反俗日記

多方面のジャンルについて探求する。

米国産かんきつ類の防かび剤イマザリル表示(TPP問題)から、スタインベック原作映画「エデンの東」、と「怒りの葡萄」、ポラニー著「大転換」の土地労働貨幣の限界点の日米比較。

最近、スーパーの輸入柑橘類(オレンジ、グレープフルーツ、レモン)の陳列棚に防かび剤、イマザリルの大きな表示が目立つようになった。全て米国産である。そのデカ表示はいかにも毒々しい感じを与える。以前も表示されていたかもしれないが、気付かなかったのか?そんなはずはない。外国産の食品表示は必ず確認する。防かび剤の表示があれば、気付いたはずだ。
ネットで調べてみると、どの記事もかなり前から、かんきつ類のイマザリル使用を取り上げている。
と云うことは、表示されていた地域もあったのか?
防かび剤イマザリル使用のデカ表示のオーラを突破して、買い物かごに入れることはできなかった。あれでは売れ行きに相当影響が出ているのではないか。
外国産、特に米国産、はなるべく買いたくないのだが、そうもいかないので、時々買う。メキシコ産は基本的に買わない。米国は農薬に対する制限は緩い。世界中の農薬被害問題の発生源は米国である。
エデンの東」ジョンスタインベック原作、エリアカザン監督、主演、ジェームスディーン、と云う名画がある。
映画はテーマは米国的キリスト教原理意識(カザンによってユダヤ的濃密な家族関係に読み込まれているが)を底流にした肉親同士、若い男女愛の絡み合いと葛藤だと思うが、そのような実に人間的設定の登場人物たちにもかかわらず、愛は愛とのみ交換できない。キリスト教原理意識による愛の交換原理主義は、そうした人間関係のど真ん中にどっかと座ったモノとカネの動向が徹底した市場に翻弄され、逆に大きな行き違いを生み、「破局」にいたる。理念としての常に存在する在るべき愛の交歓の原理主義の渇望とその実行は不安定に変動する市場原理を通じてしか実現しない社会構造があるから、その渇望と行動力の程度に応じて「破局」を準びする。
おまけに時代背景の世界市場の再分割戦である第一次世界大戦期は登場人物たちの行動を大枠で規定する。父親の期待する息子アロンは絶望して志願して出兵する。駅に見送りに来た人に向かって汽車の窓に頭をぶつけて、割ってしまう場面は圧巻である。
 
この物語の時代背景を深読みすれば、カリフォルニアの農業最適地の自立小農業さえ徹底して巻き込んでいく米国市場社会の隆盛は1929年米国発世界大恐慌の「破局」を予感させる程、説得力がある。
 
先走って云えば、大恐慌以降の農業事情ではキャルの豆栽培による巻き返し大もうけは在り得ない。あの一家はすべて無一文で耕作放棄するしかない。自立小農民は、小作農になるか低賃金労働者になるかしかなかった。つまり、「エデンの東」のカリフォルニア小農家は、「怒りの葡萄」のオクラホマの小作農につながっている。数十年後両者は、同じカリフォルニアの住民になった。
農業を巻き込んだ市場の隆盛状況が反転すると、大恐慌後のオクラホマの膨大な小作農民たちの凶作と返済不能の不債(恐慌後の小作農民に負債は重なった)による耕作放棄をして、カリフォルニアへの土地と仕事を求めて旅立った。
契約関係を放棄すれば、借金はチャラになって追いかけてこないのじゃないかな。でなければ社会現象になるほどの大量耕作放棄はあり得ない。米国には再チャレンジの機会は少しはあった。サブプライムローンと同じ理屈で、日本とは今も昔もまるで事情が違う。
 
この辺の日米の社会経済構造の基本的な大きな違い、を全く考えないで、日米経済関係TPPを云々する人があまりにも多すぎる。そもそも、米国では家は流動資産のようなもの。土地についても、日本やヨーロッパと米国では資産状況が違うだろう。
 
そういう意味で、ヨーロッパ人のポラニーの「大転換」が提起し、日本原住民がこの部分こそ、ポラニーの核心としがちな 第Ⅱ部市場経済の勃興と崩壊(1)~悪魔のひき臼 第6章 自己調整市場と擬制的商品~労働、土地、貨幣~本来商品になりえない労働、土地、貨幣が徹底して商品化されることを市場の基本矛盾とする説も~移民大陸国家米国では影が薄くなるのじゃないだろうか?
宇野弘蔵の「経済言論」も資本主義の矛盾のキーポイントを労働力商品に置いている。
 
我々日本原住民は、この核心以外の大著「大転換」は饒舌だけがやけにきになって、所々にハッとするような記述がちりばめられた長大な散文とも受け取る。
もっとも1880年代後半から世界大恐慌までの経済史の通史として、金本位制を内外の自動調整弁とする主流の市場調整機能重視の経済政策を一貫した批判的視座で描いているので、一読の価値は十分にあるが、第二次世界大戦前にイギリスの挙国一致内閣の経済政策やニューディールの経済政策を批判できる立場ではない。
したがって、ファシズム、ナチズム経済との違いも明確にできていない。金本位制と自己調整市場←イデオロギー、コレに対する社会防衛←各種保護主義は、自己調整市場理念を押し通そうとすることに対する、自然な抵抗(このとらえ方は非常に独創的で現在でも参考になる!) と云う二元論の仮定(架空)を分析手段とすれば、両者の違いは明らかにできない。
 
金子勝『市場」は新古典派経済学への批判がないとしているが、それを求めるのは無理筋と云うものである。「大転換」を通して、ポラニーは近代経済学の基礎が展開されているケインズ的経済学の政策アイテムに精通しているとは思われない。精通していれば、あの大著の論点はもっと短く整理できる。だから、訳者の経済学者は各項目ごとに内容を短くまとめた。もっとも無学なWの直感だが。
金子勝は「市場」は、その点に気づいているのか、ポラニーの第4章 所有することの限界 ~労働 土地 貨幣~だけを取り出して展開しており、産業革命以前の市場が埋め込まれた伝統的社会体制などを問題にするいわゆる経済人類学方面の分析は完全に無視している。
 
確かに、その点におけるポラニーの主張は経済史を正確に描いたもので、マルクス資本論」の共同体の余剰生産増大による共同体間の交換関係の拡大、交換物の形態変化から特定の交換物が共通の交換物に転化すると云う展開は、実際の人類史を経済決定論に引き寄せる作業である。
がしかし、マルクスはここを出発点に発達した商品経済の物神崇拝に至る道を導きだしている。シェークスピアベニスの商人」の描くところは、前期資本主義の物神崇拝性である。
それが高じるとカネがすべての尺度になり、カネこそが至高のモノとなる。そして庶民の一生懸命働くことが、己を支配収奪する物神である資本の価値増殖とシステムの拡大に寄与している、パラドックスが支配する社会となる。
 
また、資本主義社会を商品経済の延長線上に出現したものとは絶対にしていない。アダムスミスにも資本主義に先行する時代、という著書がある。
資本は原始的蓄積期間は様々な経済外的強制力(基本は国家暴力)が発動され、そのことによって資本の原始的蓄積は達成された。
日本資本主義の原始蓄積期は松方デフレ政策による百姓収奪(コレだけを原始蓄積としているが片手落ち、教条主義も良いところである)と日清戦争の賠償金獲得であって、日本の産業「革命」などはその一環に過ぎず、今更そこにスポットライトを当てるのは、日本資本主義の原始的蓄積期と<強兵富国>路線の歴史の全体像を隠すものである。仮に日本にまともな産業革命が出現していたら、その後の歴史が変わっていた可能性はほんの少しはあった。世界遺産登録。いい気なものである。事情を精査している東アジアの識者は唾を吐きかけたい衝動にかられるだろう。一方にスポットライトを当てるならば、日本資本主義の原始蓄積期をはっきりさせる公平性が不可欠である。
 
ラニー「大転換」のいう自己調整市場にはこういった論理展開ができるアイテムの存在する余地は一切なく、いきなり、金や銀の交換尺度から始まっている。イギリスの市場調整機能中心の経済学と同じ立場であり、訳者の野口が指摘するの根源的批判者とは云えない。もっとも根源的の意味の解釈次第であるが。小市民的交換関係を今、形成することに大それた(マクロ)経済学など必要ないと考えるがどうだろうか?大きな勘違い気休めを生み出す元になるのでは?
 
大陸移民国家では土地労働貨幣(連邦銀行も何箇所もある)の限界点がかなり日欧より幅広いところにあるからなのか、ジョセフスティグリッツの序文には、この限界性を核心とするような姿勢はない。
米国の経済政策とIMFなどの経済政策の問題、世界経済の在り方を問題にしているが、その論点は、リアルではあっても(新自由主義政策批判)、ポラニーが『大転換』で展開した内容と次元の違う問題を取り上げるだけに終わっているのではないか。あくまでも序文であると云えば、それまでだが。
ラニーはブレントンウッズ体制すら研究対象にしないで、人類の経済学的?研究に終わった。
フレッドローズ(ウィキペディアなし。ポラニーの研究所があるカナダの人ではないかな?)の紹介文は、キチンと土地労働貨幣の市場商品化限界性を問題にしているが、読むと彼らのこの問題に対する認識がはっきり出ていて面白い。
「それは経済学の理論化が虚構に基づいており、この虚構が人間社会を危険にさらしていることを意味している。
ラニーの主張には二つの次元がある。
>第一は道徳的な主張であり、自然や人間をその価格が市場の身によって決定されるようなものとしてとり扱われることは
*そもそも正しくないと云うのである。~省略~
>ポラニーの主張の第二の次元は、経済をめぐる国家の役割をめぐるものである。
*W。次のような主張をポラニーはきちんとすめて政策論として一切していない。資本主義と政府の自己調整市場理念へのこだわりと実行に対するそれへの各種、各層(ときには政府)の自然な抵抗としての社会防衛の<二重の戦い>として一貫して描き出しているので、国家の適切な政策論議がいりこむ余地はない。
コレは金子勝「市場」のポラニー読み込みと同じ立場である。金子はセーフティーネット張り替え論議を中心に据える。
>「例え経済が自己調整的であるにしても、国家はインレーションとデフレーションと云う双子の危険を避けるため、貨幣の供給と信用の供与を調整する役割を継続的に果たさなければならない。
>同様に、国家は失業中の労働者に対する救済基金の提供将来の労働者の教育、訓練、または国内外の移住の奨励などによって、労働の受容をうまく調整しなければならない。
>「要するに、擬制的商品を統制する役割は、
*国家を三つのもっとも重要な市場の内部に位置づけるのである。
>つまり、国家は経済の「外部」に存在するものだとする市場自由主義者の見解を支持することは全く不可能になる。
>国家の政策が市場の自己調整作用に大きく依存することによって経済を社会から切り離す方向へ向かうとき、一般の人々はこれまでよりも高いコストを負担するように迫られる。
 
W。アベ等の推進しているヘリコプターによる特定地域へのマネー散布のごとき金融政策、TPP、安保体制の世界展開は、そ「一般民に高いコストを迫る」程度の生易しい次元ではない。国家ーグローバル資本複合体の国体政治を梃子にした政治軍事経済にわたる激変を国民に強いる一種の反革命状況の創出である。元々趨勢としてやせ細っていくものたちの後ろから、思いっきり地獄に足蹴りにしている。過激な表現になるがここのところの関係をハッキリとすることがキーポイントである。シングルイシューの反対政治では、コレから始まる長期戦に耐えきれない。東京都知事選挙を出発点過程結果を教訓にする必要がある。アベ等に軍国主義ファシズムは必要ではない。そのような経済基盤もない。とすれば、反ファシズム統一戦線まがいの言動は大衆の要求をくみ上げるには狭すぎる、当事者の危機感いっぱいだが、それが表面化したら、説得力を失う。
 
W。ポラニーの感覚的で饒舌で、所々にハッツとするセンテンスがちりばめられた大著は、読者によって自由な読むこみを可能にするのである。その意味で珍しい名著である。
 
オーキー(カリフォルニアの元オクラホマ貧農)とアーキー(元アーカンソー貧農)はトラックに家財を満載してカリフォルニアに到着した。カントリーのマールハガードの1960年代後半のサンフランシスコやバークレー当たりの政治状況をうたったヒット曲に「オキー、フロム、マスコギー」がある。サビは、アイム プラウド フロム オキー フロム マスコギー~」
翻って、このような状況を当時の日本に移し替えるとどうだろうか?
トラックと云う移動手段を所有していないが、不債はあった。東京など大都会は、カリフォルニアではないので、小作農民にさえなれない、かと云って仕事口は十分でない、故郷では負債によって、寄生地主の力が強まってUターンしても食うこともままならない、としたら、どうなるのか?
日本政府は足元だけを見てなにも考えずに、それまでの延長線上の政策で、高橋是清金融財政政策による有効需要の創出=戦争経済である。あんなものは大政策でも何でもない。ナチス経済と基本的に同類。
行き場を失った人たちは軍隊と軍需工場に吸収されていった。
 
以上が当時の日本と米国のファンダメンタルズの異次元的相違である。
映画の舞台は、カリフォルニアのサリナス(スタインベック1902年2月27日カリフォルニア州モントレー郡サリナスで生まれる。)の農家と農業の農産品市場の儲けに徹底した単一商品作物の大量生産の生々しい実態である。やもめの父親は大もうけを目論んで、東部市場向けに大量栽培したレタスを冷凍保存で貨車輸送して、雪崩による列車立ち往生で大損した。銀行にカネを借りて、一発当てようとしたのである。カリフォルニアから東部市場に貨車輸送された冷凍レタスは店頭に並んだころに果たして、売れるほどの新鮮さを保てるのだろうか大いに疑問である。国中が市場経済の隆盛で沸きたっており、真面目な小農民でさえ一攫千金を狙ったのだのだ。父親の大損を取り戻そうと、息子のキャル(ディーン)は世界大戦の影響を享けた豆相場の高騰を予測して、売春宿を経営する父親が別れた妻(キャルと兄アロンお実母)にカネを借りて大もうけをする。
 
米国は今も昔も「愛」と市場原理の大きな行き違いをワンセットで内外にまき散らす国だった、といいたいが、コレはあくまでも物語の世界である。今は「愛」はない。
今の現実にそっくりそのまま移し替えると、あの農家は徹底して農産品市場向けの農薬漬けの作物を出荷する。米国政府に農業補助金を求める。米国農業に日本市場に適応できる農産品は今以上存在ない。
日本や世界がその規制を求めなければ、そのままの農産品が何の表示もなくスーパーに陳列棚に並ぶ。いまのスーパーの防かび剤使用 イザリルのでかでかとした表示は、TPPが成立したら、輸出側の業者に提訴されかねず、スーパーは多分自主規制する。
 
メキシコ農業が米国とのFTAでボロボロにされた話を有名であり、常識的に考えて、生き残ったメキシコに農業では、米国以上の農薬汚染度であると考えられる。
前回の記事で取り上げた厚労省の報告書 第1部 社会保障を考える。第5章 国際比較からみた日本社会の特徴 http://www.mhlw.go.jp/wp/hakusyo/kousei/12/dl/1-05.pdfにこの辺の事情を解くカギがある。
 
2 乳児死亡率
(日本の乳児死亡率は、先進諸国では最も低い水準となっている。)
日本は、1976年以降1桁台で推移しており、その後も低下傾向にあり、先進諸国では
最も低い水準となっている
W。日本は人にやさしく、大切にできる社会である。
3 肥満率
日本の肥満率は、先進諸国中では男女ともに最も低い水準となっている
4 保健医療支出
日本の公共と民間を合わせた保健医療支出の対GDP比は、先進諸国の中でも低水準で推移している
>保健医療支出と寿命の関係を見てみると、日本は、保健医療支出は下から2番目だが、寿命は最も長く、アメリカは、保健医療支出は最も高いが寿命は最も短くなっている。
*W。TTP締結によって、米国金融、保険、医療機器、薬品業界のターゲットはこういった日本社会構造の米国寄りへの大転換であり、日本の社会構造と<制度>を米国寄りに変えなければ、それら米国業界の日本市場に大進出はない。自公政権=国家グローバル資本複合体、政治部の国体路線の任務は、ココの日本市場の開放である。農業分野も大きく云えば、日本社会構造の米国寄り変化に匹敵する。
今頃になって、スーパーの陳列棚の米国産アレンジ、レモンなどの農産物には毒々しく防かび剤表示がなされているが、裏返していえば、TPP交渉も大詰めを迎えていると云うことであり、やっていることが非常に稚拙。
 
国産品にも気をつける。昔の仲間や知り合いが故郷に帰り農作業をしている話を聞くと、エッーそんなことになっているのかとあきれて腰が引ける。それも相当昔の話である。出荷して採算の取れる作物を作るためには、農薬はバンバン使わなければならないと云うことである。使用する農薬には基準値があるが、使用回数の制限はないはずだ。
日本農業の現状は厳しいものがある。農業では生活が成り立っていかない。と云っても、片手間で農作業した作物を出荷しようとすれば、赤字になるらしい。
その話を直接聞くととてもじゃないが、国産品なら何でもいいと云う気になれない。
そういえば、先ごろネットでマクドナルドのハンバーガーは1年半たってもカビが生えないという実験結果の写真を見た。まさかそこまでとは思うが、あれだけは昔から、スムーズにのどを通らない。長年人間をやってきて片手で数得られるほどしか食ったことがない。なぜあんなことまでしてパンと具を食わなければいけないのか理解できない。ホットドッグも苦手。カレーうどんって、いったいあれは?その趣向が理解できず、今まで一度も食ったことがない。
 

参考資料
Wの単純な日本原住民の生活感覚の立場と自然食派は、当時、身近に肩を並べて戦ってきたがゆえに大きな違いを意識した。ただし、影響は受けて、清算するつもりはない。金融帝国主義の基本矛盾は農業農民問題に露呈する。食の安全とはそういう角度で見るべきで、矛盾を正確に指摘したところはある。
 参考資料
米国の最先端農業事情 ● アメリカ農業の現状について
McGrath Family Farmを視察 団員 雲峰 広行 
有名な歌手(例。ウィリーネルソンは熱心な支援者)がチャリティーコンサートを開いて全国のファミリーファームを応援している。日本とは違うところで、生産者と消費者の運動となっている。徹底した企業農業に押されて、経営は大変らしい。
 引用
カリフォルニア農業の実情について、意外な話が出た2008年カリフォルニア州では、メキシコなど南米からの農産物の流入量が、州外への出荷量を超えたということであった。(Wの予想した通り、FTAで壊滅的打撃を受けたメキシコ農業は、徹底した米国型企業農業に変身する。低賃金労働力、緩い農薬使用制限?、そもそも米国のアグリカルチャー資本が現地で経営している可能性も高い。)それを境に、農地を売って農業をやめる農家がふえたということであった。
 その理由として、ここの地域の農家平均約500エーカー(約200町)の農地を耕作して、そこでは主に4種の農産物を育てていて、レモン、イチゴ、セロリ、花類とのことであった。
しかし、この少品種、大規模農業には大きな問題点が潜んでいたといわれていた。それらの耕作には、多くの労働力が必要になるということであり、カルフォルニアでは、農園の労働者のほとんどが、メキシコなどからの季節労働者であり、そのうちの70%の労働者は不法入国の労働者であることで管理が大変難しく、コストもかかるということであった。(W。南カリフォルニアのように不法入国労働者が簡単に雇えない地域では平均的大規模農業の経営を維持することは難しいと予想される。とすれば、離農と土地集約、補助金、より徹底した企業農業の道へ→TPP(汚染農産品輸出←それでもオーストラリアやカナダなどの農業補助金の必要のない米国よりも世界市場で競争力のあるケアンズグループの農産品には世界市場では勝てない。)
 さらに、アメリカの消費者の大きな意識の変化を挙げていた。消費者は、農薬や化学肥料を使ってできた農産物より、安心して食することができて、生産者の顔が見える農産物へ関心が高くなっている。それは、いわゆるオーガニックであり、地産地消への動きである。消費者がそれを積極的に求めるようになった。
フィルさんは、他の農家や農産物との差別化が必要と感じ、いち早くこのオーガニックに取り組み、消費者目線に立ち、約40種の農産物を生産し、土の徹底した管理などを行っているそうだ。そして、この農場では、消費者とのコミュニケーションを重要視して、毎日各地で開催されているアメリカ版の農産物直売所での販売に力を入れたそうだ。
その結果、この農園の農産物は美味しい、安全であるとの評判が口コミで広がり、幸運にもある有名なシェフに絶賛していただいたことで、国内の40のレストランチェーンへの納入やロサンゼルス市内で7カ所のファーマーマーケットでも直販されるようになり、安定した販路の拡大ができたと言われていた。
他の農家のように、市内のスーパーなどに卸すより確実に決まった収入があり、安定した経営が可能になったと言われていた。
 しかし、依然として労働力問題は解決していないが、フィルさんは、カリフォルニアの若い世代に農業のすばらしさをわかってもらうために、また、農業をしてみたいという若者を育てるために、農家体験学習や農業研修などを行っているそうでした。昨年は約4,000人の子供が参加しており、今後も農業を守るために後継者育成に力を入れていきたいと言われていた。」
 
だからこその本文の趣旨である。
内田樹は、当時、ごく一部でしか実行できなかった自然食「運動」(ブームに至らず)の先頭を走っていて(当時の連中は食い物で世の中批判をする。まともに相手にしなかったが。)、今はジャンクフードが旨いと敢えて書く。 
合気道、空手、ETC~Wからみると自然<食>と同時に<肉体鍛錬>は当時に身近な重要アイテムだった。~自然食愛好家だった昔までは書いているが、肉体鍛錬が隠れたブームだったことまでは書かない。
政治評論家の高野さんの弟など、内田樹などとても及ばない、その方面の実践家である。
今は全く知られていないが、内田との違いは、学術のエスタブリッシュメントの一隅に座を得る立場にあったか否かの違いだけだ!
アベ等の理想の国はシンガポールと内田は云って独裁的な国内政治体制を批判したつもりになっている。シンガポールイスラエルのてびきで建国した完全な「都市国家」。タックスヘイブン国家。水道水はマレーシアから分けてもらっている。民族国家、移民国家、多民族国家でもなく、国民国家のアイデテンティーもない半人前の国家。そんなシンガポールを理想の国にするアベ等の恐ろして間抜けな政治感覚をどうして批判しない。
 
高橋源一郎は完全に開き直って文学者している。動画で発言を聞いた限り、今風の永井荷風のつもりなのか、私小説を地でいっているのか、講演の80%は憲法と関係のない日常生活の話だった。ひねくれ切った気持ちはわかるが、旨く昇華できていない。
 敗戦直後の小学校の教科書の民主主義の話は、9条の会の大人の前でするには、あまりにも日本的幼稚すぎる民主主義観で気持ちが悪かった。情緒的作法にすぎない話し合い民主主義など先進国の学校教育では教えないと思う。中途半端にひねくれるから、小学生向きの民主主義を平気で大人の前でしゃべる。その程度の民主主義観がマスコミ最大公約数として、大人世界でまん延してきたからこそ、アベ等のような輩に足元をすくわれ、好き放題される世の中になった。あんなつまらないこと大勢の人前でよくしゃべるなと感心する。本人にとっても聞く方ににとっても時間の無駄。
  昔は素通りしても、今は人前で民主主義を語るならば、最低限、丸山真男の民主主義=永続革命必要論程度は頭に入れて語ってほしい。現実の民主主義制度は少数者の多数者支配の道具であった。永続革命をやらなかったら民主の衣を被った「独裁」に転化する。みんなで話し合いで決めるは入り口にすぎない。今、国会の型どおりの話し合いをして数の力で決めるアベ等を前にしてみんなは、これからどうすべきか、苦吟しているのではないのか?やっぱり数の力だと、民主党政権交代の振り出しに戻る人も出てくるはずだ。高橋の云う民主主義では当該世代が歴史を退歩させたことになる。小学生の学級委員会民主主義を世の中に拡張したような民主主義だから戦後民主主義でさえない。
マルクスにはなにかと批判があるが、「意識が存在を規定するのでなく存在が意識を規定する」~ドイツイデオロギー~。

北京の大学に留学経験のある女が、中国社会の格差など矛盾に直面し、帰国して、ザイトクのヘイトスピーチデモに優雅ななりをして参加していることに、どうして人間的興味を抱くのか、理解できない。中国の矛盾直面体験とヘイトスピーチデモ参加の間に何があるのか、論理的に説明できない大きな飛躍がある。
中国社会の矛盾とヘイトスピーチデモは別次元の問題として処理できないところに当世風であるが、昔も今のその手のヒトはいた。一言でいえば右翼的心情の若者。街宣車に乗ってわぁ~わぁ~やっているのと別形態。
日本人であると云うIDを絶対化して寄りかかって、政治的に攻撃的になる、ことは実に安上がりな心性で、すぐその気になれるし、難しいことを考える必要がないから楽だ。
社会的弱者への集団的罵詈雑言など、気が咎めないのか?元々その気があるものが、留学して、日本に帰って、その気になったのなら理解できる。
 
内田樹は政治漫談である。それを本人も自覚し、敢えてやっているところは、
孫崎享と同じ位相であるが、孫崎もひどい。両者は自分の内懐でバランス感覚を取り戻すために過激な肉体鍛錬をしている。
岸信介が戦後対米「自立」を目指した愛国政治家の一群に入ると云うのだから、なにを基準に分類しているのか怪しげなものである。それだったら、祖父の政治をあがめるアベの政治はどう評価するのか、論理的つながっていないようにみえるが、今上天皇が民主主義者と云い募りだしてから、論理がつながっていることが分かった。昭和天皇をスポイルした軍部が独走した事を戦前史の重要ポイントにしているが、そんなものは単なる歴史のエピソードにすぎない。明治天皇ならまだしも、昭和天皇の時代には天皇制は確立しており、勢いづいた文武の官僚体制に囲まれた天皇人間力を発揮する場面はなかった。増して昭和天皇がその座についた時点は未成年も良いところで、その後ずっと戦争大国日本の統帥であり続けた。孫崎はもっと多方面の歴史書に当たるべきであった。「歴史家」にあってはならない気休めは、日本では特に問題になる。
 
内田の1970年代以降の大衆運動の総括(と云ってムードだが)は違和感が多すぎる。当時の大衆運動は共産党系の運動にはそういう要素があったかもしれないが、内田の云う反米闘争などにくくりあげられるものではなかった。
 
米帝国主義論の立場に立てば、、反米闘争に絞りあげることは、今で云いう日本国家ーグローバル資本複合体の国体政治を主敵としない国民国家ぐるみの曖昧な認識啓蒙レベルの反米ににつながってしまう。
ファシズム軍国主義イメージに流れるのは、昔から効力が発揮できなかった民族国民国家ぐるみの戦いの共同政治幻想に安易によりかかっている。
昔から効力が発揮できなかったのに、今ごろは効力を発揮できるとは、現実とかけ離れている!のではないのか?
昔とちっとも変っていないのか、(白井聡永続敗戦)日本が変わったのか米国が変わったのか、両者が変わって日米関係が変わったのか?キチンと説明されずに、云い募っているとしか思えない。共産党も良くも悪くも昔から従属論路線だから必要がないのか、ココも現状のきちんとした現状の説明は大衆的に公開されていない。
 
 日本属国論など安易ムード的に口走っているものは、きちんとした情勢分析をした方がいい。それ自身が日本高度経済成長時代以降の政治思想の欠陥である。アジテーションと情勢認識のミキシングである。それでは少数の一過性の行動しか出てこない。韓国の切迫感ある情勢分析と比べるとよくわかる。
アベ等のグローバル資本複合体の国体政治と真っ正面から向き合わず、ますます共同政治幻想の色を濃くした民族国民国家共同幻想に安易に気分的に寄りかかって、対峙している気分になっている、としか思えない。
ワイマール憲法状況でも、支配層が次にヒットラーナチスが国家と民族をメインスローガンに掲げ出してからドイツ社会民主党内にそういう政治葛藤はあった。
 
現在のEU議会選挙でも反EUをかかげる政治勢力の躍進が目覚ましい。だから一般論としてそういう問題意識は間違っていないが(EU情勢の方が日本より先行している)、1930年代と今はあまりにも時代状況が違う。また日本の状況は特殊である。支配層の政治経済基盤が違う。
 
>ポラニー「大転換」を19世紀後半から1930年代までの経済史として読み込んだ結果、厳密な意味での国民国家、国民経済が隆盛していたのはこの時代の列強だと解った。云いかえると国民国家、国民経済は帝国主義時代のリアルな国家と政府、経済の在り方であった。
>戦後の冷戦体制は、東体制との緊張関係でその政策の継承時期だった。
>云いかえると東側との緊張関係がなければ、国民国家、国民経済の政策は、戦後資本主義政府に必要不可欠なものではなくなっていた。だから冷戦体制崩壊とともに、国民国家、国民経済は一挙に瓦解の道をたどった。
>そうすると、今、国民国家、国民経済イデオロギーを基に、国家ーグローバル資本複合体の国体政治に、対抗することは、どう云う意味があるのか?そういう時代ではないと多くの人は感づいているのではないか。
 
>結局、政治主体が、本当にどう考え、どう行動するかの原理原則の問題である。
>従来型の対米従属論は、アベ等の基本動向に即していないと考える。アベ等の基本動向にもっともふさわしいキーワードは従属覇権である。
>実体は国家ーグローバル資本複合体の国体政治である。
 
決定的な時に日和見主義をいつも選択していると大きく負ける。先進国と云われる世界を見渡すとよくわかる国内で決定的に戦うときがあった国と国民は、結果的に前に進んだ。

本当に乾けば泥水でも飲むさ!飲まない人は高貴なのかそれはわからないが、飲まない人もいる。アベ的共同幻想政治世界は、そういうはかない高貴を原点にしている。