戦後から1980年代までにみる四国88か所巡礼の動態
~マス・メディア,観光とのかかわりから~
~マス・メディア,観光とのかかわりから~
W。本文の下地にした論文の(2)四国遍路のステレオタイプと巡礼者の階層>
↓
このような語りは「遺骨は抱いていなくても心を暗くするような境遇にいる者が多い」というように,
「職業遍路」や「乞食遍路」(2)と呼ばれる巡礼者の存在と結合し,またそれに支えられていた。
この巡礼者はかっての村落共同体に居住することが不可能であった者たちであり,
>第二次世界大戟後も四国遍路の巡礼者の一部を構成していた。かつてのバスツアーの添乗員に対する聴取では,このような巡礼者が1960年代半ば頃まで見られたとされる。
この巡礼者はかっての村落共同体に居住することが不可能であった者たちであり,
>第二次世界大戟後も四国遍路の巡礼者の一部を構成していた。かつてのバスツアーの添乗員に対する聴取では,このような巡礼者が1960年代半ば頃まで見られたとされる。
↓
理解のまったく不足している観点であり、批判しないでそのまま放置していた。先を急ぎ過ぎてじっくり考えなかった。
四国遍路の歴史
(日経マスターズ2005年4月号「江戸時代に大衆化した四国八十八カ所巡り」を一部修正
(日経マスターズ2005年4月号「江戸時代に大衆化した四国八十八カ所巡り」を一部修正
を資料として付け加えようとして、読み込んでいたら、ハタと四国遍路をアジール - Wikipediaの当たり前の視点
でとらえていなかった自分に気づいた。
元々、この記事は、三重大学の論文ではなく、四国遍路の歴史 を下敷きにするつもりだったが、商品化と云う視点にひかれて、わざわざ長文の方を利用した。
アジール - Wikipediaか等の視点に気付かされたのは、次の個所である。
<八十八カ所巡拝の定着と大衆化―近世>
「遍路者はどんな人たちだったのだろうか。出身地は~遍路を行った人数は、18世紀後半から増加し、19世紀前半にとくに多くなっていた。また、近世を代表する遠隔参詣だった伊勢参りなどと比べると、個人参拝や女性、病人、困窮民の多さが特徴だった。」
仕舞った、ととっさに肝心な視点が抜け落ちていることに気づいた。やはり歴史的に形成されていたものは、歴史の目でとらえなけらばならなかったのであり、遍路道商品化にくぎ付けになれば、歴史に埋もれがちになった肝心なところが見えてこない。三重大学の論文は、江戸時代後期の近世を代表する遠隔参詣だった伊勢参りなどと比べると、個人参拝や女性、病人、困窮民の多さが特徴だった。」をスルーしているから、「職業遍路」や「乞食遍路」(2)と呼ばれる巡礼者の存在と結合し,またそれに支えられていた。
この巡礼者はかっての村落共同体に居住することが不可能であった者たちであり』と抽象的にとらえることができる。もっといえば、「職業遍路」や「乞食遍路」(2)のどこがいけないのか!宗教者の一方の本質的あり方ではないのか?
この巡礼者はかっての村落共同体に居住することが不可能であった者たちであり』と抽象的にとらえることができる。もっといえば、「職業遍路」や「乞食遍路」(2)のどこがいけないのか!宗教者の一方の本質的あり方ではないのか?
四国遍路の商品化について長々と論じるならば、アジール - Wikipedia~~歴史的・社会的な概念で、「聖域」「自由領域」「避難所」「無縁所」などとも呼ばれる特殊なエリア~~と云う視点を少しは、持ち出しべきで、ソレが学者さんの役割だと思う。 この学者の上記の人たちは、四国遍路にアジール - Wikipediaを見出していたのである。排除された共同体の片隅で窒息し消滅するよりも、外に聖域」「自由領域」「避難所」「無縁所を求めて積極的に動いたのである。コレは人間の本質的所業、本能と云って良い。人は死ぬる時、明かりと広い空間をを欲しがる。もしかして現世人類がアフリカを出て地球上に広がったのも、こうした本能の結果かもしれない。
資本主義商品化が徹底すると「、「聖域」「自由領域」「避難所」「無縁所」などとも呼ばれる特殊なエリア」はハッキリとした公共の所有する場、あるいは私有の場に変転する。四国遍路の商品化とは、換言すると、アジール - Wikipediaとしての四国遍路の消滅であるが、原理的にいえば、人間の魂と精神の広がりの衰弱過程でもある。
この領域の問題は老人福祉法成立や社会保障と短絡的に天秤にかけるものではない。四国遍路にアジールを求めた人たちが減少し、そういった場所空間の所有性強化によって、清浄化しても、アジール - Wikipediaを求めた人たちとアジールは非公然に拡散する。全国化する。
グローバル資本制のカネの一極だぶつき、バブル経済状態化を背景に公共地の所有権の強化やその民間資本への売り飛ばし~~公共地が資本価値に認定されるから、公共地の所有権が強化される。コレ以外の何物でもない!よって、資本制公共地の価値を引き下げるものは排除されねばならぬ!~~とともに、四国遍路でいえば、各札所の寺院の私的所有意識が強まって、商品価値を持つ境内及び所有地から無所有者の居場所を意図的になくしたのである。
Ⅰ はじめに
~~
このような分析視角から,1970年代後半と80年代を中心にして行われる四国遍路の商品化について,それを成立させる社会背景や建造環境と関係付けることが本稿の目論見である。
2。 1960年頃までの四国遍路とステレオタイプ
(1)四国遍路について
>四国遍路の寺院の宗派や本尊は一定ではないが
弘法大師信仰によって結びつけられており,33の寺院の本尊が観音菩薩であることから
(1)四国遍路について
>四国遍路の寺院の宗派や本尊は一定ではないが
弘法大師信仰によって結びつけられており,33の寺院の本尊が観音菩薩であることから
W。釈迦の修行の結果到達した境地、教えと
弟子?たちが民衆ににその教えを流布する際に、民衆に浸透し易いように、土俗宗教を取り入れ体系化した教義との違いは大きいだろう。
インドで紀元前6世紀ごろに、釈迦( は苦しみとその原因について説き、正しい道をおこなって心のまよいをすて、悟りを開くことで、身分によらず救われるととなえた。
W。観音菩薩 - Wikipediaのチベット仏教における位置づけの解説と照らし合わせると、ココで説明している構図が分かり易くなる。
「>仏様とはなんですか?
この二つの見地を同時に主張し、強引に仏教道の仏様の他に類を見ない差別化を図っている。
ガンジス河の砂の数ほど沢山おられる仏様は悟りの境地や神通力を持っていると、民衆がとてもあり得ないないことだと思うようなことを云う。
「これら全ての仏様は一様に同じ悟りの境地を持ち、神通力という特別な能力をお持ちです。
仏様は全ての苦しみから解放された神通力を持つ自在な存在です。」
>そんな仏様になることが仏教の目的です。」
そして
「その中でも阿弥陀様は特別に超え優れた仏様で、全てのいのちを仏にする能力を持つ唯一無二の仏様です。
阿弥陀様は極楽浄土を建立なさり、そこに全てのいのちを連れて行き、仏としてのいのちを与えてくださいます。
悟りの境地は同じでも、他を仏にできる仏様は阿弥陀様だけです。」
阿弥陀様は極楽浄土を建立なさり、そこに全てのいのちを連れて行き、仏としてのいのちを与えてくださいます。
悟りの境地は同じでも、他を仏にできる仏様は阿弥陀様だけです。」
古代ギリシア世界では神話化された様々な神様たちがいた。それに比べて、仏教の役割分担された偶像化された仏様の数は整理整頓されたのか極端に減っている。
上記の言説にその痕跡を認める。←W。下線部分は、仮説であり、間違っているかもしれない。
このようにして仏教がが出来た。
その後、仏教は、国家にも保護される。
仏教は、その後、東南アジアにも広がり、さらに中国や朝鮮半島、日本にも伝わる。
>参考資料
「顕密体制 - Wikipediaは寺社体制でもある。寺院だけではなく、神社や八幡宮や神宮が一緒くたになっていた。だからそこには、当然ながら神仏習合状態の混合的併進がある。表向きの名称こそは寺院と神社に分かれていても、その教義や教理にはどこか互いに融通しあっているものがある。いわばシェアしあっている。
このことは東アジアの宗教全体から見ても、はなはだ特異な現象だった。祭祀のイデアとスタイルが寺社の両方で共有されていたということになるからだ。祭祀のイデアとスタイルが寺社の両方で共有されていたということになるからだ。」←W。四国88か所の寺で白装束のおばちゃん集団が仏様の前に座って祝詞をあげているのを2回も見せつけられると、つい、「時代背景を享けて、仏教側に天皇制の神社ヒエラルキーを取り入れる言説行動は起こった。」と想像してしまったが、もともと中世から、神仏は習合していたのだから、何の不思議でもなかったのだ。ネットで調べても、古くからの習俗とあった。
このことは東アジアの宗教全体から見ても、はなはだ特異な現象だった。祭祀のイデアとスタイルが寺社の両方で共有されていたということになるからだ。祭祀のイデアとスタイルが寺社の両方で共有されていたということになるからだ。」←W。四国88か所の寺で白装束のおばちゃん集団が仏様の前に座って祝詞をあげているのを2回も見せつけられると、つい、「時代背景を享けて、仏教側に天皇制の神社ヒエラルキーを取り入れる言説行動は起こった。」と想像してしまったが、もともと中世から、神仏は習合していたのだから、何の不思議でもなかったのだ。ネットで調べても、古くからの習俗とあった。
また、仏様とはなんですか? - お坊さんQ&Aサイト[hasunoha]の言説も神仏習合の結果なのである。
しかし、論理的に整合性はない。
「ひるがえって、そもそも唐の『祠令』には公的祭祀の別として、「祀」(し=天の神の祭祀)、「祭」(さい=土地の神の祭祀)、「亨」(こう=死者の霊の祭祀)、「釈奠」(せきてん=古来の聖人や祖師の祭祀)の4種が分統区別されていた。これが東アジアの中核にある「まつり」の系統というものだった。
>しかし日本の『神祇令』は最初の2つを採り入れつつも、早々にそこに即位儀礼や大祓を加えてしまったのだし、あとの2つは「民俗行事」の多様性に任せているようなところがあった。その民俗性こそがやがては「神道」の基盤になる。
しかも日本では、このようなプロセスに仏教が関与した。仏教の考え方によってこそ、そうした神仏習合の多様性は辻褄を得た。」
しかも日本では、このようなプロセスに仏教が関与した。仏教の考え方によってこそ、そうした神仏習合の多様性は辻褄を得た。」
廃仏毀釈について
W。このブログのような見解は歴史的事実だが、黒田俊夫の顕密体制 - Wikipediaの歴史観から云えば、日本中世において、鎌倉新仏教は支配体制に重きをなすことができず、中世を通じて権力構造に食い込んでいたのは相変わらず奈良、京都の旧宗教で、鎌倉時代に勃興した新仏教は、江戸時代になって、幕藩体制の庇護を得て、仏教行事とともに人民末端業務を受け持つようになり、勢力を急に拡大した。そこにおいて、驕りも出て民衆レベルと対立するようになった。幕藩体制側は、鎌倉時代に勃興して、民衆に近いところで現世ご利益主義、欲望肯定、人間中心主義に傾く新興宗教を体制護持のためうまく利用した。新興宗教側は、教義と行動において自己規律性が弱かった。
***
玄奘三蔵による訳「観自在菩薩」はそれを採用
アヴァローキテーシュヴァラとは、ava(遍く)+lokita(見る、見た)+īśvara(自在者)という語の合成語
チベット仏教における位置づけ
(2)観音菩薩
「観音さまというのは日本では恐らく一番信仰を集めている仏でしょう。この仏様は慈悲の心により、救いを求めている人があったらすぐにそこへ行って彼らを救済をすると言われており、如来様ほど恐れ多い存在でもないところから人気を集めたの~」
(3)観音さま、如来さま、菩薩さまの違いは何でしょう? YAHOO知恵袋より引用
如来:悟りをひらいた仏様(阿弥陀如来・大日如来・薬師如来・釈迦如来)
菩薩:如来になるための修行中の仏様(観世音菩薩=観音さま・千手観音菩薩・文殊菩薩・地蔵菩薩ほか)
明王:如来が化身したお姿で悪人を従わせるため怖い顔をしています。(不動明王・愛染明王ほか)
天 :地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天という六道の天にいる仏様。(七福神の弁財天ほかたくさんいます。)
菩薩:如来になるための修行中の仏様(観世音菩薩=観音さま・千手観音菩薩・文殊菩薩・地蔵菩薩ほか)
明王:如来が化身したお姿で悪人を従わせるため怖い顔をしています。(不動明王・愛染明王ほか)
天 :地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天という六道の天にいる仏様。(七福神の弁財天ほかたくさんいます。)
>人は様々な願いを持つため、仏様もたくさんいます。
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>そこに記された全巡礼者の約40分の1しか苗字を持っていなかったこと,
>飢健が起こると巡礼者が増加することから,当時の巡礼者が社会的に低位の階層から構成されていたことを明らかにした
>時代が下り1930年頃になると,このような社会階層以外に,西洋風の服装をしたり公共交通機関を用いて「合理的」に巡礼を行う「モン遍路」と呼ばれる巡礼者も登場する。
>,戦後しばらくは四国遍路の巡礼者は少なかったとされる。
>戦後再び四国遍路が多く行われるようになるのは1950年代半ばであると思われ,1954年にはこの時期に再び増加しつつあった巡礼者に対して,四国鉄道局が近畿地方に四国遍路に関する書籍を「観光と宗教の旅の道標」として約2千部作成・配布している(四国新聞,1954年3月16日付)。
<(2)四国遍路のステレオタイプと巡礼者の階層>
,1922年生まれの宗教学者である宮崎忍勝は,少年時代に「不思議な法力をもった恐ろしい人」や不就労者や何らかの病気にかかった者を,四国遍路から連想したと述べる。
,1922年生まれの宗教学者である宮崎忍勝は,少年時代に「不思議な法力をもった恐ろしい人」や不就労者や何らかの病気にかかった者を,四国遍路から連想したと述べる。
戦前は四国遍路を,ハイキングや娯楽として捉える思想も見られたが,四国遍路を語るときには多くの場合に暗密さや異常さがステレオタイプ化されていた。
戦後しばらくの四国遍路に対するステレオタイプも戦前とあまり変わらず,「私は遍路に対してどうしようもない人生の残酷さを感じ,暗いイメージをもつようになったのである」(渡部1975:4)という語りが見られる。
このような語りは「遺骨は抱いていなくても心を暗くするような境遇にいる者が多い」というように,
「職業遍路」や「乞食遍路」(2)と
呼ばれる巡礼者の存在と結合し,またそれに支えられていた。
この巡礼者はかっての村落共同体に居住することが不可能であった者たちであり,
>第二次世界大戟後も四国遍路の巡礼者の一部を構成していた。かつてのバスツアーの添乗員に対する聴取では,このような巡礼者が1960年代半ば頃まで見られたとされる。
呼ばれる巡礼者の存在と結合し,またそれに支えられていた。
この巡礼者はかっての村落共同体に居住することが不可能であった者たちであり,
>第二次世界大戟後も四国遍路の巡礼者の一部を構成していた。かつてのバスツアーの添乗員に対する聴取では,このような巡礼者が1960年代半ば頃まで見られたとされる。
「職業遍路」や「乞食遍路」と呼ばれた巡礼者が,実際に老人ホームなどの福祉施設に入居する過程を捉えることは困難であるが,1963年には「老人福祉法」が施行され,それにともない「特別養護老人ホーム」や「養護老人ホー
ム」などが創設された。高度経済成長による経済的安定と福祉政策の充実は,少なくとも新規の「職業遍路」-の参与を抑制し,また「職業遍路」と呼ばれた巡礼者たちを福祉施設-と導いていったと考えられる。
ム」などが創設された。高度経済成長による経済的安定と福祉政策の充実は,少なくとも新規の「職業遍路」-の参与を抑制し,また「職業遍路」と呼ばれた巡礼者たちを福祉施設-と導いていったと考えられる。
*このような巡礼者の存在は社会的不平等を過剰に示す存在は社会的不平等を過剰に示すことから,それを内在させたままでの四国遍路の商品化は困難である。
*したがってその減少は,四国遍路のイメージ転換と商品化に対する1つの要因となったといえる。
第1表伊予鉄順拝バスの台数
1955年 5
1962年 50
1965年 100
1975年 600
1995年 955
,新聞広告や,高野山にある全国の信者名簿を借用して参加者の募集が展開されたバスツアーの登場に続き,昭和30年代以降の自家用車の普及にともない「マイカー遍路」が登場し,個人,家族づれといった,団体による順拝とは違った順拝のパターンを生む。
また1990年代にはタクシーによる順拝ツアーも開始された。
>1992年に四国霊場会の公認先達に対して行われた利用交通機関についてのアンケートでは,貸切バスを用いた者が7割以上, ←W。四国遍路の70%は貸し切りバスのにぎやかな団体サン。遍路は同行二人と云われるが、貸し切りバスの団体力では、とてもそうはいかない。もっとも経費の関係もある。
タクシー,自家用車を用いた者は両方とも1割強であった。
W。残りの2割はバイク、自転車、徒歩なのか?
四国88か所巡礼ビデオビデオの著名案内人の中では「寺と寺の間を巡る過程が大事」と云う年配の女宗教者の言葉が、一番印象的であった。語る表情にも、宗教的説得力がある。
>なぜか、あのような場に立って語ると仕草でもない、言葉の巧みさでもないその人の宗教性が、身体全体から自然と滲みだしてくるようだ。
企画の意図に合わないのか、二か所の寺を案内しただけで、画面から消えた。
札所の寺自体は、名刹に比べると、どうと云うことのない寺がほとんどで、住職の仏像などの由来などを聞いていると中には、本当かな、と胡散臭さを感じさせるものもかなりある。重要文化財指定されたものは少なかった。
もっともそうしたものが不特定多数が出入りするところには展示しない。
貸し切りバスの団体さんで、お寺の境内が騒々しい、状態を想像すると、「寺と寺の間を巡る過程が大事」という言葉はますます重みを持ってきているのではないか。
バスツアーに関するアンケートでは,当初は住職と檀家や講または近所で誘い合い,団体でバスをチャーターしていたとされる。
>このような参加の形態は1980年代に徐々に変化し,個人での参加申し込みが増加するようになるときく。
>このような参加の形態は1980年代に徐々に変化し,個人での参加申し込みが増加するようになるときく。
>より多くの観光地が徐々にプランに取り入れられていった。さらにツアー中の食事として名物料理が取り入れられたり,宿泊に際しては個室が多く利用されるようになる。
つまりバスツアーは1970年代後半からその参加者の参加パターン,またプランの内容が変化し,
>より観光に特化したものとして商品化されたといえよう。
>より観光に特化したものとして商品化されたといえよう。
バスツアーをはじめとする四国遍路の商品化や,自家用車による簡便な各寺院間の移動は,それ以前には存在しなかった巡礼の形態であった。
*そして四国遍路は1970年代後半から個人化へと向かっていったのである。
ハイキングルートの整備にともない,複数の主体により四国遍路をハイキングとして捉える活動が行われるようになる。
>現在確認できるこの活動の初期のものは,1976年に当時の香川県善通寺市長の主唱で,信仰と健康を兼ねて組織された「八十八ヶ所を歩く会」であり,
1980年ごろの会員は1,000名近くであった(鈴木1980)。
1974年に創設された高松ハイキング協会(6)も1979年の12月に「札所とへんろ道を訪ねて」というテーマで遍路道を利用したハイキングを行い,四国のみちの整備がなされた後はそれを利用した活動を行っている。
1980年ごろの会員は1,000名近くであった(鈴木1980)。
1974年に創設された高松ハイキング協会(6)も1979年の12月に「札所とへんろ道を訪ねて」というテーマで遍路道を利用したハイキングを行い,四国のみちの整備がなされた後はそれを利用した活動を行っている。
>また「四国のみち」の整備を行った四国地方建設局の各出先機関も,1984年から「四国のみちハイキング」を行っており,毎年のベ800人程度が参加している。
>その他1990年から愛媛新聞は「四国のみちを歩く」を主催し(建設省,環境庁などが後援),毎回約80人が参加した(『へんろ』73,1990:
>その他1990年から愛媛新聞は「四国のみちを歩く」を主催し(建設省,環境庁などが後援),毎回約80人が参加した(『へんろ』73,1990:
ⅠⅤ 四国遍路の商品化とその受容
(1)マスメディアにおける四国遍路の表象と流通
(1)マスメディアにおける四国遍路の表象と流通
「ディスカバー・ジャパン」(1970)が起こり,70年代後半には「質」が問われ始め,「いい目旅立ち」キャンペーン(1978)
この新たな観光の形態がメディアを介した日本的なもの,ローカルなものの消費NHKの番組「新日本紀行」において,1972年8月に四国遍路が取りあげられ放送された。
この新たな観光の形態がメディアを介した日本的なもの,ローカルなものの消費NHKの番組「新日本紀行」において,1972年8月に四国遍路が取りあげられ放送された。
>「新日本紀行」は
>,「故郷」から「都市」へ人口が移動する中で,自分と他人の故郷を比較しその差異と同質を認識しさらに都市居住者の一体感を醸し出す役割を担ったとされる。
「旅には旅する錠がありました」と過去形の語りから始まるこの番組は,
>御詠歌を歌う老婆, 山道を歩く巡礼者, 遍路道沿いに並ぶ石仏や地蔵,山中にひっそりと生活する老夫婦など;忘れ去れたもの,懐かしさを感得させるものとして四国遍路を表象すると同時に,死者の供養を行う巡礼者,巡礼者が死者に出会うなどの伝承,亡くなった子供の供養に関する話など,
>「死」を強調することで四国遍路の独自性を前景化している(NHK編1996
「旅には旅する錠がありました」と過去形の語りから始まるこの番組は,
>御詠歌を歌う老婆, 山道を歩く巡礼者, 遍路道沿いに並ぶ石仏や地蔵,山中にひっそりと生活する老夫婦など;忘れ去れたもの,懐かしさを感得させるものとして四国遍路を表象すると同時に,死者の供養を行う巡礼者,巡礼者が死者に出会うなどの伝承,亡くなった子供の供養に関する話など,
>「死」を強調することで四国遍路の独自性を前景化している(NHK編1996
第3表は第二次世界大戦後の,四国遍路に関する雑誌記事の一覧である。
,表からは
1970年頃までほとんど四国遍路に関する記事が見られず,
1975年から徐々に記事が増加していること,
>そして1980年代末からは「エクササイズ」,1990年代には癒しや自分探しと四国遍路が結合していることが看取される
,タイトルには「若い女性が急増中」や「"私"に出会う旅」とあり,
>四国遍路が1970年代に硯出した新たな観光に包摂され消費されることになったと考えられる。
,表からは
1970年頃までほとんど四国遍路に関する記事が見られず,
1975年から徐々に記事が増加していること,
>そして1980年代末からは「エクササイズ」,1990年代には癒しや自分探しと四国遍路が結合していることが看取される
,タイトルには「若い女性が急増中」や「"私"に出会う旅」とあり,
>四国遍路が1970年代に硯出した新たな観光に包摂され消費されることになったと考えられる。
,「日本らしい,美しい風土」や「のどかな田園」を「気まま」に旅するために四国遍路を行った山崎(1978)の紀行文
洋服で地方の人々と交流を行いながら女性が一人で旅するというスタイルは,ディスカバー・ジャパンや女性の
個人的な感傷旅行をファッションとして消費する「アンノン族」の影響が認められる。
>しかもこの紀行文では,弘法大師信仰という宗教性を全く排し,
*代わりに寺院,仏像,道端の地蔵などに日本の美を見出すなど,四国遍路を信仰というコンテク云トから引き剥がし,新たに対象化している。 このように,メディアに
*おいても四国遍路は商品化され,そのイメージは消費されていったのである。
洋服で地方の人々と交流を行いながら女性が一人で旅するというスタイルは,ディスカバー・ジャパンや女性の
個人的な感傷旅行をファッションとして消費する「アンノン族」の影響が認められる。
>しかもこの紀行文では,弘法大師信仰という宗教性を全く排し,
*代わりに寺院,仏像,道端の地蔵などに日本の美を見出すなど,四国遍路を信仰というコンテク云トから引き剥がし,新たに対象化している。 このように,メディアに
*おいても四国遍路は商品化され,そのイメージは消費されていったのである。
(2)商品化・観光化-の対抗言説と霊場会の活動
**表象や商品化には事象の取捨選択がなされるのであり,
*「職業遍路」や宗教的な文脈を排する新たな四国遍路のスタイルには,対抗する語りも出現していく
住職がプリプり
「サラヘン」(サラリーマン-んろ)が多くなりろくろくお参りもしない人が多くなった
た香川県の民俗学者の武田明は,「いまの遍路は大半が貸切りバスでやって来て,わいわいと騒ぎながら行ってしまう。
遍路墓の哀れさなどは一向に知らないでいる」と,従来とは異なる四国遍路のスタイルがもたらした四国遍路の脱コンテクスト化を嘆いている。
>に興隆していく四国遍路の新たなスタイルは,同時代において信仰の「後退」や「荒廃」として捉えられ,批判されていくのでる。
**表象や商品化には事象の取捨選択がなされるのであり,
*「職業遍路」や宗教的な文脈を排する新たな四国遍路のスタイルには,対抗する語りも出現していく
住職がプリプり
「サラヘン」(サラリーマン-んろ)が多くなりろくろくお参りもしない人が多くなった
た香川県の民俗学者の武田明は,「いまの遍路は大半が貸切りバスでやって来て,わいわいと騒ぎながら行ってしまう。
遍路墓の哀れさなどは一向に知らないでいる」と,従来とは異なる四国遍路のスタイルがもたらした四国遍路の脱コンテクスト化を嘆いている。
>に興隆していく四国遍路の新たなスタイルは,同時代において信仰の「後退」や「荒廃」として捉えられ,批判されていくのでる。
>,自らも間接的に四国遍路を行った功徳を得ることができるという「接待」と呼ばれる習俗
観光化により四国遍路を構成していた習俗が喪失される。
観光化により四国遍路を構成していた習俗が喪失される。
>四国遍路の商品化に対して,四国遍路を構成する寺院からなる霊場会もそれに反応し,1980年代後半から新たな需要に応えたり,自らが関係する四国遍路を商品として客体化していったのである。
Ⅴ おわりに
1960年代後半の福祉政策の拡充と高度経済成長は,それまで四国遍路において見られた共同体から疎外された階層の人々を減少させた。
この巡礼者たちの存在は四国遍路に対するマイナスのステレオタイプを維持させる要因の1らであったと考えられるが,この巡礼者の減少は観光やハイキングといった,新たなイメージの誕生を支えることになる。
1960年代後半の福祉政策の拡充と高度経済成長は,それまで四国遍路において見られた共同体から疎外された階層の人々を減少させた。
この巡礼者たちの存在は四国遍路に対するマイナスのステレオタイプを維持させる要因の1らであったと考えられるが,この巡礼者の減少は観光やハイキングといった,新たなイメージの誕生を支えることになる。
。一方,それまでの四国遍路を構成していた事物は伝統的な習俗としてマスメディアにおいて表象されるが,こうした表象が他の観光の対象との差異を示すという,四国遍路の商品化の役割を担っていた。
参考資料
[PDF]宥辨真念と四国遍路←W。縦書き文書 研究書
アメリカ人記者が歩いた四国お遍路
遍路・巡礼人気ランキング INポイント順
会社を退職して、プロ詩人としてやっていくべく、その願いを込めてお遍路の旅に行ってきました。のりごとー( @nori510 )です!
自転車で四国88ヶ寺巡礼
四国八十八ヶ所巡礼 お遍路一人旅 Part2
http://yasuo621.blog.fc2.com/ 宿泊所と料金、
W。このヒトのブログはすごい!豊富な海外旅行体験の記事も載っている。最近の記事はチリ、アルゼンチン国境地帯バイク旅行中。テント貼って寝ているんだなぁ~。
我が家の愛犬「ポコ」と一緒に歩いて旅しよう。
そう思ったきっかけは、スペインの巡礼路で犬を連れた旅人と出会ったからでした。
それまではオートバイや車で移動する旅がメインでしたが、歩いて旅するのも楽しそうだな、と思い、日本にも四国八十八か所を辿る巡礼の道があることを思い出しました。
日本に古くからある四国の遍路みち。1400キロの道のりは気軽に歩ける距離ではありませんが、ポコ・ア・ポコ(スペイン語ですこしづつの意味)、ポコと一緒にのんびりゆっくり歩いて日本の良さを再発見していきます。
そう思ったきっかけは、スペインの巡礼路で犬を連れた旅人と出会ったからでした。
それまではオートバイや車で移動する旅がメインでしたが、歩いて旅するのも楽しそうだな、と思い、日本にも四国八十八か所を辿る巡礼の道があることを思い出しました。
日本に古くからある四国の遍路みち。1400キロの道のりは気軽に歩ける距離ではありませんが、ポコ・ア・ポコ(スペイン語ですこしづつの意味)、ポコと一緒にのんびりゆっくり歩いて日本の良さを再発見していきます。
『四国この食堂この一品 88箇所巡礼』
記より四国この食堂この一品88箇所巡り情報をご覧ください。
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W。ビデオ NHK四国遍路88か所の旅
気になった寺
足摺岬 突端 金剛福寺 - Wikipedia38番札所
住職はビデオの案内人を左側の岬の突端まで案内した。先端にたたずむと、東の太平洋の水平線から上がる朝日と西の水平線に沈む夕日が見えるという。その場所の画像を探してもなかった。お寺の写真ばかりだった。やはり遍路をする人は、寺が好きなんだ、と感心した。ま、しかし、あの場所はものすごい断崖絶壁だし、場所柄もあるので、立ち入り禁止区域になっているのかもしれない。