反俗日記

多方面のジャンルについて探求する。

<補足> 「遥かなる革命~ロシアナロードニキの回想~」ヴェーラ、フィグネル著。

  IWJの岩上安見さんの体調が悪くなっている、と知った。
                                                         2015.12.04
                                                         2015.12.03
2015、1202

                                         
あれは1年ぐらい前になるのか、2年前なのか、寒い季節だった。帯広で約束していた大切な集会のコーディネイトの約束を果たすために、持病の腰痛と風邪をこじらせている体調を押して、現地で約束を果たした後の内輪の集まりで突然、心臓の冠動脈の激しい痙攣に見舞われた。
帰京直後、静養を進めらて出向いた先の旅館で二度目の発作をおこし、またしても救急車搬送となった。
 その後、本人にいわく、状態にみあった薬の調整がうまくいったということで、次第に仕事をこなせるようになった。
 そして、心臓の具合は順調に調整できていたのだろう。
安保法制成立間際の雨の激しく降りしくる国会前の大衆行動の渦を現場中継しようと、ネット取材セットを手にした脚立から転落したとき負傷した、という記事を読むと、岩上さんらしいな、想った。
ときの人へのインタビューも順調にこなしていたようだ。
 
 幅広い政治状況を視野に入れながら、ネット報道メディア集団の所帯を率いて、卓越した行動力と想像力で最前線の現場を作り出せる人である
現状況と将来において、一番求められる熱い人である。主張の輪郭の鮮明な人である。同時にクールな面も兼ね備えた人でもある。学ぶ姿勢を常に崩さないヒトでもある。
 
 
 時代状況の政治経済主導に抗する個々人が、小集団が政治集団化した、ろ過装置を持たないまま、彼らの生み出したリアルな状況を正面から背負い込むと、その問題、課題を極点で抱え込んでしまう。
 
>本当はそうでないし、そうあってはならないのだ。
 

   第17章 V、S、パンクラートフ   労働者「人民の意思」党員、懲役20年の刑期を短縮されて1898年出獄
 
「既に幼年時代にモスクワの光学器械商のところで素晴らしい実地の学校を卒業した専門職人として、要塞内の私たちの間での、なにを作くらせてても、名人で、イロイロな素晴らしい品物を作り、アントノーフと並んで最良の指物師であり旋盤工だった。」
 
「彼は労働者層に属し、職種は旋盤工だった。幼年時代彼は極貧の苦しみを味わった。
かれの父親は大勢の家族を残したまま、早死にしてしまった。しかも子供たちはみな小さかった。酷い貧困だったので隣人の農民たちがいなかったら、僕等は餓死していたでしょう。
彼の父親は地主のところで勤めていた訳だが、その村には学校があった。ワシーリーはその学校の初等教育を受けた。旋盤工としてペテルブルグで働き、若くして革命家になった。
 1883年に「人民の意思」党員として彼はマルトゥイノフ及びシュリッセルブルグ囚人のアントーノフと一緒に戦闘隊の一員となった。党はその当時すでに粉砕され、最後の格闘の不毛な痙攣を起こしていた。」
「キーエフで彼の逮捕の際、武力抵抗をを呼び起こし、その時憲兵隊員を負傷させた。そのため彼は20年の懲役刑を受けカラウーロフフ及びマルトゥイノフとシュリッセルブルグに送られてきた。」

       
 
         第19章  作業場と菜園
「3人の労働者以外は、以前にも誰もノミもカンナも握ったことがなく、小冊子で仕事のたり方を学んだ。作品は普通、みんなに見せつために廊下に展示された。~アントノーフが半年をかけて作った彫刻付きの食器棚が展示された。彼はこの仕事の報酬として25ルーブルをもらったが、そのカネを全員に分配した。
 鍛冶場では同志たち自分たちの手で炉をたてて、仕事はかどって、後に各種の製品ーー剃り刀、ナイフ、指しもの用具、斧ーーなどを作り出した。
アントノーフはモーターボート用の装置さえ自分の手で作れるし、私のためにピアノを作ってあげると断言していた。
 
 私たちの間では園芸が盛んだった。
~~ある日私たちによって品評会さえも催されたのだった。ルカーシエビッチの何フントもあるカブポポフトマト、アントノーフの巨大な玉ねぎ、わたしのオランダイチゴ、ワシリーイワーノビッチのバラなどが出展された。お客は囚人たち自身と、要塞司令官ガンガルドと医者だった。
>種子を注文する際に、ルカーシビッチは煙草なしに苦しんでいる愛煙家たちのことを考えて、ラテン語の名称でたばこの優秀な種子を密輸入よろしくこっそりと持ち込んだ。
 
イメージ 1マッチがないので人類が火を手に入れる歴史において通過してきた全段階を通過した。つまりこんなふうだ。
>ノヴォルスキーは摩擦によって火を手に入れる道具を作ったが回転軸は煙を立てたものの、火をはっしなかった。
>スローフツェフは火打石と火打ちがねを提案した。彼はどこかで、布切れを燃やして皆に火口を提供した。
 
ケイセキの方は菜園の土の中にいくらでもあった。
硫黄と木切れで彼は硫黄マッチを作った。
鉱物としては石英、岩石としてはチャート珪岩
ガラス陶芸の原料として用いられる。
還元された単体の高純度シリコンが、半導体の原料として使用される)
 W。江戸時代の夜は闇が支配していた。
 
 
 引用。
「火は人間の生活に必要不可欠のものだが、木の摩擦熱火打石による発火法は手間のかかる作業だった。
1830年に、フランスのソーリアが黄燐マッチを発明した。
これは頭薬をどんなものにこすりつけても発火するため普及したが、その分自然発火が起こりやすく、また黄燐がもつ毒性が問題となって、製造者の健康被害が社会問題化した。そのため、19世紀後半に黄燐マッチは禁止されてゆき、1906年スイスベルンで黄燐の使用禁止に関する国際会議が開かれて、黄燐使用禁止の条約が採択され、欧米各国は批准した。
しかし、マッチが有力輸出商品だった日本は加盟しなかった。結局、1921年大正10年)になってようやく日本は黄燐マッチの製造が禁止された。
 
 どこですっても発火する黄燐マッチ~
19世紀末から神戸を中心にした兵庫県大阪がある大阪府の生産が他地方を圧した
マッチは当時の日本が輸出競争力を持つ数少ない工業製品で、1880年代から中国インドをはじめとするアジア地域に輸出された。最盛期である20世紀初めには、スウェーデンアメリカと並び世界三大生産国となった。
このときは生産量の約80パーセントが輸出にまわされた
日本では家内制手工業での生産が中心であったが、料の一つである硫黄が大量安価に手に入ったので価格競争力があった。軸木は北海道で製造し、これら原料が大都市に送られ都市下層民の低賃金でマッチになった。マッチ工場の雇用と内職は大阪・神戸で貧民の生活を向上させたが
業はその反面、マッチ工児童労働の集中業種でもあった。
 当時のマッチ箱は経木を組み合わせるものであり、箱作り(箱張り)はもっぱら貧民家庭の内に出された。」
 
W。大阪阪神間軽工業下層労働分布絵図。
 
椎名麟三 - Wikipediaの青春時代の自叙伝痛快悪漢プロレタリア小説『深尾正治の手記』銀座出版社 1948 文学全集収録。 『永遠なる序章』(1948年)河出書房、のち新潮文庫 
旧制姫路中学家出。その後の大阪の街中で商店の小僧、コック見習い生活を臨場感あふれる小説にしている。
その間に、旧制高等学校入試検定試験に合格している。
帰京後、山陽電鉄に勤務中、共産党に感銘。山陽電鉄内の従業員互助会に反発して、仲間を集めて労働運動を開始する。直後、共産党と連絡をつけて、全協労働運動の支部キャップとして大胆な活動で治安維持法容疑で指名手配されるが、東京方面に逃亡したが逮捕。
出獄後、保護事の紹介でマッチ工場に勤務。徴兵を逃れるために、命がけで、煙草を煎じた溶液を飲む。体調不良で徴兵検査不合格を言い渡された帰り道立ち寄った食堂で、偶々、同類と思しき男とであった。うどんをすすっていた男は顔をあげて、椎名に向かってニヤッとした。ココまでが自叙伝的痛快悪漢プロレタリア小説である。
その境遇を描くことが、結果的に、形としてはプロレタリア小説を引く継ぐことになっているのだが、在りのままの現実は、周囲の人間より飛びぬけて頭が良すぎて、機転が効くと周りの人間が全部バカに見えるのか、己の境遇において自由奔放ぶりを発揮している。恋も世事も意図した事は何でも達成される。壁は国家権力だけだった。だから、痛快悪漢プロレタリア小説なのである。
 
       
   
       第20章  針金の垣根  W.一遍の抒情詩である。 樹木、草花の名前が的確に出てくる。
栽培のためには肥沃な土壌を作り出す必要があった。同志たちは深い穴を掘り、深いところにあるシルリア紀粘土が出るまで掘り続け、それを掘り出し、砂利や腐食度と混ぜ合わせて上等な混合度を作った。
空になった穴の方に石灰や余分な砂利や、空き地全体を汚していたごみ屑を投げ捨てた。
  この実に膨大な予備作業が済むと、創造が始まり、私がその現場をのぞき見することは禁じられていた
ーー同志たちは私に思いがけない贈り物をしたかったのだ。
 その時が訪れると、彼らはいった。
『ヴェーラ!行ってごらんよ』
 
私は憲兵たちに連れられて、以前には乱雑二を極めた光景の中でいつも見ていた、あの禁じられた場所に行ったときには、もう黄昏時だった。
ななかまどの木の近くに私は庭園を見たのだった。
ソレは灌木の茂みと花壇のある本物の美しい小庭園だった。花々があちこちに咲いていた。
 背高なユリはギザギザのついた小つぼ状の黄色い花を、おだまきは縮れた薄紫の花冠をつけていたし、白いなたぼこの傍らなでしこが紅に燃え華やかなダリアが深紅の頭を垂れていた。周りではスイカズラが、鳩色の、薄緑色の葉でライラックの暗いつやつやした緑を陰らせ、羽毛状の葉と赤い実の大房をつけたななかまどの古木全体の冠となっていた。
おお、奇跡だ!
本物の庭園のように、この小庭園は簡便な針金の垣根で囲い、残りの空間から仕切っていた。
 一日の終わりの穏やかな光の中で、暖かい空気ともくせいそうの芳香に包まれながら、私は物思いに沈んで立ち、眺めていた。
本当に美しかった。---そして、本当に悲しかったーー目の前には庭園があり、花々があり、針金の垣根があり、周囲には要塞の高い城塞があった。
定かならぬ感情の波が胸の内に高まり、おもわず涙が目からあふれ出た。
『どこからこの涙は流れるのかしら?なぜ私はなくのかしら?』--悲しみの原因が分からずに、思わず私は自問し、そしていぶかった。
     
 
 
>自由から奪い去られたイメージが、意思の努力によって、隠された暗い記憶の深みから浮かび上がってきたのだ
これらのイメージは埋葬されていたのであり、沈められた底の方から表面に今、浮かび上がってきたのであり、死者とになされたことに涙を持って抗議したのだ
  
W。以単なる文学的感傷ではない。丸山真男は意識に潜在する古い文化的記憶が、ある条件下において、突然、浮上する、日本的政治現象の本性としているが、ここではその構図と共通するものが簡潔に述べている。メディア、文化教育など政治的上部は各々の目的に沿って、絶えず個人に起こるこういった現象を集団化させようとするのである。ねじれ、ズレ、行き違いが生じる政治現象に対して、経済構造との関係で歴史ブロックの概念が適応できる。                

                            
     
  
 
    第22章  本と雑誌 W。第20章のフィグネルの末尾の思考、問題意思とのつながりで読み込める
 1895年~1896年冬にガンガルトは、雑誌『ノヴォエ、スロヴォ」(新しい言葉を製本作業所に手渡した
新しい言葉!
15年前に私たちが次第に世間から離れていくようになって以来、過ぎ去った全期間を通じて私たちは新しい言葉を聞きことはなかった。
1887年と1888年に私たちのところへ行ってきた最後の人たちも、いかなる『新しい言葉』ももたらなかった
ところが雑誌の誌面から新しい言葉が雪崩のように落下してきて、私たちの意沈滞した生活をかき乱したのだ。
育ち始めたばかりの熱烈な思想が、その雑誌の中で私たちの貴重なナロードニキ主義の諸原理に挑戦していたのだ。
 
農業共同体に対して猛烈な論難が浴びせかけられ、それに代わって個人の自由なイシニシアティブが掲げられ、不可避な高利貸し資本と不能階級による結果的には好ましい資本の原始的蓄積が賛美されていた。
百姓(ムジーク)が「工場の大がまの中で煮られることによって社会主義者となるためプロレタリア化されなければならなかった農民階級は、小ブルジョア的と宣言されいた。
登場したロシア社会民主主義のこれらの新しい言葉は、突然私たちの間で思想的爆弾として作用した。
 
>1884年の社会民主主義潮流の最初の芽生えは全く目立たないものだったし、ロシアでの資本主義の発達は出版物の中でもまだ疑問視されていた。
****************
W、フィグネル逮捕1884年
W、レーニン「ロシアにおける資本主義の發展」(1899年)引用 http://seiji.heartful-zeirishi.biz/archives/96
副題~「大工業のための国内市場の成立過程」 W未読
 
1890年代のおわり頃におけるロシアの経済組織、その発達、特に資本主義諸関係の構成を科学的に研究」レーニン1895年年12月に逮捕された直後、獄中において本書の執筆を始め、98年の暮にシベリアの流刑地において書き上げた。」
各省のタイトルの簡単な解説を読むと、資本主義のものすごく初歩的、基礎的な経済単位の発展原理を説明するところからロシアにおける資本主義の発達を解き明かそうとしている。この書はマルクス主義の理論家としてデビューし地位を獲得する野心に基づくものである。そこまでの基礎的な説明はいらない。
「第二章においては、おびただしい数の統計資料を基礎として農民層の分解が明らかにされている。卽ち、農民の階級分化の過程、――一方からは富農、他方からはプロレタリア乃至は半プロレタリア形成の過程が考察」
肝心なところでは抜群の構成力を発揮して、(農村共同体を社会主義の重要な基盤とするナロードニキに対して農民層の分解=富農層と労働者化半労働者化の実証を対置)で、統計数値をコレでもかこれでもかと出して読者に全体のイメージを固めさせていく手法=(「帝国主義論」)、はこのころからだったのか。
しかし、人民の意思党の後継政党、社会革命党は、かつての自己犠牲的戦いの威光にして漠然とした労農連帯路線を提示する。
1902年のレーニン「何をなすべきか」の組織論をもっと簡略にした「一同志にあてる手紙」では、人民の意思党の中央集権組織の壊滅の教訓を生かして、中央に集中した党の独自の政治新聞によるメディア配布網の確立発展とソレを受け、配布し戦う各党員の所属する独自に責任ある戦闘単位の任務分担を明らかにしている。
しかしこうした組織形態は外面的に人民の意思党の中央集権とどこが違うのか、という問題がある。
ロシア社会民主労働党の分裂の直接の原因はこの組織問題である。
大衆運動面では経済主義との分岐ともいえる。レーニンは「何をなすべきか」の中で大衆から自然に沸き起こる労働条件、生活の改善などの経済的戦いの限界の実情を指摘し、その戦いの外側から、社会民主党の全ロシア的ヨーロッパ視野に立った政治観点はたらされるとしている。
コレが外部注入論といわれ、実際に文中でも外部から持ち込むことが強調されている箇所があり、よく批判の的になっているが、この観点はレーニンの発明ではなく、ドイツ社会民主党の公認理論である。当時の教育水準では戦いの中に社会主義の思想を持ち込み啓蒙宣伝の必要があった。まして農民(ムジーク)人口が圧倒的的多数派を占めるロシアである。
 実際の戦いの現場の社会民主党員からすると、最前線で戦わなければ、社会民主主義の宣伝にもならないと云う現実がある。
戦いの現場の大衆にとって、経済主義者と社会民主党員の区別はない。戦いに貢献しているかどうかの違いである。
そうすると、結局は、戦いの現場でレーニンの指摘する組織単位に入っているかどうかの問題になる。
レーニン的組織に反対する組織論では、現場の組織に属さない社会民主党者でも党員としての資格がある。なので、そういう基礎単位に属さない党員が、ソレ自身、限界ある経済主義の戦いと宣伝を全土でやれば、社会民主党の党としてのコントロール機能が低下し、国家権力との有効な戦いができない。ロシアの国家権力との戦いは、労働運動の主たる側面である労働条件の改善などの経済闘争の激発化の延長線上ではなく、農民、兵士なども含めたロシア全人民の政治闘争として実現される。
しかしこの組織形態は人民の意思党の中央集権主義を継承発展させたものであった。
ナロードニキと人民の意思党思想の根底には西方社会と比べたときの、ロシアの特殊性、それに基づく戦いという問題意識がずっと流れていた。
 以上、が当時の実情を踏まえた再解釈である。
 
 フィグネルの指摘する社会民主主義の観点は、経済主義のものであるが、当時において、そういう経済主義が間違いだったとは云えない。ロシア社会民主労働党の組織の中身に違いがあった。
フィグネルの指摘する社会民主党の議論はロシアの資本主義の発展が発展すると次のようの変化する。
遅れたロシアの西方経済のような経済発展コースによる農民分解の延長線上に労働者階層の増強、労働運動の発展、ロシアの民主化、その制度の確立を経て、労働者と農民の連合による政権を展望する。
コレに対して農村の中へ運動の挫折後、ツァーリ国家権力による資本主義化を力で打倒しようとしたフィグネル等獄中人民の意思党が反発するのは当然のことである。彼らは西方資本参加によるロシア資本主義発展の下での農村共同体の貧富への分解を考慮する余地はなく、激烈な戦いの過去を肯定するために、昔のままに固定化理念化していたかった、のである。
圧倒的に農民層の多いロシアでは労農連合を掲げて、通用した。
*************
 
要塞監獄の外では全革命戦線に渡って、猛烈な論争のあらしがあれくるっていたが、反響は私たちのところに届いてこなかった。
~百姓(ムジーク)がその中で煮直さなければならない工場の大なべが、私たちの頭上で煮えたぎっていたのだ。
不快な点や腹立たしい点が多々あり、また極めて辛辣な点が多々あって、自尊心や、愛する思想と人々に対する敬意を傷つけた。
>雑誌から受けた印象は、云わば、底深いショック、貴重きわまる思想や信念に打撃を加えた。
>ただちに私たちの間には様々な陣営が現れた。
ーーある人は勝ち誇り他の人たちは侮辱を覚えた。
ルカーシェビッチとノヴォルースキー~3月1日を繰り返そうと試みた1887年のテロリストたち~『人民の意思』党の戦術には従いはしたけれどの社会民主主義者だったのだ、と言明した。そのあとの時期の人民の意思党に所属していたポーランドの同志は彼らを支持した。~W、ココまでは、最後の執行委員フィグネルが逮捕された1884年以降の党組織がズタズタに分解した後の人民の意思党員である。
モローゾフも彼等に加わった。~W、獄中で理論物理学の論文を執筆し、獄外の評価を得る。出獄後物理学者としてレーニン賞受賞。
それ以外の『土地と自由』と『人民の意志』党のナロードニキは彼等に対立した。
 
>そこで、この時期に獄外の世界で起こっていたことを縮図的に繰り返す議論、は白熱の論争が始まった。
各人は自分ののっぴならないものを擁護し、あるものは恨みの苦渋を論争の中に持ち込み、他の人たちは勝利を信じる熱気、~を論争の中に持ち込んだ。そして私たちの学者、私たちの客観的で慎重な自然科学者であるルカーシェビッチがもっとも毒舌的なけんかっ早い論争家だった。
 
>事態は遂にあまりにも激化してきたので、ある日、私はたまりかねてこう言った。
>『皆さん!私たちが置かれている状況の中で私たちの間の理論的な論争よりも平和の方が重要です。私は私たちの論争を中止するように提案します。』
 
これらの言葉が私たちのあれくるうちっぽけな海に落ちた一滴の油となったのか、
それとも、今すぐお互いに相手の意見を変えさせることはできないし、雑誌から知ったことが自然に収まりの付いてくるのを待つ方が良いと誰もが悟ったのか、それ以来意見の相違は消えなかったたが、緊迫感を失い始め
戦闘的気分は終焉した。
~後になって私たちがどんなに激しく熱中したことか、ルカーシェビッチが共同体的土地所有の支持者である私に対してどんなに悪辣なっ攻撃を加えたことか笑いながら回想したのだった。
 
カルポーチはが1901年わたしたちと知り合った際に次のように語った。
『誰もが時代の精神に冒されています。ひとりポポフだけがナロードニキ主義の支柱のように立っています
 
 
             第24章  18年後
20世紀に入ると、ペテルブルグの最高当局者は、彼等から39キロ離れた要塞の中に重大な国事犯たちが収容されていることを、まるで忘れてしまったかのようだった。
これらの当局者は私たちのことがなくても仕事をいっぱい抱えていた。
社会民主主義運動の強力な発展、間断ない学生運動、このころ生まれ自己の存在についてた声をあげた工業プロレタりアートの政治舞台への登場が政府の注意をひきつけたのだ。革命は断固として街頭に出て、赤旗がロシアの諸都市の広場に掲げられた。--
80年代初めの一握りの人民の意思党員のことなんか考えていられようもんか!
 
>監獄内で私たちの囲いの境界内で。私たちは情勢の主人公となった。~~看守長が怒鳴ったったと云うのではなく、彼の方が怒鳴られたのだ
~~
 
>トリゴーニが出発する前のある日語った次のような言葉がどんなに痛みを覚えさせたかを私は覚えている。
彼はこう言ったのだった。
『僕たちの中の誰ひとりもう激しい抗議をやる能力を失っていますね。--』
>そうだ。疑念が生じたのかもしれないーー。精神の火が消えいたことに対する疑念が
 
しかし、圧政と妥協しないこの精神を何に対して発揮すべきだったのか!何に対して抗議すべきなのか?
>何を勝ち取るべきなのか?内を目指して戦うべきなのか?
 
*生活はそういうことをする理由を全然与えていなかった
*私たちは、ちょうど嵐にあって、果てしない大洋の中の忘れ去られた無人島に打ち上げられた人々に似ていた。
*一握りのロビンソンたちに残されたのは、後に人類に再び結びつく希望もなしに、
*できる限り自分たちの知力を維持し、労働の平和な畑を耕すことだった。
 
*忘却の覆いが私たちの心の上に垂れさがった。
*1902年に私を含む多くの人たちのとって逮捕以来、20年が過ぎた。何名かの人たちはそれ以上の年月だった。
*20年前当時の記憶にあったとおり覚えてていたら、生きながらえることはできはしないだろう。
*精神の原理は次第に生命を維持するように順応していった
*長くて辛い順応の時期は終わり、死にもせず、自殺もせず、発狂もしなかったものは平衡状態に達した。
*時間は出血個所を覆ったーー
*つまりそれは忘却されたか、もしくは忘却されなかったとすれば、意思の力によって塞がれるかしたのだ。
*焼けるような苦しみは克服された。心はすっかり落ち着いて、何もかも忘却の彼方に去ってしまったのに対して、
*一方、世界全体の方でも私たちを忘れ去ってしまったように思われた。
首都の当局だけでなく世界のすべてが私たちを忘れ去ってしまったのだーー
肉親たちが覚えているとは信じられなかったーーなにしろ私たちの方でも彼らを忘れていた訳だから。
私たちを直接知らなかった人たちの記憶に、私たちをの名前が保たれているなど信じられなかった。
 
W.以上のような状況、想いの中から、第25章 肩章事件が発生する。 前回の記事に詳しく載っている。
 
      第28章  約束違反
『皇帝陛下は~母親の懇願を聴許あらせられ~貴殿の無期懲役を懲役20年に減刑する旨しちょくあらせられました。』
そしてしばらく沈黙した後で、次のように付け加えた。
『継起は1904年9月28日に満了します。』
 
母があのしっかり者のとこ勝りの私の母が、どうして私のために赦免について懇願するなどということができなのだろうか。
涙一つ流さず、弱気をちらりとも見せずに、母は二人の娘を相次いでシベリアへ送った。
>また私と別れたときは、私のために減刑も願い出るようなことは決してないと約束したのではなかったろうか?
自分自身に対するようにわたしが頼りにしていたその母にいったい何が起こったと云うのだろう?
 
>母は手紙をよこした、別れの手紙をよこした。--母は危篤でーー3か月の病床に伏したままでーー二度の手術を受けたと書いてきたのだ。がんの手術だった、と妹たちの添え書きがしてあった。
ーーそして差し迫る死期、
~~
母は実にたくさんなことを私に与えてくれた。ところが私のの方は母に何を与えたのだろうか?
~~
今は決算のときが来た。
 
       
      
         
 W。終了した。