反俗日記

多方面のジャンルについて探求する。

「冬の兵士」~イラク帰還米兵の証言。ジュネーブ条約と追加議定書。敵兵と対峙し狙いを定めて撃たなかった兵士とその詩。イラクの自決を認める兵士。

       第1章 交戦規制
  序
ジュネーブ条約としてまとめられたこの諸規範は(注)
合法的な軍事目標と、非合法的な文民標的を区別することを、戦争当事者に義務付けている。
戦争法は、病院、学校、宗教施設、その他の主要なうな民生用基幹施設に対する攻撃も禁じている。
直接的に、また故意に非戦闘員を攻撃することも禁じている。
 
(注)
W。ジュネーブ協定に(  )付きで協定の解説が入っている。
読み込むのは面倒だが、この解説と「冬の兵士」の本文の交戦規定の<序>の内容、帰還兵士の証言に矛盾がある。イラク米軍の自ら作成した交戦規程の自由裁量と云う意味で、非常に重要な点である。
結果的にこの(   )内の解説は、本文と証言の背景にある矛盾を明らかにする形になっている。
この解説は、日本側の翻訳者平和を目指す翻訳者たちTUP(トランスレイター ユナイテッド フォー ピース)及び軍事監修者、山崎久隆の書き込みである。
 
「冬の兵士」を取り上げるときに、この種の本につきものの、解説の類が一切ない理由は、反戦イラクの兵士たちの証言や米国側の諸々の解説的文章の内容は日本の平和観からはみ出した部分が多々あるとみていた。
どちらが正しいとは即断できない。両方の平和観が今後ますます必要になるのではないか!
 
翻訳者たちは誠実である。その違いを無視して語らずに読者の判断に任せた。「冬の兵士」はそれほど日米双方の戦争と平和観とその行動に大きな課題を突き付けている。
 
(    )内の解説を引用する。
「19世紀後半以降の戦争被害者に対する保護強化の流れを継承し、1949年に締結された4条約の総称。
国際人道法とも呼ばれる。
1977年に文民保護を強調した追加議定書が採決され、条約本体は190カ国が批准。日本は両方、米国は条約の身を批准している。」
 
W。戦争と平和に関する国際条約は、国際政治状況の反映であり、批准時の時代背景を明らかにしなければならない。「戦争は他の手段を持ってする政治の継続である」~クラウゼビッツ~。支配層は「戦争」手段を外交のアイテムとしてだけでなく、国内の人民統治の道具として使用する。「諸君砲撃せよ!しからば国民だ団結する」ヨーロッパのことわざ。
 
アメリカ政府=1949年に締結された通称国際人道法と呼ばれるジュネーブ協定本体のみ批准。<190カ国>(ジュネーブ条約本体は戦後の東西冷戦状態がドイツ、朝鮮半島をめぐって緊迫してきた年。)
>1977年(ベトナム戦争終結<撤退敗北>は1975年)に<160カ国>が批准した文民保護を強調した追加議定書を批准していない。
>日本は両方を批准している。←米国イスラエルとともに2004年まで追加議定書も基準していなかったことが判明した。
190カ国ー160カ国=30カ国は1977年の追加議定書を批准していない。
 
時間不足て調べきれなかった。追加議定書に絞った日本のネットでは情報がとり辛い。問題意識があれもこれもで(無防備都市宣言など)過ぎている。コレでは安保法制論議が国民全体に分かり易くリアリティーを持って浸透しないはずだ。国会は肝心なところをすっ飛ばして、安保法制論議をしていた。
 
とりあえずコレ。
「①1949ジュネーヴ諸条約、第一追加議定書、第二追加議定書、ジェノサイド条約、国際刑事裁判所規程の5つについて全部批准・署名している国アルジェリア、アルゼンチン、ブラジル、デンマーク、ロシア、フランス、ギリシアタンザニアルーマニア、イギリス)、
 
>②第一議定書を批准していない国アメリカ、フィリピン W。イスラエルが抜けている!)、
>③第二議定書を批准していない国アメリカ)、
>④ジェノサイド条約を批准していない国(ベニン、日本)、
>⑤国際刑事裁判所規程を批准していない国(中国、アメリカ、日本)。
 
アメリカが3つ批准していないのが目立ちますが、
 
W。アメリカが批准しているのは①以外に想定するとユダヤロビー関連でジェノサイド条約だけだ
 ②と③の追加協定批准を一まとめにすると3つ批准していないという計算が成り立つ。
 
>日本は2004年、2つの追加議定書を批准するまでは4つ批准していなかったのです
安保理事会以外で日本と同じように3つ批准しているのはインドネシアとイランです。」
 
W.なんか認識緩い。
 
報告書は、事務総局報告書や人権委員会報告書・決議・勧告等を整理したうえで、ILOが
185の諸条約についての7087の批准の状況を体系的に整理していることを特筆しています。
>ちなみに、フランスが97批准、イタリアが92、ドイツが68、イギリスが66、ロシアが51、日本が39、カナダが28、中国が20、アメリカが12となっています。」
 
W.日本外務省はジェノサイド条約も批准していなかったので4つ批准していなかったことになる。第2次世界大
戦のアジア侵略の歴史認識で問題にされることを回避したかったのだろう。
日本の外交の基本姿勢が明るみになっている。
 
W。日本は2004年まで追加議定書も批准していなかった。大国ではアメリカと日本だけだろう

。「冬の兵士」翻訳出版2009年だからこの時点で『日本は両方とも批准していると云うのは正しいが、それ以前は米国と同じで、文民保護を目的とした追加条約も批准していなかった。
やっぱり、「冬の兵士」には翻訳側の解説の類を頑張ってほしかった。
2004年追加議定書をやっと批准する前は米国イスラエルとともに文民保護の追加議定書さえ批准していなかった。
 
自衛隊イラク派遣は、イラク戦争初期の2003年12月から2009年2月まで行なわれていた。」
どうせそんなところだと想っていた。
イラク派遣と1977年文民保護の追加議定書の2004年批准をバーターしたのだ。基本理念や政治軍事戦略がない。
 
>この琉球大学の情報は論文であって、読み込みに時間がかかる。後ほど読み込む。
 
時間不足でこの項の課題は先送りするが、
イラク戦争時の米国の交戦規程は、文民保護の規定力が弱く、主観的戦闘状況の設定を可能としている。
証言者によれば交戦カードなど証言ステージで初めてみたという者もいる。
 
文中で一部引用された交戦カードの文言
「自衛の場合を除き、民間人、病院、モスク、国定記念碑及び、その他のあらゆる史跡や文化遺産は標的とした利攻撃してはならない」
W。その他に引用された文言は、要約するとインフラ関係に対する破壊の回避である。
 
また、本文では次のような記述がある。
「2007年、米国自由人権協会が、それまで機密とされた陸軍の文書を1万ページ近く入手し、民間人の犠牲者に対する政府の対応が明らかになった。
軍法会議の訴訟手続きや軍部の取り調べ記録からあらわになったのは、
敵対意思><敵対行為>の定義があまりにも大ざっぱぱなので、一人のイラク人のとる事実上すべての行為が、武力行使の正当化に利用し得ることだった。」
 
W。文民保護を主眼とする追加協定を批准していなければ、民間人の犠牲者に対する政府の対応が国際法によって裁かれることはない!この国際法的環境が軍部の取り調べや軍法会議の訴訟、を規定するのは明らかである。
また、そういった意味で、戦争捕虜の国際法の定義には手はまらない被拘束者を大量に出現させている、のも必然である。
 
>他方、「冬の兵士」の証言ステージを主流メディアがスルーする中で、独立メディアと星条旗新聞ともう一つの軍関係の新聞が報道した事をこの本は指摘している
 
>さらにまた、これらの証言を読むうちに、結果的に証言者たちは別な形で、米国を守っているのだと気づいた。
多様性があり、素晴らしいモノと愚劣なモノが併存している、と改めて思わなくてはと、再認識した。
 
この記事の最後の証言者の朗読した詩。
****
****
>自分は今、兵士(soldier)ではなく「魂の戦士(soulja)です。そう呼び替えました。短い詩をお聞きください。
魂の戦士はライフル銃を置き  自らの心を手にする。
弾丸ではなく  言葉を持つ
教条ではなく  心の声に耳をかたむける
秘密暗号ではなく 自分の感覚と考えをしんじる
領土を奪うのではなく 知性を拡張する
狙いをつけるのではなく 分別をつける
人々を引き裂く要塞をきずくのではなく
魂の戦士は、
全人類と手を取り合って成長していく
 
>W。この詩の作者は、大岡昇平の日本文学史に残る名作「俘虜記」の有名なシーンと同じく、狙いうてる敵兵に狙いを定めだが、銃を発射しなかった。むしろ相手と正面で相対したこの証言者のその時の判断の方が崇高に思える。頭が下がる想いがする。
この証言を 第1章 交戦規則 の最後に持ってきている、事に深い意味を感じる。

 『冬も兵士』引用開始
サダムフセインが倒されるとすぐに、占領に反対して武力を用いたレジスタンスが勃発したのだ。
イラク軍の敗北にともない、多くのイラク市民が『抵抗分子』として抵抗運動に参加するようになった
普通の民間人の服を着て、民家やアパートで家族と一緒に暮らすイラク人たちである。子供を学校へ送り届け、職場に向かい、そして仕事を終えると、迫撃砲の直弾点を支持し、路傍に爆弾を埋め、携帯用のロケット砲を米兵に向けて発射した。しててややと小屋や自動車修理工が米軍を攻撃する民兵部隊に加わった。イラク市民の誰もが潜在的な抵抗分子だった。
主要な戦闘の終結が既に宣言されているにもかかわらず、米兵たちは2003年6月までに、日に千回以上の攻撃にさらされようになっていた
>軍の指揮系統は、交戦規則を著しく緩めることでこのような情勢の展開に対応した。
司令官たちは規定を報らつに解釈してきた。病院もモスクも学校も、そして歴史遺跡もそのすべてが標的とされた。
>検問所で、家宅捜索で、車両隊列の護衛活動で、罪のない民間人を銃撃しても責任は問われることはない。
2003年から2006年までに、イラク人の死亡事件に関連して正式に告訴された軍人はわずか39名だった。告訴されたもののうち、服役したものは、12名にすぎずその中に士官は一人もいない。
 
>英国の名高い医療専門雑誌のランセイットに発表された調査報告書によると、
2003年3月(W。侵攻開始)から2006年7月までの期間に、およそ18万6000人のイラク国民が米軍とその連合軍によって殺害された。

証言
ジェイソン、ウェイン、レミュー
海兵隊3等軍曹歩兵
カルバラー (2003年1月~9月)
フサイバ (2004年2月~9月)
ラマーディー (20005年9月~2006年3月)
W。約3年。
 
「銃撃戦がはじまって司令官は命じました
アラブ職も民族衣装をを着て赤いスカーフを頭に巻いているものは、それによって『敵対意思』を表明し『敵対行為』を行っている。だから誰であれ撃ってよし、と。
>その後は路上にいるすべてのモノを敵の戦闘員とみなせと命じました。
わたしの目の前にいた海兵隊員がライフル銃を構え、丸腰のその男に狙いを付けました。
何らかの心理的理由で、わたしの脳は銃撃の瞬間を記憶から遮断しています。
次に覚えているのは男が出てきた部屋を捜索するため男の死体をまたいだことです。
底は倉庫で、アラブ風のチーズスナックが山積みになっていました。
そのあたりに武器は一つもなかった。
わたしたちが持っていた武器以外には。
2,3週間して、100人以上もの的を始末したと例の司令官から云われましたが、わたしの知る限り、その100人には、自分の街の通りを歩いていただけで撃ち殺された人々が含まれています。
>この銃撃戦の後、それまで採用されてきた交戦規制が変更され、海兵隊員が致死的武器を使用するにあたり、相手の敵対行為を確認する必要はなくなりました。
>敵対意思だけを確認すればいいのです。
~~
>このころには、海兵隊員の多くが二回目三回目の派遣になっており、深刻なトラウマにさいなまれていたために、明らかな非戦闘員である人々を銃撃していました。

ジェイソン、ウォッシュバーン
海兵隊伍長 ライフル兵
派兵期間 20003年3月~2006年6月
28歳
「わたしが3回派遣されている間に交戦規則は度々変わりました。
まるで繰り向くたびに変わっているみたいだった。その時その場の状況と脅威のレベルに応じて交戦規則を変えると云うのがいつもの説明でした。
>脅威が大きくなればなる火度、より凶暴に反応することが許可され、また期待されました。
~なんであれ撃ちたいものを撃っていいことになりました。
<自由発砲地帯>とみなされるのです。そこで私たちはあらゆるものに向けて発砲しました。
 
通りがかったある女性のことを覚えています。
大きな袋を持っていて、こちらに向かってくるように見えた。
そこで、私たちは彼女に向けてMk 19自動てきだん銃 (W。想定重機関銃の一種。発射速度225-300発/分、使用弾薬40x53mm)重量32.92kg 最大射程距離2200M)をぶっ放しました。
やがて粉じんが収まると、その袋のには食料品がいっぱい詰まっていたことが分かりました。
その女性は私達に食べモノを届けようとしていた。
それなのにその人を地理尻の肉片に吹き飛ばしてしまいました。
 
>侵攻が終わってブッシュが『任務終了』を宣言した後、交戦規則は劇的に変わりました。
>実際に発砲する代わりに、
住民を服従させるために≪白兵戦>>と云うか至近距離での暴力をずいぶん使うようになりました。
W。使えるものは何でも使って暴圧して大衆に心理的恐怖感を植え付ける。恐怖におびえた大衆を従順化させ(海兵隊は怖い何をされるかわからない)抵抗分子と大衆の繋がり分断し、抵抗分子の基盤を断ち切る心理作戦と思われる。この兵士は、上部のこの戦術を分かっていない様である。
わたしが実際に目益した限りでは、罪もなく殺された人たちのほとんどは運転中のヒトで、、大抵はタクシー運転手でした。
>ただ運転しているだけで殺されたタクシー運転手は、
>わたしが居合わせただけで十数人に上ります。
 
>その他、ほとんど暗黙の了解のもとにつつめられていたことに、<捨て置きの武器の持参>というのがあった。
うっかり市民を撃ち殺してしまった時のために武器かシャベルを持参するのです。その武器を死体の上に放り曲げておくだけで抵抗分子のように見せかけることができるから。
 
W。沖縄辺野古海兵隊基地は、明確に朝鮮半島、中国大陸侵攻部隊として配置されている、とこれらの海兵隊兵士の証言を読むと解る。

ジョンマイケルターナー
ファルージャ、ラマーディー 2006年3月
「副隊長は、ラマーディー北部(W。バクダッド西110キロ)に500ポンドのレーザー誘導爆弾(230キロ爆弾、安価と云っても2011年には1発310万円)を落とす必要を感じていました。
W。ターナーはビデオを示す。副隊長はビデオの中でいう
『おれは今、ラマーディー北部の人口の半分を殺したようだぜ。正式手続きなんかくそくらえ。そんなもの知っちゃこっちゃねえ。』
 
2006年4月18日わたしは公式に確認の取れた殺人をしました。何の罪もない男でした。
事件のとき徒歩で帰る途中のその男を、私は彼の友人と父親の目の前で撃ちました。
最初の一発は首にあたり、それでは死にませんでした。
それから彼はわめき始め、わたしの目をまっすぐ見ました。
わたしは一緒に見張りについた仲間に、『おい、このままじゃまずいな。』といった。
もう一発撃ち込んで殺しました
家族が彼の遺体を運んで行きました。7人がかりでした。
 
>わたしたちは皆、始めてのころ氏の後は云わってもらうことになっていて、その時、私に順番が回ってきたのです。
中隊長から直々祝いの言葉をかけられました。
>この同じ人が、最初の殺しを刺殺で成し遂げたら、イラクから帰国したとき4日間の外出許可をやろうと云いました。
>確認されている3番目の殺しは自転車の乗っている男でした。
~自分たちの始めた銃撃戦に興奮していたので、私たちは続けて更に何人殺ししました。
 
>埋め込み記者の同行している場合はいつも、私たちの行動は極端に変わりました。
決して普段と同じふるまいをしません。常に規則正しく行動し、背べ手教科書通り動いたものです。
 
罪のない人々を憎しみをぶつけ、破壊をもたらしたことを謝罪したい。仲間たちが罪のない人々を憎しみ続け、破壊をもたらしたことを彼等に変わって謝罪します。
この戦争で起きていることが人々の耳に届かない限り同じことが起き続け人が死にます。

クリントン、ヒックス
陸軍2等兵
バクダッド南部 2003年5月~2004年7月
「<バクダッド近郊、アブーグレイブにあった自由発砲地帯について>
自由発砲地帯になったと説明を受けました。
大尉は『その地域に味方はいない』と云い、こう続けた『ゲーム開始だ。何を使っても良いぞ』、と。
~道には人間と動物の死体が散乱していた。遺体のどれも、どのような種類の軍装備品も武器も見当たりませんでした。
 この作戦中に自分は発砲しませんでしたが、部隊の他の兵士は武器使用解禁例を歓迎し、民間人の乗った車に向かって、あるいは民間人を直接狙って無差別に発砲しました。
ライフルのような個人用武器も機関銃のような車両に盗作した武器も、また、イロイロな口径の同軸機関銃も使いました。
>命にかけて誓いますが、自分はこの作戦中に一人の敵も見ていません。
その場で見たことから判断するに、戦闘中の死者の大半は戦場から逃げようとした民間人でした。
~確実に生き残る道は一つしかなかった。やられる前にやる。身も蓋もない言い方ですが。
W.以下の戦闘車両(外見は砲門を装備していない戦車)にるる民間人ひき逃げ殺人や
結婚祝いの場に勘違いして乗り込んで少女を射殺して、そのまま逃亡したこと、武装ヘリによる団地猛攻撃などの残虐場面は省略。

ジェシー、ハミルトン
陸軍予備役2等軍曹
ファルージャ 2005年7月~2006年7月
*W。このヒトの証言は自他共に対象化していて異質。
「>イラクの人々は何千年もの間、自分たちのやり方でやって来たんですから、わたしたちアメリカ人がわざわざそこに乗り込んで、民主主義を手とり足とり教えてやろうと考えるなんて、まったくうぬぼれとしか思えません。
増してそこへ行って、文化や物事の対処の仕方を変えようとするなんて、思い上がりも程がある。
そのようなことはイラクでは無駄骨にしかならないと想います。明日であろうが100年後であろうが、私たちが撤退する時期に関係なく、イラクの人々は自分たちのやり方で物事に対処するでしょう。
>彼らの文化です。彼らの国です。
>伝えられるところによると、わたしたちは彼等に民主主義を与えるんだそうですから、そうしましょう。
>自分たちの国のこと、自分たちの暮らしのことを、彼らの想う通りに任せましょう。
 
イラク人の同僚たちと共に働いて生活し、アラビア語で話し合った私の体験から、また、軍隊での自分の経歴や米軍に在籍する友人たちの経験に踏まえて、現時点での、考えを申し上げます。
 
アメリカ国民の命を犠牲にし続け、今、振り返ってみても大きな間違いだったと解っていることを、これ以上継続する価値があるとは思えません。そんな価値のあることだとは、とてもじゃないが思えません。」

ローガン、ライタリ
陸軍3等軍曹 衛生兵 前線監視兵
緊急対応部隊 2004年1月~2005年2月
交戦規則カードをもらったことは一度もありません
>いつも頼りにしていた絶対的規範は、危険を感じ、必要だとおもうなら、武器の使用をためらうな、というものでした。
>何か事が起きたときはいつも危険にさらされたからだと云えばよかったし、実際に、私の部隊で他の兵士がそう言っているところをに2、3度見ました。
 
>病院では一刻を争う人から先に手術室へ急いで運んで行きますが、戦場における治療優先順位は全く逆です。戦場では、誰かの命が助からないとなったら、できるだけ楽に死ねるようにしてやります。
 
>その時気づいたんです。
>自分はイラクのい当たるところであんなにたくさんの死体を見てきたと云うのに、私の心をかき乱すのは一人の米兵だと云う事に。今もこの事実と戦っています。
>これはなにをいみするのか。
あんなに多くのイラク人の死体を見てきたのに、わたしの眠りからゆる動かしたのは一人の米兵、
同じ人種であり、信仰と肌の色を共にするモノでした。
***


ハート、バイジェス
陸軍特技兵 歩兵
第28空挺師団325空挺歩兵連隊第1大隊司令部及び司令部付迫撃砲大隊
サマーワファルージャ、バクダッド 2003年2月~2004年4月 
ワシントン州カークランド、テキサス州オースティン出身 32歳
 
W。最後に自作の詩を朗読している。良い詩だ。
W。男の胸にライフルの狙いを定めたが、相手の恐怖を浮かべた顔を見て撃たなかった
 
多分、自分も同じ顔をしていただろうと振り返っている。
大岡昇平「俘虜記」に同じような場面が描かれているが、ハートバイジェスは携帯用ロケット砲を背負った敵と正面から向き合っている。
 
「そして無線。一度など、敵がタクシーを移動手段にしているから背べ手のタクシーを攻撃しろという。
イラクではただ白とオレンジに塗りさえすれば、どんな車でもタクシーになる。
ある狙撃手が『失礼ですが、聴き違いでしょうか。タクシーを一大残らず打つんですか。』と聞き返すと中佐が『そうだ兵隊さん。タクシーを一大残らず撃つんだ』と応答しました。
>そのあと全ての部隊が車に銃弾を浴びせ、町は燃え上がりました。
>コレが自分の初めての戦争体験で、その後の任務もほとんどこんな調子でした。
***
***
バクダードにある水処理施設の外にいたときのことです。その辺りはとてもいいところでした。
そこを去ろうとしたとき、突然、目も前に携帯用ロケット砲を持った二人の男が走りだしてきて道路をふさいだ。
どなり声や叫び声が上がり、男たちはそこにいた女性や子供たちに身を寄せて1塊りになった。
自分たちは『武器を捨てろ!武器を捨てろ!』と怒鳴り返した。
自分は携帯用ロケット砲を背負ったやつに照準を合わせた。男の胸を狙った。
そうするように訓練されていたからです。
しかし、男の顔を見るとそいつは得体のしれない怪物じゃない。敵でもない。震えて混乱していた。
多分自分もその時同じ表情をしていたのでしょう。
おそらく彼も自分が吹き込まれたのと同じ表情をしたのでしょう。
その男の表情を見たとき我に返り引き金を引かなかった。
男は逃げました
 
>W。武器を持った二人VS証言者を含む複数の米兵(おそらく火力と人数では圧倒していた)が対峙した。
証言者は発砲しなかったが、同僚の兵士はどうしたのだろうか?もう一人の男も撃たれなかったのだろうか?この詩的ともいえる散文から窺い知れない。
いずれにしても、ハッキリしている事実がある。
証言者の複数の同僚兵士も、狙いを定められた男が逃げるのを黙認したと云うことである。一人が逃げたのだから証言者が発砲しなかったことは同僚にとめられなかったのだろう。
 
以前あるブログを読むと、高校英語教師が太平洋戦争中の戦場でどういうわけか、接近状態になった極めて若く、素朴な表情をした米軍兵士とたまたま正面に対峙したとき、相手が「へロー」と云う間もなく射殺したと、教室で話し、この事態からアメリカ文化の解説らしきものをした、とあった。
高校生の子供たちの前で語るべきことではない。教師とあろうものがと、激しい拒絶感を抱いた。
今に至っても、いい年をしてそのような教師に何の批判も感じず、書き記しているモノに違和感を感じた。
亡くなった大島渚監督は「戦場のメリークリスマス」のビートたけしの演じた日本兵によってその典型を描きたかったのだろう。
大岡昇平の「俘虜記」に描かれたシーンをリアルに検証すると、米兵を撃たなかった行為は本人が帰還後、小林秀雄などに語り、作中で行を要して記述するほど、理念的な問題を含んでいなかったように思う。本隊から離れてたった一人で飢餓状態の彷徨する敗残兵としてモノ陰に潜んでいた彼にはわが身を守るために撃てなかった、と云った方が正確だろう。発砲音は米兵の仲間を呼ぶ可能性がある。
 
こういう極限状況は比較の対象でないことは承知しながらも、その状況を考えるとこれら米兵に感服する。
そういう人たちを含めた米兵にイラクが敗戦後の日本のように従順であれば、と云うのは愚問である。世界史はそのように進んでこなかったし、進まないからめぐりめぐって、多元的な世界全体のためにもなっているのではないか。
こういう次元の問題にも、イラク帰還兵の証言は答えてくれている。
既に引用した
ジェシー、ハミルトン
陸軍予備役2等軍曹
イラクの人々は何千年もの間、自分たちのやり方でやって来たんですから、わたしたちアメリカ人がわざわざそこに乗り込んで、民主主義を手とり足とり教えてやろうと考えるなんて、まったくうぬぼれとしか思えません。
~>彼らの文化です。彼らの国です。
>自分たちの国のこと、自分たちの暮らしのことを、彼らの想う通りに任せましょう。」
世界に影響力の大きい国が外でハードであろうがソフトであろうが力と経済力を行使したとき、リアクションは避けられない。犠牲は出る。問題はその時とそれ以降の国と市民社会の対応。
コレはは日本にも当てはまる。
**
ある極限状態に陥った敵を打倒するのを躊躇させる何かがある。
戦争のような極限状態の敵対関係に入るときに「やられる前にやらなければ」と云う本能を野放しにすることを拒む何かがある。
仮にそれをある精神のハードルと呼べば、その状態を踏み越えると、次に待っているのは人間のマシーン化である。Uターンの必要な場合がある。
人間をプロの兵士に仕立て上げると云うことは、その精神のハードルを訓練によってなくしていくことであり、実際の戦闘によるハードルの踏み越えの経験が、人間機能の戦争マシーン化を強化する。
更に、元々そういう過程があまり必要でないモノが、存在しているのも事実である。
それをサディステックと規定するかどうかはわからないが、軍人だけではなく、社会のいろいろな分野にそういう境界線のハッキリしない人間が点在している。全般的にいって一部の病的レベルの達したものを除き、程度の問題なのだから、ハッキリとしない場合が多い。
緊迫した状況が彼らを前方に押し出す時期がある。民主政とはそうさせない制度政策、社会の空気、実体である。
***
***
>自分は今、兵士(soldier)ではなく「魂の戦士(soulja)です。そう呼び替えました。短い詩をお聞きください。
 
魂の戦士はライフル銃を置き  自らの心を手にする。
弾丸ではなく  言葉を持つ
教条ではなく  心の声に耳をかたむける。
秘密暗号ではなく 自分の感覚と考えをしんじる
領土を奪うのではなく 知性を拡張する
狙いをつけるのではなく 分別をつける
人々を引き裂く要塞をきずくのではなく
魂の戦士は、
全人類と手を取り合って成長していく
 
W。英文の状態で知りたかった詩である。たぶん、韻を踏んで綺麗な響きをしているだろう。
 
弾丸ではなく 言葉を持つ
領土を奪うのではなく 知性を拡張する
 
このヒトの証言にであって、初めて「冬の兵士」を引用してよかった、と自分に言い聞かせることができた。
コレ以上の多言は無用だ。証言している元兵士たちに失礼である。
 
    第2章 人種差別と非人間化
次回に続く。