反俗日記

多方面のジャンルについて探求する。

戦争国家づくり~憲法を無視の下克上の流れは国家ーグローバル複合体の常道手段。ドイツのEU域外派兵を正当化する解釈改憲を検証~が、日本は何の実入りもなく、米国下請けの政治軍事行動を余儀なくされている。

  マガジン9
伊藤真さんに聞いた(その1)
この国は今、どこに向かおうとしているのか?http://www.magazine9.jp/article/konohito/19616/
 
      自民党改憲案を「ゴール」とする
    大きな流れがつくられようとしている
イメージ 1W。法律家の筋論からすると、「本来は主権者である国民の意思を汲み上げて、根本法である憲法を変えて、それに従って法律を変え、憲法の解釈や運用を変えていく」、というのが筋。
 
>「この本来の流れ」とは真逆の方向で国の形を変える」ことが、2006年の第一次アベ政権~第二次アベ政権によって、一貫して実行されて、現在の国会安保法制(政争法案)審議に至っている。←<法の下克上>
 
>しかし、この真逆の流れは、『2013年7月に麻生太郎元首相が「ナチスドイツでは、国民の知らないうちに憲法が変わっていた、あの手法を学んだらどうか」と言っていますが、まさにそのとおりのことをやりたいんじゃないでしょうか』
 
明文での「改憲」はまだ、一度も行われていないにもかかわらず、改憲草案に書かれていたことが、さまざまな形でどんどん実現してきている…。
 
民主政体でなぜ独裁?=「ナチス憲法Q&A
時事通信 2013年8月2日
麻生太郎副総理兼財務相のいわゆる「ナチス憲法」発言が物議を醸している。
~『ワイマール憲法は形骸化しながらも残っていたのであって、「ナチス憲法にとって代わられた訳でなかった。』
 
当時のヨーロッパでもっとも『進んだワイマール憲法下でナチス党(国家社会主義労働者党)が第一党の座を獲得し、独裁体制へと突き進む訳だが、麻生氏の云うようなナチス憲法と云ったものは存在しなかったナチス政権下でもワイマール憲法は形骸化しながらも残っていたのであって、「ナチス憲法にとって代わられた訳でなかった。』
 
Q どうしてヒトラーはそんな民主的な憲法の下で、独裁体制を構築できたのだろうか?
A 1933年1月のヒトラー内閣成立直後の3月、国会で全権委任法が可決された。これは政府に立法権を委ねる法律で、ヒトラーはこれによってワイマール憲法を無視し、大統領の承認や国会の制約も受けずに国を支配することが可能になった。当初は時限立法だったが、更新が繰り返されナチス独裁に正当性を与える法的根拠となった。は、国会議席の3分の2以上の賛成がなければ成立できない法律だったが、ヒトラーの政治工作によって圧倒的賛成多数で可決された。
 
W。以下に挙げる参考文献は、ナチス政権誕生の背景をあまりにも簡略化し過ぎている。
次のキーワードをつなげた歴史的な背景を考慮すべきである。
第一次世界大戦。 ロシア革命。 ドイツ軍敗北 1919年ドイツ革命(大衆蜂起、皇帝追放)。 大衆蜂起(レーテ評議会)に対する、ドイツ社会民主党労働組合大衆)と支配層(教会、大土地所有者=ユンカー、ドイツ軍部資本家層)による圧殺ベルサイユ条約による賠償金負担
 
>両者の妥協の産物としてのワイマール憲法に含まれた矛盾(1、労働組合の経営参加、議会多数派形成を通じての社会主義への道の明記、伝統的な地方分権制など  2、前記などの民主主義条項への対抗処置(バランス)としての憲法第48条=大統領による国家緊急事態条項の行使~有名なマックスウェバーなど社民党と連立を組むブルジョア政党の有識者が、憲法を起草したが、ドイツ政界の勢力図では、ブルジョア政党の自立した政治基盤はぜい弱だった。このため、ブルジョア、農民政党への浮動票は1929年政界恐慌以降、一気にナチスに流れた。労働組合大衆と教会は最後まで、ナチス抵抗勢力だった。それでもナチス単独過半数を獲得できず、ヒンデンブルグ大統領の指名によって圧倒的第一党のナチスが政権の座に就いた。~ムッソリーニファシスト党が政権の座に就いたのも、イタリア国王の指名だった~唯その背景には、危機感を強めたドイツ金融資本(工業生産力では米国に次ぐ)のナチス支持があった。
>イタリア憲法では、国王制度は採用しないと明記されている。ドイツ憲法にも、独裁的政治に戻らない様に数々の処置がなされている。
 
>日本の明治維新前後とそれ以降の歴史的推移から、国王(天皇)の在り方、支配層の利用の仕方、社会構造、経済力などをドイツ、イタリアと比較対象にした場合、日本と似ているのはイタリアであり、ドイツではない。この点に大きな勘違いがある。ヒットラーナチスを持ち出して、歴史的類推をするのは適当ではない。日本がイタリアと違って見えるのは、周囲が前近代であった、という地政学的位置にあったからだ。そのため日本は軍事突出できた二流国家にすぎなかった。それが敗戦によって、今度は『経済大国』にのし上がった。どうしてなんだろうか?冷戦体制の最大の受益国は「日本」であった。
引用。「憲法劣化の不経済学」
「帝政ドイツの制度を踏襲。
イギリスやフランスでは、方形ン成果の支配階級から権力を奪い取る市民革命を行う際に、その正統性が必要であった。その国家概念が社会契約論であって、国家は、国民の生命、自由、財産を守ることを国民に約束しているという考え方である。(W。アバマも演説で社会契約y論を持ち出している)
 ところが、日本の近代化では、封建制下の支配階級が権力を握り続けたので、極めて封建的色彩の強いものとならざるえなかった。
 ドイツではイギリスフランスに後れをとり、自主的な産業革命はできなかったので、国家による、『上からの産業革命を遂行した。
外国からの輸入品の流入を食い止め保護主義を導入し、全国的な鉄道建設を粉うことで、産業革命が進展した。
こうしてドイツでは上からとは云え辛うじて本来の産業革命を実現することができた。
鉄(軍事重化学工業)と穀物東ドイツのユンカー大土地所有者)が結び付き、重化学工業化がすすめらたので、20世紀初頭にはドイツは、米国とともに重化学工業の段階に移行した。
 
W.発展し、集中し蓄積された金融資本に反して、イギリス、フランスのような海外の原料資源と販路が不足している。米国は国内に資源も販路のある。そこで、持てる金融資本主義国と持たざる金融資本主義国の世界市場の再分割戦が始まる!
その金融資本主義の本国の政治的上部構造において、二つのタイプに分かれる。その意味で以下のような分類は正しい。
 
庶民が決起すると云う下からの市民革命を経たフランスやイギリスなどのような近代化ではなく、国家が上から強制的に近代化を図った日本やドイツは、おのずと非民主主義的、官僚的、侵略的性格をおびることになった。
コレが第一次世界大戦、それを継承した第二次世界大戦に至る基本構図である。スターリン主義体制は帝国主義の市場再分割戦の爆発に従属要因として巻き込まれた。
 
   軍事に特化した経済(戦前日本)
「富国強兵」ではなく「強兵富国」~W。なかなか秀逸な表現である!~戦前の講座派の議論を分かり易く手短にまとめてくれている。
本来であれば、ドイツのように上からの産業革命といえども、重化学工業化を進めしかる後に、植民地化の危機に対応すべき軍事力の強化に取り組むという道を歩む。←コレが国を富まして、強大な軍事力を備えるという本来の富国強兵である。
ところが世界史は、日本にそのよう流暢な選択を許さなかった。日本が近代化の道を歩み始めた時期と云うのは、欧米諸国は、産業革命を完成し、既に重化学工業化に突き進んでいたからである。
W。日本に重化学工業が定着したのは、29年の世界恐慌を受けた高橋是清の満蒙侵略による軍需と金融財政拡張政策の時期であった。欧米に30年程度遅れている。しかもあくまでも軍需主導の放漫財政によるものであるが、日本の生産力のピークは1930年代半ばである。日中戦争が本格化するまでは、庶民レベルの景気も良かったのである。(数値、当時の小説などによって実証されている。単純な1930年代観は間違いである。)
 
繊維産業→重化学工業の構築という産業革命を遂行できない以上、重化学工業の次の段階である軍需産業の構築に特化せざる得なかった。
ドイツのような富国強兵など不可能だったので、必然的に強兵富国政策を取らざる得なかった。それが日本をして極めて侵略的な的な資本主義にしてしまった。
>通常はドイツのように、重化学工業が発展し、しかる後に『潜在的な重化学工業と云われる軍需産業が構築される。
>したがって、戦争終結などで軍需産業が縮小しても、民生用の重化学工業が発展すれば、経済に大きな打撃を受けない。
W。小手先の政策ではどうにもできない歴史と経済の発展段階史の相違である。やはり戦前も戦後も日本は、歴史的制約下で、発展段階を飛び越えた。つけは回ってくる。庶民のところに!中国も韓国にも同じことが云える。戦前財政における軍需予算の比率は平均30%程度である。現状の防衛予算5%もいつの間にやら多すぎる。IT経済離陸のクリントン時代の米国5%以下。中国の軍事予算の半分は国内治安維持に回されていると云う。日本産業の空洞化に唯一、国内対応できる産業部門は軍需産業である。
 
>しかも、軍需産業には、経済を持続的に成長させる機能はほとんどない。兵器と云うのは個人には売ってくれないし、食べられもしないからである。
もしも経済を成長させるとすれば、軍需品の『消費拡大』すなわち戦争しかない。W。米国軍産複合体
欧米諸国にかなり遅れて近代化を進めようとした日本は、極東の貧しい国として生きていくのでなければ、国家の総力を挙げて軍需産業主導の産業革命を遂行するしか選択肢はなかった。
>もちろん保護主義を取り、国内産業を育成するのが本来の近代化の道である。
>しかし、植民地化という恐怖に襲われた明治政府にそのような発想は、まったくと云っていいほどなかった。
*果たして列強にとって、日本を中国のように植民地化する魅力があったのか、甚だ疑問である。
*もし、列強が、日本を植民地化するほどの価値がないと判断していたとすれば、日本は近代化のプロセスを根本的に間違えたと云うことになる。
資本sy義的な民間資本がほとんど育成されていなかったので、主として軍需生産をになったのは陸海軍工廠であった。
本来の鉄鋼会社は、民間企業に鉄鋼を供給すべく、激烈な競争を展開する。不良企業はとうたされるので、良質の鉄鋼を安価に生産できる企業だけが生き残る。
ところがもっぱら軍需企業に供給された。従って国営だったこともああって、生産性は気分けて低く、ドイツや米国と対等に競争することなどできようが図もなかった。
 
  絶望的貧困化の戦前日本
戦前の日本は、軍需産業中心と云うおよそ一国の再生産構造としては、極めて歪な形をとったので、国内市場は極めて、狭隘だった。「資本主義的な消費者はほとんどいなかったからである。
 
W。以下は三和統一「三環節」外国貿易と国内再生産構造の関連の論証の一部である。鉄、油などの原材料は省かれている。生糸は女性用ストッキングなどにできる貴重な輸出品。
>国際競争力のある民生用の重化学工業がなかったので、外国に売れる工業製品はほとんどなかった。
外国に輸出して、外貨を稼がなければ、軍需産業に必要な機会などを購入することはできない。
>そこで外国に売れる数少ない生糸を輸出し、外貨を稼いだ。
財閥が政府や軍部の支援を受けて、軍需産業だけでなく、重化学工業や繊維産業などをになった。もちろん国際競争力のある産業を構築することはできなかった。
*そのため、都市に住む人々は都市雑業層と云われ、貧困の下におかれた。
*他方、とくに東日本では、多くの大地主が、小作人を使っていた。ほとんどの大地主は耕作地を番頭に任せ、自らは大都市で暮らしていた。寄生地主と云われるゆえんである。
日本ではほんの一握りの財閥家族と寄生地主が、軍部とともに、支配階級を形成していた。再生産構造もいびつで、しかも『基幹産業が軍需産業と云う日本で、ほとんどの国民は、絶望的貧困の下におかれた。
 
>ただでさえ国土が狭く、天然資源に恵まれない日本で、旺盛な個人消費によって構成される、まともな酷な市場が存在しなければ、極東の貧しい国で生きていくしかなかったはずである。
>製造業を育成し、農林水産業や畜産業、水産業を振興し、みんな貧しくとも青空の下でおにぎりを食べるような生活である。
*ところが日本の悲劇は、列強から遠く離れているという地理的優位性を有していたところであった。
 
>日本は、国内市場の狭隘さを地理的優位性で補完しようとした。
すなわち朝鮮半島や中国大陸を日本の『市場』にしようとしたのである。
*しかし、ドイツのような一流の重化学工業を構築することができなかったので、重化学製品の販売市場としてではなかった。
*すなわち、日本はタダ同然の原材料の調達(正確には収奪)粗悪品の販売(押し付け)より正確には、富の収奪の植民地を獲得しなければならなかった。必要だったのは、製品販売のための本来のマーケットではなかったのである。
*ドイツが「一流」の帝国主義国であったとすれば、日本は「三流」の帝国主義国にすらなれなかった。
いわば「やらずぶったくり」国家と云うグロテスクな姿でしか世界史に登場しえなかった。
 

W。なお、参考文献の文中には、記されていないが、ドイツ社会民主党の基本戦略は既存の国家機構の民主的手段を通じた(基本的に国会多数派獲得+労働組合の勢力強化)社会主義的改良の実現(当時のドイツ内外の情勢では無理筋)この政治方向は、粛清されたナチス左派の国家「社会主義」と重なる部分がある。この辺の大衆にとってリアルな政治感覚を分からなければ、世界恐慌を契機とするナチスの急激な国会進出と政権獲得後のナチス政策(中央銀行の政府国債直接引き受け=大失業対策、軍備増強)への国民の支持は理解できない。結果的に権力は金融資本とナチス党の独裁になった。

 引用 「憲法劣化の不経済学」~日本とドイツの戦後から考える~相沢幸悦 日本経済評論社
「完全比例代表制は~国民の声や意見を正確に反映させるという点では、極めて優れた制度であるが 、ヒットラーは、この制度を悪用した。
完全比例代表制のおかげで、得票率が低くても国会に議席を獲得できた。そうこうするうちに、巧みな演説で、世界恐慌の下で苦しむ国民の支持を集めていった。(W。各キーワードに示された歴史的背景から、ヒットラーナチスの登場がなくても、政治力学上、革命あるいは反革命の独裁政治の方向に傾いていたであろう。裏返していえば、ファシズム、ナチズムは20世紀初頭の戦争の革命の時代における特殊政治現象であった。)
 
 
W。以下の激流のようなドイツの運命を決した圧縮された歴史場面の展開に注目する。
ファシズム、ナチズムは20世紀初頭の戦争と革命の時代的制約下に生じた特殊歴史現象だが、現下の国家ーグローバル複合体の内外政治軍事は、民衆の抵抗がなければ、あの時代のように、たたみかけて民衆の諸権利、利益をはく奪していく。議会制民主主義制度は民衆が永続革命をしなければ、少数支配者の多数者支配の道具である。
 
 かくして、ナチス国家社会主義労働者党)は、1932年7月の総選挙で得票率、37%を獲得し第一党になり、
1933年1月には、大統領によって首相に任命された。
 ヒットラーは首相に指名されるや、ただちに国会を解散し、1933年3月に総選挙がおこなわれることになった
ちょうど総選挙の直前の2月に国会放火事件が起こると、共産党員が犯人だtぽして、共産党員を大量逮捕すると弾圧を強めた。W。でっちあげ。
党員の大量逮捕で、共産党は、総選挙で議席を減らした。それでもナチスのこの選挙での得票率43%にすぎなかった。~ナチス過半数に届かなかったので、当選した共産党員の議席まで剥奪してしまった。
こうして、ヒットラーは、遂に566議席のうち過半数の288議席を獲得した。
>さっそくヒットラーは、立法権、予算の編成、執行権などを国会から政府に移す「全権委任法案」を提出した。
>この法案は、事実上の「憲法修正案」だったので、全国会議員の3分の1以上の出席で、3分の2以上の賛成が必要であった。
>そこで、ナチスの反対する社会民主党銀まで逮捕して、3分の2以上の賛成を確保してしまった。
*民主主義憲法の下で、このような無茶なことが可能だったのは、
**マイマール憲法48条に国家緊急事態条項が定められていたからである。
 町論制限されるのは、言論、出版、集会など7つの人権であったが、ヒットラーは非常事態だとして、この条項を悪用して、制限できる権利を拡大していった。」
 

民主政体でなぜ独裁?=「ナチス憲法Q&A
時事通信 2013年8月2日
 全権委任法ヒトラーの暴走を許したわけだね。戦後のドイツはこの教訓をどう生かしているのだろうか。
A ワイマール憲法は実質的に、全権委任法の成立を可能にしていたと同時に、危機に際して国家元首の権限を拡大する緊急命令発布権を認めていた。これらがナチス独裁に道を開いたワイマール憲法の大きな弱点だった。
 その反省から、戦後のドイツ基本法憲法)は為政者への全権委任を認めていない。また、改憲連邦議会の3分の2以上の賛成で可能と規定されているが、基本的人権三権分立の保障を定めた条文の改正は決して認められていない。
 
W。自民党改憲草案→緊急事態法の明記。基本的人権条項削除。
 

憲法劣化の経済学」
第2章ドイツの侵略戦争への謝罪
日本国憲法戦争放棄をうたっているが、ドイツ憲法にはそのような規定はない。
連邦議会連邦参議院の三分の二の特別多数があれば改正できる。国民投票の規定はない。
>1954年、73条改正連邦の任務の中に国防が盛り込まれてた結果、再軍備が可能となった。
>1956年。再軍備の法体系整備。第12A条徴兵義務。
「男子満18歳より、軍隊、連邦国境警備隊、民間防衛団体における薬務に従事する義務を課す」軍務を拒否する者に対しては、代役の義務を課す。」
>2012年徴兵制停止。
停止であって廃止でないのは緊急事態や防衛出動などの事態が発生したときに復活できるように規定されている。
 
連邦軍の創設
とくに重要なことは、ドイツが独自に指揮できる部隊を少なくし、大部分の戦闘部隊がNATOの下で行動するようにしたことである。
陸軍は、1990年まで参謀本部すら持たなかった。
東西冷戦が激化すると、連邦議会核武装決議を行って、NATOの核兵器が配備された。こうしてドイツは核の傘に入ることで安全保障を実現しようとした。冷戦下では西ドイツはソ連からいつミサイル攻撃を受けるかわからないと云う危険な状態に置かれていた。
与野党の対立する法律であるが、1966年に大連立政権が誕生すると68年には『非常事態法』が成立するとともに、基本法も改正され防衛出動事態が追加された。
防衛出動事態や緊急事態は、ヒットラーが乱用したという経験から、できることが、詳細に規定され、どんな緊急事態であっても国会の事前承認が義務付けられている。
 
(3)軍事的国際貢献
解釈改憲によるNATO域外派兵
第24条2項で「連邦は平和を維持するために、互恵的な集団安全保障の制度に加入することができる」と定められているので、国際連合などの集団歴安全保障機構に参加できることになる。
*ただし、NATOの域内での出動しか認められていないとされていきた。
>従来から、ドイツ政府は、域外に派兵できないとの基本法の解釈をこなってきたので、連邦軍多国籍軍に参加できなかった(W。1991年パパ、ブッシュの湾岸戦争のこと。日本と同じ状況)
従って連邦軍を派兵せず、資金援助にとどめたので、国際的に小切手外交と批判された。
>ドイツが域外にが兵できなければ、安全保障政策の柱であるNATO同盟国の居湯長活動のほか、EUの共通外交、安全保障政策を遂行する上で支障をきたし軍事同盟としての機能があ果たせなくなる可能性があった。
>ところが、基本法を改正するには、議会の三分の二以上の賛成が必要であったが、当時の最大野党社会民主党はもちろん連立の相手である自由民主党も域外派兵には反対していた。
*そこで、コール首相は、基本法はNATO域外への派兵を禁止していないという解釈の変更、すなわち、解釈改憲によって、域外派兵を粉うことで事態の打開を図ろうとした。
 
連邦軍の域外派兵
こうして解釈改憲によってコール首相は積極的に国連の軍事行動にドイツ軍を参加させた。
>1992年新ユーゴ
への経済制裁監視のための海軍派遣。
>93年ボスニア上空への空軍派遣(航空警戒管制システムへ)
>93年ソマリアPKO
*野党社会民主党は、この派兵は基本法違反だとして連邦裁判所に提訴したが、
>94年合憲判決
>94年東ドイツ駐留ロシア軍完全撤退。
*1995年。連邦議会は、ボスニアの平和実施部隊への兵士4000人派兵を承認。
 
NATO域外への軍事攻撃
>1999年3月26日、NATO軍によるユゴスラビアくうしゅうでドイツ政府は、戦闘爆撃機を個劇の第一陣から4機参加させその後の攻撃にも加わった。
*この攻撃の前年
>1998年10月、連邦議会は、580票のうち賛成500票の圧倒的多数で、(W。社民党みどりの党の賛成した勘定になる)戦闘爆撃機などユーゴ空襲に投入する計画を連邦裁判所の判決道理事前承認。
*当時のシュレーダー首相(W社民党)はユーゴ空襲の必要性を「歴史に責任を負うドイツ人W?!だからこそ虐殺や民族追放に目を閉ざしてはならない」とのべた。
平和主義と非暴力の原則を掲げる緑の党の党首フィッシャー外相も空爆実施を支持したが、それは「アウシュビッツを繰り返してはならないと云う歴史の教訓」がコソボ紛争に対する基本姿勢を決める基盤となったと云う。
>2003年。
国防省は、連邦軍の主任務を国土の防衛から国際的な紛争の解決や危機への対処に切り替える新しい国防方針を発表した。
*それは、現状では、通常戦力による攻撃で国土が侵略される事態は層的できないからだと云う。
*「冷戦が終結して21世紀にはいると世界戦争の可能性は低くなったが、その分W?民族間、宗教間、領土紛争などのいさかいの解決、テロへの対処のために協力して行かなければならなくなる」
W。国家グローバル資本複合体は、本国城内平和を維持するため、軍需のためにも、外部で戦争を欲している。
 
米国イラク侵攻への立場~W。フランスと共に不参加~
「あくまでも国連の枠組みで国際テロを防止する行動を取らなければならない。そうしなけらな気に入らない国をある国が自衛権の行使として攻撃できることになってしまう。その典型事例こそが米国によるイラク侵攻である」
「ドイツの当時のシュレーダーせいけんは、委託攻撃の前年に行われた総選挙でイラク攻撃反対、国連決議があっても米国によるイラク攻撃には参加しないという公約を掲げ、政権を維持した」
 
ドイツのようないい加減、自己本位のご都合主義、残虐、無反省な国の歴史と現状もあって、世界中で低強度戦争の火は燃え盛って絶えることがない。国家ーグローバル資本複合体には、秩序維持のため戦争状態が不可欠なのである。
なんだかんだ言いながら、ドイツ統一後、ウクライナまでドイツ金融資本の勢力圏を拡大している。
EUはドイツ金融資本拡張の格好のベールとなっている。二度世界に挑戦し配備くしたものは、今度こそうまくやった甘い汁をすすりたい、すぎない。
引用。憲法劣化の経済学
ユーロの導入
「ユーロが流通する広大な単一経済圏が成立したことで、相対的に高い競争力を持つドイツ企業が、膨大な収益を上げることができるようになったからである。
>しかもここが重要な点であるが、ユーロ導入国間の経済格差があまり是正されなかったにもかかわらず(W。できるはずはなかろう)、タイツ通貨が導入されたので、国によってユーロの価値が異なるようになってしまった(W。当たり前。各国同じ商品が同じ価格で同じ量だけ買えるようになる訳がない~購買力平価に換算した問題である~
>ことなる通貨が使われていたら、経済力の弱い国の通貨は安くなるはずである。そうすると輸出は増えて、ぬ乳があり、貿易赤字が減少していく。
>ところが自国通貨安になると、ユーロ価格で高くなってしまった。
>と云うことは、ドイツなどは、輸出する際に、例えば本当は1000ユーロがコスト+適正利潤なのに、1200ユーロで交わされると云うことである。(W。ギリシアが輸入するベンツ車の価格を想像すれば、この理屈はわかる)
*ドイツは200ユーロの超過利潤を得られるが、経済力の弱い国は、逆に200ユーロも損してしまう。(W購買力に換算すると、ドイツ本国企業は、本国で200ユーロだけ余分にモノが買える)
*このようにして、ドイツはユーロに参加することでかなりの利益を上げている。ギリシアの人々が、資産バブルの時『ドイツはギリシアでぼろもうけ下ではないか、金融支援はそのお返しだ』と云ったのは、そういうことであった。
ギリシア危機の勃発で欧州債務危機が勃発すると、ドイツは、今度は、為替そのもでモノけることができるようになった。
 
好調なドイツ経済
ユーロの便益をとことん享受しているドイツ経済は好調であった。W。図表によれば、2011年半ば以降、実質GDPがプラス計上しているのはフランスとドイツだけである。イギリスはユーロを導入していない。スペインの下にポルトガル。イタリアは最低で、2008年を100とすると、91程度。
失業率は、1990年のドイツ統一以降最低の6,9%。
2013年9月の貿易黒字204億ユーロ、過去最大。
>貿易に投資周湯液を加えた経常収支の黒字はGDP 費で実に6%を超えている。(W。日本に換算すると、30兆円)
経常収支の年間の黒字は近年、2000億ドルを超えており、2011年12年13年も中国を抑えて世界一。
>EUは域内経済の均衡を保つために加盟国に対して過去三年間の経常収支黒s字をGDP費の6%以内に抑えるように求めている。
この上限を超えているので欧州委員会は調査に乗り出している。
米国政府もドイツに対する批判を強めている。
2013年発表された議会への為替報告書で、ユーロ導入諸国の経済成長が「ドイツ国内の内需の弱さと、輸出依存」によって妨げ垂れていると指摘した。
>1980年代の日本への批判と似たようなものである。
好調な経済を背景にドイツはEU諸国の財政再建による健全財政を強引に求めてきた。
今やヨーロッパを『支配』しているのはドイツだと云われている。政治をフランスに任せ、経済的果実だけをひたすら追求してきたドイツが、遂にヨーロッパの「支配者」になったのと云うことなのであろうか。
>コレが戦後のドイツのしたたかな生きざまなのである。
 

参考資料
1)<EU>ギリシャ支援打ち切りへ 延長認めず
毎日新聞 6月28日(日)1時40分配信
 
2)EU支援打ち切り:ギリシャ瀬戸際 国民投票裏目の恐れ
毎日新聞 2015年06月28日 01時46分(最終更新 06月29日 09時44分
 
3)国民投票で「ノー」を=首相支持者、大規模デモ-ギリシャ 時事通信
 
4)ギリシャ首相、IMF債務は返済不能国民投票敗北なら退陣も
時事通信 6月30日(火)6時10分配信
 
5)ギリシャ問題の本質とはいったい何なのか~W。本質でも何でもない。現実を並べただけ。