反俗日記

多方面のジャンルについて探求する。

村上春樹と司馬遼太郎、三代目古今亭志ん朝 - 井戸の茶碗 - 宋珉の滝

司馬遼太郎に目を通してみることにした。
確認作業のようなもので、元々評価は低く、相手にしていなかったが、「反俗日記」を書きながら、幅広い方面の資料にあたっていく内に、司馬遼太郎村上春樹それなりに評価すべきではないかと思えるようになった。それなりに評価という意味は、いつの時点かは判然としないが、付加体列島日本では、自分の価値基準からすると、トンデモナイ低次元、稚拙な作家が跳梁跋扈するようになり多大な読者を獲得している現状があると知って、ソレらの輩と比較すると、作家として次元の違う程、マシなんじゃないかと思えるようになったからだ
18歳ごろから、志して小説は読まないことにしてしまって、人生の一番肝心な時期に小説類に一切、目を通したことがなかったので、偉そうなことは言えないのだが、無理を承知で。
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 こんなものが小説かという次元の作品が芥川賞。ひと時の流行作家の小説に少し目を通してみると、こんな文体でよく小説が売れるなと感心する。ただ、大手出版社の流通ルートに乗っただけじゃないか。
読む方にも問題あり、としか思えないが、エンタメ情報の一種として、様々な分野と横一列に並べて読み飛ばしている、とすればわからないでもない。小説世界崇拝はもとより、活字が情報のど真ん中に入る時代は過ぎ去った。
 
 しかし活字エンタメの一種として楽しむのであれば、本屋で手軽に買える作家の本でなくても良いはずだ。
時系列の横一列で本を選択する方法もあれば、縦一列に並べて、選択して楽しむことも今では可なのだ。
 
AMAZONの古本を注文すれば届けてくれる。足を延ばせば、図書館に一杯、面白い本がある。そうすると、過去の作家の力量から、今の作家事情が判断できる。
 

百田尚樹 - Wikipediaなどという身の毛のよだつ輩がいる。
先般、「冬の兵士」反戦イラク帰還兵の会の関連でモサディク首相のイラン石油国有化問題を調べると、日章丸事件 - Wikipedia と出光佐三 - Wikipediaが気になっているのにすっ飛ばしたことに気づき、詳しく調べてみた。
 
すると、百田著海賊とよばれた男が170万部も売れたベストセラーと載っていた。
この本の中身は、日章丸事件 - Wikipedia と出光佐三 - Wikipediaを閲覧しただけで、おおよその見当はつく。
あざとい男だなぁ~、と吐き気のする想いがした。もちろん作家として目の付けどころである。
この手の材料をつかって、単純な意味でライターとしての力があれば、小説はそれなりに売れる時代である。
愛国エンタメの読者層は厚い司馬遼太郎歴史小説の読者層と重なる部分のあるが、現代のことをテーマにしているので、余分な想像力は必要でなく、熱気だけをモチベーションにしても読める。
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この作家は特攻隊のことを絡め手のあざとい手法で書いている
その底流はアベと同じだ。
若年兵士を国策として大型爆弾代わりに使用したトンデモナイ分首脳部の国民に対する政治責任問題を無視し、軍事レベルから言えば、あまりにも悲惨、あまりに可哀想な現実を無視して、浪漫派文学情緒に勝手に浸って、賛美する安易かつ当事者能力欠如の無責任な政治思想が流れている。
 
(戦争中に国家の指示でやればテロとは云わず特攻攻撃、原子爆弾を2個も頭上で爆発させてもソレが戦争だと云う人たちに、テロを一方的に避難する資格はあるのか、もちろんずっと前に日本の若者がイスラエルでやった行為も間違っている。当時の日本の学生運動はあそこにわざわざ出向いて、あんなことをする到達段階ではなかった。テロは大衆意識を委縮させる効果が主である。)
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 何を考えようと何を書こうと自由であり、とやかくいうことではないが
政治権力と大ぴらに流布している刊行物から発信されている限り、徹底批判しても良い。でなければバランスが取れない。ヤジロベエが中心に止まらない。
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 もう一点、この特攻隊を題材にした小説があざとい、と決めつけるのは、若者世代、中年世代、戦争世代をまたにかけて、過去の戦場記憶を蘇らす、その手法は、村上春樹の「ねじ巻き鳥のクロニクル」の手法をそっくりそのまま使っているからだ。しかし、村上春樹の「ねじ巻き鳥~」は小説全体としては文学作品とは?だが、文学的描写力は稀有なものがある。
 
 この手法に影響力を与えたのは三島由紀夫の小説のそういった類であろう
小田実を読んでいたら、プロレタリア文学や左翼小説があるように、右翼政治小説というものもある、として挙げていた小説をたまたま読む機会があったので、我慢して読んでいるうちにその失敗作振りにあきれてしまった。
神社に集まった人たちが、若い神主の祝詞によって、2,26事件の叛乱軍兵士たちや当時の昭和天皇の幻影と魂が呼び戻され、遂には究極の政治問答にまで発展し、盾の会や何やらの三島の政治世界が開陳される。
 
 自衛隊出身の日本ペンクラブ会長の浅田次郎さんは、昔読んで泣けてきたというが、その小説で三島のいう政治論は解らないではないが、小説としては読者に小説世界を提示していない。ならば三島としては筋道の通った論文をしたためた方が自己の論理がはっきり自覚できて、良かった。
筋道の通らないことは、論理としてだけではなく感覚として、受け入れられない層が敗戦後形成されてきたし、今もそうでなければならぬ。
そういうことで、なるほど、右翼政治小説というのもある、と納得した。

村上春樹、小説を読むといまだに納得しかねるが、彼の作品が、あんなに無国籍スタイルになっている事情は痛いほどよくわかる。
村上春樹世代は<世界>を始めて全身に受け入れた世代だったのだ。頭の方だけではなしに全身に<世界>受け入れた。その世界は、その前の世代のように、アメリカだけではなかった
 
もはやエルビスプレスリーはヒーローではなかった。脇に押しやられた存在になっていた。ビートルズがいてローリングストーンズがいて、アメリカでビーチボーイズがいた。彼等に伍して、イタリア、フランスのポップスが洋楽ヒットパレードに何時も流れていた。ラテン系の音楽に常に接することもできた。その道の通はJAZZやブルースに詳しかった。伝統的なカントリミュージックやブルーグラスの愛好家も結構いた。アメリカンフォークソングに影響されて日本にフォークブームが訪れ、カバーリングしているうちに自分たちのフォークソングを作るようになり、日本型プロテストソングを歌うようになった。
 
ヨーロッパもあれば、中国、東南アジア、南米など、本当の全世界だ。その世代から10年ほど前に<全世界を獲得せよ!>というの戦いの前線の最初のスローガンは、10年後の世代の最先端の実存を突き抜けた。
レーニンロシア革命絶対の時代ではなかった。毛沢東ゲバラ、パリ5月革命、アメリカのヒッピー運動と反戦運動チェコポーランドの民衆決起もあった。
 
村上春樹の無国籍小説は、こういう時代を生きてきた彼の生活感に根ざしたものであって、とってつけたような外国かぶれではない。村上夫婦はバブル期の後にして、そのまま外国暮らしを続けている。
村上春樹は日本よりもヨーロッパやアメリカの方が水に合うのである。
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しかし、病臥に伏す時期になって、最終的な全貌が明らかになる。人間の根本は生老病死なのだから
大橋巨泉さんはカナダ、オーストラリア、ニュージーランドの永住権取得者で向こうで仕事もできる税金も納めて
健康保険にも加入して病院で病気の治療も受けられる日本人として特殊な身分のヒトだが、日本の自宅に帰って、生老病死の死後の段階を迎えている。
どうしてそうなのか、その次元から問題課題を立てることが、グローバル資本制の時代に大切になってきている。
多分、村上春樹ははっきりとこのことは意識しているだろう。
かれは外国で病臥に伏し、死期を迎えるだろう。
 
日本に住んでいても頭の中に日本がない人々はかなりいる。インターネットで世界が開けてくる。英語がスラスラ読めると、日本初の情報など完全に相対化される。
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価値判断の基準が大きく変わってきて当然であるが、村上無国籍世界は歴史的日本人であり、孤立言語日本語で表現されている限り、ねじれた、ある意味で純日本的現象といえよう

記事作成の制限時間も少なくなっているので、安直にいえば、村上春樹司馬遼太郎を足して二で割ったような無理なく融合した世界が、この付加体日本列島原住民に求められている。
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付け加えておくと、同じ日本固有の世界を取り上げても司馬遼太郎百田尚樹の世界まで踏み込むことはなかった。
この点に彼には厳しい節度があった。戦争に従軍し、敗戦日本を目の当たりし、体験してきた者にとって、
絶対に譲れぬ一線があった。百田尚樹の譲れぬ一線は司馬遼太郎が毛嫌いする日本の軍国時代と現在の国家主義への挑戦への対抗意識であるので、彼の好む方向に野放図に暴走できると云う都合のよいよい表現の自由の立場を手に入れている。そればかりか政権によって権力ある地位も得ている。
 
>彼が称揚の対象としているものは強固だが、破壊の対象としているものは弱く、脆く、崩れやすく、
結局のところ
このグローバル資本主義に渦中で、多くの人を守る具体的な制度、政策、空気、団体である。日本ではそうしたものは敗戦によってもたらされた。
 
司馬史観モノを読めば一目瞭然であるし、自作の歴史小説の限度を、ノモンハン事件までとしていた。作家としての良心と厳格な品性、自制心は、その後の日本の時代を書けば、対談や座談会の席で語っている、軍部批判を展開するしかなかったからだし、その時代に彼を魅惑し、創造力を掻き立てる人物は存在しなかったのだ
 
何を行っているのか自分でもはっきりしないのだが、少なくとも、司馬遼太郎村上春樹は評価できるようになった。
拙い『~日記』を綴ってきた成果であるが、我ながらその程度のモノと自覚しなければならないとあためて思う。学ぶためには、この方法しかなかった。設定している課題が自分を超えすぎて、あらためて自分の書いた記事を前にするとき、なにを書いたののかすべて忘れてしまっている事実を知ると愕然とする。ノート、雑記帳の類でしかないと自覚しているが、書かねばならないはっきりとした理由はある。

司馬遼太郎全集(文芸春秋)第3巻「竜馬が行く 1」
故郷の土佐を離れ江戸に向かう旅路。山々を超えて、山中の阿波池田に出て四国の大河吉野川下って阿波の先端から鳴門海峡を渡って、浪速に着く。竜馬のこのルートに興味がわいた
土佐の国司になった紀貫之の帰京の旅路は『土佐日記 - Wikipedia』によれば、陸上ルートではなく、船に乗ってそのまま太平洋沿岸を通過した。「紀貫之土佐国から京に帰る最中に起きた出来事を虚構を交えて綴ったもので、成立は承平5年(935年)頃」
12月21日国府(発)高知県南国市比江周辺
1月12日室津
 
W。長文の論評がエラーで消滅
 
キーポイント。
竜馬が海上ルートをたどれなかったのは鎖国政策のためである。年貢米などの貴重な物流はOKだが、一般旅客輸送は禁止されていたと想定する。中国清朝の解禁策もしかり。
 
司馬遼太郎の長編小説歴史資料を自由に解釈しすぎて、歴史的事実を重視する者には、耐えきれない
 
「竜馬が行く」は歴史小説家の資料の奔放な解釈が多すぎて、自分のような入魂して読めないものには駄作にしか見えない。
 
>司馬には「竜馬が行く」より面白い長編小説はある。ソレは戦国時代をあつかったものであろう。
功名が辻」の方がテーマとして小説的であり、面白い。
 
>司馬作品の良し悪しは舞台設定如何による
 
>歴史は現時点から時代が離れるほど、小説的自由解釈は広がるが戦国時代までが限度。司馬は戦国時代以前の歴史は無視して良いとまで云っている。
 
>司馬の真骨頂は中編、短編小説にあり。時系列を短縮できるので、歴史資料の余計な自由解釈によるディテールのでっち上げは必要でなくなり、物語は凝縮されて、歴史小説家、物語作家として司馬の腕が冴えわたる。
作品の完成度は稀有であり、この面で天才だった、納得する。

②同上 第8巻「尻~W、初めて身にする漢字、読めない、~え孫市」500ページの長編小説、鉄砲集団で有名な紀州雑賀党の首領、孫一を主人公の波乱万丈の生きざまを辿り、織田信長、秀吉、一向宗本願寺勢力などを絡ませた司馬遼太郎独特の語り口の冴えわたるの壮大な歴史絵巻である。
 
歴史小説の舞台設定として、コレ以上ない。歴史に興味を抱く者にとって雑賀党は気になる存在であり続ける。
現在の歴史学の動きは大きな歴史よりも郷土史や歴史の社会風俗研究から歴史を語る方向に向かっている。
孫市」500ページの長編は郷土史てレベルの資料研究成果に基づいて、小説を書いている。歴史マニアでもある司馬にとって興味わく歴史舞台であった。
元々この辺の歴史資料は一般化していないので、司馬流、小説的飛躍にも違和感がなく読める。あまり知られていない歴史地理を知る楽しみもある。
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全集8巻の短編は計9編 約200ぺージ弱  1編 20ページ 短時間で読めて、物語がもたらす最高の感動を読者にもたらすから不思議である。
 
歴史的事物にはその時代の固有な呼び名があるが、その原型を崩さず、現在の読者に違和感なく物語世界に溶け込めるように巧みに変形している。
会話も時代性がうかがえて、読者が全面的に受け入れ、人物の個性が際立つように仕組まれている。
物語の天才であるとしか言いようがない。
 
各短編のタイトルだけをみると、何のことだ、思われるが、小説としての舞台設定が絶妙で、物語の進行は博識による事実を抑えながらなので、先を急ぐ無理なストーリー展開がない。主人公たちは実に人間的存在でありながら突き抜けた爽やかさを持っているので、読者はこころを寄せて、先のページに進む
 
*言いふらし団右衛門
*売ろう物語
*侍大将の胸毛
*雨おんな
など

司馬遼太郎の短編小説の本領に似ている<芸の術>は、こういうところにあるのではないか、と漠然と思っている。列島原住民の深層心理に届くところがある。
 
 
三代目古今亭志ん朝 - 宋珉の滝
 
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古今亭しん朝 二番煎じ 
 
志ん朝  『そば清』   rakugo 
        575,493←枕が面白い。即興だろう。
 
 
 
   <追記>
百田尚樹の小説には全く目を通したことがないので、記事のタイトルに入れることを控えた。作品を読まないで批判するのは人物批判である。
しかしすでに政治的存在になっているし、本人もそのつもりのようだから批判の対象にはなる。
 
 作家 百田尚樹の名前は、この前の東京都知事選挙、田母神候補の応援者として初めて知った。
そんな作家が日本でいるとはまるっきり知らなかったし、NHK経営委員に就任したことぐらいは知っているが、メディアを通じて何を行っているのか、一瞬でも見たことがない。関心がない。
自分にとって、AKB47のような存在である。その一員を20秒ぐらいテレビ番組の中で見たことがある。