そしてただにこのような計算がおこなわれるだけでなく、これらの資源が巨大な独占団体によって一手に掌握されてゆきつつある。市場の大きさの概算がおこなわれ、その市場をこれらの団体は協定によって相互のあいだで「分割」する。それは資本家たちを、彼らの意志と意識とに反して、競争の完全な自由から完全な社会化への過渡の、ある新しい社会秩序に、いわば引きずりこむ。
>生産は社会的となるが、取得は依然として私的である。社会的生産手段は依然として少数の人々の私的所有である。W。帝国主義論のテーゼ。形式的にみとめられる自由競争の一般的な枠は、依然として残っている。
>生産は社会的となるが、取得は依然として私的である。社会的生産手段は依然として少数の人々の私的所有である。W。帝国主義論のテーゼ。形式的にみとめられる自由競争の一般的な枠は、依然として残っている。
そして少数の独占者たちの残りの住民にたいする抑圧は、いままでの一〇〇倍も重く、きびしく、耐えがたいものとなる。
独占――これこそ「資本主義の発展における最新の局面」の最後のことばである。しかし現代の独占体の実際の力と意義についてのわれわれの観念は、もし銀行の役割を考慮に入れなければ、きわめて不十分な、不完全な、過小なものであろう。
★二 銀行とその新しい役割
銀行業が発展しそれが少数の銀行に集積されるにつれて、銀行は仲介者という控えめの役割から成長して、あらゆる資本家と小経営主のほとんどすべての貨幣資本と、さらにはその国や幾多の国々の生産手段と原料資源の大部分を意のままにする、全能の独占者に転化する。多数の控えめな仲介者からひとにぎりの独占者へのこの転化は、資本主義の資本主義的帝国主義への成長転化の基本的過程の一つをなしている。ひとにぎりの独占者たちが全資本主義社会の商工業業務を自己に従属させるようになる。
彼らは――銀行取引関係を通じ、当座勘定その他の金融業務を通じて――、はじめは個々の資本家の事業の状態を正確に知ることができるようになり、のちには彼らを統制し、信用を拡げたり狭めたり、信用を緩和したり引き締めたりすることによって彼らに影響をおよぼすことができるようになり、そして最後には、彼らの運命を完全に決定し、彼らの収益性を決定し、彼らから資本を引きあげたり彼らの資本を急速かつ大規模に増加させる可能性をあたえたり、等々のことをすることができるようになる。そしていうまでもなく、このヘゲモニー争いは、両銀行の「協定」がますます頻繁になり、ますます恒久的なものになってゆくのと並行しておこなわれた。
そして、いまドイツを経済的に統治している三〇〇人のうち、ときとともに五〇人、二五人、あるいはもっと少ない人しか残らないであろう。
最近の集積の動きが銀行業だけにかぎられるとは、期待できない。個々の銀行のあいだの緊密な結びつきは、当然また、これらの銀行の庇護する産業家のシンジケートのあいだの接近をもたらす。・・・・そしてある日われわれが目をさましてよく見ると、驚いたことに、われわれのまわりはトラストばかりになっている。そしてわれわれにとっては、私的独占を国家的独占によっておきかえる必要がおこっているだろう。しかもわれわれは本質的には、株式制度によってすこしはやめはしたが、事物の発展を自由にすすむにまかせたという以外に、自責すべき点はなにもないのである」。しかしドイツを支配しているのは三〇〇人たらずの資本の巨頭である。しかもその数はたえず減少している。いずれにせよ銀行は、すべての資本主義国で、銀行立法にいろいろ相違があるにもかかわらず、資本の集積と独占体の形成との過程を何倍にも強め、促進するのである。
★三 金融資本と金融寡頭制
W。以下の「 」は金融資本の定義。貨幣資本G-G’は現代でも長期のスパンでみるとあり得ない、国内外の剰余価値によって、それは可能になる。この構造が破綻したときが(G-G’の膨張に内外の余価値の裏付けがなくなる)、バブル崩壊。
ヒルファディングはつぎのように書いている。「産業資本のますます多くの部分が、それを充用する産業資本家に属さなくなる。彼らは資本の管理権を、彼らにたいしてこの資本の所有者を代表する銀行をとおしてはじめて獲得する。
他方、銀行はその資本のますます多くの部分を産業に固定しなければならない。そのため、銀行はますます産業資本家になる。このような仕方で実際には産業資本に転化している銀行資本、すなわち貨幣形態にある資本を、私は金融資本と名づける」。「金融資本とは、銀行の管理下にあって産業家によって充用される資本である」。
つぎにわれわれは・資本王義的独占体の「業務遂行」が、商品生産と私的所有という一般的環境のもとでどのようにして不可避的に金融寡頭制の支配になるか、ということの記述にうつらなければならない。 (メモを省略している)
★ 四 資本の輸出 W。資本主義の段階的発展経過を明らかにするため文脈を入れ替えた。
(1)W。産業資本主義段階。
自由競争が完全に支配する古い資本主義にとっては、商品の輸出が典型的であった。
(1)’資本主義とは、労働力も商品となるような、最高の発展段階にある商品生産である。国内の交易だけでなく、とくに国際間の交易の増大は、資本主義の特徴的な顕著な特質である。
(2)W。帝国主義段階。
だが、独占体の支配する最新の資本主義にとっては、資本の輸出が典型的となった
(2)’>個々の企業、個々の産業部門、個々の国の発展における不均等性と飛躍性は、資本主義のもとでは避けられない。
以下は上記の段階的発展の経過説明。
(1)はじめはイギリスが他の国々にさきがけて資本主義国となり、一九世紀のなかごろには、自由貿易を導入して、「世界の工場」、すなわち、すべての国への製造品の提供者という役割をねらい、他の国々はこれとひきかえに原料品をイギリスに供給しなければならなかった。
(1)’しかしイギリスのこの独占は、すでに一九世紀の最後の四半世紀にそこなわれた。
なぜなら、一連の他の国々が、「保護」関税にまもられて、自立的な資本主義国家に発展してきたからである。
(2)そしてわれわれは、二〇世紀にかかるころに別の種類の独占が形成されたのを見る。それは、第一には、資本主義の発展したすべての国における資本家の独占団体の形成であり、
第二には、資本の蓄積が巨大な規模に達した少数の最も富んだ国々の独占的地位の形成である。
先進諸国では巨額の「資本の過剰」が生じた。
>もちろん、もし資本主義が、現在いたるところで工業からおそろしく立ちおくれている農業を発展させることができるなら、またもし資本主義が、目まぐるしい技術的進歩にもかかわらずいたるところで依然としてなかば飢餓的で乞食のような状態にある住民大衆の生活水準を高めることができるなら、資本の過剰などということは問題になりえないであろう。
>そのような「論拠」は小ブルジョア的な資本主義批判者たちがたえずもちだしているところである。
>しかしそうなったら資本主義は資本主義でなくなるであろう。
なぜなら、発展の不均等性も大衆のなかば飢餓的な生活水準も、この生産様式の根本的な、避けられない条件であり前提であるからである。
>資本主義が資本主義であるかぎり、過剰な資本はその国の大衆の生活水準を引き上げるためにはもちいられないで――なぜなら、そうすれば資本家の利潤が下がるから――、資本を外国に、後進諸国に輸出することによって、利潤を高めることにもちいられるのである。これら後進諸国では利潤が高いのが普通である。なぜなら、そこでは資本が少なく、地価は比較的低く、賃金は低く、原料は安いからである。
W。(1)市場原理。資本主義において労働力は商品の一つにすぎない。原料と同じくコスト。資本の原理はより儲けを増やすためにコストカットを目指す。
しかし、このような基本動向に利潤率の傾向的な低下が内在する。
<利潤率の傾向的低下の法則>
不変資本をC 、可変資本V 、剰余価値をM 、利潤率をr とおくと、
労働は支払労働と不払労働に分けられ、不払労働の割合が高いほど搾取の度合いも高くなる。剰余価値率は、労働力の価値に対する剰余価値の割合、あるいは必要労働時間に対する剰余労働時間の割合を示す。現在の日本では、剰余価値率は低いときでも300%、高いときでは400%を超す。
2)金融資本の原理。労働力商品のコストが高く、利潤率は低下する傾向にある先進国よりも、後進国では利潤率が高くなる条件がそろっているので、資本が輸出される。
<ユニクロの法則>
引用。白井聡【「物質」の蜂起をめざして】よりー【不均等発展の理論】2014/3/23(日) 午後 10:05
「発展の不均等性が、資本主義の存続にとって死活問題であるということだ、
>まさにこのように差異は存在することによって豊富な利潤が創出され資本の蓄積が可能になる。
>具体的にいえば、低発展の段階にある後進諸国では【資本が少なく、地価は比較的低く、労賃は低く、原料は安価】である。要する財の価値が総じて低い。
*相対としての価値体系の水準が低い場所で生産されたものを、より高い価値体系の水準を有する場所で売るならば、そこで得られる利潤は高い。
そして、資本主義を駆動させるためには、このような複数の価値体系の間における差異が絶対必要不可欠である。