反俗日記

多方面のジャンルについて探求する。

カール、ポラニー「大転換」を訳者の各30章のまとめを軸に批判する。

                          
W。訳者 野口建彦「大転換」30章冒頭のまとめの要点を記す。野口の各章ごとのまとめは、大著の饒舌な本文を読み込んで、何とか経済理論として成立させようと、よくまとめている。
 
 
 なお、本文の経済人類学?的記述は、産業革命と近代以降の経済の社会からの「自律」化、自己運動発展過程の分析とはほとんど関係のないものである。資本主義批判の基本視座を自給自足性の高い社会の中の経済要素に求めるのは、大きな見当違いである。本文が饒舌な大著になっている原因はこの方法論的誤りと、経済学的概念規定を積み重ねることなく、当時の経済の推移を批判的に物語ろうとしているところにある。
近代以降の社会と経済の結節点を論じるにあたって、近代以前の社会と経済の在り方を対比するのはたまったものではない。それは文明を論じる歴史学の分野である。
 
 また、19世紀から20世紀の二つの世界戦争を経済の立場から批判的に物語る場合、ポラニーは金融資本主義の不均等発展と帝国主義の世界市場再分割の現実分析の方法を一種の謀略論のようなものとして退け、ソレ自身社会防衛を内包する国民経済を超えた平和要因である金融グローバリズムの時代状況にそぐわない支配政府の硬直した19世紀的自己調整的市場のユートピア政策体系追及の破たん物語とし(保守の時代)、結果的にニューディールファシズムナチズム軍国主義スターリン主義の各体制の違いを自己調整市場の経済破綻に対する経済統制の形態(革命の時代)の相違の問題に還元している。
 
 
 しかも、そうした各々の経済統制の出現要因を、支配政府の経済的時代条件に逆らった土地労働貨幣の3つの人間的要素をフィクション商品とする自己調整的市場のユートピアの強行とコレに対する社会防衛闘争との相克に求めている。
 
 ポラニーの二分法(金子勝)の政治力学の適用による1930年代的事態に至る解説は、次のような逆説的命題を想起させる。コレが分からなければ政治的鈍感と云うものである。
 
支配政府の自己調整的市場原理をかたくなに追及する政治に対して、金融グローバリズムを平和的要素として認め取り込んで社会の側から自然に沸き起こる自己防衛闘争は金、適度な次元に納めることが肝心
当時の国際政治は、そのような選択をしなかったから、ファシズムナチズム軍国主義の悪性社会防衛闘争が急浮上し惨禍をもたらした、と。
 
  逆説を使って邪推しているのではない。直感が的を射ている個所を上げよう。
フレッド、ブロックの「大転換」紹介文~ジョセフステグリッツの序文はポラニーの論旨を無視したかのような自説の展開に終始している(IMF批判がメイン)が、ブロックはポラニーの論旨に賛同し丁寧に解説している
 
引用は長くなるが、現状のポラニーの読み替えの実情を知るために必要である。
「しかし、冷戦が過去のものとなった今、ポラニーの当初の楽観的な見解の正当性はようやく証明されるようになった。(W。野口の解説を読みこむと冷戦構造~対立とデタント~に期待を抱いた政府による修正資本主義政策の運用なので限界があった。)
 
 市場自由主義の持続可能性の欠如が、経済危機と権威主義的で攻撃的な体制の再現をもたらす、というシナリオに変わる別の選択肢が可能である。
その選択肢とは次のようなものである。
世界の様々な普通の人々が経済を民主政治に従わせ、W?国際的な協力に基づくグローバルエコノミーの再建のために共に取り組むことである。
 事実、1990年代末にはグローバルエコノミーを作り替えるための国家の枠を超えた社会運動が、今や理論的可能性以上のものとなりつつあることを示す明白な兆候が見られた。
先進国並びに発展途上国の活動家が、新自由主義のルールを押しつけるWTOIMF世界銀行のような国際機関に対抗する戦闘的な抗議運動を組織した。
 
 
 この生まれつつある運動は、大きな障害に直面している。
地球の南側と北側の人々のしばしば対立する利害を調和させる協調体制を作り上げることは容易なことではないだろう。
 
>さらにこうした運動がうまくいけばうまくいくほど、戦略的課題はますます手強いものになるだろう。
>>投資家がパニック状態になって、世界経済が恐慌に陥る可能性がある
そうした事態を生じさせることなしに、下からの力でグローバルな秩序を再構成することができるかどうかは極めて不確実である。ソレでも、グローバルエコノミーの統治構造が歴史上初めて国家を超えた社会運動の中心目標になったことに大きな意味がある。
この国家を超えた運動は、ポラニーの洞察が継続的な生命力と現実性を有していることを示すものである。
>ポラニーのみるところ、市場自由主義の極めて根深い欠陥は、人間の諸目的を非人間的な市場メカニズムの論理に従わせることである。
 それを彼は次のように主張する。
人間は民主的な統治手段を用いて、個人並びに集団の要求を満たすために経済を統御し方向付けるべきである。
>ポラニーは、こうした課題に取り組まなかったことが20世紀における大きな苦難を生み出したことを示した。」
 
批判(1)
まず何よりも、ポラニー自らの経済思想の根幹をなす、自己調整的市場への立ち入った原理的解説を放棄し、長々とした経済の歴史的推移の解説にすり替えている事を最大の要因として、こういう日和見主義的政治力学による歴史過程の説明が可能になる。
 
 
批判(2)
資本主義、まして世界経済の時代に置いて、<土地><労働><貨幣>を人間の本源的要素のフィクションとして、そこに自己調整的市場のユートピア性を見る思想は
産業革命と近代以前の社会と経済を考察することで初めて可能になるそれは分析者の頭の中の観念操作によって可能になる。
実際、ソレら3要素は、各々地代、労働力商品、商品貨幣~貨幣記号物としてフィクションではなく完全に商品化し、ソレを前提にしなければどのような立場であっても経済学は成立としない。
 
 彼の基本的方法は経済学の枠外である。資本主義の起源は商品経済に求めることができるが(中国政府の改革開放の発進のころ「社会主義」商品経済論をやったのは正統な方法である。ソ連では、それさえできず、IMF路線を鵜呑みにした。)、資本の価値増殖自己運動の基本矛盾は各々の原始的蓄積期の形態とその後の運動に内在しているので、ラニーのようにそれ以前に遡るのは文明や歴史考察の対象であり、経済問題の考察としては論外である。従って一部の識者以外には無視されている。
 ただし、彼の資本主義以前の社会に埋め込まれた市場の歴史的考察は事実であるが、それをもって、経済の原則論に置き換えることはできない。
経済を学術とする場合、具体的現実的経済実体を抽象化し定理とすることは避けられない。ポラニーは、この経済原則をはっきりさせていないが、大著をトータルすると、金子勝の指摘するように新古典派経済学の枠内で分析しているようである経済政策観は社会民主主義である。こういうあいまいな立場が却ってグローバル資本制への対抗塾を模索している人たちには、柔軟な解釈を提供している。
 
批判(3)
特に貨幣は社会の中に経済が観察されたころより、元々一商品であり、資本主義の登場とともにフィクション化したものではなかった。金銀の時代から、その制約から離れた貨幣記号物の現代まで、一貫した商品であった
 
 
 
批判(4)自己調整的市場と社会の自然発生的自己防衛闘争という19世紀後半から20世紀中盤の経済史は二分法、あるいは二元論的は、大間違い。
 
 どのような立場であっても経済学的に原理をはっきりとさせると、経済原則の歴史展開と云う一元的状況掌握で済む
1930年代のもっとも恵まれた資本主義統治形態である米国ニューディールから、冷戦体制の時代状況下の先進国の「修正」資本主義は、その資本主義体制の中で深化し世界的に拡大の途を求め、制約条件が取り払われると、スターリン主義体制を飲み込んで、経済原理に螺旋的に回帰する道を歩む。
>ソレが現状の国家ーグローバル資本複合体の主導する世界の状況ではないのか。
であれば、どのような形であれ、変革されたり修正される要因は、世界的基本動向の生み出す矛盾の拡大激化に内在している。
ラニーは原理原則に立ち入った考察はない。原理や定理の欠如した相対的見方と歴史過程の説明で事足れりとしている。説明が散文的に長くなるのは、自己調整的市場の経済学への原則的批判をしないので、こまごまとした事実関係の羅列に置き換える必要から、当たり前である。
 
批判(5)フレッドブロックの紹介文にポラニーの二分法、あるいは二元論の経済思想の欠陥が引き継がれている
①は反グローバリズムの運動に行き過ぎると投資家がパニック状態になって、世界経済が恐慌に陥る可能性があるとまで心配する
景気の乱高下に付け込むと云う実体経済を凌駕する金融投機の本質からして、また、反グローバリズム社会運動の限界を踏まえると、あり得ない事態を想定する全くナイーブ極まる余計な心配である。②なぜ、戦う前に秩序派であらねばならぬのか、と云う根本的疑問。既存の政府の尻を後押しする運動ではないのか?
③も②と関連するのだが、組織的実体を欠いている。
 
批判(6)
ラニー文体は本屋に山積みされている今風の経済書のスタイルで読みやすいが、現状を考える上での重要な素材を提供しているものと受け止めた方が良い。
 
批判(7) フレッド、ブロックは戦後ヨーロッパの資本主義の低成長時代の突入により財政危機に陥った社会民主主義的再分配政策の挫折によるソーシャルからリベラリズムへの政治的立ち位置の転換を考慮していない。
また、冷戦時代の東側の圧力は西側資本主義の修正をもたらしていたと云う現実を直視してない。
次の観点は綺麗事の生きた歴史の清算である。
「人間は民主的な統治手段を用いて、個人並びに集団の要求を満たすために経済を統御し方向付けるべきである。
>ポラニーは、こうした課題に取り組まなかったことが20世紀における大きな苦難を生み出したことを示した。」
 
批判(7)
 前回の記事のヨーロッパの歴史的人口推移における産業革命以降の人口爆発のグラフで示したように、ポラニーはアダムスミスの「幸福論」の問題意識さえ、スルーしているようだ。
>日本に移し替えると、明治維新以降の近代の経済史を語る際に、日本の近世中世社会と「経済」を常に対比することを、基本視座に据えるようなもので、根本的な方法論に間違いがある。
 
批判(8)
本来ユートピアにすぎず、多数派国民の社会経済生活を破壊する自己調整的市場への自然発生的な社会の側の自己防衛と戦いが希薄化すれば、自己調整的市場のユートピアを強行への障害が乏しくなり、多数派の社会経済生活は破壊されても、先進国の域内の平和は保たれると云うとんでもない思想を二分法、二元論の経済史観は内在している。
今風に言い換えると、「域内平和状態で}国家ーグローバル資本複合体はやりたい放題ができる、と語っているようなものだ。
なぜか?冷戦体制崩壊後のグローバル資本主義はその巨大な蓄積力に反する具体的実体的対抗物を希薄になったがゆえにポラニーの語る19世紀後半の自己調整的市場の原理原則に、螺旋的に回帰していると類推できるからである。だからこそ、いつまでも危険の以前に、危険を予防する保険思想に等しいテロとの戦いや中国やロシアの脅威が必要だし、実際にこれらを脅威であるかのように仕向けることまで踏み込む。自らの利益と安全を確保するために世界はいつまでも低強度戦争状態にしておかねばならず、平和状態であっては困るのだ。
 
 引用。 野口の要約はポラニーの論旨を伝えている。抵抗闘争は度を越してはならないと云うことである
そこで社会は自らを保護するための手段を取った
しかしどのような手段であろうと、そうした保護手段は市場の自己調整を損ない、経済生活を乱し、その結果社会を別なやり方で窮地に追い込んだ。
19世紀的文明を崩壊へと追いやったのは、このディレンマであった。
 
 
 
 
 
 
 

 
野口建彦の30章の冒頭の要約をかいつまんで記載する。
 
            第一部 国際システム
第1章 平和のの100年
「大転換」とは19世紀文明がもたらした世界的な変革を意味する。
本書は、19世紀文明とその交流、そして10世紀前半におけるその滅亡の物語である。W?
10世紀文明は、4つの制度の上に成り立っていた。
①バランス オブ パワーシステム ②国際金本位制 ③自己調整的市場及び自由主義国家。
中でもこの文明の母体と云えるのは自己調整的市場であった。
     
 
       W.<自己調整的市場と社会の自己防衛との争い>のポラニーの基本命題
>この自己調整的市場と云う考え方は全くのユートピアであったと云うこと、コレが本書の主要な命題である。
>このような制度は、社会の人間的実在と自然的実在を壊滅させることなしには一瞬たりとも存在しないであろう。
 *そこで社会は自らを保護するための手段を取った
*しかしどのような手段であろうと、そうした保護手段は市場の自己調整を損ない、経済生活を乱し、その結果社会を別なやり方で窮地に追い込んだ。 
19世紀的文明を崩壊へと追いやったのは、このディレンマであった。
 
1815年から1914年までの100年間の平和と云う現象を生み出した。
>その後半のヨーロッパ協調体制の、カニズムの政治的基礎となっていたのは、大銀行家による国際金融業であった。
この実利的なシステムは全面戦争に極度の警戒心を持ってこれを予防しつつ、際限なく続く小さな紛争のさなかに平和的なビジネスを展開した。
>しかし、自由貿易が植民地拡張に道を譲り、20世紀には入って、ヨーロッパ列強が二つの陣営に集約されると、国際金融業が持っていた戦争拡大を抑える力は急速に衰えた。
バランスオブパワーシステムは機能を停止し、やがて世界戦争へとなだれ込んだ。
 
W。以前ホブソンの「帝国主義論」を取り上げたとき、19世紀最末期のイギリスでは米独資本主義の競争相手が表れて世界の工場であったイギリス経済の相対的地位低下に基づく大不況の時代、自由貿易の頭打ちと、それを打開するための植民地との経済関係を強化する路線対立があったと学んだ。
しかし、この時代の金融業は、植民地拡張路線を選択した、と記されていた。
国内の生産と消費の矛盾及び世界経済の不均等発展により、イギリスの自由貿易による利益は頭打ちになり、逆に急速発展した独金融資本は生産と消費の矛盾の拡大による狭隘な国内市場から自由貿易によって、利益を得る立場だったのだから、この時代の金融業が目の前の利益を選択すれば、自由貿易の堅持ではなく、植民地拡張の結論になった。コレが当時のイギリスの金融業に関するホブソンの結論である。
ナチスの独裁体制はドイツ金融資本の最終決断によるところが大きい!
 
ただし、次の野口の要約は非常に興味深い。
「実利的なシステムは全面戦争に極度の警戒心を持ってこれを予防しつつ、際限なく続く小さな紛争のさなかに平和的なビジネス?を展開した。」
 
W、金融業が平和愛好である必要が一体どこになるのか。もっと柔軟多岐的なカネによってカネを生み出す業態である。真実は強調部分にある。そっくりそのまま、国家ーグローバル資本複合体の時代に適応できる。
 

第2章 保守の20年代 革命の30年代 
Wベルサイユ体制の機能不全を上げつつ、
同時に国際金本位制への復帰が目指された。健全財政健全通貨の維持が、経済政策の思考の目標になった。しかし、このような政策は、分けても弱小国家の国民に厳しい生活を強い、またそのような国家のあ血見人として融資を行う具優菜国家にも負担となった。
アメリカは、1933年に、いわば本能的に重圧からの解放を求めて金本位制を離脱し、ここに伝統的な世界経済の最後の痕跡が消滅した。
金本位制の最終的な崩壊は、革命の30年代を告げる合図であった。
自由主義国家の多くが全体主義的な独裁国家になった。自由主義市場を基礎とした生産は、新しい形の経済に代替えされた。
根底的な社会転換プロセスが開始されたのである。ファシズム社会主義ニューディールは、この物語の一部をなしている。  
 
W。度はづれた経済主義の一言で片づけられる。金本位制崩壊後の管理通貨制の経済回復やナチスや日本のような経済発展はつかの間のインフレ生活苦と排外侵略の先送り、でしかなかった。
 
>W。資本主義の経済原則を明らかにしないポラニーの立場からすれば、「大転換」の革命の30年代である。ソレらは資本主義の原則の歴史的発展の形態変化であり、本質的にちっとも新しくない。
>ポラニーが新しがっているファシズム社会主義ニューディールは今は見る影もなく、対抗要因の後退した国家ーグローバル資本複合体は巨大な資本蓄積をしながら、資本主義の生まれ発展した時代に先祖がえりしている!
 
>本書における課題は
バランスオブパワーシステム、金本位制 押して自由主義国家と云う諸制度、そしてこれらの基盤となっていた自己調整的市場の勃興と崩壊のゆえんを探ると云う課題である。
W。間違った方法で跡付けているだけで、崩壊の理由は自己調整市場と社会防衛の戦いの二分法による社会調整機能の喪失と云う、戦いはほどほどに打ち止めしなければ、社会生活基盤さえ崩壊するというとんでもない結論である。
またニューディール体制の戦後である冷戦体制が永遠に続くかのような幻想が垣間見える。
 
 目につく本文引用
「ときの第一級の政治家ウッドローウィルソンは、単に貿易を保障するものと云う意味においてのみならず、平和を保障するものと云う意味でも、平和呂貿易の相互依存関係を理解しているように思われる。
国際連盟が、主権国家間の平和を確保する唯一の装置としての通貨と信用のための組織に絶えず努力を払ったこと、
>そして世界は今やロスチャイルドにかわってJPモルガンに代表される国際銀行家に、以前にも増して依存するようになったのも当然である。」