反俗日記

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<武器を携帯する権利>合衆国憲法修正第2条と銃規制~歴史と原理原則を踏まえた本格的議論~原文はアメリカンセンターJapan。

以下、Wの原則的課題のフォーカスに絞って、要所をコピーペーストした長文の記事の原文の記載されていたページは、コピペ後、削除してしまった。探したところ簡単には見つからず、探す時間もない。
このページ第5章 武器を携帯する権利 - アメリカンセンターJapanが今回挙げる原文の出所だと想うが、ページは、アメリカンセンターとなっているが、原文の所見当初のページとは、名前が大きく違うようである。ネット上の情報の変更は、よくあることである。
 
 
                  ―第5章―
  <武器を携帯する権利>合衆国憲法修正第2条
「規律ある民兵は、自由な国家の安全にとって必要であるので、人民が武器を保有し、携帯する権利は、これを侵してはならない。」
** ↑         ↑
英国民は、1688年の名誉革命 - Wikipediaでジェームズ2世を王位から追放した時に抱いていた不満の一つは、国王が英国にカトリック教を復活させようとして
カトリック教徒が法に反して武装し、登用されているときに、プロテスタント武装解除させた」ことにあった。
1689年、英国の権利章典 - Wikipediaが制定されたとき、銃を所有する権利は、国民の権利の一つとなったようだ
 
1765年ウィリアム・ブラックストン - Wikipedia 「イギリス法釈義」(Commentaries on the Laws of England)」
***

W。ウィキペディア引用 「イングランドの法学者である。代表的な著作である "Commentaries on the Laws of England"は、イギリス法の解説書であり、コモン・ローの歴史を研究する上で必携の書となっているが、日本語訳は出版されたことがない。
YAHOO知恵袋引用 <イギリスの不文法のこと>「イギリスでは、日本憲法のような文章化された憲法がなく、それまでの慣習や判例がそのまま法になっている。」
 
W、<国王と各階層><宗教>カソリックVSピューリタンカルヴァン派ユグノー派、プロテスタント)<議会>流血の闘争の歴史と均衡状態の確保の世界史的先行性を敢えて国家基本法として明記する必要がなかった。
国家の中枢機構の在り方を理念化するではなく、先行的な歴史によって生まれた基本社会勢力の利害調整機能、均衡状態の確保とする。政治的英知、市民的知恵ある国家観である。支配層、議会、政党、中間社会団体、市民の相互が自律的にしっかりして、英知と知恵があれば、憲法は必要でない。
>もちろん、そういう意味でアベ自公の安保法制がどうなのかと云う問題もある。ラッピング民主主義ゆえに、反立憲主義のああいう事態がまかり通る。だから、ああいった付加体列島原住民政治丸出しの輩憲法の縛りが必要という意見がある。なお、西ドイツ国基本法日本国憲法と戦前戦後の歴史経緯に大きな隔たりによって、様相を異にしている。

1765年ウィリアム・ブラックストン - Wikipedia 「イギリス法釈義」(Commentaries on the Laws of England)」
「臣民の第5番目の、そして最後の副次的権利は・・・自らの身分や階級にふさわしい形で自衛するために、法律で認められた武器を自衛のために所持する権利である・・・。
それはまさに、社会と法律の制裁は、圧制の暴力を抑制するのに不十分であることがわかったときに、しかるべき制約の下で、人々に認められた抵抗と自己保存のための自然的権利である。」

>上記の記述は、しかしながら、この議論の中でしばしば見落とされる歴史的事実を指摘している。つまり、英国では銃の所有が厳しく規制されていたということである。
武器の所有を認められたのは貴族と紳士階級(W、ジェントリー)だけであり、一般市民は武器を携帯する権利を持っていなかった。

ジョン=ボール アダムが耕しイブが紡いでいた時、だれが領主だったか」
「1381年6月、まず農民一揆として反乱が始まった。イングランドの南東部のエシックスやケント州に始まった一揆は、たちまちほぼ全土に拡がり、指導者ワット=タイラーのもと反乱軍を組織し、ロンドンに迫った。ロンドンの市民は反乱軍を受け入れ、ロンドンは反乱軍の手におち、大司教や大蔵大臣は殺害され、大商人の屋敷は焼き討ちされた。
国王リチャード2世はロンドン塔に避難したが、そこも反乱軍に包囲され、やむなくタイラーと会談し、ワット=タイラーが要求した農奴制の即時撤廃、小作料の軽減、一揆参加者の大赦などを認めた
この勝利で大半の反乱軍がロンドンから撤退したが、翌日再び王と面談した際、タイラーは国王の臣下にだまし討ちにされてしまった。それを機に国王軍は次々と反乱軍を鎮圧、一揆は失敗に終わった。
この反乱後、国王と領主階級の支配は強化されたが、農奴の解放の流れは進み、各地で自由を獲得した農民はヨーマン(独立自営農民)となっていった。」
 
W.認めらいるとか認められないか、以前に農奴は勝手に武装した。後付け歴史解釈はやめてもらいたい


>近年の研究から明らかなように、英国の植民地(新大陸)でも、個人による銃の所有は、比較的制限されていた。
        ↓
しかし、<敵対する先住民の脅威>があったので、入植者たちは自らの身を守る必要があった。
そして開拓が進んだ地域は、職業軍人で構成される正規軍ではなく、民兵に頼っていた>
すべての健常な男性は、共同で防衛の任に当たることになっていた。
  
 
W後付けの弁明。自己合理化。以下、説明されているような歴史的文脈で銃の所有が推移してきたならば、現状の銃器の個人所有は規制できているはずである。

W?×(そして地域社会が、武器の貯蔵庫を持ち、それらの武器は、訓練や実際に必要とする際に個人に配られ、使用後は武器庫に戻された。W。極一部の特定地域だけで事では。例、ニューイングランド
W?×入植地がまばらになり、個人の農場が市街地から遠く離れている場合には、<個人的な自衛のため、健常な男性は少なくとも1丁の銃を保持>することが必要になった。W。そんな場所が過半だった。
◎女性もまた、武器の使用方法を学ぶこともしばしばあった。
米国の植民地時代と建国当初の時期を通じて、政府は銃の所有を厳重に規制した。
ところが地域の法令は、18歳から45歳までの男性に対して、銃を所有して民兵に参加できるようにすることを、しばしば義務づけていた。その一方で、規制はカトリック教徒や奴隷、季節労働者など、特定の集団が銃を所有することは一切禁止していた。

新たに創設された合衆国(W。合州国!)(the United States)は、訓練の不十分な大陸軍W?を、各州の民兵で補強しながら、大英帝国に対する独立戦争を戦った。
 
>のちに、民兵の役割はかなり大げさに誇張され、ジョージ・ワシントンが政治目的のために民兵を称賛することになった。だが、実際のところ、民兵は、管理面でも軍事面でもワシントンを悩ませ続けた。
民兵はしばしば訓練が不十分で(大半の訓練は、村の牧草地を行進したあと宴会を開くものだった)~W、なかなか示唆に富む一行である。生活者住民の草の根武装であった。~規律にいたっては、さらにお粗末だったため、信頼できる兵力として当てにすることはできなかった。
    ジョージ・ワシントン - 民兵について
民兵が、総じて非常に役に立ったのか、それとも有害だったのかについて、宣誓して明言するよう求められるなら、私は後者に同意するだろう。 」
 
***
W。この原文を高く評価するのは、学的公平さを持って歴史的事実を記しているところである。前日の歴史認識を覆している。説得力がある
日本政府系の外国向けの情報発信で、こういうことができるのかどうか、疑問に思う。
      ↓符号はW作成。
(1)それにもかかわらず、新しい国家が独立戦争を通じて40万人以上の人員を動員できたというだけでも、民兵はある意味で確かに有益だった。
また、ほぼすべての町や村の男たちが、ワシントン将軍の指揮の下で軍務に就いたという点もまた、民兵は、この独立戦争を文字通り地域に立脚したものにするのを助けた。
 
(2)1787年に開催された憲法制定会議で、代表たちは、民兵と比較した場合の常備軍の利点について討議したが、陸軍と海軍を募集し維持する権限を議会に認めただけで、武器の個人所有の問題は取り上げなかった。
**
>W。人民武装権を理解する上で、重要。
合衆国憲法権利章典(修正第1条、修正第2条~~)ウィキ参照。
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しかし、憲法の批准をめぐる議論の際、憲法反対派は、草案には権利章典が欠けていると不満を訴えた彼らが抜け落ちていると主張した諸権利の一つが民兵の要員として一般市民が武器を保持する権利だった。
常備軍に対する昔からの恐怖は消えていなかった
反連邦派は、強力な中央政府が、常備軍の力を背景に、人民の自由を蹂躙するのではないかと心配したのである。W.アメリカ市民戦争以前のことである。
多くの州で、憲法の批准に関する合意の一部には、権利章典を早急に憲法に追加する要求が含まれていた。
*その中で挙げられた権利の一つが民兵のために銃を所有することだった
 
(3)1791年に諸州はそれを批准した。
憲法の下で開かれた第1回連邦議会は、実際に権利章典を起草し、憲法修正第2条となったものの内容に関しては、文言に多少手が加えられた以外、議論はほとんどなかったようだ
 
>W。修正第2条に対する現代の国家~連邦制の立場からの解釈替え。

「一部の学者が指摘しているように、起草者たちはいくつかの根本的な前提で合意していた。
*つまり 市民は、州と国家を守るために、民兵を務める憲法上の権利を持つべきであり、民兵を存続可能にするために、個人は武器を所有する権利を持たなければならない、という前提である。
*当時、憲法の修正条項の重要性は個人の権利を保障することにあったのではなく
*むしろ、州と中央政府が持つべき力の均衡をめぐる、連邦主義という、より大きな議論の一部として捉えるべきである。W。市民戦争における北側の主張?に乗り移っている。
 
W。ところが、やはり独立革命の原点は無視できない。

*「憲法は、連合規約の下で存在していたものよりも、はるかに強力な中央政府を規定していたが、常備軍に支えられた強力な国家に対する懸念は、依然として存在していた。
>そして民兵は、<外部からの攻撃に対してだけでなく>
反連邦派が抱く最大の懸念が仮に現実のものとなった場合、
堕落した国家そのものに対して身を守る手段を、州と州民に提供するものでもあった。*
 
(4)1792年。この法律は、多くの意味で、民兵動員運動の頂点を迎えたと言える
こうした感情を踏まえ、連邦議会統一民兵法(Uniform Militia Act)を可決し、この中で、民兵を務める責任がある者を、18歳から45歳までの「すべての健常で自由な白人男性市民」と定め、資格のあるすべての市民に対して、自分の武器や弾薬その他の備品を用意するよう呼びかけた。
     <統一民兵法(1792年)>
・・・民兵に登録されたすべての市民は、良好なマスケット銃、ないしは火打ち石銃、適切な数の銃剣とベルト、予備の火打ち石2つと、ナップザック、・・・弾薬が24発以上入った箱を収めた袋を用意し、・・・各弾薬は適切な量の火薬と弾丸を含むものとする。
W。ウィキペディア引用 「アメリカ独立戦争の際に、狩猟用のライフル銃を装備したミニットマンが、従来のマスケットを装備した英軍狙撃して悩ませた。」
従って、ここでいう良好なマスケット銃とはライフルド・マスケット銃のことである。

>そして数年のうちに、民兵は役に立たないというジョージ・ワシントンの評価が、驚くほど的確だったことが判明した。
 
(5)1794
民兵は、インディアン部族との戦闘で何度か勝利を収め、ウィスキー税反乱 - WikipediaW。酒税反対民衆蜂起であるでも相応の力を発揮したが、民兵ジョージア州バージニア州で、少なくとも2度にわたり、危うく連邦軍と衝突しそうになった
W。州が違えば、州民兵は反乱軍に転じる。草の根武装なので予想される事態である。
本文の前述 引用!
「*堕落した国家そのものに対して身を守る手段を、州と州民に提供するものでもあった。*

6)1790年代後半民兵に人気があったものの、諸州は銃規制を廃止しなかった
誰が銃器を所有できるかを規制する法律は、独立戦争の最中も戦争後も存続した。州法は、個人の所有者に対し、軍事目的で必要とする場合、武器を政府に引き渡すことを義務づけていた。
ペンシルベニア州では、州と新しい国家に対する忠誠を宣誓した市民だけが武器を所有することができ、忠誠宣誓を拒否した者は武器の引き渡しを強いられる可能性があった
多くの州で、カトリック教徒、ユダヤ人、奴隷、季節労働者、資産のない白人による銃所有を禁止する規制が続いていた。
>W?「1790年、銃を所有する資格を持つはずの白人の成人男性のうち、実際に銃器を所有していた者は14%にも満たなかった。
従って、諸州が憲法修正第2条を採択した当時13州全体で通例となっていたのは、銃器を無制限に所持する権利ではなく、相当な銃規制だったと言ってよい。
W。
「州と新しい国家に対する忠誠を宣誓した市民だけが武器を所有」
カトリック教徒、ユダヤ人、奴隷、季節労働者、資産のない白人による銃所有を禁止する規制」
 
(7)米英戦争 - Wikipedia
1812年戦争」「アメリカ=イギリス戦争」「第二次独立戦争
米英がカナダ、アメリ東海岸アメリカ南部、大西洋、エリー湖オンタリオ湖の領土を奪い合い、また<両陣営がインディアンに代理戦争をさせた>英語では専らWar of 1812
「お粗末な働きを見せたあと、そうした声は完全に消滅した。」
 
8)1840年代までに憲法修正第2条や1792年民兵法に盛り込まれていた民兵の構想は、とうの昔に消えうせていた。
 
9)19世紀を通じて、地元の民兵たちは召集と称して集まり続けていた
歴史学者たちが指摘しているように、その実態は、女性陣の前で気取って歩いてみせたあと、近くの酒場に押しかけて、長い午後を過ごすにすぎなかった。
W。クラウゼビッツ「戦争論」「戦争は政治の他の手段をもってする政治の継続である」ウィキにおけるアメリカの戦争観
 
(10)1901年セオドア・ルーズベルト大統領は、この制度の改革を呼びかけ、「われわれの民兵法は、時代遅れで、役に立たない」ときっぱり述べた。
 
(11)1903年邦議会は統一民兵法を可決
同法は、要するに「民兵法」というその名称にもかかわらず、独立戦争当時に一般的だったような民兵を廃止する法律だった。
実際、近代戦は、最新の武器で訓練された練達の兵士を必要としていた。
W。州兵は地元の治安出動、災害対応、正規軍に兵士を供給、するためのもの。前回の自衛隊記事。自衛隊以外に兵士の補給ルートは存在しない。
この法律は、正規軍と、1903年に設立された州兵に、こうした兵士を供給するためのものだった
州兵は、多くの点で、かつての統制のない民兵から派生したものだが、今では、はるかに規律と訓練を持つ存在になっている。
なぜなら、州兵の訓練計画は、現在は正規軍によって設定された高い基準で行われているからである。州兵は、連邦政府から武器を支給され、個人的には、武器を所有していない
 
W。高度な軍事訓練を受けた州兵が、巷で武器を所有していたら警察では手に負えないことになる。
歴史学者のロバート・スピッツァーが述べているように、「憲法修正第2条は、基本的には、現代のアメリカの生活にそぐわなくなっている」のである。
民兵に関して時代が変わったように、個人の銃所有に関しても時代は変わった。憲法修正第2条が、その当時何を意味していたにせよ、
 
  <今日、それは全く新しい意味を持つようになっている>

*   *   *   *   *
憲法修正第2条をめぐる経緯は、常備軍に対する米国市民の不信感との関連からも理解しておく必要がある。」

英国から持ち込まれたこの不信感は、1776年の独立までの20年間の英国政府の振る舞いによって増幅された。
トマス・ジェファソンは独立宣言の中で、ジョージ3世に対して植民地住民が抱いている不満を挙げ、
 
W。当時の反植民地独立革命戦争の視角から理解するが、付加体日本列島の今日的な意味からも参考になる。
>「彼は、平時において、われわれの議会の同意を得ずに、われわれの間に、常備軍を置いた。彼は、軍部を文民権力から独立させ、それよりも上位に置こうとした」と書いている。
>そのほかにも、独立宣言で挙げられたいくつかの不満米国の土の上に常備軍が駐留していること、そして、英国が米国市民の武器と弾薬を没収しようとしていたことに直接関連するものだった。
*   *   *   *   *
連邦最高裁は、再び、憲法修正第2条は連邦政府にのみ適用され、州は個人による武器の所有と使用を自由に規制できる、と述べた
武器を所有し携帯する権利は、民兵が必要としているかに限って判断するという考え方が示された
連邦最高裁はこの考え方を、州による銃器の規制に異議を唱えるそのほかの訴訟でも、繰り返し表明している。
 
     
 
        <武器を携帯する個人の権利>
最近、その議論は新しい局面に入った
 
ほとんどの歴代政権は、ミラー事件での連邦最高裁判決が有効である限り憲法修正第2条は個人の権利を明確には規定していない、という見解をとってきた。
しかし、2002年にジョン・アシュクロフト司法長官は、銃規制に関する訴訟に関する政府の上訴趣意書の中で、憲法修正第2条は、<武器を携帯する個人の権利>を実際に明示している、とジョージ・W・ブッシュ政権が考えていることを示唆する記述を付け加えた
この政策が、憲法修正第2条をめぐる今後の訴訟における連邦最高裁の判断に影響を及ぼすかどうかは、まだ判断するのは早過ぎる。
*   *   *   *   *
19世紀には、辺境がさらに西へ移動し、19世紀末には完全に消滅したものの、銃の所有は多くの人々にとって、馬や財産を所有できることとほぼ同じような、個人的「権利」になっていた。
人々は、州がその所有を規制し、妥当な根拠に基づいて制限することもできる(重罪で有罪判決を受けた者は、出所後、銃器を所有できない)ことを認識していた。
 
(12)1960年
法律学教授のスチュアート・ヘイズは、<個人の銃所有は憲法修正第2条で保護された特権>であり、それを民兵だけに関連づけたそれまでの判決は誤り>だとの考えを初めて示した。
>ヘイズは、<憲法修正第2条は、民兵のどのような任務とも全く無関係>に、<個人が銃を所有する権利>を、<主として恐らく自己防衛>のために、保護していると主張した。
 
  W。人民の武装権を革命権とみなす=合衆国独立革命憲法精神の復権
ヘイズはさらに、憲法修正第2条市民の「革命権」を創設しており、武装した市民は、政府が不当な形の行動を取っていると見なした場合、武装反乱を起こすことができる、と論じた。

 要するに、憲法修正第2条の真の目的は、独立戦争当時の愛国的な世代によって行使された、暴政に対する反抗権を、将来の世代のために維持することである、というのがヘイズの主張だったと思われる。
 
(13)1963年 ケネディー大統領暗殺 容疑者オズワルドはジャックルビーによって射殺される。
「オズワルドは、大統領の暗殺に使用したライフル銃を、全米ライフル協会(NRA)の機関誌『アメリカン・ライフルマン(American Rifleman)』に掲載されていた通信販売広告を見て購入していた。そして2日後、オズワルド自身も、隠し持った拳銃をダラス市警察本部に持ち込んだジャック・ルビーによって射殺された。
ヘイズの論文とケネディの暗殺は、憲法修正第2条の本来の意味と現代における意味をめぐる、果てしない学術的論争を引き起こした。
 
(14)それ以来、銃火器を所有する「憲法上の権利」を主張する銃擁護派と、銃所有の規制を求め、なんらかの「権利」があることを否定する人々の間で、激しい論争が繰り広げられている。
*NRAとその支持者は、<個人が武器を所有する権利>は、<憲法修正第2条に埋め込まれており>、それは<絶対的な権利>であり、最低限の規制以上のあらゆる規制はその権利を縮小させ、最終的にその権利は完全に奪い取られることになる、と考えている。
この主張は、<狩猟は米国の伝統>であるとか、<市民は犯罪者から身を守る必要がある>といった言い方をされることが多い。
*もっと過激な銃擁護派の中には、銃規制法の背後にある本当の理由は、市民を武装解除し、独裁的な政府が完全に支配して、人民のすべての権利をなくすことができるようにすることだと信じている者もいる。
そうした集団の一部は、現代版「民兵」を自分たちで組織し、自分たちの活動は憲法修正第2条によって完全に保護されている、と主張している。
 
>特に、最後に挙げた武器の種類の制限は、警察官に支持されている
警察官たちは、自分たちが対峙する犯罪者の方が、より優秀で殺傷力の大きい武器を持っている場合が多い、と訴えている。
彼らは、本物のハンターが使用するのはライフル銃か散弾銃であって、自動小銃ではない、と主張している。
 
*   *   *   *   * W。普遍的な民主政の原理原則に則って議論を展開している。興味深い。
W。銃規制の立場から、自己防衛 革命権に反論している
       <自己防衛>
自己防衛の権利は、独立宣言にうたわれた生命、自由、幸福という自然権の一部であり、銃の所有はその自然権を守ることのできる手段である。」結論付けたうえでの反論
ここでの争点は、実際には憲法修正第2条ではない。
なぜなら英米法は、あらゆる個人は身体への危害や財産の略取から自らを守る権利を持つことを、長らく認めてきたからである。
攻撃してくる者を銃で撃ち、死なせた場合、その行為は、憲法上の権利としてではなく、刑法上の問題として免責されるだろう。
 
 
 憲法修正第2条は、この伝統的な権利を拡大ないしは縮小することを意図したものでは全くなかった。
そして銃規制賛成派が、犯罪者から自分の身を守る能力を個人に与えてはいけない、と主張したことは一度もない。
 
      <革命権>
*法律上適格な<国王に対する革命から誕生>し、国民が幼少期から、<永続的な警戒は自由の代償>だと教えられる国である以上
憲法修正第2条は革命権を支持しているという主張が興味を引かないわけはない
>1世紀以上も前、アクトン卿は、「権力は腐敗しやすいものであり、絶対的な権力は絶対に腐敗する」と言明した。
憲法権利章典の起草者たちは、アクトン卿の言葉そのものは耳にしたことがなくとも、その考え方を完全に理解していた。
あらゆる政府は、たとえ民主的なものであれ、権力を蓄積する傾向があり、その際、その権力を弱めようとする一切の試みを退けようとするだろう。
>政府と対峙したとき、非武装の市民は、自分たちの自由を守ることができないだろう
武装した市民は、1776年に植民地住民がそうしたように、抵抗することができるし、そうするだろう。
 
*しかし、ハーバード大学法科大学院長で、著名な学者のロスコー・パウンドは、この主張を現代世界に当てはめることの難しさを指摘している。
   ロスコー・パウンド 「憲法による自由の保障の発展」
(The Development of Constitutional Guarantees of Liberty)(1957年)
市民が政府に戦争をしかける法的権利は、容認することができないものである・・・。
今日の都市産業社会で、政府の抑圧に抵抗できるようにするために有効な武器を携帯する一般的権利は権利章典全体を否定するような超法規的な支配を犯罪集団が行使すること意味するだろう。
 
さらに歴史学者たちは、米国独立戦争は政府に対する武装蜂起ではなく、連合諸邦と大英帝国という2つの政府の間の戦争だった、と主張するだろう。
アメリカ革命>は、大陸会議が各州政府の支援を得て組織・遂行したものであり武装した個人はもとより、移動する民兵団が行ったものでもない。
W。米国独立戦争(団体、国家)とアメリカ革命戦争(自律する市民個々とその共同体の政治は王権政治と相容れない→フランス革命などその後の市民革命に絶大な影響を与えた)の歴史用語を使い分けている。
前者は米国では一般的な呼び名でなく、英国側や日本など市民革命と直接の関係がなかった国におけるの呼称である。
>今日、圧倒的多数の米国民は、<政府に影響を与えたり制限を課したりするために>、投票や政治的利益集団、自由な出版、裁判所など、<容認された民主主義の手法>を用いている。
米国政府を武力で抵抗すべき専制政府だ、とする末端の過激派に賛成したり当惑したりする米国民はほとんどいない。実際、米国史の中で、憲法の下で、市民が大規模な反乱を起こしたのは、南北戦争のときだけである。そして今日、南部諸州が、革命権を持っていた、と主張する者はほとんどいないだろう。実際、憲法連邦政府に、反乱を鎮圧する権利と権限を明確に与えているのである。
 
      <NRA会員通信>
彼ら[政府]は、われわれが武器を携帯する権利を奪い取ろうとしている。・・・銃禁止派は、要するに諸君を嫌っているのだ。諸君に銃を持たせたくないのだ。諸君の銃を無理やり政府に引き渡させるまで、彼らはどんなことでもするだろう。
>・・・もし、NRAが憲法修正第2条で保障されているわれわれの自由を回復できなければ、信仰の自由、言論の自由、理由のない捜索や押収からの自由に対する攻撃が始まるだろう。・・・ 
*   *   *   *   *
だが、武器を携帯する権利は、裁判所が制限や解釈を与えてきたそのほかの人民の権利とは異なり、銃規制支持派と、銃所有は法的規制が及ばない憲法上守られた権利だと見なす人々が対峙する、政治上の試金石となっている。
  W。なんだは日本国憲法の形而的論議をほうふつさせる論法である。
>これまでのところ、連邦最高裁は、最近の2つの銃規制の努力を無効としているが、
>その根拠は、憲法修正第2条とは無関係だった
恐らくあまり遠くない将来に、連邦最高裁は、憲法修正第2条に基づく銃規制法への真っ向からの異議申し立てと向き合うことになるだろう。
そして、連邦最高裁の判断は、人民が武器を保持し携帯する権利をめぐる議論の形成において、重要な、恐らくは決定的な役割を果たすものと思われる