反俗日記

多方面のジャンルについて探求する。

第2回「遥かなる革命~ロシアナロードニキの回想~」田坂訳1980年批評社発行、とダイジェスト版「ロシアの夜~一婦人革命家の回想」和田春樹訳。


       4 ツァーリの妃になろうと考える
省略

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                   第4章 チューリッヒ
       3 「フリッチ」会
P87
「一切の悪は、-ーと新たに形づけられた想念は私たちに答えたーー現存の経済関係の中にある。
 それらの関係とは次のようなものだ。

「すなわち、とるに足りない少数派が私有財産権に基づいて一切の生産用具を所有し、膨大な圧倒的多数を構成する人類ののころの部分はただ労働力だけを所有しているにすぎない、ということなのだ。
飢えに迫られてこの大多数は一部のグループに自分の労働を売るわけだが(W?)
競争があるため、この労働の報酬を受け取る(W×)のは、自分の労働によって作り出されたもののうち小部分にしか過ぎないのであって、この部分と云うのは労働者の生活の維持と種の存続のための必要最小限度の生活資料なしているわけだ。
彼の労働生産物の残りの部分は生産用具の所有者によって抑えられてしまう。
 
 
 
 「資本家たちの競争は中産階級を滅ぼし、ますます膨れ上がっていく資本の集中をもたらし、それとともに収奪された手不幸に夏人たちの数はますます増大してい。
 そして上部では、とるに足りない一握りのの幸運ななものたちが、豊かな文明がもたらすことのできる一切のものを享受するのに引き換えて、下部では、幾百万の人々が貧困や無学や犯罪や罪悪の中で惨めな暮らしをして、肉体的にも知的にも、道徳的に退化を運命づけられている。
 コレほど嫌悪すべき制度を根絶するために必要なことはただ一つあるのみ、すなわち生産用具を私的所有の対象から取り除いて、それを勤労者の集団的所有に移すことだけだ。
この変革を達成し得る道は闘争による以外にはない。
好条件におかれたいる階級が自発的に己の立場を捨て去ることはないからだ。この闘争のためには、闘争が成功を収めることに一番関心を抱いている階級、云いかえれば労働者階級、人民が組織されなければならない。
この階級の利害を全人類の利害と同一視するひとびとは、人民の間で社会主義思想の宣伝活動とこれらの思想を擁護する積極的な闘争のために人民を組織する事業に全身を投じなければならない。」
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本書の元本は、革命前のロシアに帰国していたフィグネルがロシア革命後、1921年、単行本第一巻「忘れえぬ事業」のタイトルで発行されたものである。率直な感想として、フィグネルは最後までナロードニキであり続けた。
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本書のフィグネルのナロードニキ運動回想は1980年に「遥かなる革命」のタイトルで翻訳されているが、
1961年発行筑摩書房世界のノンフィクション全集のなかで「ロシアの夜~一婦人革命家の回想」(1928年のドイツ版のタイトルである)金子幸彦 - Wikipedia和田春樹 - Wikipedia 訳で出版されている。
もともと、筑摩書房の全集に収録された回想録を古本で偶々読む機会があって、その平易で透明感のある文体と、内容に衝撃を受けて、読み進むうちに、最後の解説で5分の1の個所を抜き出しと、しって省かれたところを読みたいと、「遥かなる革命」を手にした経緯がある。
 
>翻訳の文体はかなり違っている。前回の記事のタイトル、「ドストエフスキーを超えた」と敢えて言うのは、二つの翻訳本の足りないところを補った結果である。
金子幸彦 - Wikipedia和田春樹 - Wikipedia 訳の文体で全部翻訳してくれていたら、回想記は大変なものになっただろう。最高級のロシア文学そのものである!
ところがそれには、前回引用したような幼少期のフィグネルのロシアの広大な森の生活のようなところは省かれている。
 
 
>わたしは、ナロードニキ達の運動の歴史的意味には興味があるが、その政治思想や行動には関心がない。最高の文学作品として読みたいという気分が強い。そういった者にとって名訳で省かれている5分の4の方に関心が向かったが、正直言って引っかかるところがかなりあった。
普通の訳文なのだが、細部にわたって書かれた長編なので、もったいないな、と云う気がする~。
 
>それにしても、フィグネルは大変な記憶力も持ち主で、文学才能、抜群の人だったと解る。違う時代に生まれていたら、たいへんな文学者になっていたのではないか。
彼女は感性の鋭するどさと抜群の行動力、強さ、粘り強さと云う普通は両立しない面を兼ね備えたヒトである。その筆力で書かれた上申書を当局はまるで小説の様だ、と回し読みしたと云う。
確かに最終意見陳述も、小説のようなストーリー性があってしかもわかり易く劇的で、普通のこういった陳述とは様相が違う。聴く者を説得する力がある。
 
>フィグネルの書いたものは戦前のロシアで全集として出版されている。なにしろ、第二次世界大戦中まで存命し、入党はしなかったが、赤十字のトップまで務めたヒトである。
戦前、戦後を通じて、フィグネルの本はどの程度に日本に翻訳紹介されたのか、気になる。
文学作品として、またロシア革命運動史を多角的に理解し、修正すべきところは修正する意味でも全集が翻訳される必要があった。
 昔、一時期、そういった方向での出版物が、出てくるようになって、問題意識がからり浸透したころ、現実に押し流される形で、中途半端に途絶した。
1917年のロシア革命の発生は、ボリシェビキによるものではないと、云いきることができる。ロシアの反政府系諸党派とロシア人民の力のなせる業である。
ソ連邦解体は自動崩壊のようにソレ自身に内在した矛盾が発展した結果である。
 
 しかし、純議会主義、純民主主義の立場からボリシェビキのクーデターとまで歴史を清算する学者がいるが、それは違う。
歴史のダイナミズムが現場で力を発揮する時期がある歴史にIFはない。革命か反革命かの分けれる時点で、革命の立場をとれば、蜂起すべきだったのであるまた、ナロードニキと云うロシア独自の政治思想の連綿とした流れが、そうさせた。17年革命の欧米化に通じる道は成り立たなかったのである。
憲法制定会議やメンシェビキのIFはない。
太平洋戦争中止のIFはない。
白井聡のいうような、朝鮮戦争北朝鮮が半島を制圧していたら日本はどうなっていただろうか、のたぐいのIFはない。
丸山真男を引き合いに出すならば、戦後民主主義を大切にすることを考えた方が良い。上部構造には歴史ブロックと云うタイムラグがあるのは、アベ普三だけではない。その場合、そういったIFを設定すると、アベの進む道を掃き清めることにつながる。
 
>最後にフィグネル経験した農村へのナロードニキ運動の回想にある自分は10カ月ほどで挫折した~云々は補足する必要がある。
フィグネルが農村に入った時期はナロードニキ運動の最末期であり、全盛期に彼女はスイスのチューリッヒで医学の勉強をしていた。国内のナロードニキ運動壊滅の事態に国内からの要請を受けて、卒業を一か月後に控えて、緊急帰国し、農村に入ったのである。
この辺の事情を「ロシアの夜~一婦人革命家の回想」の訳者金子幸彦 - Wikipediaの解説を読むまで知らなかった。フィグネルはナロードニキ運動の過去の経過はスルーし、自分の体験を記している。
こいいったところがフィグネルの欠点である。彼女は理論の人間ではない。しかし少数派運動には理論的核心がいる。
「フィグネルのこの書は、その正確な記述によって貴重な文献の一つとなっている。
<彼女の文体は抑制された、節度ある、美しい文体であって~
彼女の詩も~ロシア詩のアンソロジーのなかにも、しばしば収められている。
ナロードニキ運動はほぼ1861年~1895年にわたって繰り広げられたロシアの解放運動であるが、必ずしも単一の内容をもったものでなく、ロシアの社会経済状況の変化とともに、様々な傾向とニュアンスを生み出してきた。
ナロードニキ思想の基礎にあるものは、ロシアが資本主義的発展の道を通らないで農村共同体の上に社会主義に達することができると云う確信である。~~
 
政治政治運動の途中経過は省略
 
>W、1970年代のナロードニキ運動。
1869年~1874年にはペテルブルグをはじめ、ロシアの主要都市にチャイコフスキー>が組織される。
コレは学生の間の活動から、次第に工場労働者及び農民の間の宣伝に移った。
「数千の男女が圧政と搾取にあえぐ人民を救い、無知と窮乏から彼らを解放しようとする理想に情熱を傾け、あるいは現在の幸福な生活を捨て、あるいは将来の社会的英たちを投げうち、人民のうちに身を投じて、啓蒙運動を開始した」
 
>1874年には、「人民の中へ!」のもっとも大規模な運動が行われ、学生を中心とする多くの男女が、社会主義の宣伝と反乱の組織のため、農村や工場に赴いた。
ヴェーラ・フィグネル - Wikipedia 1852年6月25日 - 1942年6月15日←W。在スイスチューリッヒ。最後まで医学イメージ 1を学ぶ事にこだわっていた。運動の崩壊を受けて、要請により決断し卒業1か月前に帰国。その後、「土地と自由」の人民の中へ運動から「人民の意思」の活動へ。ただし、最後まで農村活動に未練を持っていた。度胸と行動力、実務能力の人なので、周囲からあてにされていた。ソフィア・ペロフスカヤ - Wikipedia もその手の人だったようで、農村活動か人民の意思党かで迷っている。
 しかし、人民に対する負債の思想、道徳的自己完成の教義そのものは多分に宗教的な色彩を持っていて、~~参加者によれば、政治的と云うよりはむしろ熱狂的な感染力を持った一種の十字軍のようなもので、絶対的中身見変わるものは人民であり、神への奉仕の代わりに人民への奉仕の思想があり、社会主義は彼等にとって信仰であった。
 
 この運動は政府の過酷な迫害の中、
>1874年の夏だけで  千人近くの逮捕者を出した。←W。チャイコフスキーの運動だったと云える
しかも農民は反乱の呼びかけにも、社会主義の宣伝にも関心を示さなかった。W。ロシア、インテリゲンチャという独自性ある人々には影響力を持った。
こうしてロシアインテリゲンチャと民衆の最初の組織的接触は、悲劇的な結末を遂げた。
 
>ヴェーラフィグネルがスイスから帰国したのは、「人民の中へ」運動が失敗して多くの革命家がとらえられて、混乱と幻滅と絶望が支配していた時期だった。」
 
>1876年に、 ペテルブルグに新しい組織が生まれ、後に「土地と自由」結社と呼ばれるようになる。
>革命家たちは村役場の書記や保健婦になって農村に定住し←W。チャイコフスキー団の運動を総括してち密にしている。
しかし彼らの献身的な活動も、いたずらに犠牲者を出すのみで、効果を上げることができなかった。
ナロードニキ達の間に個人的テロルの問題が提起されだした。
 
~~以上で、ナロードニキ運動の歴史的大枠
                ↓
ナロードニキ運動はほぼ1861年~1895年にわたって繰り広げられたロシアの解放運動
チャイコフスーキー団→「土地と自由」分裂人民の意思党結成までの経過が分かる。
 
*今日の日本では(1961年 60年安保闘争1年後)では『ソビエト共産党史」風の精神に基づいて、ナロードニキは「マルクス主義の敵」としてのみ理解されその歴史的意義は無視されている。
ロシア革命運動史の理解はスターリン独裁時代にゆがめられたまま、今日までのところはっきりと是正されていない。
その歪みはそのまま日本にも輸入されている。
>しかし、ナロードニキ運動の伝統と成果と経験を受け継ぐことなくしては、ロシアの労働者運動の、あのような急速な発展は不可能だったに違いない。」

 
P88
「この最初の規約はインターナショナルの人二の支部の規約からほとんどそっくり引き写しで、
>そこはロシア民族の特殊性やロシアの生活条件をにおわすものは何も見られなかった。

W。下線部分は、最初のナロードニキ「土地と自由」の農村人民の中へボランティアと社会主義宣伝運動が官憲の弾圧などで挫折して以降、人民の意思派と黒い土地割替派(プレハーノフ、ヴェーラザスーリッチ)に分裂したときの、人民の意思党の問題意識が述べられている。先進ヨーロッパ資本主義にたいして、後発農業国家ロシアの特殊性を、確たる社会経済基盤に根付いていないまま、未熟な国家資本主義化を推し進めるツァーリ官僚制国家機構の主導性と、革命的知識人大衆の存在に見出している。

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資料 
コピーペーストできない。「土地と自由」分裂以降の「人民の意思」党の理論が生のままのっている。
パリ・コミューン - Wikipedia1871年3月26日
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(2) テロとその党の破産(アゼーフ事件によせて) トロツキー/訳 西島栄
>すなわち、1880年代の「人民の意志」派が露骨にテロの綱領として定式化したような、こうしたテロは、ロシア・インテリゲンツィア独特の創造的産物であり、それは、絶対主義の官僚主義ヒエラルキーに適応して、自分自身の革命的官僚制をつくりだす。もちろん、そこには深い原因がなければならないし、それは、第1にロシアの専制の本質のうちに、第2にロシア・インテリゲンツィアの本質のうちに、探さなければならない。」

>(W。西方資本主義との)競争に勝ち抜くためには、容赦なく人民大衆を搾り取らざるをえず、こうして、特権的階層においてさえ、自らの足元の経済的基盤を掘りくずしたのである。
 また、それは西欧におけるような政治的高みにまで昇ることもできなかった。
>そして19世紀においては、これに加えて、ヨーロッパの取引所の強力な圧力があった。
それがツァーリズムに借款を多く与えれば与えるほど、ツァーリズムはますます自国の経済的諸関係に対する直接的依存を少なくしていった
ツァーリズムは、ヨーロッパの資金にもとづいてヨーロッパの軍事的技術で武装し、こうして、社会のすべての諸階級の上にそびえたつ「自足的」(もちろん相対的な)組織となったのである
ここから必然的に、次のような考えが生まれた。ダイナマイトによって、この異質な上部構造をふっ飛ばすことができる、と。

この仕事を遂行することが自分の使命であるとみなしたのが、インテリゲンツィアであった。
国家と同じく、インテリゲンツィアは、西欧の直接的な圧力のもとに成長してきた。
自らの敵たる国家と同じく、インテリゲンツィアは、国の経済的発展を追い越した。国家は技術的に、インテリゲンツィアは思想的に。
 ヨーロッパのより古いブルジョア社会においては革命思想が多かれ少なかれ広範な革命的勢力の発展と平行して発展してきたのに対し、ロシアにおいては、インテリゲンツィアは、西欧の出来合いの文化と政治思想に接していたので、自分たちが依拠しうる本格的な革命的階級が国の経済的発展によって生み出される前に、精神的に革命化したのである。
 こうした条件のもとで、彼らには、自己の革命的熱情にニトログリセリンの爆発力を掛けるしかなかった。こうして、元祖たる「人民の意志」派のテロリズムが生じたのである。それは2~3年のうちに頂点に達し、その後、急速に無に帰し、数的に脆弱なインテリゲンツィアが動員しうる戦闘力のストックを自らの炎の中で焼き尽くしてしまった。

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      第5章 ナロードニキ綱領 
、「土地と自由」の綱領
この綱領に基づく人民の中へ運動の行き詰まりから、分派したのが、「人民の意思」党。
西方ヨーロッパの思想をそのまま自国に導入し啓蒙したり、ロシアの社会経済を直接当てはめて分析するのではなく、ロシアの特殊性を自分たち独自で分析し、それに何とか適応できる政治路線を導きだしている。コレが欧化路線を除く、ロシア革命運動の特質である
 
 その視点からみると、「人民の意思」党の壊滅は、結果解釈に終わらせることはできない実際に、その後継政党である社会革命党は大きな支持を得てきた1917年革命の事態は社会革命党を含むロシアの政治勢力と民衆政治を基盤として、そのダイナミズムが生み出した。
もっと時代が後になる日本のアナーキズム運動、初期社会主義運動は極一部の者たちの西洋思想による狭い世界での啓蒙運動であり、政治路線などない、云わば文芸活動であった
今の野党政治にも通じることである。自民党政治の方が日本的状況への適応力が高すぎる。公明党創価学会のような政治勢力が国政の中枢にいるのも、戦後の野党政治が民衆生活のリアルな問題に現場で寄り添ってこなかったからだ。

「この土地の上で人民は自分たちの習慣に従ってーと云うのはつまり農村共同体ーによって生活しており、彼らは千年この方一度もこの農村共同体を手放したことはなかったし、今も伝統的な敬意をこめてそれを保持している。
農村共同体のために土地を没収することーコレこそは社会主義学説の基本的要求と完全に合致する人民の理想なのだ。ここに注意を集中し、この人民の理想のために闘争を開始しなければならない。
ツァーリに対する信仰を打破し得る道は、ツァーリは人民の利益を守っているわけでもなければ、人民の哀訴や呻き声に耳を傾けることなんかありはしないと云う事を、実際の証拠をもって示す以外にない。
>この目的を達成するための一つの手段となりえるのは、諸々の郷や郡や県から人民の窮状や願望について陳情するためにツァーリの下へ派遣される代言人たちを系統的に組織することだ。

(W。結果的に農村に下ったナロードニキ達は、こういう層から、相手にされず、むしろ官憲とのブロックを作られ運動は挫折するが、大事なことは、その先行的行動力であり、コレは政治路線なしに生まれない。)

「遠い県に追放されるものもあれば、逮捕されるものもあり、護送されて故郷いかえってくるものもあり、と云うのが実情だ。
こうした苦い経験は、ツァーリに何一つ期待をかけることができず~~。
>自分たちの利益を守ろうとする方向へ人民の精神と能力を高めるためには、革命家側の一定の活動方式が必要なのだ。
>文化人の習慣や弱点を乱暴に押し付けるのではなく、やはり人民に近い形をとってーーもしこういうふうに云い現わすことができるとすれば、半知識人的形態(郷書記や、貸付貯蓄金庫の会計係、医師の助手や小商人)--人民の中に暮らしながら、革命家たちは、公正さの思想を支持するきっかけを与えるような、あるいは自分たちの利益や尊厳を守ろうとする個人や社会に助力する可能性を与えるような、そうした農民生活のあらゆる機会や側面を利用しなければならない。」
「農村共同体の利害にとりわけ熱心な態度を取る勢力的な人たち、指導者たちを見つけ出し、彼らを結束させ諸グループを作り出さなければならない。--合法的抗議から始まった闘争は最後は純然たる革命の道に踏み込まなければならないわけだが、その場合こうした諸グループに依拠して闘争を進めなければならないからだ。

           第6章 
1、 農村の中で
「--地主、領地管理人、富農、高利貸したちが騒ぎ出し、村中のモノがひそひそ囁き合い始め、密告が行われた。
富裕少数者による搾取に反対し、ミール(W、農民互助共同体)の多数者を擁護したり、富農と闘争したり、雇い主や経営者に太鼓こうして労働者の権利を擁護したり、農民問題に関する訴訟をこしたりーー
こんなな風なこと万事が彼らの姿を明るみにさらけ出すことなり、
とうとう最後には、社会主義者=革命家たちは所有権を否認してひとつの階級を他の階級に敵対させているのだ、等々の非難の声、つまり暴動をそそのかしてしているのだという非難の声を組織するまでに至った。
W。チューリッヒで医学を学んだフィグネルは看護師の触れ込みで農村に入ったが、あまりの患者の多い惨状に治療にてんてこ舞いの日々で、工作活動をする暇がなかったと云う悲喜劇。徹底した行動力と機知に富む彼女は、農村であてにされていたが、各地に派遣されたナロードニキ達の運動の失敗による方針転換で、撤退する。

「そうこうしているうちにあちこちの都市にいる党員たちも(W。農村に派遣されていたナロードニキと)同じ結論に到達してきた。」
「どの手段も無駄だと云うことが分かったとするならば、残るところは物理的な力~~」
W。歴史は繰り返している!

 4、 一般情勢
「すなわち、党はまだ彩ゆる同志たちを単一の全ロシア的組織に統一しようとする志向を現していなかったので、彼らは目的と手段と云う点では綱領的に一致していながら、いくつかの完全に独立したグループに分かれており、グループの個々のメンバーは単に個人的な知り合いだと云う点だけで相互に結びついていた。」

           第7章
        
1、不一致
「土地と自由」綱領の二つの側面は次第に順位を変えていった。
結社創立の1876年には重心は、農村における活動、つもり人民蜂起の準備や組織と云う側面におかれたいたわけで、「中枢部における打撃』と云う側面は大衆の中で生起してくる出来事に従属させられていたのだが
1878年になると、この打撃と云う側面の方が重視されてきて首位を占めるようになった。
 
>プレハーノフとポポフが旧綱領保持せよと、あくまで主張し、危険な熱中と彼等が読んだものに対して戦ったとき、きまったように同志たちに非難を加えた論点と云うのは、戦闘行為が青年男女を、農村に住んで活動しようという意欲から引き離してしまうと云う点だった。
 彼らは正しくなかった。
なぜなら、農村活動に従事した人たちが証言したように成果が上がらなかったからなのだ。
農村にすんでいる人たちの話はすべては一つのことを物語っていた。
すなわち合法的な文化活動さえも不可能であり、~警察の視野の中にあっては活動家の居場所がないと云うことなのだ。
すなわち「ヴ、ナロード」運動への参加意欲は1870年代初頭においても極めて短期間もモノだったのであり、個々人にとっては実際は何週間か、せいぜい1か月から2カ月ぐらいのものにすぎなかった訳で、1875年には停止してしまい、ただ次々とおこった壊滅から後幸運にも逃れた人たちの側から試みが繰り返されるにとどまった。
わたしたちは全部を合わせても少数に過ぎなかった。
サマーラ県(W,ヴォルガ川東岸にあるロシア連邦の都市)では都市労働者と連絡を取っていた人たちを含めて8~10人、サラトフ県(W,ヴォルガ側下流域)もっともさかんな時でも20~25人だった。
しかも、これらの人たち全部の顔触れを調べてみると、ほとんど新人はいなくて、以前の時期からの非合法生活者だった。
わたしはペトロフスク郡で10カ月親しい同志はもう少し住んでいたが~全期間を通じて私たちの組織に加わった人は皆無だった。わつぃたちが置かれていたような革命的孤立状態を考えると絶望的になっても無理はなかった。活発で精力的な私たちが長期にわたってこんな状態に耐えていたと云うのは驚くべきことかもしれない
人民に対する深い信頼、人民はインテリゲンチャの努力なしに目覚めるだろうと云う希望だけが私たちを支えていたのだ。
「ヴナロード」運動と云うのは性年代所の意欲に対する影響力を持っていなかった。
私自身に関して言えば、1877年ペテルブルグに住んでいたころ、農村活動に引き入れることの出来そうな人たちを探してみたが徒労に終わった。
>こうしたわけでプレハーノフとポポフが、革命的勢力の主要な供給源である大学、高等専門学校の学生たちの中でますます広がっていた農村活動に対する無関心状態をテロル活動の進展の所為にしたのは正しくない。引きはなしがあったのではなく、積極的闘争の方へ引きつけがあったわけなのだ。
 
2、サーシカ、インジネール ユルコフスキー
省略~~
ユルコフスキーははでやかな、一風変わった人物で、当時の革命家オフつのタイプから外れたものを持っていたと云う点では興味深かった。
彼の性格も私たちの間では全く例外的だった。こんな無鉄砲で、陽気で、気ままで、がむしゃらな人間には、後にも先にも出会ったことがない。コレは規律と云うこと、自分の意思を集団の意思に従わせると云うことはどんなのかを知らない、また知ろうともしない、本当のの野蛮な自然児だった。キズナと云うものを知らない大草原の馬のように彼は最後まで、離れ駒としてとどまり、北部のわたしたちの組織にココとひかれていたにもかかわらず、組織に加わらなかった。
わたしは知り合いになると、笑いながら彼にこう言ってやった。
「おそらく党にいってもらわなくてはならないのはひとりのサーシカ、インジネール だけよね。二人までは何とかなるけど、三人になったらとても我慢できないわね」
頑健な身体の持ち主である彼は、強い情欲を持たないわけにいかず、生命のあらゆる悦楽、生命のあらゆる美味を愛好した。
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ユルコフスキーはシュリッセルブルク要塞監獄の中で自分の生涯を終えた。
1880年12月ポポフその他の人々と裁判にかけられ、カラ鉱山での懲役のためシベリアに送られ、その地で逃亡を試み、ソノアトペテルブルグへ戻され~~1884年に『人民の意志』党員たちと一緒にシュリッセルブルク要塞監獄へ移送された。
>ココで1896年に彼はその頑健な身体に遂に倒した行基に侵されて死んだ