反俗日記

多方面のジャンルについて探求する。

第1回。現状の中東問題を考える。高校世界史レベルの歴史の順序を大事にするが、ソレは支配層の動向とその制度の追認の限界。突破口は民衆の労働生活に重点を置いた社会経済史あるが、日本のイスラム学では欠如。

W。現状の中東問題を理解するために、高校世界史レベルから、ネット情報、文献などの情報を収集してきた。「この地域」を理解する超重要なキーポイントであるイスラム教について調べていくと、どうしても、生来の無宗教者としての地が出てきてしまい、嫌悪感が先だって、現状の中東情勢を理解する妨げになっていると自覚する。
私には特定の宗教を根拠に、あるいはばねに、激烈な政治参加を正当化する人たちが理解できない。また、国家権力を握る政権担当者が、政治と宗教を混然一体化するような様は、そのような人たちと隔たりが大きすぎて、腑に落ちない。かつてのソ連東欧、中国に対する見解にもこの立場は一貫していた。
 
>しかし、中東を理解するためには、そうした個人的な情緒や政治思想は、一端脇に置いておかなければならないと考えている。
>あくまでも現地の事情、材料と云う限界を設定したうえで、中東問題の理解の途に着きたい。
>自分の立場などに関わりのない限界ある材料の中に問題系が潜んでいる。ソレを手繰り寄せると、ぞろぞろと問題系が数珠繋ぎのように出てくる。
 
>そのためにはどうしたらいいか?問題系を手繰り寄せる方法である。
まず第一。
高校レベルの世界史の中で中東の変節を知ることである。
高校レベルの世界史は、歴史の推移を間違うことはない、そういう意味で、高校世界史レベルに踏まえることは、情勢を理解するために筋を通すことだ。歴史の順序を蔑にしたり取り違えて、論じてはならない。←歴史認識のイロハである。極論すると、現在までの過去には、事実の積み重ねだけがあって、そのほかに何もない。とも云えるので、歴史を認識する生身の人間主体は、歴史的事実の積み重ねの前に厳粛であるべきだ。
>要するに、歴史的事実の積み重ねに対して認識主体の解釈は過度であってはいけないということだ。
 
第二。しかしながら、高校世界史レベルの記述には最大の欠陥がある。叙述者も十分承知の上で書いている。
(韓国のある検定歴史教科書を読むと、教科書の冒頭に、ハッキリとこの最大の欠陥について、釘を刺している。なお、韓国史の高校歴史教科書は非常に精緻で分量も多い。近現代史は別枠で教えているようで、此方の方は、アメリカ的授業の討論、レポートを重視している。日本と朝鮮半島の関係は、帝国主義本国と植民地の関係であり、解放され現在に至る植民地側が、抵抗主体を中心に歴史的叙述をするのは当然のことであり、戦前戦後の列国の末席に連なった日本とアメリカの関係とは位相を異にしている。歴史的事実の積み重ね、歴史の順序を無視した議論をするから、位相の異なった両者の関係の混同が発生する。)
 
ソレは教科書検定のあるなしの問題以前に、歴史の推移の最大限の注意を払った叙述が、歴代の支配層の動向やその制度を中心に描かれていることの問題点である。
ところが実際のところ、いつの時代にも民衆を支配する側の支配層よりも、民衆の側の人口が絶対的に多い。
しかも、その労働によって富を生み出してきたのは民衆で、支配層は、民衆の生み出した富を収奪する側に回ってきた。支配層が層として再生産された物的基礎は、暴力的宗教的支配と民衆の生み出した富の収奪よるものである。日本史も一応含めた中世、封建時代の最大の特徴はココにあると考えるが、そうした民衆の動向は、教科書的歴史叙述では闇から闇に葬り去れていると云っても過言でない。
 
 この歴代の支配層と民衆の関係を支配層の政治思想で合理化したのが、ホッブスのセキュリティー国家論であり、内外の脅威や混乱から、権力によって守ってやるから、身を預けよ!そしてその対価として貢物を捧げよ、と云う訳である。今もこの論法は陰陽に支配層の使う支配合理化の論理である。
ところが、戦前の日本支配層は、このヨーロッパ封建時代の支配層の民衆支配の「契約」的論理さえ、情勢が煮詰まってくると打ち捨ててしまった。国体主義の根本はコレであり、アベ等が押し進めている政治この論理の国家ーグローバル複合体への適応形態である。
どうしてそうなるのかと云う理由の大半も近世日本史の中に回答を見出すことができる。日本中世近世史とヨーロッパのソレは質的に全く別物である。日本民衆は敢えて云えば、総体として行為として(年貢ムラ請負の忠実極まる実行主体が250年を超えると民衆側に従順の刻印となる)、進んで支配されたがった、という歴史的地政学的事実の読み替えが、自己反省的に出現するようになり、ここ20年程の時代の推移の民衆的真相があぶり出された。
 
第三。以上のような限界を超える方法は、民衆の側の労働、生活が必ず、視野に入るニュートラルな社会経済史の専門的知識に学ぶしかない。
日本の中東専門家の欠陥は、得てして専門知識を習得する途上かそれ以前か知らないが中東側にシンパシーを抱いた結論が予め設定されているようである。並列して、政治感覚の大きな違いから、偏見や素朴な情報を受け入れる余地があり、前者と後者の両極端で真ん中の立場を掘り下げようとする機運が欠如している。
 
確かに、今紛争が暴発している地域は、13世紀半ばのモンゴルの侵略によって、それ以前の歴史的先進地域として保ってきた政治軍事「経済」の広域統一的ヘゲモニーを喪失したまま、中世ヨーロッパの興隆に対抗しつつ、徐々に分断分裂し、近世ヨーロッパの文化的発展から、近代に至る過程で、トルコ系帝国の従属地域、20世紀の二つの世界大戦を通じて英仏米の従属地域になった。
 
 このような大きな歴史的過程において、この地域のイスラム教とイスラム世界の変節が進行した。元々、宗教構造として、支配者の政教一致の典型のような教義が、広域の統一したヘゲモニーの喪失故に、その時代の支配に従属した地域を「解放」する抵抗の論理にすり替わった側面が濃厚である。脱宗教化、世俗化の容認は、従属からの解放の論理の希薄化につながるので、当該地域内部の支配被支配関係に関わりなく、絶えず、尖鋭な原点回帰が希求され、ソレまた一般化し、その意味でイスラム教は『原理主義の政治行動を内包している。
サウジやイランの実情はこの視点で理解できる。
そこにイスラエル建国、とオイルラッシュとそれによる富の偏在、強力な軍事力経済力を持った英仏米、副次的に旧ソ連の戦略的介入が重層し、情勢を混沌とした。
 結論的にいえば、こうした文脈は歴史的事実であっても、その中からだけでは全体像は、見えてこない。
>だから、多くの人たちが、自分の目で現地を見てみたい体験したいと、欲求するのだろう。
>しかし、そういったジャーナリステックな視点よりも、今の日本の人々にとって大切なのは、民衆の側の労働、生活が必ず、視野に入るニュートラルな社会経済史の専門的知識に学ぶこと、である。
 
 
参考資料
W。見ての通り、4000年~5000年前のメソポタミア、エジプトの人類の文明の発祥地であった。
農耕が開始されたのはメソポタミアであり、最初の国家はこの地域で生まれた。チグリス、ユーフラテスの肥沃な流域では、一粒の麦の種から、40粒~50粒の小麦が採れた。その後の気候変動や、耕作による土壌劣化、エネルギーと資材源としての森林伐採による砂漠化の影響で、生産力に影響を与えただろう。
W。中世ヨーロッパを凌駕していたイスラム国家の力関係が逆転した根本原因は、森林に覆われたヨーロッパの11世紀以降の大開墾時代にあった。この農業生産力の発展を基礎に、先進地域のイスラムへの十字軍遠征は暴発し、ヨーロッパ世界の膨張のキャッチアップの契機となった。
他方、先進イスラム地域の重要な経済的基礎は都市文明の交易であった。最盛期の10世紀ごろのバクダッドの人口、150万人。信じられない。根本的富は労働から発生するのであって、モノの売り買い、交換関係からは、発生しない。
大きなスパンの歴史の大逆転がここに発生した。
 
 
非常の分かり易くて面白い高校世界史の解説。
 
1)の饒舌な解説を、世界史の箇条書きにして、にまとめてくれている。
研究文書は専門的で、ハッとするような解説がある。

W。この文書の全文はまだ読んでいない。アップしながら、気づた事を書き添えていく。
 
[PDF]中東を知る  http://www.ritsumei.ac.jp/ir/ir-navi/common/pdf/chiiki/chiiki_text_02.pdf
1.中東の定義
W。この項目で注目すべきは、日本の研究者が、フランスの研究者の中東の定義に依拠しているところである。
英国とともに中東地域への介入者であったフランスは中東研究の蓄積がある。
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参考資料
「アラビアンナイト」を有名にしたのはフランス人だった
http://textview.jp/post/culture/10722
「「アラビアンナイト」を有名にしたのはフランス人だった。
「世界中の人々を魅了してやまない「アラビアンナイト」。その原形ができたのは9世紀ころとされ、日本で言えば平安時代にあたる。
 
W。源氏物語よりも100年以上前、アッバース朝の最盛期であるが、物語のコンセプトが全く違っている。
源氏物語=一国平和状況の平安時代。宮廷女房の立場をでない宮廷の空想的記述。漢文を超えた和文の文芸作品と云える。日本的私小説世界の原型であり、物語としてのダイナミズムはない感性の世界のの開示である。
アラビアンナイト=インド、ペルシアの伝説を継承した、アッバース朝のもっとも繁栄したバクダッドシリア地域の歴史的なダイナミズムに基づく物語形成。(広域的統合の物語である=当時としては世界性を持った物語。)→アッバース朝衰退以降のイスラム世界の形成下の様々な物語の取り込み。
源氏物語=一応、小説の形式=単独作者。アラビアンナイト=千夜一夜物語の基本形式は王に殺されないために妃が次々に面白い話を長く続ける。(ただし千の話ではなかった)が、様々な物語を追加=伝承+記述物語の複層。物語の基本形式が王と妃のね物語なので、幾重にも物語りりを重層できて、かつ、追加できる。
 
参考資料
アラビアン・ナイト|全18巻+別巻
松岡正剛 千夜一夜物語 https://1000ya.isis.ne.jp/1400.html
W。源氏物語と比較すると、当時の日本と中東、ヨーロッパの決定的違いが良くわかるのではないか。
 日本で云われ来た小説(私的感性大事)とノベル(ドラスチックな物語性大事=私的体験では不可能)の違いの分岐点はココに始原がある。
 
「現代における根強い人気に鑑みれば、アラビアンナイトは当時から絶えず読み継がれてきたように思われるが、18世紀にあるフランス人によって見出されるまでは、中東でもそれほどポピュラーな作品ではなかったという。」
彼の名はアントワーヌ・ガラン(※1)といい、フランスの田舎町のロロで生まれた東洋学者です。
W。フランス文学化したのであろう。
ガランは17世紀末に何度か中東を訪れましたが、文学の探索のためにかの地にやってきていたのではありません。
任務は宗教的なものでした。当時のヨーロッパは宗教改革をめぐって争っており、カトリックだったルイ14世はプロテスタント勢に対抗する情報を集めるために、ガランをレバント地方(シリアやレバノンなど)の東方教会に遣わしました。そして、ガランの日記から推測すると、中東からフランスに戻った後の1701年、15世紀にシリアで筆写されたとおぼしき3巻のアラビアンナイトの古写本を手に入れたようです。」
>しかしガランは、アラビアンナイトより先に、それとは別にどこかで入手した「シンドバード航海記」の写本の翻訳にとりかかります。
>そうです。「アラビアンナイト」と「シンドバード航海記」は別個の本だったのです。当初ガランはおのおのを独立した翻訳本として出そうとしていたようですが、「シンドバード航海記」の翻訳後に、どういう経緯かはわかりませんが、この物語は「アラビアンナイト」という長大な物語集の一部だと信じるようになり、アラビアンナイトの翻訳にとりかかると、「シンドバード」をその一部に組み込んでしまいました。
>ガラン翻訳のアラビアンナイトは1704年から刊行されはじめたのですが、世に出るや斬新な内容が読者の支持を得て、大ヒットとなりました。
>その噂を聞いてイギリスでもすぐに英訳が出され、こちらもベストセラーになります。とりわけイギリスでは「チャップブック(※2)」と呼ばれる安価な大衆本になって出回ったため、フランス以上に版を重ねてよく読まれるようになりました。
>本家本元の中東では、市民が写本を所持するようになってはいたものの、印刷術の導入が遅れたこともあり、印刷された書籍が広く読まれるという状況ではなかったのですが、市民社会が急成長しつつあったフランスやイギリスでは、一歩先んじて幅の広い読者層が成立していました。このため、休眠していた種が芽を吹き、花が咲くようななりゆきとなったのです。」
W。ガランの時代以降のヨーロッパのアラビア観は資本主義化、帝国主義化によって、明確に中東=後進地域としての位置づけに変転した。
ヨーロッパ先進地域と中東地域の(オスマントルコ、ヘゲモニー)の軍事的経済的政治的立場が完全に逆転しきったのは、18世紀である。
すなわちこの歴史的文脈で読み取れるのは、ヨーロッパにおける、新大陸発見(新大陸住民、土地資源の大収奪)→ルネッサンス→宗教改革→(絶対主義王朝による中央集権国家機構の形成→市民革命→産業革命のヨーロッパ中世以降の近代化のへの脱皮過程である。
この経済的始原は、ヨーロッパの大開墾時代の土地生産力の急速アップとキリスト教の蛮勇である。
ここにおいて、急進ヨーロッパ世界に対して、鎖国東アジア、中東は歴史的アダージオ世界になった。

「1.中東の定義
(省略しても良い)
 
2.中東研究の学び方
(1)中東を知るための鍵たる要素
A.アラブという概念
キーワード <アラブ>→中東近代史を読み解く際の鍵。 <イスラム>→、中東社会を知るための鍵
>「アラブ」とは、
(W。この項目で指摘していない重要な点。イスラム教の創始者ムハマドの存命時期の7世紀中盤までかつそうしていた地域は、メジナ、メッカのオアシス、砂漠地帯であり、その後3代続く、正統カリフと呼ばれる時代に、肥沃な土壌のあるイラク、シリア方面に支配地域を拡張した。以下のようなまとめ方は、社会経済史を無視した日本で流通しているアラブ観の焼き直しであり、修正していない。イスラムやアラブを大地におろして、自分が理解し易いように修正するのがこの記事の目的である。
                        ↓
もともと、「遊牧民」の意味で、アラビア半島に住み、後には、中東全域に拡大していった種族を意味し、アラブ化した人々をも含んでいる。
この語は今日では、その人種的な帰属によってよりむしろ、アラビア語という言語並びに一神教に基づく、一つの世界観、一つの政治、法律、社会秩序への帰属により定義される。
アラビア語を母語とし、その歴史と啓典の民としての価値観、文化遺産を共有し、アラブとして共に生きようという意志を持つ者はアラブなのである。
W。当然にも、メッカ辺りの言語が支配地域の拡大とともに広まっていった。
 
>アラブ民族主義は、
*もともと、東方問題(オスマン帝国の弱体化に付け入った欧州諸国のバルカン、中東進出により生じたギリシア独立、クリミア戦争、オーストリアによるボスニア・ヘルツェゴビナ併合等の一連の国際紛争)をめぐって、
*<宗教的対立を越えてアラブ民族としての一体性>を説いた<キリスト教徒の知識人達にその淵源>を辿れる。
W?論拠を明示していない!
W。イギリスの長大映画デビットリーン監督、ピーターオトゥール主演「アラビアのロレンス」の舞台。映画の内容から、上記も歴史的事実かもしれない。
フセイン、ファイサル親子やイブン・サウドの闘争は、オスマントルコからのサウジ地域の独立が最優先で、それよりも広範な地域を含むアラブ民族主義の大テーマ(大風呂敷!)を持ち出していたのは、ロレンス側だった。
   ↓
第一次大戦では、枢軸国側に立って参戦したトルコに対する押さえとして、トルコに対する独立を目指したフセイン、ファイサル親子やイブン・サウドの闘争をイギリスが利用する過程でクローズ・アップされ、強調される。
W。アッバス朝衰退から、この地域の主導権がトルコ系に移行し、イスラム世界が分断されたから、500年を経過する間に、かつての正統カリフ時代の広大な領域国家の共同政治幻想を国家観に昇華する政治能力は欠如していた。ここが、政教一致のイスラムと云えども、宗派性の大きな限界から逃れられないところである。
中世ヨーロッパはカトリック教皇の下、十字軍遠征で一応まとまったが、イスラムはムハマドから4代目の正統カリフ時代に、後継者アリーを否定するスンニ派と支持するシーア派に分裂した。コレは宗教改革と何の関係もなく、乱暴にいえば、動物的血統の正当性を争うものであった。日本でいえば、南朝と北朝の対立のようなものである。
 
しかしながら、帝国主義の時代の半植民地地域に問われてた大テーマは、民族的国民国家形成としてのまとまった抵抗だったので、ファイサルらがサウジ領域のトルコからの独立を願ったのは、真っ当な政治方向である。
イギリス、ロレンス側の大アラブ構想を持ち出すのは完全に大風呂敷であり、中東地域でのトルコによる分断を恐れた反トルコ戦線の拡大を狙ったものであり、アッバス朝崩壊以降の歴史的経緯から、地域がまとなるはずがないものを、敢えてまとめ様とした。
 
>W。第二次世界大戦において、ドイツオーストリア側で参戦したオスマントルコの敗北によって、英国、フランスはサイクス=ピコ協定 - 世界史の窓によって、オスマントルコ領の中東地域の各々の分割当地を決定した。

>法律、政治、文化・社会的に、中東研究の要となるのは、<アラブ>と<イスラーム>である。この二つの概念は必ずしも一致しない
 
 続く
何だかこの文書も、日本の従来のアラブイスラム観と大して変わらないなぁ~。
もう少し、様子を見てから、このままの調子が続くようなら、イスラム圏の社会経済史に特化した文書を探してきて、乗り替える。