、初めての経験である」。
 
 引用。 第1節。「わたしらは侮辱の中で生きている」-ポスト3,11の経験 
W。出だしから、ボルテージは高い。
「だから我々は憤ってよいし、憤っているし、また憤るべきである。我々あがどのようにして侮辱を被ったのか、また被っているのかー人間は忘れやすい生き物なのだから~振り返って少しでも確認しておくことも意義のないことではないであろう。
 
 引用  第2節、戦後の終わり。
「私には疑うことのできない確信がある。それは『戦後』というあまりに長く続いてきた歴史の区切り、一つの時代が確かに終わった、という確信である<W。予言の書でもある。東日本大震災原発事故)-集団自衛権閣議決定→法制化へー人質事件発生ーアベ中東訪問(テロとの戦いー秘密保護法適応(翼賛的言論自粛)>
別の言い方をするならばあの地震津波と事故はパンドラの箱を開けてしまった。(W。1923年の関東大震災は首都東京の朝鮮人大虐殺と伴って、ターニングポイントだった)
「戦後」という箱を。(W。意味するところは、じっくり論理として説明されていく)
 
>それは直接的には<平和と繁栄>の時代が終わったことを意味し、その逆の<戦争と衰退>の時代の幕開けを意味せざる得ないであろう。(W。なにしろこの書は予言者の書でもあるのだ。云いきっている
>それは同時に、それまでの、「戦後」を総括(W。「 」付き戦後。一つの政治概念として使用している)する基本的な物語(=『繁栄と平和』)に対する根源的な見直しを迫るものとなる。(W。これからの日本はどうあるべきか
アベ首相の大国日本に、ふさわしい底力からがあるのかどうか。やっていることに基本は、戦前の大きな勘違いと同じ次元か?)
なぜならば我々が目ににしているものが全般的腐敗(W。白井の造語か?確かアッチを向いてもコッチを向いても腐敗としか言いようのない事態)であり、
 
>A)そこから必然的に生じてくる「戦争と衰退」の始まりであるとするならば、
>B)それらは皆、「平和と繁栄」の幸福な物語の中から生まれてきたものに他ならないからである
(W.A、Bの使い分けと転倒に注目。後者の探求がこの書の方向であると指し示している)
 
驚異的な戦災復興と経済発展による脱貧困化と富裕化の幸福な物語によって隠された語りで、我々はいったいどのような社会機構権力構造を作り上げてしまったのか(あるいは維持してしまった)
この問題を直視することを、我々は今迫られている。
故に我々は、今改めて歴史に向かいあわなければならない。
 
それは、簡単にいえば、『戦後』=『平和と繁栄』という物語を批判的に再検証しなければならないということであるが、
 より厳密には、この物語に内在的にはらまれた『戦争と衰退』へと転化する可能性をはっきりと探り当てなければならない、ということである。
なぜならば、外在的な(それは天災のような)偶発的現象によってわれわれは「侮辱」を甘受させられただけでなく、ながきにわたって準備され執拗にに潜在してきたものが偶然的なきっかけを通じ露呈いいるという状況に我々は立ち合っているからである。
(W。マーカー部分は的を射ている。歴史は偶然的要素に満ちている。米国バブル崩壊政権交代、大震災原発事故、運が悪すぎる。が、長半ばくちの2分の1はすべてのギャンブルの原則。長の目が続いたら今度は半)
こういう適当に選んで抜き書きしても「時速100キロに満たないど真ん中のストライクを投げた」にしてはは大したものである。
 
どうして可能になったのだろうか?ということを前回の記事で、遠まわしにくどくどと、ふれてみたつもりだ。
超簡単に片づけると、<弁証法>というヨーロッパ哲学系の認識、論述方法が身についているということに尽きる。真似は出来ても自然体で使えないものだ。
 
たとえば、スティグリッツという経済学者の一般向けの本を図書館の書棚から手に取って数ページ読んでみたところ、即座にこれは駄目だな、書棚にかえした。文脈の流れの中に、<埋め込み>が全くない直截的に事実が提示され続けて、その筋道の中で、読者を説得せる仕掛けになっている奥行きがない。
基本的にアメリカ発の政治社会関連の文体はすべて、この流儀沿っている。
 
 
大前研一の「さらばアメリカ」もこの手法で、思わず耳目を引きつけるような事実をたたみかけている。もっとも彼の場合は、それなりに迫力があった。日頃情報シャワーを浴びて、その情報処理がうまい。知らないことを教えてくれる。
 
先ごろ、孫崎享さんのインタビュー動画を視聴していたら、面白いことを言っていた。
外務省官僚の研修で、ハーバード大学に派遣されとき感心した教授の授業のやり方は、学生にホワイトハウスで報告書を提出する場面を想定させ、報告文書の作成者は、超多忙な相手の関心を即座に引き付けるために、情報をペーパーに手際よくまとめ上げなければならないと、クラスの学生を常日頃、訓練した。
非常にためになった、と完全肯定している風だった。
橋本龍太郎首相にレクチャーした時、ハーバード留学時の訓練の応用編のようなものをつかった経験を語っていた。忙しい相手に最初興味を持たせて振り向かせる、そのあと、(言葉巧みに)説明を引き継ぎ、首相相手に1時間半もしゃべっていた。
 
確かにこういった手法は有効である。しかし欠陥も大きい。
 
>官僚仕事に限定しても、
たとえばアベ首相にこの手法を使うと、最初のアドバルーンに気を取られて、そのあとの説明は理解できな事態も生じるのではないか。
しかも首相に情報を挙げるどの官僚もこの手法を使った場合、アベ首相は情報処理ができず、混乱の中から脱出するすべとして、客観的事実を文学的情緒にすり替えてしまうメンタリティーだけで判断を下してしまう場合もあり得る。
>アベ首相のような場合は、本当は生徒を丁寧に教える教師のような手法が適切なようなのだが、独特の思考パターンは、コンプレックス克服法として政治体質となっている。プライドが生徒になることを許さないのである。
 今回の人質事件も、週刊ポストのネット記事による首相と情報を挙げる官僚との対話を読むと、どこまで真実かはさておいて、アベ⇔官僚間の、このレベルの問題がかなり影響を与えたと思う。
引用。 2015/1/29(木) 午後 7:01
安倍首相中東訪問  外務省は時期悪いと指摘も首相の反応は逆 
W。この記事の内容を読むと、普通は<まさか首相まで勤めるお人がそんなメンタリティーのはずはない、本当かな>と思うが、これが実像。
 参考文献。 アベ普三著「美しい国へ」。全編代筆 <あとがき>アベ首相直筆。
  (省略) 若者に呼び掛けているというにしてもひどすぎる。高校1,2年生に呼び掛けているんじゃないんだから~。
 
孫崎さんは
本格的な著作家として自立していったときに、大きな欠陥になることに、まったく無頓着の様子だった。
かれの話は面白いがラッキョの皮むきをしているような、一種の情報屋の一人とおもっている。
奥底に人々を<一種の直接的に実践的義務感や切迫感に>駆り立てる何物かを見出せない
あ~そ~、そんなものなのかな、その程度の受け止め方をする人も多いのではないか。
最もご本人もその辺のことは承知している節もある。織り込み済みということだ。
 
(孫崎さんと別人)
 以前、読んだアメリカ留学の自慢話では、最初にシンプルな結論を派手にぶちあげ、相手の興味を引き付けて、その後、関連事故の説明に入っていく、ことを教わった、と。
 
 この奥技を知っていたので、元財務官僚でヘリコプターからのカネを特定地域にばらまき政策(ヘリコプターマネー論←元FRB長官直接伝授)、を宣伝する高橋洋一のインタビューを「増税は誰のためか」で読んだ時は面白かった。
そっくりそのままこの手法を使っている。しかも派手に。ハーバード留学体験で教え込まれた手法が、その後の官僚生活で有効活用され、身にしみ込んでいるのだ
バーンと最初にアドバルーンを上げている割に、その続きを追ってみると、最初な派手なぶちあげ話が妙にこじんまりしていき、最後は普通の結論に近くなっている。それで全体の話の印象は嘘っぽさが付きまとう。
孫崎さんがそこまでとは言わないが、そういうきらいはぬぐい去れない。

エマニュエルトッドもフランス政府関連機関の人口問題研究所に勤めているのだから官僚のような存在とすると、「帝国以後」の文脈はプラスアルファの<埋め込み>と華麗なレトリックは駆使されていて、その点においても、読者に結局アメリカってそうの程度の国だったんだという目からうろこを、感じさせる。
この本を読んでそれまでの日米両国民同士手をつないで仲良くしましょう、のアメリカ帝国主義論の立場を修正した。グローバリズムの時代は、そんな単純で古臭いものは無力化する。現実世界と違っているからだ。
エマニュエルトッドはアメリカのイラク侵攻の際して、シラク首相の独仏連携した参戦拒否に強い影響力を与えたといわれていいる。
 ↓
フランスは人権と民主主義の国である一方で中央集権の官僚国家でもある。
この点を日本人の多くはフランス革命や二次にわたるコミューンを人権と自由と民主主義に一面的に誤解している側面がある。
 
フランス革命やコミューンは一面では、独特の無宗教の民主主義的中央集権の国民国家を称揚している。
 
  日本人には近いし難い論理である
 
 
     引用 フランス最新事情
「このような人権を<自律>(W、のっぺらぼうの中身ない情緒的用語の自立ではない。自律は限界を踏まえている)の観点から捉えると、人権主体としての個人のあり方だけでなく、国家の正当なあり方も浮かび上がってくる、
(A)まずいかなる公的権力も個人の自律をおかしてはならない。
たとえば、国家は宗教的信条のような個人の精神領域ふみこんではならない。人生の意味や目的は政治権力が決めるのではなく、個々人が自律的に決める。
W。上記のような自律した人権主体をそれゆえ、非宗教原則を貫く国家にまとめ上げなければならい必要が発生する、というフランス国家のリアリズム。
 
(B)*それゆえ政治や法などの公的領域では、私生活の場とは違い非宗教(ライシテ)の原則を貫く必要がある。
実際にフランスは、現行憲法の第1条で、非宗教的な共和国であることをうたっている
*より一般的にいえば、私的なものと公的なものとの分離が必要となる。そのような分離による権力の限定だけでなく権力内部での分離~」
 
W。関連事項。
イスラム教徒の少女が学校にチャドルをして登校したところ、非宗教のライシテ原則が貫かれている公共領域である学校に私生活領域の宗教を持ち込んでいるので違反したと、全国的な論争を巻き起こした。日本的にいえば憲法違反ということか。そこまでこの問題は発展し、フランス憲法に抵触すると、論争の的にある。
結局、(A)の自律主体の人権を言葉でなく実際に保証しようとすれば、人々は集団でなく個々人に分解するが、フランスの人権概念は、それでも保障しているのである。そこまでいかなくては自律した人権主体の自由は保障したことにならない。日本的感覚でいえば個人主義の徹底か?
  
 
   引用  W。以下になるともう政治哲学である。日本人には理解し難い面が多い。
「人権を考えるには、まず、人間(W。定冠詞単数形、日本語にない。複数形ではない抽象的人間という意味)という言葉に注目~。
人権が対象にするのは、不特定の一部の人々(W。わかりやすく言えば、アラブ人など)や個々人の総和(W。人間という抽象概念を想定し人権主体としているのだから当然)ではなく、全員に共通する<抽象的属性から包括的にとらえて人間>というものが(W、定冠詞単数形)人間である。
わたしたちは各々フランス人、アラブ人日本人等々、さまざまな差異があるにもかかわらず同じ人間であり、男女同性愛者、白人黒人黄色人種等々様々な差異があるにもかかわらず同じ人間である
人権は,各人に差異があることを認めらがらも、それを超えた次元で人間の普遍的同一性を価値づけ、生まれや民族宗教の違いを理由に差別を告発する。
 
W。日本人=日本国民と習慣的に思ってしまいがちな列島閉じこもり歴史の日本では理解しがたい、民族宗教など大きな違いを大前提にした、自由と平等を保障するために抽象的的人間概念に統合理念を見出しているということか。もうこの辺になると人間哲学を含んだ政治思想である。
 
人権はあれこれの集団に属するメンバーとして(男女、日本人等々)認められるものではなく、一個人として、すなわち人間として認められるものである。
 
W。政治の場は公である。そこに宗教を持ち込むことは、上記の政治哲学から導き出された人権主体を抽象的人間に還元するフランスの一般的社会観、それを保障する非宗教原則を貫く国家概念と衝突する可能性が出てくる。
 
>ではその普遍的同一性とは何か
それは人間(W。この場合の人間はリアルな個々人ととらえる日本人的感覚を含む人間ではなく抽象的人間)が自由だということだ。
もちろん自由とは言っても無制約ということではない。むしろ自律という意味である。自律とは文字通り、自らがが決めた規範によって自らを律することである
~人間は反抗する。人間のあるべき姿を決定する権限は、最終的に人間自身にゆだねられている
個人のレベルでも共同体のレベルでも将来いかなる方向に進むかそれを決める自由と責任がある。人権の基礎には自律的主体としての人間観がある。
 
W。以上のような事柄は、正直言って何回読んでも腑に落ちないところがある、著者の政治哲学的な方向からの整理の仕方が悪いせいもあるが、日本国憲法の自由と平等、基本的人権観はここまで、この領域の課題を突き詰めていないことに原因がるのかもしれない。政治哲学的にアメリカ的雑駁性が濃厚にある。
列島原住民的引きこもり体質が、こういった突き詰めた政治理念の理解を妨げているのかもしれない。
いや違うのだ!
これらの徹底的に政治抽象化に至る論理は、フランス庶民の日常生活の奥底にあるものを国民国家概念として表出したものにすぎない、ととりあえず、わかっておこう
 
  
     参考資料
 W。このヒトの気持ちはわかるが、上記に引用したフランスの人権と国家の政治哲学に裏打ちれた特殊性を、少しでも知っていれば、別な見方もできただろう。積極的に亡命者を受け入れるのも、この論理があるが故である。
パリ大学に留学経験のあるマスゾエ要一東京都知事のテロ事件直後の発言が一番印象にのこった。
日本の論法の典型を用いているところは次の通り。
「彼の発言からは、「フランスの価値観は絶対だ」といったような独善性を感じる。フランス共和国の中で生活するのなら、共和国のルール・価値観に従ってもらう、と。もちろん、外形的な言動の多くに関しては、その基準は当てはまるだろう。しかし、心の問題、特に宗教に関しては、より慎重であるべきではないか。」
 
W。マスコミは公共の分野に位置づけれている。であるがゆえに無宗教原則が適応される。無宗教原則は神棚見祭っておくべきものでなく、戦い続けるものである。異質があれば修正排除の論理が機能する。
フランス人の個人主義と公共の徹底分離も参考になる。全部ベタにするイスラムとは本け的相容れない部分がある。
「そもそも、イスラム教の預言者ムハンマドの風刺画を描いて茶化すことに、何の意味があるのか。現在の社会に於いて、ムハンマドにどのような責任があるというのか」
 
W.論点をここにずらすのも日本思考のパターン。で、自分たちはどうなのかな?
 
「しかし、フランスは歴史的に海外で多くの植民地支配(*「武力侵攻や力による支配」を伴う)を行なってきたのではないか。フランス国内にアフリカ出身のイスラム教徒が多いのは、そういった背景が関係しているはずだ。つまりフランスという国家は、自らの植民地支配という歴史的背景の故にこそ、イスラム教を信仰する人々に「開かれている」のだ。」
 
W。国民国家形成と対外戦争、植民地獲得、市民革命は密接に結びついていた。前回の記事に記した1871年パリコミューンも対独戦争の敗北が原因で発生した。
コレでは市民革命は自力できなかったはずだ。アメリカにやってもたっらのだ。
W。民主主義は民衆の永続革命でもある。(丸山真男
イギリス革命→アメリカ革命(独立戦争と日本では言われているが)→フランス革命。革命が一番遅れたフランスにおいて、そのご、1871年のパリコミューンを経て、自由と人権と国家の問題は深められ徹底したものと見る。

今まで述べてきた次元から想うと、自民党2010年憲法改正草案とは、真逆をいく論理構造をもつ、と断言できる。冒頭で天皇をいただく日本国民と称して、基本的人権項目さえ削除している。
それで、ムハンマドの風刺漫画に対する痛ましいテロ事件に続く、中東訪問で日本人人質を知っていながら2億ドル援助とテロとの戦いを宣言したわけだ。
というか雑駁な人だから、突き詰める能力欠如。
日本のターニングポイントが政権交代と大震災福島原発事故が「遭遇」であったように、さらに追い打ちをかけて、アベ首相のような大きな勘違いを自己システム化した御人に遭遇したのは大不幸といえよう
2014年12月の総選挙から先を手繰り寄せると、このまま推移すると、2020年の東京オリンピックのほぼ前年まで、自公政権が続くことにある。だったら浮かれて、その先も~?
 
ということで着実に日本は、レールの上を歩んでいる。
今までが恵まれすぎていた。
そういう意味でも白井聡の問題意識は、ニッポンチャチャ方面でも、否定しようにも否定しきれないのではないか。