反俗日記

多方面のジャンルについて探求する。

「死刑執行人の歌」ノーマンメイラーが描きたかったもの。マッチョ系作家の系譜メイラーとヘミングウェイ、マイケルムーア。「斧、熊、ロッキー山脈~森で働き森で暮らす~」クリスティーンベイルとヨイトマケの唄。

「死刑執行人の歌」 ノーマン・メイラー - Wikipedia 1923年 - 2007年 同文書院 上巻のみで、ギルモアが死刑執行を望むところまで物語は進んでいない。
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メイラーとアメリカンマッチョ系作家の生きざま、作品傾向で、ついアーネスト・ヘミングウェイ - Wikipedia 1899年 - 1961年。と比較してみたくなる。
 
第一次世界大戦中に青春を過ごしたアメリカ合衆国の若者ロスト・ジェネレーションの勇気と決起の自覚へ>
日はまた昇る"The Sun Also Rises", 1926年
 
    <第一次世界大戦。イタリア戦線に記者として従軍体験>
武器よさらば"A Farewell to Arms", 1929年
 
    <ヘミングウェイは反ファシスト軍としてスペイン内戦に参加>
誰がために鐘は鳴る"For Whom the Bell Tolls", 1940年
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老人と海"The Old Man and the Sea", 1952年
アルベール・カミュ - Wikipedia 1942年 - 『異邦人』、1947年 - 『ペスト』に連なる作品。チャレンジャー精神と無常観を実存主義的世界に昇華。結果が分かっていてもトライする、せざる得ない老人の勇気ある物語である。老漁師はシューシュポスであった。
大間違い→ウィキペディア作品解説「悲劇的なストーリーには厭世的な晩年の心境も反映しているものと見られる。」
 
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裸者と死者』 - The Naked and the Dead (1948) ~~~ ノーマン・メイラー「鹿の園」(新潮文庫) - odd_hatchの読書ノート1955年 上記ページ引用。  「世間に無知な青年が都会に来て、次第に社会知と自我に目覚めていくという話。~」 W。裸者と死者』を昇華できず、ジャーナルな事象にハマってしまった。作品は不評であった。 >その後、20年間、主要な作品を発表していない。ノーマン・メイラーの特質はジャーナルな事象に拘泥してしまい、アメリカンポップの世界から抜け出せない、ところにある。 「死刑執行人の歌」 もその延長線上の作品であり、ゲーリーギルモア事件はメイラーが語るアメリカ物語の部分である。 『なぜぼくらはヴェトナムへ行くのか?』 - Why Are We in Vietnam? (1967) 『夜の軍隊』 - Armies of the Night (1968) 『マイアミとシカゴの包囲』 - Miami and the Siege of Chicago (1968)
『性の囚人』 - The Prisoner of Sex (1971) 『死刑執行人の歌 : 殺人者ゲイリー・ギルモアの物語』 - The Executioner's Song (1979)
W。こうして見ていくと、ノーマンメイラーの作家としての軌跡がなんとなくわかる。超えられない大きな限界がある。ニック・アダムズ物語や「老人の海」のヘミングウェイのように内面の葛藤を情景描写と混然一体に描き上げる事が出来なかった。「死刑執行人の歌」のギルモアが出所してから殺人に至る過程の関係する人物を織り交ぜた描写は余りにも淡々とし過ぎていて平板である。

ヘミングウェイ、ノーマンメイラーのようなマッチョ系作家タイプはなぜか日本では三島由紀夫 - Wikipedia (1925年 - 1970年)、にねじ曲がってうっ屈しまい生存不可能。
三島由紀夫はメイラーと同年代の戦中派と改めて知った。
~三島→日米の文化違い、東大生時代従軍スルーして敗戦国。
~メイラー→兵士として最前線参戦、戦勝国被占領国。
作家の繊細な感性を持ち、広く事象を観察できる者が、メイラーのように最前線の兵士として参戦すると、戦争の実相が分かる。三島のような観念的戦争観はあり得ない。
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アメリカンマチョの系譜、に連なるのがマイケル・ムーア - Wikipedia1954年~。
半生を振り返っている。
マイケル・ムーア、語る。』(2013/10/24 辰巳出版 原題"Here Comes Trouble"(トラブルがやってきた)、
W。あまり評価されていない様だが、アメリカの庶民的目線(フリント (ミシガン州) - Wikipedia GMの発祥地である)によって、アメリ市民社会の実情が語られている貴重な本である。
絶好の逸話がたくさんちりばめられている。
小学校時代 飛び級を担任から勧められるが、母親は教師のところに怒鳴りこんだ。「うちの息子の教育をうける権利を奪うつもりか」
ハイスクール時代、優等生ムーアは校長クリケットのバットで尻を殴られ町の教育委員に立候補当選し、学校の生徒管理を問う。校長はクビになった。
徴兵を逃れる予行演習を兼ねて、カナダとの国境を友人たちと越えてつかまる。
同じアイルラン系のロバートケネディーと議会の廊下であって、握手して励まされた。
映像作家を志して、教えを請うた如何にもカネに困っていそうなニューヨークのドキュメンタリー作家を、ある日、テレビの映しだされた父ブッシュ大統領の就任式の後ろの列席者の中で見たような気がした。本人に尋ねると、しぶしぶ、「あれは叔父(母親の兄)なんだ」と認めた。その作家がムーアの処女作を身内の上映会で見せると、手を叩いて、一番、面白がっていたのが将来の大統領、ブッシュジュニアだった。
 
>ムーアの語るアメリカ庶民生活は、何処かメイラー描く「死刑執行人」のアメリ市民社会の雰囲気と似ている。 日本の市民社会生活との違いは大きい。この違いが、作品理解の壁になっていることは間違いない。メイラーはその名前ほど売れない作家だった。
 

W。「死刑執行人」の平明な翻訳。翻訳者の名前も気になって調べてみると、洋画のスクリーンでよくみかけた名映画字幕翻訳家だった。
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最初は感心していたが、書き写しながら感じたのは、明らかにメイラーの文体を洋画の字幕調に翻訳しているのでは、との疑いを持った。一センテンスを細切れに分解している。度が過ぎると小説の奥行きガスしなわれる。 

W。ゲイリーギルモア事件の記事ではこれが一番よくまとまっている。
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NAVER ゲイリー・ギルモア【死刑になりたかった男】http://matome.naver.jp/odai/2142447677932877501
 
ただし、NAVERの解説や、ネットに出回ってるギルモア弟の書いた心臓を貫かれて - Wikipediaを絡ませた見解は、前者のように死刑をめぐる政治問題に重点置いたり後者では動機や内面について理解しようとしているが、「死刑執行人の歌」上巻の筆致、構成を読む限り、メーラーの意図は、そんな限定的なところになく、この事件を通じて、アメリ市民社会の実相とアメリカ民主主義の現状を描きたかった、みる。
 
トルーマンカポーティ冷血 - Wikipedia未読)ノンフィクション・ノベルの手法をメイラーが一見、使っているように見えるが、アメリカの現状をこの事件を通じて描くという壮大な意図をもっていたので、上巻だけでも32章、ノンフィクション・ノベルの手法からはみ出すところがあまりも多くなった。
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 ノンフィクション、ノベルの手法とは冷血 - Wikipediaによれば次のようになる。
「実際に発生した殺人事件を作者が徹底的に取材し、加害者を含む事件の関係者にインタビューすることによって、事件の発生から加害者逮捕、加害者の死刑執行に至る過程を再現した。カポーティ自身はこのような手法によって制作された本作をノンフィクション・ノベルと名づけた」
「日本では佐木隆三の『復讐するは我にあり』がこのカテゴリーに含まれる。本作の手法はジャーナリズムの世界にも取り入れられ、ニュー・ジャーナリズムと呼ばれた。」
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冷血 - Wikipedia復讐するは我にありは事件自体の深いところを問うたにしても、事件と通じて全社会の現状を読者に開示する意図はなかった。
ノーマンメイラーにとって、「死刑執行人の歌」(1979)は、『裸者と死者』 - The Naked and the Dead (1948)が戦争を問い、参戦した兵士たちの過去の社会生活にフラッシュバックしたように、「死刑執行人の歌」はノンフィクションノベルの枠組みから大きくはみ出し、事件を通じてアメリカ社会の現状を読者の前にリアルに提出した。
 
 この本は 読み方によれば、読者がアメリカ民主主義、アメリ市民社会の現状をなんとなく肯定的に評価するように仕組まれている、ように思えてならない。
出所後のゲーリーギルモアは、気まじめに働き生活する人々の寛容によって社会的に受けられ、それなりのチャンスは与えられた、官憲は法に基づいて、ギルモアに対して自制心を発揮した、そう読みこむのが長すぎるメイラーの文脈に沿った素直な読み方ではなかろうか。この本は否定形で書かれ事件の動機や原因を明らかにする犯罪本ではない。
この本がベストセラーになり、ピリツァー賞を受章したのも、そいう意味での読者大衆とアメリカ民主政原理を信じたい評者たちの受容があったとみる。
  
 

 引用  16章 銃を持った危険な男 W。このような警察、検察の描写。長く続く。一部だけ
「三人の警官は十を出してアスファルト道路に沿って前を進んだ。ピーコックと隣にいた警官は勤務用の銃を握っている。三人目は散弾銃だ。
 
 
 男のところに行くと、ピーコックは銃をしまって地面にうつぶせになっている男の体を調べた。
>同時に巡査のアレンがミランダ法を読みあげた
 
あなたは黙秘する権利、取り調べにこたえることを拒否する権利があります。分かりますか?』アレンが聞く。うなずくだけで男は何も言わない。
 
『あなたの話すことは法廷で、あなたに不利に使われることがあります。分かりますか?」と。アレン。男はうなずく
 
『あなたは警官と話す前に弁護士を頼むことができ、また、これから先、取り調べを受けている間そばにいてくれるようにさせる権利があります。分かりますか?』アレンが聞く。うなづくだけ。
 
『弁護士を雇う余裕のない場合でも公費でつけてもらえます。分かりますか?』アレンが聞く。男はうなずく。
『あなたの権利を通告したうえで、弁護士のたちあいなしに取り調べを受けますか?』と、アレンは尋ねた。
 そのあいだ、ピーコック警部補は、この男に錠をかけていた。
 
『気をつけろよ。けがしているんだ』とおとこはいう。
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病院で、ジェラルドニールセンはベイリーが治療を受けている間、そばにいた。ブロボ警察はギルモアの手の金属探知機テストをするように電話で云っておいのだ。だが彼は拒否した。
彼は云う『まず弁護士と話させてくて』ジェラルドは云った。『よし、弁護士を呼んででやる。だが、この点は、どうにもならん。合法的に認められている証拠なんだ』 ~W。手の金属探知は銃を握って撃ったという法廷での決定的証拠になった。
 
 ギルモアは云う。『おれにはそれを断る権利があるだろう?』『そうだ』とジェラルド。『拒否できる。だが、我々にはいつでも強制できる法的権利がある』
『じゃあ』とギルモアが云う『あんたたちは無理でもさせる気なんだ』彼は二度、大声を上げて、おれはやらない、と云った。ニールセンもこのままでは口論になると思った。しかし結局彼は承諾したのだ
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 ニールセンは本格的的面談W?を始めた。 W。興味深い。米国における自白の位置づけ。日本とは違う。
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  1. You have the right to remain silent.(あなたには黙秘権がある。)
  2. Anything you say can and will be used against you in a court of law. (なお、供述は、法廷であなたに不利な証拠として用いられる事がある。)
  3. You have the right to have an attorney present during questioning.(あなたは弁護士の立会いを求める権利がある。)
  4. If you cannot afford an attorney, one will be provided for you.(もし自分で弁護士に依頼する経済力がなければ、公選弁護人を付けてもらう権利がある。)
第1項(黙秘権)の告知は最も重要であるようで、常に最初になされる。
 
>「もっとも、大半の事件においてはこれらの権利は被疑者によって放棄される(waiver)ことが通例となっており、ミランダ警告が形骸化しているとの指摘も多い。また、ウォーレン判例以降、ミランダ原則に例外を設ける判例も出されている(例えば、ミランダ諸権利に違反して取得された供述についても、検察側が反対尋問等において主張することが可能、
1984年に出された判決では、公共の安全に関わる場合にはミランダ警告なしで得られた供述でも例外的に証拠として採用できると裁定が下された)。」
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 引用 「死刑執行人の歌」  18章 
「もちろん彼らは怒った。ギルモアは捕まった時ミランダ法を通告された。
しかし拘置所では正式なミランダ法はなおざりにされたのだ。ギルモアは述べた、いかなる自白も価値などないはずだと二人の弁護士は思った。コレは腹立たしいことだ。
>彼らは警部補がギリモア厳しく尋問する前に45分間ずっと、待たされた。」
 
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彼は取っ手を押し上げるタイプのブリーフケースを持ち、中にはテープレコーダーを入れ見えない様に作動させようとした。しかしそれを独房に持ち込む勇気がない。その時にニールセンは本当のことを話さねばならない。
ソレがギルモアの心の中にあるかもしれない信頼をすべて壊すことになりかねない。そこで彼は廊下の手すりの反対側に、作動させたままにしてテープを置いた。そうすれば何かが録音されているだろう。
  ↓
弁護士の許可なしに行われた面談で得られた自白と云うものは認められないだろう。
一方、容疑者自身が自分から自白を始めることができる。ニールセンは今日、自分で自白したと主張するつもりだ。
~結局この男が死体のある場所を話してしまった。(W。何処かに死体を遺棄したというのではなく、その場で射殺し逃走し逮捕されたが、本人は無関係としているので死体のある場所を知るわけがない。)
検事はこの控えめなやり方を続け、有罪を立証した。しかし最高裁は却下したのだ。もう一度この男に弁護士をつけるように命じ、警察は許可なく面談ができなくなった。
 
W。以下、自白について、微妙な言い回しである。
~重要なことは自白を得ることではなく有罪判決を勝ち取ることだ。
 自白に関して都合のいいことは、自白が使われないとしても、その男の不利な証拠を集めたりゆるぎない起訴事実を掴むために必要な情報を提示してくれることだ。法廷で自白が使われないならミランダ法の件で苦労することはない。
そううえ自白は士気を高めるためにも都合がいい。警察は捕まえた男が罪を犯したと解ると、細かい部分をもっと固めたいと想うものだ。
又別の手掛かりを得たいと思う警官との権力衝突を避けられる。自白は裁判を完全な桃にし、心理的ンに成功させるのだ。
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 W警察署のホールにはテレビライト、半分の警官が来ていた。アメリカらしい光景
 
「次の朝、ギルモアはプロボからオーレムへ連れてこられた。ニールセンは自分の部屋で彼と会い、そこの群衆のことを謝った。ホールにはテレビライトがあり、たくさんの記者や市の職員がいる。しかし、ニールセンを困惑させたのは、非番の警官を含め半分の警官が来ていたことだ。人々は一目見ようといすの上にまでたっていた」
 

 事件そのもの外観は、ガソリンスタンドの売上金、モーテルの手提げ金庫など、そこにわずかなカネしかないと解っていながら、手っ取り早く小銭を手に入れるための短絡幼稚な銃器強盗事件であり、金を手にした前後に無抵抗な相手を有無を言わさず射殺する知脳性に?の付く粗暴残酷な衝動殺人のようなもので、この種の犯罪を犯し易い人間は、社会にごく少数、必ず存在するという固定観念を持てば、、その実行犯のギルモアの人間性について、深く立ち入り、動機や内面について理解しようというモチベーションは希薄になる。
 
 
>この小説において、メイラーのギルモアの内面に踏み込むことを自制しているかのような淡々とした客観描写は、この事件を通じてアメリカの現状を描きたいという希求とともに、人間ギルモアへの無関心からきている、と思う。メイラーのギルモアへの人間的共感は上巻では一切うかがえなかった。徹底して突き放して書いている
 
メイラーの描くギルモアはいきなり長期の服役から釈放されユタ州に帰るところから始まっている。彼の長期服役の原因になった犯罪歴でさえ具体的には語られていない
 
ましてその先にあるどのような家庭、環境に育ったのか、と云うことには一切触れられていないまま、彼と周囲の物語の時間は淡々と詳細な事実関係を描写されながら過ぎていく
 
>ここにおいて、メイラーはギルモアを迎え入れた人間模様を描くことで、アメリ市民社会の一部として確かに存在するありのままの姿を読者の提示している。
イロイロ問題や不都合がありつつ、みんなけなげに生きている、そしてギルモアを避けていない。そういう描写が続くと読者はアメリ市民社会の一部の豊かではないが健全な様になんとなく安心するのではないか。
 
>しかし、このような事件の原因や動機に関心が薄いメイラーの姿勢にたいして当然にも、ギルモア弟の書いた心臓を貫かれて - Wikipediaの中でメイラーと目される登場人物への不信となって表れる。
 
上巻を読んだだけのわたしも、メイラー描くギルモア像の背後にあるものは何だろうという疑問を持った。
そこで、上巻を当時のアメリ市民社会の一部の観察と警察検察司法の実情を知る資料と読み込んだ面がある
 
太平洋戦争の前線兵士の体験から決定的死生観を得ていたたであろうメイラーはギルモアの自然発生的な粗暴残酷犯罪、そのものには創作の材料として、興味はなかったが、死刑を求め一大政治問題化していることの絡みでメイラー自身の一定の見解もあっただろし、その意味でギルモア本人とギルモア事件及び当地の人間模様には作家的想像力を掻き立てられた。被害者二人は熱心なモルモン教徒であり、当地はモルモン教徒の多い地域である。
 
>そうするとこの事件を取り上げた小説を書こうとするメイラーのフォーカスをどこにあてるかと云う問題が出てくる。
もともと、ギルモア本人と事件に対して関心は薄過ぎるのだから、、死刑を求め一大政治問題化していることで、
作家的想像力を刺激されたと云っても、トルーマンカポティー的ノンフィクション、ノベルの手法に頼った凶悪犯罪の背景原因、動機のドキュメンタリータッチの小説を書くモチベーションはない。
裸者と死者』は戦争と人間をテーマとしたが、「死刑執行人の歌」のテーマはずばりアメリカ社会の現状である。
一巻だけでも上下段活字580ページこの小説が『裸者と死者以来の二度目のピリツァー賞受賞輝き、多くの読者を得たのも、そこに描かれているアメリカ社会の実情に多くのヒトがうなずくものがあったからだ。
先に記したように、読み方によって、アメリ市民社会と、アメリカ民主主義の隠れた賛歌、とも受け取れるのである。
 
メイラーはトルーマンカポティー的ノンフィクション、ノベルからフォーカスを広げることで成功したが、社会の実情が違う日本の読者は、ギルモア本人と事件にフォーカスを絞ってほしい、と云うジャーナリスチックな欲求に流れるので、アメリ市民社会の習慣、習俗的生活労働描写など細部にわたる事象がだらだら続く印象を受ける

この小説は日本向きの読者向きでない。
 
『死刑執行人の歌 : 殺人者ゲイリー・ギルモアの物語』 - The Executioner's Song は1979年、ギルモア事件が発生して、早期に本人が望んだ死刑が執行された年に出版されている。
 
日本での翻訳出版は1998年と、10年近くも遅れた。
 
心臓を貫かれて - Wikipedia村上春樹翻訳で出版されたのは、1996年である。
ギルモア弟の書いた原本の出版は1992年だそうだ。
 
心臓を貫かれて - Wikipediaされたのも全く知らなかったし、Wikipediaの解説を読む限り、自分の感性には、そのような深層心理学的内実は無意味で、却って事象を矮小化することにつながりかねないと受け取るが、このようなプライベート重視の視点からギルモア事件を理解するのが、日本的趣向であり、世界もまたその方向に流れている、と理解する。
 
永山則夫 - Wikipedia二は確かに社会的環境としての原因も動機もあった。
 
心臓を貫かれて - Wikipediaが立証するゲイリーギルモアには
「ギルモア家やそれに連なる一族の物語について焦点が当てられ、ゲイリーやマイケルの父母兄弟だけではなくその父祖の世代から引き継がれる一族の根深い暴力やトラウマについて詳細に言及されている筆者のマイケルはそれらを「呪い」として捉え、それによってゲイリーを始めとするギルモア家の人々が致命的に損なわれていく過程を赤裸々に描き出している。
また、暴力的な家庭で主に父親から酷い虐待を受け10代の内から塀の中での生活を繰り返してきたゲイリー」
と云う見方は腑に落ちない。
 
前回の良寛の記事でネット上から、長文作成後の脱力感からに良寛父子の地方インテリの破滅型性格にスポットライトを当てるようなタイトルになったが、文中では良寛家没落の社会的背景も一応示したはずである。
当初の企画では、どちらかと云えば、この方面に主題を決めていたが、又いつもの理屈が始まると思い、良寛を学習する視点に切り替えた。同じことを繰り返していると発見がない。それよりも愚弟性にこだわっていくと、100に1の発見に巡り合えることがある。演繹法ではなく、帰納能法を採用する、と云うかその能力しか持ち合わせていない。
 
日本原住民としては、心臓を貫かれて - Wikipediaのような観点が無常観に通じるのならまだ救いはあるが、キリスト教的宿命論を落としどころにしているようで、日本人には本質的に向かない考え方である。そのような思考パターンをなんとなく情緒的に受け取って、感動しているのは自らの存在の喪失行為である。
村上春樹さんが、翻訳しているのもうなずける。
突き詰めてがんが得ると、実際にそのような宿命感で日本で実際の精神世界がどうなるのか。
コレはクリストに救済を求める思考であり、新興宗教の類の良く道いる手であり、そこしか出口がない思考パターンである。
アメリカ人のギルモア弟はそれはそれで筋の通った見方であるかもしれないが、鵜呑みにできない。
 しかし、日本でも流行っている思考パターンである。
 
>日本人の精神世界の欧米化の一種であると思うが。
近代化以降の家意識は天皇制の動物的血統ヒエラルキーの国家家族観に包摂されていたが、市場原理主義によって、中間団体以下の共同体意識が、家庭、個々人の小単位に解体され、むき出しで社会に宙づりになるとソレらの小単位の自己防衛本能が強化され、市民社会中層以上の層に市場原理に適応した新たな家意識が
台頭する。
アベや橋下支持層の一部にはこの傾向がある。
しかし、アメリカの家意識まで個人主義的合理化できず、自己保存本能に従い、自分たちの都合の良いように社会関係を流動化させ、既得権の維持拡張しようとする。その限りの社会的欲望において、彼らはアメリカ基準に従順になる必要がある。
 

「斧、熊、ロッキー山脈~森で働き、森に暮らす」クリスティー、バイル。三木直子訳
大学で哲学を専攻した女性が、フトしたきっかけで、国立公園整備員の現場肉体労働者となった16年間の職業的記録である。この本に一般読者が期待する大自然のロマンはない。意地悪く言えば、国立公園整備員の現場肉体労働者の職業倫理の開示に収斂するように思えてならない。
この女性はシーズンオフに、大学で構造主義とノンフィクションライティングの臨時の講座を持つ程のヒトである。
大学院は結局卒業した修士でもある。途中放棄したので適当なことを書いているが。
 
著作に3年を要した。
 
付録 数字で見るトレイルドッグ生活(国立公園整備作業労働者)
トレイルで働いた年数  16年
骨折した指    2本
 
2007年にう方2階のヘルニア手術の費用   4万5000ドルW!
 
手根管症候群の症状のある手    2本 W。両手
同上労災補償が認められた月    4か月
 
12年間、雇用主3者によって支払われた時給の幅  12,12~24,91ドル
作業日一日で摂取した最大カロリー  8000キロカロリー
一夏に収穫した野生のベリーの量     8ℓ~40ℓ
私たちのキャビンの壁とヘラジカの最短距離   5㎝
午後スキーをしている間に目撃したカリブーの最大数   30頭
1年のうち、家の裏のトレイルにオオカミの糞が落ちている月数   12か月
犬ぞり用の犬を1頭以上 20頭以下飼っている友人数    15人
 
ヒーリーで暖房のいるガレージを持っている友人の数   2人
 

    <訳者あとがき>
「~その人がもし日本語が堪能だったら~と想像しその人が英語で話している時と日本語ではないsている時とで、できるだけ印象が近くなる選択肢を選ぶーー映画の吹き替えみたいに。コレは通常難しいことではない。
~性別、年齢、社会的立場、や発言の内容、そして文脈から 「その人が日本語を話したら(書いたら)こんな感じ」と云うのはおのずと決まってくることが多いからだ。
全体的な言葉遣いにも同じことが云える
>ところが本書を訳し始めたとき、私はハタと考えてしまった。
このヒトが日本語を話すときの口調がお澪浮かばないのだ。
なぜなら、日本には、こんな人はおそらくいないからだ、
~~
本書の著者のように、トレイルドッグとして一人前になり、男性の部下を率いるようになる女性は、(Wアメリカでも)ごく稀な『変わった』存在だ。
~~
荒くれ男に交じってチェーンソーを使いこなし、下品な下ネタジョークを飛ばすかと思えば、移りゆく季節の描写や、野生について思い巡らせる言葉はまさに散文詩であったりする。
冒頭で書いたように、彼女の日本語と云う声を見つけるのが難しかった理由はそこにある。彼女の声は唯一無二と云う意味でユニークなものだ。
どうか、あらゆる先入観を脇において、脇に人間としてその声に、耳を傾けてほしい。
 
W。訳者は最後の本音を語っていない
 
この本を読み悪く、途中放棄させたのは、著者の知的表現が空回りしているところ、にあった。
書き方に問題があるようだ。①哲学や文学を勉強すると、独特の癖がつく場合がある
野生の自然方面の本で、未だかつてこのような文体に遭遇した事がない。②自分を前に出し過ぎているような気もする。もっと後ろに引いた語り口が欲しかった。
文脈、目の解けどころに独特の癖がある。③アメリカの大学の作家ライターコースの作文法を自分で咀嚼しないでそのまま使っている。マスコミ志望コースもこんな訓練に熱中しているじゃないかな。
アメリカの読み物、ジャーナリズムの会話に、この手によく出会い、小細工している、と気になる
 
>先が読めてしまう、文章が平明な割に引っかかりが多すぎる、ページを進ませない原因は①、②、③によるものである。
 
純肉体労働と文字を連ねる作業は両立し辛いものである。精神労働と肉体労働の対立は、人間の永遠にテーマである。
 
>この本を仕上げているときに、身近に適切なアドバイザーがいたら、彼女の欠点を指摘できた、だろうと思う。
    
    参考資料
山形県在住の兼業山岳ガイドの日記。
書評 『斧・熊・ロッキー山脈』 http://everest.cocolog-nifty.com/gassan/2014/01/post-2bd0.html
 
W。日本でもガテン現場に若い女性の姿を見かけるようになった。
もっともっと前に遡ると、美輪明宏が歌う「ヨイトマケの唄
【作詞】丸山明宏
【作曲】丸山明宏

父ちゃんのためなら エンヤコラ
母ちゃんのためなら エンヤコラ
もひとつおまけに  エンヤコラ

1.今も聞こえる ヨイトマケの唄
  今も聞こえる あの子守唄
  工事現場の昼休み
  たばこふかして 目を閉じりゃ
  聞こえてくるよ あの唄が
  働く土方の あの唄が
  貧しい土方の あの唄が

2.子供の頃に小学校で
  ヨイトマケの子供 きたない子供と
  いじめぬかれて はやされて
  くやし涙に暮れながら
  泣いて帰った道すがら
  母ちゃんの働くとこを見た
  母ちゃんの働くとこを見た

3.姉さんかぶりで 泥にまみれて
  日にやけながら 汗を流して
  男に混じって ツナを引き
  天に向かって 声をあげて
  力の限り 唄ってた
  母ちゃんの働くとこを見た
  母ちゃんの働くとこを見た

4.なぐさめてもらおう 抱いてもらおうと
  息をはずませ 帰ってはきたが
  母ちゃんの姿 見たときに
  泣いた涙も忘れ果て
  帰って行ったよ 学校へ
  勉強するよと言いながら
  勉強するよと言いながら

5.あれから何年経ったことだろう
  高校も出たし大学も出た
  今じゃ機械の世の中で
  おまけに僕はエンジニア
  苦労苦労で死んでった
  母ちゃん見てくれ この姿
  母ちゃん見てくれ この姿

6.何度か僕もぐれかけたけど
  やくざな道は踏まずに済んだ
  どんなきれいな唄よりも
  どんなきれいな声よりも
  僕を励ましなぐさめた
  母ちゃんの唄こそ 世界一
  母ちゃんの唄こそ 世界一

今も聞こえる ヨイトマケの唄
今も聞こえる あの子守唄
父ちゃんのためなら エンヤコラ
子どものためなら エンヤコラ


志ん生 びんぼう自慢
W。 <6分11秒過ぎから>
「こんなこたぁ、やってれば、苦労するのはわかってんですがね。落語と云うものは自分が好きでやってんですがね~噺家が貧乏なで客が喜んだんですがね。~銭がなくて貧乏でいるのを見るとなんかおかしいって~
~~
  <7分15秒過ぎ>
W。落語の一席の落ちを聴いているいるようだ。
メクラの小せんって人が~~
 
   <9分30秒過ぎ>
驚かないでやってきましたから、たいがいの者は驚いちゃうんですね。図々しいから驚かない。あたしが気が小さかったら夫婦心中でもしちゃうような。
人間てぇものは生きてりゃまた何とかなるもんなんですがね。そこをいやに悲観しちゃちゃあ~しょうがないですね。