大阪都構想について、日記を書いていくうちに、「発見」したことがある。
>現在の大阪府と大阪市(その他の市町村)の関係が自治体の在り方としては、真っ当であり、東京都と、23区(都の人口7割集住)及び各市村(東京に町自治単位はなかったはず)の関係の方が、異常な特例、であった。コレが真相なのだが、時代を経て、いつの間にか、非常事態措置法が当たり前、という感覚に陥ってしまっている。恐ろしいことである。
戦時中の東京が描かれた小説や評論を読むと、当時の行政区分が具体的に出てくることがある。
本土地上決戦を想定して、日本軍の従来の大本営を頂点とするピラミッド的指揮系統体制は、敵の上陸軍によって寸断されることを想定し、各方面軍が独自性を発揮して、機動的で柔軟な戦術を駆使して戦える体制に改変された。山岳地帯の多い列島の日本の国土事情に即した適切な措置である。仮に、原子爆弾が完成していなかったとしたら、沖縄地上戦と同じような様相を呈する本土決戦が現実のものとなっていただろう。各種の特攻攻撃が行われていたのだから、そういう想定が成り立つ。
そして日本本土の沖縄化、膨大な住民の犠牲の先に想定されるのが、日本の「市民革命」である。白井聡の「永続敗戦論」の受け売りだが。
関東州長官などという役職も、この短い時期に出現したものである。
非戦闘員である住民は、それまで末端の学校区単位で、竹やり突撃や消火活動訓練をしていたが、もうこの時期になると、純軍事的観点からあてにできないので、放置状態、各々勝手に生きて行けと云う訳である。本土大空襲で都市の末端の行政機能は基本的に停止した。
このとき、司馬は、上陸した地上軍から街道を北に逃げまどう住民たちが、街道を南に驀進しなればならない戦車隊の邪魔になると思うが、どうするかと上官に尋ねた。上官は非常時だ、敷き殺しても構わない、といった。
司馬の戦車隊は陸軍のエリート部隊。日本軍によくあるいじめ、鉄拳制裁はほとんどなかったという。敗戦直後の隊内の雰囲気は、試合に負けた後の野球のダッグアウト裏のようだった、という。非常時の軍事作戦のためならば、住民を敷き殺しても仕方がなと云った上官が異常軍人だった訳ではない。地上制圧戦とは、非戦闘員、半戦闘員の住民の犠牲者のたくさん出る戦闘である。
>このとき、東京都ー特別区だった。
昭和18年6月の太平洋戦争の戦況の逆転のハッキリしてきた時期の帝都構想によって、東京府ー東京市から、東京市が廃止され、東京市の持っていた権限と権力が、東京都に集約され、敗戦後、この権限と権力の実体関係は維持されたまま、1947年、各首長と議員の公選制度が導入され今日に至っている。東京都と23区の権限と権力の実体関係だけを見るとそういうことになる。
GHQ占領軍の立場からすると、東京都ー区の上意下達の権限の集中と下部への指示系統は占領政策を実施する上で、非常の便利な行政の枠組みである。都の首長を抑えると、その政治意志、政策はストレートに末端行政機構に反映する。
>次に、上記を踏まえて、前回の東京体験を再考する。
結論だけにする。
結局、現在の東京23区の行政権限と議会の実態を大阪市に当てはめると、現在の大阪の各区(数は知らない)において、区長と議員を区民が選挙で選んでいる事にほぼ相当する。
財源も権限の多くは都に取り上げられて、公選の区長、議会が設置され、各区の人口は多いので、議員の定員もそれなりにおおい。
前者は、戦前の戦時の非常事態体制から受け継いだ制度。
後者は、戦後の民主主義制度である。
この両者が並列しているのが東京23区の行政の実体である。
今まで長年、生きてきて一度もそんな話を聞いたことがない。
調べてみた。
「同市の行政区である5区には、かつての市域に相当するマンハッタン区に市庁舎、同区以外に区役所が置かれており、各区ごとに区長が選任されている。しかし区長には最低限の権限しか認められておらず、区に立法権はない(日本の政令指定都市の行政区に近い)。」
ニューヨーク州とニューヨーク市の関係は、大阪府と大阪市の関係である。ただし、区域が広い。ココが前回、公明系の意見で指摘されていた「区政会議の充実や改正自治法による「総合区(今の行政区よりも権限や財源を持った行政区)」の活用などで住民自治の強化を図っていくことです。」という政策案のイメージか?
フランスの場合は市という行政単位がなく、コミューンがあるので、事情がかなり違うので除外する。三重の行政システムだと聞く。
>そうすると、東京都ー23特別区の関係は特殊事例だと解る。
その特別区としなければならない理由は、基本的に末端住民サービス行政の権限しかないのに、区内人口は多く、議会があり議員が存在するからだ。摩訶不思議な事態である。
そういう実情から、当然ながら、そこでの議員活動は、徹底したどぶ板世話役活動が主となるはずだ。
フランスにはパリ市やマルセーユ市がなく、コミューンというフランス革命の伝統を引きついた行政単位がある。
違うな。惰性に流され、政治と行政の枠組みを根本から、考え直さず中身を調整して、東京都ー23特別区の戦時体制が放置されているのである。
>前回の記事の中、書いたときは、サラっと受け流していたがで今、非常に気になっている個所がある。
不利益は市民(特別区)だけに
>特別区は権限、財政も『村』よりも格下
→府(都)の支配を受ける自治体に
>この項目には、自治体の権限という絵図が載っている。スキャナーがあれば一発なのだが文字で説明するしかない。
階段状の太い棒グラフで自治体の権限の大きさを左から順番に示している。
中核都市、W、人口30万人以上の都市が対象
特例市、W、人口20万人以上の都市が対象
一般市町村
>特別区
*反対派の解説
→自主財源は4/1に。
→取り上げた4/3の一部を特別区に渡すとなっていますが、割合、配分は決まっていません。
→大阪府の条例で決まります。
*特別区の住民の意見は反映されません*
→東京都は約7割が23区に集中、大阪とは状況が違います。
マーカー部分によって、東京23区の自主財源は大阪が4/1だから、最低、それ以上になるだろう。
都からの財源の割合配分は都条例で決められていると解った。
また23区の抱える人口の大きさから、その割合配分は大阪特別区よりも大きなものである。
>しかし、特別区の権限は「村」よりも格下であることに変わりはない。意地を張るようだが、実体験からして、東京の区がやっていることは、基本的に末端行政業務やサービスだけ。なのに議会あって議員がいるという不思議は変えるつもりはない。
>必然的に東京23区より少なくなる財源と権限の中で、公選の首長と議会、議員がいても、一体どれほどの仕事が、またどんな仕事が、できるのか、分かり切ったことである。
議員の仕事は末端世話役活動であり、行政では行き過ぎたケチケチ、リストラが始まる。少ない財源と権限しかないのだから、そこに行き着くしかない。
それを、財源を集中された大阪都がカバーできるとするのが、経済学的無知そのものである。
足元の民の需要や経済活動の基盤をガタガタにしておいて、大阪都の投資が有効に機能する条件はたった一点しかない。
巨大な海外投資を呼び込めた場合だけである。コレは大阪のファンダメンタルズの現状、将来からして実質的に棚から牡丹餅が落ちてくるのを寝て待つようなものである。
大阪都構想に対しては、あくまでも実務的に考えなければいけない。
偉そうなことは云いたくないが、コレが「発見された新大陸」米国の思考パターンの民主主義ではない、中世も封建時代も経てきた真っ当な民主主義の本体である合理主義的思考である。固有の歴史と伝統ある日本にふさわしい思考パターンである。
>東京23区の住民は「村より格下の権限しかない」区民であり、戦前の戦時体制を継承した都民、メガポリスの唯の居住者であり、帝国憲法下にさえ存在した東京市という自主的な自治権利主体が存在しないのだから、市民(デモス)の支配権(クラシー)を持っていない、ということになる。権限がないところに自律主体が成立するはずがない。帝都東京の臣民のままなのである。
>日本国憲法の三原則は平和主義、国民主権、基本的人権の尊重に集約されるが、現状、中身の甚だしい空洞化が進行する要因は、都を中央とする集権行政構造の中にも潜んでいる。自律個人主体は特殊広域行政空間である都に拡散している。
勉強不足で、上記は苦しい展開。
>大阪市を廃止し5分割する大阪都構想は、先に示したように、大阪に東京の条件がないのだから、東京都と23区の悪いところを、寄せ集めたようなものになる。大阪再生どころか、大混乱によって、衰退に導く構造をもっている。東京府ー東京市から東京都ー特別区への移管はS18年6月の戦時中だからできたのである。平時の今、こんな選択をするのは阿呆である。あまりにも稚拙すぎる。どさくさに紛れて大きな利権が発生する可能性もある。
>大きな制度改革は権限と権力の移動と同義なので、中身と施工される環境条件を冷静に考えないと、住民に惨禍をもたらす。
前回の最後に引用した橋下市長のあいさつ文の中にもおかしな論理矛盾と飛躍がある。
「(A)増税や借金という形で皆様に負担をお願いすることなく、徹底した改革で税金の無駄使いをやめる。
>そこで生み出したお金を、医療や福祉、教育の充実1)に充て、住民サービスをよくする。もっと住みやすい大阪にする。
ソレが大阪都構想です。
(B)大阪の問題を、都構想で根本的に解決するのか、今のままで我慢するのか。」
大阪都が4000億円を使えて住民サービスと繁栄に利用できるなどと公報に載せるのは行政実務を無視した詐欺行為である。
(A)程度のことであれば、(B)の手段を採用しなくても実現できる。
((B)は(A)のあくまでも政策手段のはずである。
都構想のような大がかりな制度改革など必要ではない。やり方は他にありその方がベターである。
ところが、橋下「いしん」は自らでっちあげた幻影でしかない都構想のベストを提示している。ベストの道などあり得ない!「都構想で根本的に解決」など120%ありえない。実行すれば大混乱の発生は必至である。
メリットよりもデメリットがあまりにも大きすぎる。実務的な事柄に踏み込んでいけばいくほど、都構想を大阪で実現することの意味が薄れて問題点が浮かび上がってくる。
住民に都構想で大阪の問題が一気に解決するかのような幻想をふりまき、大阪都を目的と想いこませるシンボル操作をしている。「B)大阪の問題を、都構想で根本的に解決するのか、今のままで我慢するのか」
ヒトモノカネ情報の一極集中の東京繁栄という実物例をちらつかせ、同じ制度を導入したらあたかも繁栄するかのようについ信じがちになる人間の即物反応を助長している。
>都構想を支持する人の気持ちはわかる。
しかし、古すぎる。政権交代前の民主党や解体したみんなの党の主張の総括ができていない。同じ思考パターンを「いしん」都構想に持ち込んでいる。民主党が大阪市で全滅したのは、民主投票が「維新」に流れたからだ。政権交代を支持したが、埋蔵金があるとか、ケチケチ路線を取れば、大きなカネが浮いてくるなどという話は全て眉唾ものだと思って相手にしなかった。そういうのは安易な発想である。
どうして長年地方政治の実務に携わってきた地元の自民、公明の議員が反対しているか、考えてみるべきだ。
既得権云々はもちろんないとは云ない。しかし、プロの政治家として、地方行政の実務の観点から、メリットよりデメリットがあまりにも多すぎるから反対している。
このグローバル資本制の時代、経済を主導するのは民間資本であり、大阪都の振り向けられる投資額など、大阪全体の経済基調に影響を与えない。海外からの投資流入も、大阪都の行政施策と関係がない。そもそも、大阪のファンダメンタルズは現状将来にわたって大きな限界がある。まとまった投資額の経済政策にまい進するとまた失敗する。橋下徹はあいさつの冒頭で「人口減少や少子高齢化で右肩上がりの成長が見込めないこの時代」などと日本のファンダメンタルズを規定しておきながら、大阪の限界と都構想の限界を無視している。自分たちの政策だけは、別物なのである。「4000億円も使える」のだから。
ましてや都構想による住民サービス向上など実務的に考えると、論外も甚だしい。
1)大阪ではメリットよりはるかに大きなデメリットが出て大混乱必至の2)元々無理筋な所もある東京都都-23特別区、加えて東京とは条件の全く違う大阪の住民に強引にねじ込んでいる。
情報の氾濫する時代状況では、東京という隣の芝は、あまりにも青すぎるのである。
動物的本能で政治に向うのは、やめた方がいい。災いをもたらす。だだ、その心情はわかる。
投票公報の自民系公明系の見解は都構想の問題点を網羅している。
「いしん」の見解は、政治的未熟議論そのものである。実行すれば大混乱は発生する。
今のところ政治扇動のシンボル。
そもそも実行できない代物である。やっているうちに間違っていましたは通用しない。
<追記>
この問題について3回も書いていると視点がいつの間にやら、自分独自のものになった。
東京都ー23特別区の方が異常であり、特例であるとする視点から、考えを深める方向には自画自賛になるが自信を持っている。コツコツと大切な時間を犠牲にして、各分野にわたる日記を書いてきたおかげである。コレが成果である。大切にし、発展させる。
東京の行政システムの矛盾を察知できないのは、ボケている証拠である。東京体験もあるが、道州制論議の本を読めば一発でわかることである。元々大阪都構想は、道州制論議の論議の中から、太田房江前知事時代に出現し、勘に頼って暴走する橋下が見切り発車して、政治野心のために大阪都を自己目的化したのである。故に民主政の基本原理の否定ばかりでなく、経済合理性、道州制推進の観点からも、間違った方向となる。
マスコミは得意の世論調査をするのだろうか。その結果次第では雪崩現象も生じる。コレが日本の只今現在の政治意識のあり方でもある。でなければ、今の議会圏の政治地図はあり得ない。
>本文中で明らかにしたように、都構想そのものの中に大阪を衰退させるシステムが組み込まれている。大阪は現実を直視できない架空の政治幻想によって、自分自身で衰退の道を選択している。その意味で、日本のトップランナーである。
「大阪を、この国の新しいエンジンに。」大阪「いしん」の会。このエンジンは日本を衰退の方向に引っ張りこむ逆噴射エンジンである。
日本国民がここまで政治バカになれる、という展示物が大阪に陳列されている。
参考資料
このヒトの政治思想を何回か批判してきたが、専門分野では正統な勉強家。理論の優先する分野では黒を白と云わない。理屈の関係と流れに忠実である。専門の経済の立場からおかしいものはおかしいと云っているだけ。