W。白樺派 - Wikipedia(1910年創刊の同人誌『白樺』。武者小路実篤と志賀直哉が発刊~W。志賀直哉の妻は武者小路の妹) 志賀直哉 - Wikipedia (1883年- 1971年) 里見とん - Wikipedia (1888年- 1983年) 武者小路実篤 - Wikipedia(1885年- 1976年)は は共に長寿。天寿を全うしたとき、共に無宗教の葬式をした。生前に決めていたのだ。
W。ロシアナロードニキ運動が人民の中へ運動のツァーリ体制の圧殺による挫折から、一転、人民の意思党のツァーりの頂点へのテロ攻撃にいたって、執行部の壊滅、ヴェーラフィグネルの最後に残った党執行部として、党再建に汲々とし、スパイにはめられ逮捕される1884年の1年前。
魯迅 - Wikipedia 1881年 - 1936年1)
グリム童話 - Wikipedia 812年に初版第1巻が、1815年に第2巻が刊行
>ヤーコプとヴィルヘルムのグリム兄弟が編纂したドイツのメルヘン集である。正式なタイトルは『子供たちと家庭の童話』
トーマス・マン1 1875年6月6日 - 1955年8月12日)
ロシア文学史上の作家たち
イワン・ツルゲーネフ - Wikipedia 1818年 - 1883年9月3日
フョードル・ドストエフスキー - Wikipedia 1821年1- 1881年
志賀 太宰君のポーズは、弱い所から来ているね。
佐々木 ええ。
志賀 まともにゆくよか、ちょっと横へ身を避けてゐないと、不安だといふやうな・・。
佐々木 ええ。それと非常に見栄坊のところが・・。
志賀 だから、当人とすればそのことにも言ひ訳があるかも知れないjけどね、しかし読まされるはうは、愉快でないからね。
佐々木 わざとやってるのではないんでせうきっと。いはばああいふ逆説的なスタイルやポーズを取ることによってしか、レアリティを出すことが出来ない、つまり正攻法で押して行けるだけの自我の実体が稀薄になってゐるといふ時代的宿命を負った作家のやうな気がします。然しあれで、太宰はだんだんもともな行き方を取るやうになりつつあるやうにも思われます。
志賀 さうかね。
中村 つまり、まともからもやれる、わきからもやれる、しかし自分はわきを選んだ、さういふことではないんでせう。
志賀 それは実生活でもさういふひとがあるね。だけども、どうもそいつはあんまり珍重すべきことではないな。
佐々木 ええ。
チャールズ・ディケンズ (1812年 - 1870年) シャーロット・ブロンテ (1816年 - 1855年) エミリー・ブロンテ (1818年 - 1848年) ロバート・ルイス・スティーヴンソン (1850年 - 1894年) オスカー・ワイルド (1854年 - 1900年) ジョージ・バーナード・ショー (1856年 - 1950年)
レフ・トルストイ - Wikipedia 1828年 - 1910年1。
ヴェーラフィグネル「ロシアの夜」=「遥かなる革命」田坂訳。人民の意思党政治犯専用監獄の収容者の一人は、聖書に目覚めトルストイ的非暴力キリスト教平和主義者になり、釈放された。ナロードニキ運動の末期1880年代後半~90年初頭、トルストイは存命だった。トルストイも広い意味でナロードニキ主義を実生活で実践した。安岡章太郎の「ソビエト感傷旅行」の中で、トルストイの記念館になっている居宅を訪ねて、その慎ましい生活ぶりを目の当たりにして、率直な感想を記している。『トルストイの禁欲的生活に巻き込まれた妻子は大変な想いをしただろうな』。コレが文壇と云われてきた戦後の小説家の主流の精神世界の現実である。太宰治、坂口安吾の志賀直哉批判の根底はココにある。
**
「 太宰治に関する発言
記者 終戦後の文学作品をご覧になって何かお感じになったことをひとつ皮切りに。
・・省略・・
志賀 二、三日前に太宰君の「犯人」とかいうのを読んだけれども、実につまらないと思っ たね。始めからわかっているんだから、しまいを読まなくたって落ちはわかっているし ・・。
広津 太宰君と田村君と、坂口君、ちょうど三つ同じ月に出た小説を読んだが、それは皆わ かっているのだ。そしてその間に目標
みなわかっている。それに向かって無理押しの 駈足を三人がしている感じでね。その競争はせっかちで・・。
川端 「斜陽」を読みましたけれど、別に新しいとか、これまでの人には書けない、という ような感じはありませんね。ただ連想の飛躍みたいなところは独特で面白いけれど・・
広津 新しい旧いを・・。
志賀 何んだか大衆小説の蕪雑さが非常にあるな。
川端 それはこれから出ようとする若い人たちはもっとそうだと思いますね。懸賞小説をだいぶ読みましたけれども、だいたい通俗的ですね。それで作家らしいスタイルというものがありませんし、デッサンが非常に出来ていない。
志賀 デッサンが出来ていない。
川端 大事なところと何んでもないところとの区別がないし、非常に無駄が多い。ところどころにその人たちのぶつかった経験でね、いいところがありますけれど・・。
広津 梅崎君なんていうのはデッサンが・・。
川端 非常にしっかりしているらしいですね。
・・省略・・
広津 「斜陽」というのはいいの?
川端 まあいいと言われているのですね。ところどころいいと思いますけれど、全体として必然性が感じにくいと思いますね。
・・以下省略・・
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
雑誌 「文藝」 (昭和23年6月号:第五巻 第六号-S23.5.20.印刷納本) =P52~P63=
標 題 座談会 作家の態度(一) ― 志賀直哉氏をかこんで ―
出席者 志賀直哉 ・佐々木基一 ・中村眞一郎 (司会は編集部)
場 所 志賀直哉邸(熱海の伊豆山)
実施日 昭和23年3月15日
(注: この時、 志賀 65歳、 佐々木 33歳、 中村 30歳、(太宰 38歳) : 編集部は、杉森久英 36歳)
太宰治に関する発言
・・前略・・
佐々木 この頃、どんなものをお読みになりましたか。中村君のものなんかは・・。
志賀 ・・省略・・それから太宰君の「斜陽」なんていふのも読んだけど、閉口したな。
佐々木 はあ、さうですか。
志賀 閉口したっていふのは、貴族の娘が山だしの女中のやうな言葉を使ふんだ。田舎から来た女中が自分の方に御の字をつけるやうな言葉を使ふが、所々にそれがある。それから貴婦人が庭で小便をするのなんぞも厭だった。作者がその事に興味を持つ事が厭なのかも知れない。
佐々木 あれは最後になってガタ落ちになりましたね。
志賀 あの作者のポーズが気になるな。ちょっととぼけたやうな。あの人より若い人には、それほど気にならないかも知れないけど、こっちは年上だからね、もう少し真面目にやったらよかろうといふ気がするね。あのポーズは何か弱さといふか、弱気から来る照れ隠しのポーズだからね。
佐々木 若い連中には、ああいふポーズが喜ばれるらしいです。
志賀 横光君なんかでも、僕はあのポーズで読めないんだ。あのポーズそのものがいけないのか、ポーズで誤魔化してるのがいけないのか、どっちだか知らないけど・・。とにかくああいふことはやっぱりやらないはうがいいと思ふんだけどね。
芥川君だって、あれほどぢゃないけど、やっぱりさういふことが禍ひしてるだろうね。ポーズといふものも、僕の「矢島柳堂」あれはあれで材料から来るポーズで、ああいふのは仕方がない。
佐々木 「斜陽」なんていふのは、、決して貴族の婦人を書いたからああいふふうになったといふのぢゃなしに、何か自分の抱いイメージを貴族の婦人に托して書いたといふものですね。
志賀 それがうまく行けばいいけどね、山出しの女中の敬語みたいなものが随所に出てくるから、たまらないよ。
佐々木 今の二十代の青年なんか、戦争中から太宰の影響下に育った人といふのが、ずゐぶん多いやうですが・・。
志賀 どうも評判のいい人の悪口をいふ事になって困るんだけど、僕にはどうもいい点が見付からないね。
編集部 「中央公論」新年号の「犯人」は?・・
佐々木 あれは愚作だったな。
志賀 あれは読んだ。あれはひどいな。あれは初めから落ちが判ってるんだ。こちらが知ってることを作者が知らないと思って、一生懸命書いている。
・・省略・・
佐々木 しかし、よっぽど強い人でないと、さういふふうに出来ない所があるんですね。太宰なんかでも、どこか芯の弱いやうな所があって・・
記者 終戦後の文学作品をご覧になって何かお感じになったことをひとつ皮切りに。
・・省略・・
志賀 二、三日前に太宰君の「犯人」とかいうのを読んだけれども、実につまらないと思っ たね。始めからわかっているんだから、しまいを読まなくたって落ちはわかっているし ・・。
広津 太宰君と田村君と、坂口君、ちょうど三つ同じ月に出た小説を読んだが、それは皆わ かっているのだ。そしてその間に目標
みなわかっている。それに向かって無理押しの 駈足を三人がしている感じでね。その競争はせっかちで・・。
川端 「斜陽」を読みましたけれど、別に新しいとか、これまでの人には書けない、という ような感じはありませんね。ただ連想の飛躍みたいなところは独特で面白いけれど・・
広津 新しい旧いを・・。
志賀 何んだか大衆小説の蕪雑さが非常にあるな。
川端 それはこれから出ようとする若い人たちはもっとそうだと思いますね。懸賞小説をだいぶ読みましたけれども、だいたい通俗的ですね。それで作家らしいスタイルというものがありませんし、デッサンが非常に出来ていない。
志賀 デッサンが出来ていない。
川端 大事なところと何んでもないところとの区別がないし、非常に無駄が多い。ところどころにその人たちのぶつかった経験でね、いいところがありますけれど・・。
広津 梅崎君なんていうのはデッサンが・・。
川端 非常にしっかりしているらしいですね。
・・省略・・
広津 「斜陽」というのはいいの?
川端 まあいいと言われているのですね。ところどころいいと思いますけれど、全体として必然性が感じにくいと思いますね。
・・以下省略・・
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
雑誌 「文藝」 (昭和23年6月号:第五巻 第六号-S23.5.20.印刷納本) =P52~P63=
標 題 座談会 作家の態度(一) ― 志賀直哉氏をかこんで ―
出席者 志賀直哉 ・佐々木基一 ・中村眞一郎 (司会は編集部)
場 所 志賀直哉邸(熱海の伊豆山)
実施日 昭和23年3月15日
(注: この時、 志賀 65歳、 佐々木 33歳、 中村 30歳、(太宰 38歳) : 編集部は、杉森久英 36歳)
太宰治に関する発言
・・前略・・
佐々木 この頃、どんなものをお読みになりましたか。中村君のものなんかは・・。
志賀 ・・省略・・それから太宰君の「斜陽」なんていふのも読んだけど、閉口したな。
佐々木 はあ、さうですか。
志賀 閉口したっていふのは、貴族の娘が山だしの女中のやうな言葉を使ふんだ。田舎から来た女中が自分の方に御の字をつけるやうな言葉を使ふが、所々にそれがある。それから貴婦人が庭で小便をするのなんぞも厭だった。作者がその事に興味を持つ事が厭なのかも知れない。
佐々木 あれは最後になってガタ落ちになりましたね。
志賀 あの作者のポーズが気になるな。ちょっととぼけたやうな。あの人より若い人には、それほど気にならないかも知れないけど、こっちは年上だからね、もう少し真面目にやったらよかろうといふ気がするね。あのポーズは何か弱さといふか、弱気から来る照れ隠しのポーズだからね。
佐々木 若い連中には、ああいふポーズが喜ばれるらしいです。
志賀 横光君なんかでも、僕はあのポーズで読めないんだ。あのポーズそのものがいけないのか、ポーズで誤魔化してるのがいけないのか、どっちだか知らないけど・・。とにかくああいふことはやっぱりやらないはうがいいと思ふんだけどね。
芥川君だって、あれほどぢゃないけど、やっぱりさういふことが禍ひしてるだろうね。ポーズといふものも、僕の「矢島柳堂」あれはあれで材料から来るポーズで、ああいふのは仕方がない。
佐々木 「斜陽」なんていふのは、、決して貴族の婦人を書いたからああいふふうになったといふのぢゃなしに、何か自分の抱いイメージを貴族の婦人に托して書いたといふものですね。
志賀 それがうまく行けばいいけどね、山出しの女中の敬語みたいなものが随所に出てくるから、たまらないよ。
佐々木 今の二十代の青年なんか、戦争中から太宰の影響下に育った人といふのが、ずゐぶん多いやうですが・・。
志賀 どうも評判のいい人の悪口をいふ事になって困るんだけど、僕にはどうもいい点が見付からないね。
編集部 「中央公論」新年号の「犯人」は?・・
佐々木 あれは愚作だったな。
志賀 あれは読んだ。あれはひどいな。あれは初めから落ちが判ってるんだ。こちらが知ってることを作者が知らないと思って、一生懸命書いている。
・・省略・・
佐々木 しかし、よっぽど強い人でないと、さういふふうに出来ない所があるんですね。太宰なんかでも、どこか芯の弱いやうな所があって・・
志賀 太宰君のポーズは、弱い所から来ているね。
佐々木 ええ。
志賀 まともにゆくよか、ちょっと横へ身を避けてゐないと、不安だといふやうな・・。
佐々木 ええ。それと非常に見栄坊のところが・・。
志賀 だから、当人とすればそのことにも言ひ訳があるかも知れないjけどね、しかし読まされるはうは、愉快でないからね。
佐々木 わざとやってるのではないんでせうきっと。いはばああいふ逆説的なスタイルやポーズを取ることによってしか、レアリティを出すことが出来ない、つまり正攻法で押して行けるだけの自我の実体が稀薄になってゐるといふ時代的宿命を負った作家のやうな気がします。然しあれで、太宰はだんだんもともな行き方を取るやうになりつつあるやうにも思われます。
志賀 さうかね。
中村 つまり、まともからもやれる、わきからもやれる、しかし自分はわきを選んだ、さういふことではないんでせう。
志賀 それは実生活でもさういふひとがあるね。だけども、どうもそいつはあんまり珍重すべきことではないな。
佐々木 ええ。
W。太宰治の志賀直哉批判は、日本的私小説文学く土壌>の中で<自己のおかれた極限定の状況>を手前勝手に小説化して、世間的評価を得ることによって、<強さ>の自己基準を確立した志賀直哉の方法論が、小説家文学者として世界性普遍性を持っているのかと、当時の時代において、問いただしている。
太宰にとって敗戦は実存を貫く弱さに通底したのであって、志賀直哉的強さは容認できなかった。他方、戦争を身体的多体験で受け止める必要から逃れた志賀直哉世代は、戦中の若い世代の太宰へのシンパシーを体感できず(感受性の強い若い世代がイケイケドンドンを押し通せるはずがない)、それが敗戦によって、極限化した事を受け止められなかった。
どちらも戦前と戦後は続いているのだが、位相のずれは大きい。
文学者ならば、古い世代が、歩み寄るべきだった。
志賀直哉的批判は若い世代には一刀両断の殺法と受け止められる。もっと太宰の作品に入りこんで、作品全体を客観的に批判すべきだった。
この座談に出席してる面々は戦後の中道保守とリベラル左翼が、大正デモクラシー右派志賀直哉を担いで、結局、小林秀雄から、川端康成の道を掃き清めただけに終わった、と結果解釈するしかない。
志賀直哉の場合は、近代化以降歴史的に形成された日本的小説家の特殊性を明らかにしている。
「暗夜行路」のような問題と課題の設定であれば、合理的に考えて、哲学方面の探求が適切であり、長編の散文の架空的物語性にする必要はなかった。
>下記に欧米(イタリアは除外しているが、日本と近い)とロシアの世界文学史に名を残した小説家をピックアップしたが、ドイツでは小説方面の散文の煮詰まりは遅れたが、論理による説得力を重んじる哲学方面へと、物語精神を特化した。散文的な曖昧性、手間暇を省いて合理的に筋道を一直戦に進んだのである。
ドイツよりもっと欧米中央文化と離れたロシアは、ロシア貴族、インテリゲンチァが小説的イマジネーションの世界を切り開いた。イタリアのことは知らないは、日本の志賀直哉的小説は、そうした視線から云えば、未開地域の小説作法にすぎないと、考える。文芸の<術>長けているだけで、そこに、本人たちが想う程の大袈裟な問題はなかった。ソレらは世事において、解決された問題である。とどのつまりは、己に抱え込んだ問題の幅と深度が狭く浅すぎる。
この点を戦後無頼派の太宰、坂口は実感し、戦争を主導した年代への不信感が根底にある世代批判である。
創作物語を設定することで雑事雑念を混入させる真理探究のう回路を作ったのであり、そこにどうにでも解釈する大衆の雑念の混入の曖昧きわまる余地を残しすぎた。jこのことによって、暗夜行路的小説は曖昧なままの内容において、大衆的政治性をおびるのだ。コレが小林秀雄に引き継がれた日本文学の負の側面である。
・・以下省略・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
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太宰治 如是我聞 引用
「一群の「老大家」というものがある。私は、その者たちの一人とも面接の機会を得たことがない。
私は、その者たちの自信の強さにあきれている。彼らの、その確信は、どこから出ているのだろう。所謂、彼らの神は何だろう。
私は、やっとこの頃それを知った。
家庭である。
家庭のエゴイズムである。
それが結局の祈りである。私は、あの者たちに、あざむかれたと思っている。ゲスな言い方をするけれども、妻子が可愛いだけじゃねえか。」
私は、その者たちの自信の強さにあきれている。彼らの、その確信は、どこから出ているのだろう。所謂、彼らの神は何だろう。
私は、やっとこの頃それを知った。
家庭である。
家庭のエゴイズムである。
それが結局の祈りである。私は、あの者たちに、あざむかれたと思っている。ゲスな言い方をするけれども、妻子が可愛いだけじゃねえか。」
***
坂口安吾 志賀直哉に文学の問題はない
「志賀直哉という位置の安定だけが、彼の問題であり、彼の我慾の問題も、そこに至って安定した。
然し、彼が修道僧の如く、我慾をめぐって、三思悪闘の如く小説しつゝあった時も、落ちつく先は判りきっており、見せかけに拘らず、彼の思惟の根柢は、志賀直哉という位置の安定にすぎなかったのである。
彼は我慾を示し肯定して見せることによって、安定しているのである。
外国には、神父に告白して罪の許しを受ける方法があるが、小説で罪を肯定して安定するという方法はない。こゝに日本の私小説の最大の特色があるのである。
神父に告白して安定する苦悩ならば、まことの人間の苦悩ではない。志賀流の日本の私小説も、それと同じニセ苦悩であった。
然し、彼が修道僧の如く、我慾をめぐって、三思悪闘の如く小説しつゝあった時も、落ちつく先は判りきっており、見せかけに拘らず、彼の思惟の根柢は、志賀直哉という位置の安定にすぎなかったのである。
彼は我慾を示し肯定して見せることによって、安定しているのである。
外国には、神父に告白して罪の許しを受ける方法があるが、小説で罪を肯定して安定するという方法はない。こゝに日本の私小説の最大の特色があるのである。
神父に告白して安定する苦悩ならば、まことの人間の苦悩ではない。志賀流の日本の私小説も、それと同じニセ苦悩であった。
だが、小説が、我慾を肯定することによって安定するという呪術的な効能ゆたかな方法であるならば、通俗の世界において、これほど救いをもたらすものは少い。かくて志賀流私小説は、ザンゲ台の代りに宗教的敬虔さをもって用いられることゝなった。その敬虔と神聖は、通俗のシムボルであり、かくて日本の知性は圧しつぶされてしまったのである。」
W。志賀直哉「内村鑑三先生の思い出」の最後の部分は、内村のところに出入りしなくなった契機を具体的に書いている。
引用。 「内村鑑三先生の思い出」 昭和文学全集3、小学館 P321
「私が『大津順吉』と云う小説に書いた家庭生活のごたごたした事で、先生のところに行ったことがある。
W。父母親戚に反対された結婚の選択の相談。相手は武者小路実篤の従妹(夫と死別し、一人の子持ち)。
>先生は周囲の者がだれも認めいないうちに夫婦関係ができれば、それはやはり罪だと云う意味のことを言われた。
>わたしは周囲のモノが認めないのは私を少しも理解しようとせず、ただ世俗的な習慣からそんなことを行っているので、そういうことは私の方から認める訳にはいきません。
(W。足尾銅山鉱毒事件や思想問題での父親との対立は武者小路の子持ちの従妹と結婚まで考えるようになって決定的になった。一連の事態に関する志賀直哉の筋は通っている。足尾銅山鉱毒事件や思想問題での父親との対立は昭和文学全集3収録 短編『山形』において凝縮され、平明な筆致で対立構図を物語っている。「暗夜行路」の次に挙げられているのは頷ける!作家志賀直哉の才能が存分に発揮された傑作である。)
W。以下の例えが志賀直哉らしい。独特のリアル感覚のキャラクターである。一種、フウテンの寅さん的なところがある!期せずしてユーモアの構図を発想できる!太宰治はさすが鋭敏に志賀直哉の不良性、道楽(「方丈記」吉田兼好のスキモノ)をとらえている。志賀直哉は、芥川龍之介、谷崎潤一郎、菊池覚と並ぶ流行作家でもあった理由は、こんなところにもあった。キャラクターにどこか変な人があり、それが生み出す世間とのづれがごく自然のユーモアとなっている。「暗夜行路」の真面目、煩悶一方のヒトではない。
「第一、二人の人間が結婚するのに第三者の承認が必要なら、
>無人島のようなところにいる二人の人間は永久に結婚できないわけでしょう。私は今無人島のようなところに入るようなものです、といった。
先生は腰かけたまま机の横桟に足をはって『困ったな』と大きい葉をあらわにして、笑いながら嘆息をされた。
私はこの時程先生をしたしく身近に感じたことはなかった。
先生は
『ピュワー、リーゾンとしてはそんなことも云えるかも知れないが(W。無人島の例え)プラティカル、リーゾンとしてはそれでは困る。仮に僕がそんなことを認めたらどうなるか。』と云われた。私はそれが分からなかった。
黙っていると、先生はしんみりした調子になって、『僕にもそういう経験はある。その時死を想った事もある。』と云われた。
『死』という言葉を『デッス』と云われたので、わからず、私は問い返した。
先生がそういうことで『死』を想われたと云うのは私には大いに意外な感じ出した。(W。志賀直哉は実存的生きざまをしてきた)
私はなおよく考えます。考えが決まるまでまいりません、と云って帰ってきた。
~~
ソレから幾月かして、先生のところへ行き、ハッキリとお断りしてそれきりいかなくなった。気まずい思いは少しもなかった。わたしの先生に関する損益の年に変わりはなかったが、私は私なりに小さいながら独り歩きの道が開きかけてきたときで、先生のところを去る気になったのだが、先生はまた来たくなったら土岐はきても良い、と云われた。
何年か経って、先生のお嬢さんがなくなられたことを聞き、私はお悔みに行った。
~そのあとで私が文学の方で仕事をしていることを自分は知っていると云われた。私の書いたものはう読んだとは云われなかったが、そういうことをしているのを知っている、と云われた。
先生は日本の現代小説など一つも見られなかったに違いない。
自然主義の起こったはじめに『自然の自然は不自然なり。自然主義者の自然は不自然なり』こんなことを『聖書の研究』に書いていられたことがある。(W。外国自然主義は社会のリアルを描くが日本の自然主義に社会はない、その後の私小説伝統の発端か?)
~~
久しぶりに(W。奈良から出てきて、13年間も奈良在住、その前は京都。東京を離れても平気の家庭生活。環境への適応性が凄い!周囲の人々環境が彼の世界である。世間を広く考えないから違和感を感じないのか)先生のところに行った。
~奥様もお休み中だと云う。府たちは名刺を置いて帰ってきた。
そして先生は数日後に亡くなられた。今から10年ほど前のことだ。
その後、浅野君にあった時、先生が目覚められたとき、私の来たことを聞かれ『そうか志賀が来たか』と云われた話を聴き、胸の詰まる思いがした。
先生の大きさに比べ立て、あまりに貧しい追憶であるが、いつかはコレだけは書いておきたいと想っていたので書いた。
***
W。ここから先のこの短編の締めくくりが、その簡素に練り込んだ文体、文脈によって読者をひきつけて話を前に進めていく<芸の術>、とともに「小説の神様」と云われる所以である。尊敬する師への追悼の意味を込めた短編にキチンと落ちをつけている。自分の<芸>の<術>の目、その境地を書かずには居られなかった。
***
昨年の秋のすえごろ、目白の女子大の付属小学校に通っている私の4番目の娘の友達がうちに遊びに来た。
出ていった私の娘が、『内村さんのお父さんが私のお父さんを知っていらしゃるんだって』といった。
私がじろじろ顔を見るので、みな恥ずかしがっていた。
『コレが内村さんだ』と私は一度に先生のお孫さんを言い当てた。どことは言えないが面影があった。
お嬢さんのお父さんの祐之さんは私が行っていたことはこのお嬢さんよりも小さかった。それきり祐之さんを見ないが、この間に新聞に出ていた写真は先生の様に鋭くはないが、やはり大分似て来られたと思った。
お嬢さんからこのお嬢さんの祖母君になられる先生の奥さまの建材でいられることも聴き知った。
親愛の祖父が経営者としてかかわった足尾銅山の鉱毒事件、実業家の父への反発、台頭する新思潮の社会主義にたいして、志賀は内村鑑三の無教会キリスト教博愛主義に心のよりどころと正論を求めたのであり、聖書を読みキリスト者になることを目指したわけではなかった。
ソレは志賀直哉という状況の実存のアイテムであった。
志賀直哉という状況の実存の在り方が大きく変われば、内村鑑三の無教会キリスト教博愛主義が必要でなくなる。このような志賀直哉の姿勢は簡単に非難できない。
まず第一。志賀と内村の関係が「内村鑑三先生の思い出」の最後の部分に描かれている通りだとすると、志賀と内村は、思想的に同一次元に立っていたのであり、志賀は、父から猛反対を受け、親族から祝福されない子持ちの女性、夫と死別した武者小路実篤の従妹)と結婚をして、東京を遠く離れた尾道の生活を決断し行動することで、内村的思想世界を相対化したのである。
第二。尾道で書き始めた「暗夜行路」は、その実存的行動によって相対化した内村鑑三の無教会キリスト教博愛主義を超えると同時に、それまでの人生の難問の集大成し、その昇華と他の誰でもない志賀直哉自身の世界を確立を目指したものであった。
第三。小説家として、創造した書き下ろし長編「暗夜行路」の小説世界が完成し、高い評価を受けると(世俗的求道の道)と志賀直哉という状況の実存は流動的なくなり、エゴ人格として固定される。ここにおいて自己肯定現象が起こる。
第四。志賀直哉の富裕な環境と経験という狭い世界に限定された難問の昇華の道を職業としての小説の完成に求め、世俗の評価によって、エゴ人格として固定された自己肯定が絶対的な立場化するのは、日本の私小説の伝統が主として純文学と称され、物語の世界そのものにおいて評価される、というよりも、小説家個人の煩悶の道程の表明、とその解脱と読み込むからで、その視点から高評価を受けた小説家は森羅万象に通じる人格の達成者と錯覚されるからだ。その作家は大先生に昇華し、瑣末な仕事でも意味付与され流通する。
アントン・チェーホフ - Wikipedia 1860年 1904年。
マクシム・ゴーリキー - Wikipedia 1868年 - 1936年
ミハイル・ショーロホフ - Wikipedia 1905年5月24日 - 1984年2月21日)
スタンダール (1783-1842)
オノレ・ド・バルザック (1799-1850)
ギュスターヴ・フローベール (1821-1880)
エミール・ゾラ (1840-1902)
ギ・ド・モーパッサン (1850-1893
アンドレ・ジッド (1869-1951)
マルセル・プルースト (1871-1922) -
ロジェ・マルタン・デュ・ガール(1881-1958) - 『チボー家の人々』(1922-28)
マーク・トウェイン (1835年 - 1910年
ヘンリー・ジェイムズ(1843年 - 1916年)
セオドア・ドライサー(1871年 - 1945年)
T・S・エリオット(1888年 - 1965年)
1867年 - 1957年))
シャーウッド・アンダーソン (1876年 - 1941年) F・スコット・フィッツジェラルド( 1896年 - 1940年
ウィリアム・フォークナー(1897年 - 1962年)
アーネスト・ヘミングウェイ(1899年 - 1961年
ヘンリー・ミラー(1891年 - 1980年)
。ジョン・スタインベック(1902年 - 1968年
ヘンリー・ミラー(1891年 - 1980年)
レイモンド・カーヴァー(1939年 - 1988年)