反俗日記2015/3/13(金)
の問題意識を継続するために、冷戦体制とその後から現状までのロシアの政治経済を探索することにした。
こういう見方はもっともらしいが、ロシア中国がたどった歴史の現実とそれを引き継がざるえない現状とは大きくかけ離れていると、思われる。
>連邦崩壊時、イギリス人資本家が暗躍し、続々と出現していた新興企業の株を買収し、その会社の株価を吊り上げて一気に大金持ちになるという新興財閥をたくさん生みだした。
「ロシアと中国では、修正社会主義が当然のように今も通用し、そうした活動によって富の蓄積をしていった」。
W。グローバル金融経済帝国主義の経済低成長、寄生性の深化する先進諸国において、その無政府的蠢動にたいして、「国家の経済への介入」の根拠である財源、権限は、ますます乏しくなってきている。
W。そうした金融帝国主義経済への規制は、全く逆方向の制度政策に流れている政府自ら率先して、行うはずがなく、金融帝国主義の<低強度戦争>の地球規模のばらまき、という焼き畑農業的世界資本蓄積過程は、地球的人類的制約を極めるまで、継続されていく。その間にソレを規制する力は二つの世界戦争の発火点は先進ヨーロッパであった、という厳しい歴史的事実を弁えた世界の民衆の間からしか湧きあがってこない!
世界戦争が発生する条件はないが、低強度戦争状態は世界中で進展する。しかも先進国政府は世界中に低強度戦争状態をまき散らす趨勢にある金融帝国主義への規制とは逆方向の政策をとり続ける。
後で取り上げる大前研一の基本的な政治思想は、EUのような広域経済圏構想の進展によって、何とかなるような楽観論の立場に無理やり立とうとしているが、EU自体が金融帝国主義的な振る舞いの基盤となっているのは紛れもない事実で、そうした最中に圏内中央の政治経済は矛盾を深めている
ロシア理解のための事実関係の指摘がたくさん載っているので後で、引用する。
その前に、肝心の日本のTPP問題に対する大前の見解を確認する必要があった。他所の地域や国のことよりもまず、足元の問題でどういう見解を持っているのか確認しておきたかった。
ただし、ソ連は中国のような、「孤立」政治経済圏ではなく、東欧地域との政治軍事経済有機的関係を抱え込んでおり、形の上では、西側との対峙の歴史があり、したがって、その広域圏に責任を持たざる得ない、という立場から、中国の鄧小平路線のような、国家権力の独裁を維持して、経済資本主義化を実現できる政治環境が、当時、リアルにあったかどうかの問題がある。
ただし、こういったリアルな生きた政治の問題に関して実情を全く知らないので、判断できない。
>いづれにしても混乱は避けがたかっただろうが、手順を完全に誤ったことは確かで、その渦中で、とんでもない人的物的国富がロスした。内戦があったわけではないのに、混乱の時期に平均寿命さえ低下している。大前は「ロシアショック」のなかでその具体例をあげ、中国型の対応が可能であれば、中国よりも経済発展していただろうと予測している。冷戦体制時代のソ連と中国の経済格差からいえば当然の予測である。
この問題系をもっと突き詰めて考えていくと、ソ連邦崩壊の大混乱とロスを発生させたソ連共産党の指導部には、なぜ?旧来の社会経済機構の中核であった国家権力の問題を蔑にした政治路線の選択をしたのか、という政治思想分野での問題が、問われて当然である。
これは、ロシア革命型の政治思想はヨーロッパ社会主義の中でどのような系譜にあって、どの立ち位置にあるかという根本問題を抱えている。というのは本質上、資本主義政府は自生する経済に基づく政策限定責任政府であり、
>危機的情勢のただなかで、国家権力の問題を政治の中心に据えるのは、あたり前ことである。
>政治とは権力の分配である、とイギリス政治の学者の見解だが、危機的状況において分配できる条件がなければ、その時点では厳しい選択になるが、後のことを考えて独占(挙国一致という形もある)を選択するしかない。もともと独裁権力の場合は、ただその独裁権力の実際の発動の決定的なとき、やり方程度だけが問題になる。
上記のような観点に立てば、ゴルバチョフは最初から間違った判断をして状況を収拾のつかないところまで自ら押しやった、といえる。
民衆の立場に立って考えても、実際に大部分の人たちは大被害を受けているのだから、上記の問題意識は間違いとは言えない。
ゴルバチョフは欧米日本で評価は高いが、ソ連邦崩壊の大混乱の中でロシア国民の信頼を完全に失って、支持率1%以下になった。完全な失脚である。短期間のうちにロシアの多くは国民はゴルバチョフ同調から、政治指導力に完全なONを突き付けているが、基本的な問題の所在は、資本主義化の手順の問題、つまり当時のソ連共産党の政治路線の問題である。
それは、現実に独裁的権力を維持している以上、外面の内外強硬路線の現実とは大きな矛盾はなかった。つまり、ソ連共産党と東欧体制の冷戦体制の「平和」の城壁のど真ん中で安住し、政治感覚がなし崩し的にボケてきたのである。
もともと、ボリシエビキとメンシェビキはロシア社会民主労働党の指導部が20世紀初頭に組織問題で分裂した際の、多数派と少数派の意味であり、マルクス以後のヨーロッパ社会主義運動の視点からみると、イギリス改良主義型フランス労働者自主管理評議会型など多様な要素があったの中のマルクス的社会民主主義グループであったドイツ社会民主党の系譜の「最左派」という政治的立ち位置があった。
もっともなことである。
時間不足で、ココまで中止して、次回は大前研一の「TPPに対する見解」に移る。