反俗日記

多方面のジャンルについて探求する。

アラブ民族主義の退潮とイスラム原理主義

 2016/1/18(月) 午後 6:09 冒頭引用。
「どのような宗教や政治思想でも「原理」主義は偏狭独善性、暴走破壊性を秘めているというのが、体験的感想である。
理由はいくつかある。
その原理は「  」付きの原理であること。原典の教義、主義の独創的体系的な再解釈をしているので、それなりに時代状況に適応する訴求性、急進性、原理性がある。ただやみくもに原典回帰をしているだけであれば、偏狭独善性、暴走破壊性パワーのイデオロギー的原動力にはならない。
とはいっても「原理」主義は普遍性のある宗教や思想が、各時代状況の対して柔軟に適応し、実際上再解釈されてきたことを、厳しく否定する。ソレらは教義の根本からの逸脱をみなされ、時には激しく断罪される。」

 

 

  若者人口過多(サウジアラビア人口構成中央値年齢25歳、日本45歳)、教育にふさわしい職がない、地域の目の前に緊迫した情勢がある、カネ、コネ、武器のリクルート網が身近にある。

 
>このような状況において、武器を手にした殺傷行為の抑止力になるべきハードルは低くなり、ソレを超えた向こう側に戦争状態の世界がある。

人間らしい感覚がマヒ状態になる。 宗教の理屈は後から付いてくる

 

>そもそも、ソレらにたいした深みはなく、取ってつけたようなもので、政治思想に値しない。

 

>結局指導者たちの無能、政治責任に帰着する。

 

>更にそれ加えて、国家ーグローバル資本複合体の主導する時代状況を前提にすると

中東内外の大きな政治軍事力に利用される政治力学が働いています

彼らの動向そのものが、欧米日本の国家ーグローバル資本複合体の世界戦略の完全に将棋の駒、ブレジンスキー流にいえば、<偉大なるチェスボード~究極の目的は米国の対空軍事能力に唯一対抗できるロシアの軍事リ力を包囲、無力化すること>として、利用されています。

 
 シリア情勢はウクライナ情勢のこれからの推移に重大な影響を与えます。
故にロシアは積極的空爆に動かざる得ないわけです
 
>シリアーウクライナ程の連動性はありませんが、東南アジア~東アジア情勢の推移にも影響を与えます

>今の彼らは、そういった状況を感知していても、正面から見据えると、自分たちの存在理由の否定になるので、内外の国家ーグローバル資本複合体の戦略の中に、隙間に、己の存在理由を求めている状態と見ます

 
>しかしながら、「反俗日記」の真意は、まず何よりも、情勢に対する余計な危機意識を取り除いていくことです。
状況総体を突き放して見つめ、ソレが今後どのように動いていくか、予測し、付加体列島原住民としての政治思想を身につけていくことです。
 
(注1)アルカイーダ系、IS系、その他シリア内戦のイスラム軍。
 
サウジはシリア和平交渉において(注1)グループを自己のスンニ派原理主義の浸透に利用する立場をとっています。アラブの春以降のイエメン紛争の空爆介入に露骨に表れています
理由は、スンニ派から生まれたワッハーブ派原理主義の宗教イデオロギーはISの反動的な宗派独裁政治に親和性があるからです
 
 
 引用
「「イスラム国」(ISIL)出現の背景 一般社団法人 平和政策研究所
 
― 近現代イスラーム思想史から考える ―
東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所所長 飯塚 正人 2015.11.12
 
「3.サウディアラビアという先輩(影の同志)
 シーア派を敵視する政策をもつという意味では、歴史的にISILにはサウディアラビアという先輩がいる。
 
W。中東政治を分裂させる宗派主義の総本山。結局油とムハンマドに帰着する自ら大きな外部勢力に利用されることを望んでいる戦略方向。
 
もちろん数百年という時代差があるから、同列に扱うことはできないが、ISILについて考える上で参考になるので、最後にサウディアラビアについて見ておこう。
 
 サウディアラビアの歴史は、今日的な感覚で言えば「イスラーム過激派」以外の何者でもないムハンマド・ブン・アブドゥル=ワッハーブ(1703-92年)という法学者が18世紀にアラビア半島中部のナジュド地方でイスラーム純化闘争を開始した(1740年)ところにまでさかのぼる。彼らはクルアーンのいわゆる「勧善懲悪」思想に基づいて、実力行使を行った
 イスラーム純化を目指したワッハーブもそうした立場に立って、イスラームに反する行いをしていると彼が考えた人々に対し、実力を行使してでも止めさせるという運動を始めた。もっとも彼自身は、もともと一法学者でしかなく、二人の弟子とともにそうした運動を始めたものの、逆に命を狙われることもあったという。
 
 1744年、彼らはリヤード郊外のダルイーヤ・オアシスの小豪族サウード家と同盟し、以後、武装闘争はサウード家が担当した。そして73年にはリヤードを征服し、さらにイラクに侵攻して、シーア派の指導者たちの聖廟を破壊する。
ワッハーブに連なる人々はそれ以来、今日までシーア派に対する激しい憎悪と敵意を維持しているのである
 W。サウジアラビアは、中東政治の混迷化させ、欧米介入勢力優位を作り出す宗派対立の政治地図を持ち込む頑迷反動の中東政治の総本山です

 1932年にサウディアラビア王国を建国すると、同国政府はワッハーブ派の「過激派」色を薄め、
>W。重要。 スンニー派諸国とある程度協調していく道を選びつつ、ワッハーブ派宣教国家として各地の「原理主義」運動を支援する
>一方、当時発見された原油を破格の好条件で買ってくれた米国との間でも親密な関係を構築してきた。
>W。重要。 そして今日もなお、サウディアラビアの外交の柱は、民主化の阻止とシーア派の敵視にある。
例えば、チュニジアやエジプトの「アラブの春」に際しては、民主化の阻止に力を貸す一方、シリアとイラクにおいては、シーア派政権に対する武装闘争を支援している。
>W。次の指摘によって、もっと事情がリアルにつかめる。かなり単純図式になっているが、大きな流れの把握は間違っていないろみます。
 
「ISILのイスラーム
①ISIL成立までの経緯
  2003年にイラク戦争が始まった頃、アルカーイダ系のグループに属するヨルダン人のアル=ザルカーウィー(A.M. al-Zarqawi)らがイラクに入ってきて、後に「イラクのアルカーイダ」を名乗るようになった。
彼らは元々外国人部隊だったが、米軍の爆撃によって徐々に幹部が殺されていく中、イラクフセイン政権の官僚(元バース党)や軍人が合流し始め、彼らがリーダーになっていった(イラク人の反米活動家中心の組織に衣替え)。
 
>その後、米国の後押しでイラクシーア派の移行政府および正式政府が誕生し、旧フセイン政権のスンニー派が排除されていく中で、反米・反シーア派色が前面に出てきた。
 
     *ところが2011年から13年にかけて、大きくフェーズが変わっていく*

>この時期、ISILは「反米」をほとんど主張しなくなり、むしろ反シーア派色を鮮明にしていった。
シリアのアサド政権をシーア派と位置づけ、シリアに「イラクイスラーム国」(「イラクのアルカーイダ」から名称変更)を名乗る人々が入って行き、反政府・反シーア派運動を展開。
 
>2014年になってISILがイラクに侵攻し始めると、イラクシーア派政府を後押ししていた米国との対立が再び始まる。
 
>こうした点をみても、ISILは反米一色のアルカーイダ系W??とは違い、反米、反シーア派の色を揺れ動きながら伸びていったのである。
②カリフ職復活宣言の意味
 2014年にイラク国内で急速に勢力を拡大すると、6月29日にISILは建国宣言、カリフ職復活・就任宣言を行った。この時点でも、彼らの基本的なターゲットはシーア派だったと言える
>しかしながら、スンニー派でもISILに同調する国はなく、中には有志連合の一員として米国とともにISILを攻撃する国もあったことから、ISILにとっては、この戦いをどのような理屈で正当化するかが問題になった。
 
*彼らもイスラーム原理主義である以上、イスラーム法に基づいて戦争を正当化する必要があるからだ。
*そこで、彼らがカリフを立てたことが大いに役立つことになる。
ISILは「カリフに従わないイスラーム教徒は反乱罪だ」という論理でスンニー派同胞の殺害を正当化できる唯一のイスラーム原理主義組織なのである。
  以下はWと基本的に同じ見方であった。
   2.どうしてイスラーム原理主義に惹かれるのか
「どうしてイスラームは負けてしまったのか」と自問し、今後進むべき道を考えた。その答は大きく三つに分かれる   (近代化への三つの道)。
1)近代ヨーロッパのように政教分離を進める
(省略)
2)「真のイスラーム」の発見と解釈の革新
W。宗教改革に至らない、現実適応主義。多くのイスラム教国家は1)、2)の混合。
引用
「これら三つの道の中で実際に力を持ったのは、ヨーロッパ化したエリートが推進した政教分離政策であった。ただし、それをストレートに表現すると国民の反発が予想されたため、エリートたちは政教分離さえも、イスラームを再解釈した結果新たに発見された「真のイスラーム」なのだと主張したのである(イスラームの政治利用)。
引用。
「前二者の考え方に疑いを持った人々の中には、イスラーム法に忠実に従っていこうという真面目な考えの人も出てきて、それがイスラーム原理主義へと繋がっていった。ISILもその流れの一つと言えよう。」
 
W。中東全域に広がっているエジプト発のクトゥプ等のムスリム同胞団パレスチナガザ地区ハマス)もここに分類できる。
「 「イスラーム原理主義」というと、イスラームの初期に回帰していくようなイメージがあるが、必ずしも昔ながらの運動ではないということである。
>実際には、近代化を十分意識したイスラームの運動で、大塚和夫の言葉を借りれば次のように表現できる。
 
 「イスラーム主義者とは、早いところでは19世紀後半から開始された西洋主導の『近代化』(多くの地域では「植民地化」という形をとった)の流れを十分に意識し、それからの影響をさまざまな形で被りながら、
>それでもあえてイスラームをみずからの『政治的』イデオロギーとして選択し、それに基づく改革運動を行おうとする人々」である(大塚和夫『イスラーム主義とは何か』岩波新書,2004年)。」
 
W。結論的にいえば、イスラム原理主義の範疇に、ISからムスリム同胞団、果てはサウジアラビアまで含んで考えないとイスラム原理主義の理解と中東の大状況を良く見通すことができないと考えます。
 

>そういった基本視座からみると、ジャーナリステックな情報は厳しく選択し、大方は排除されます。
 
大和総研系のシンクタンク所属員のヨーロッパ情勢の記事にも目を通しましたが、あれは投資向けの情報屋の短期的な見解と見ました。このページには一連のヨーロッパ情勢記事が載っていますが、情報をうまく取りまとめているだけで、自分にとって価値はありません。
 

東アラブシリア情勢
は刻々のシリア情勢のフォローであり、民主シリア軍に重心を置いた記事は批判する必要があります。
このヒトの記事で評価できるのは、コレだけです。
 
混迷するアラブ情勢の今
~シリアをめぐる紛争をどうとらえるか~
 
>このヒトの一連の情報記事を読むと、どうやらシリア民主軍の進撃に活路を見出す立場に舵を切っているように読み込める訳ですが、研究者としてそれで良いのかと云う問題があります。
 
シリア民主軍=トルコ国境隣接地帯の最北部、米トルコ軍事力をバックに設置された「安全地帯」の拠点に米露(多分フランス)の空爆の援護を受け、トルコのクルド労働者党崩れのクルド民主党主導の制圧戦に
①大きな限界と
②問題点をみます。
 
①について。
IS、アルカイーダ系、その他の武装勢力の基本的な戦争戦略は人民戦争方式です。つまり「住民を盾にした」パルチザン、ゲリラ戦争であり、コレに対する地上制圧戦~点(軍事拠点)と線(道路網)の支配ではなく面(地域)の支配~が必須となりますが、その困難性は、直近のイラク戦争の米軍の制圧戦の行き詰まりでも証明されています。空爆に限界があることは、ロシアサイドの情報でも主張しています。
 イラク少数民族(8%最北部)、クルド人主体の軍隊に対する住民の民意も問題になります。
また、厭戦状態の住民は、中立的立場に立ち、民主シリア軍歓迎とはならない。
 
②サンクスピコ条約の国境線によって、分割されたクルド人の独立国家建設願望を利用する欧米介入勢力のたイメージ 1くらみの発端は、バルフォア条約によるパレスチナ地域のユダヤ人国家建設三枚舌外交 - Wikipedia~これにより第二次世界大戦後のパレスチナ問題クルド人問題など多くの問題を生じた。~で明らかであり、その現在版を、イラク北部の油田地帯が欧米メジャーの利権とつながったクルド人地帯に事実上分離され、トルコを通じたパイプラインの完成によるく国家の統一性の破壊と、富の海外流失の現状に見出せます。
同じ手法をシリア内戦の混乱に乗じて適用しています。
イスラム国:シリア最大「オマル油田」も制圧
 
毎日新聞 2014年07月04日 11時18分 来栖宥子 午後のアダージォ - Gooブログ より転載。 >シリア内戦の向こうに利権がらみの、事実上の分割状態が見え隠れしていますが、結局、国家ーグローバル資本複合体の新自由主義政策に収斂せざる得ない、アラブの春勢力の一部には、こう云った観点を見出すことができません。 もっともこの政治思想地図は欧米日本でも当たり前になっていますが、従属地域である中東地域ではソレが露骨に国家の富の流出に直結し、国民国家の財政基盤を破壊します。政府が財政基盤を弱体化させると、多くの国民は困難に直面します。 >ヨーロッパに向かう難民の一部は、こう云ったシリアの将来に見切るをつけているとみます。アルカイーダ系と同じメダルの裏表の関係にあります。 以上、この論者は一切語っていません。
 納得できる情勢分析を探したが、なかなか見つからなかった。
どの解説にも、共通して、1967年第三次中東戦争のアラブ側の大敗北を受けて、それまでのアラブ民族主義への想いが失墜し、イズラム宗教勢力が伸長した、と説明されているが、そんな簡単なものかと云う実感がある。
 
 
  引用。この解説記事を読めば、疑問は多少晴れる。この記事の論調をそっくりそのまま詳しく展開した日本国際問題研究所、主任研究員の2014年の論文を後で上げる。外務省委託の論文で、ネットの中に埋もれていた。
 
教えて! 尚子先生
イスラム原理主義」とはなんですか?【中東・イスラム初級講座・第24回】
~アラブ民族主義の失墜がイスラム原理主義の台頭を招いた~
この解説記事の中に「そんなお手軽でいいものか」というWの疑惑に答える内容は数行しか示されていない。
 
日本国際問題研究所の論文とそっくりのイスラム原理主義は自然発生的に伸長したのではなく、体制維持のため政治の利用を契機とする、という論調である。
引用該当箇所
「そもそも1967年にイスラエルとの第3次中東戦争によってアラブ側が大敗し、アラブ民族主義が失墜してしまったことを契機として急速に広がったといわれています。
ですが、イスラム原理主義は自然発生的に広がったわけではないとも指摘されています。
ところが、アラブ民族主義に陰りがみえはじめると、政権側が体制を維持し、支配を正当化するために、為政者たちはイスラムを積極的に取り込んでいったのです。この典型的な例がエジプトのサダト政権(1970~1981年)です。」
W。後述の各国の原理主義伸長、変質の解説も論文を手短に取りまとめたものといえよう。出典は、明記すべきである。
論文では、エジプト、アルジェリアタイプの比較を基準にⅠ期、2期、3期を区別し丁寧に解説しまとめで、過激原理主義への対処の処方箋まで付け加えている。
 
W。なお、体制側のイスラム原理主義の取り込みは、自身の体制維持という機械的な動機だけではなく、第三次中東戦争の大敗北による支配する側のアイデンティー喪失を、イスラム主義の純化によって民衆を統合支配する側のアイデンティーの回復に、求めた結果でもある。
 
>対イスラエルで形成されてきたアイデンティーが大敗北のよって出口を失い、イスラム主義の純化に出口を求めた、と云う極めて安直な後先考えない対応がなされた。
ちょうど、OPECの石油価格カルテル結成から、駈け上る時勢であった。経済主義と宗教主義、民族主義が交差し混沌として政治思想的に整理されないまま、情勢に流されていく時期だった。
 
>参考解説記事によって、アラブ民族主義のヨーロッパ国民国家形成から~オスマントルコを経由して、アラブにもたらされた由来が、想定されるようになっている。ここには第一次世界大戦のイギリスフランス(人工的にええつけられた感のあるアラブ民族主義)VSドイツオーストリアオスマントルコ構図は示されていない。
2014年3月31日 1の記事はフランス語で云う中東の領域とアラブの区別であるが、アラブ民族主義の人工性を浮き立たせている。
 
NO2記事
   何をもって団結すべきか」の問いに、言語による団結を選択したアラブ人
「実は、アラブ人も他の○×人同様に、19世紀後半からアラブ人として一つの国(近代国民国家)を建設しようとした歴史があります。西ヨーロッパでは19世紀中盤から後半にかけて、近代国民国家、つまり一つの民族が一つの国家を建設するという思想にもとづいて、国家建設がなされました。
 
W。興味深い歴史なのだが、19世紀後半からアラブ人として一つの国(近代国民国家)を建設しようとした歴史とは一体何を指すのか、イスラム教宗派主義との関係をキチンと論証されてないので説得力に欠ける
 
西ヨーロッパの中でも地方の力の強いイタリアやドイツなどでは国民国家建設は難航しましたが、この思想が広大なオスマン帝国に伝えられたのですから大変です。現在、アラブ人と呼ばれている人々は、まず何をもって団結すべきなのかという問いに直面したのです。

オスマン帝国イスラム教にもとづいて統治されていました。
しかし、オスマン帝国や植民地から独立を果たすためには、
>W?上からの人工的民族形成そのものである!アイデンティー希薄。そもそもこうした政治方向と国民国家形成やスンニ派シーア派分裂、部族を束ねる君主部族制の庶民レベル浸透の実情がかみ合っていない。
 
>最大公約数となるような「民族」の条件を考え出さねばなりません。
団結できる人数の最大化を図るために、宗教にはこだわらず、言語による団結を選択したのです。」
 
 「We are Arabs!」に込められた、国家の枠組みを超える強い連帯感!
(省略する)
 専門的な解説の必要な分野であり説明不足。
各地域の部族を宗教によっておりまとめ、各地域の絶対君主国家成立までは展望したけれども、第一次大戦中に、オスマン帝国からアラブ国として独立を果たそうとした「アラブの反乱」~に「We are Arabs!」に込められた、国家の枠組みを超える強い連帯感!はほとんどなかった。
 
 映画「アラビアのロレンス」を見た限りの印象では、ロレンスの計略(大アラブ主義扇動の対オスマン包囲網のトルコ統一戦線の二枚舌→三枚舌)にアラブ各首長は、宗派国家独立で答えたのである。
このアラブ民族主義の実体性のなさが、ユダヤ人移住、バルフォア条約承認に結びつく。もちろんサンクスピコ条約によって裏切られたのだが、アラブ民族主義はアラブの側にとって、アラブの実態に合わない大風呂敷過ぎた。
そもそも、中東地域の主導権をモンゴルの侵略以降、イスラム化したチュルク人に譲り渡している歴史経過があり、民族的国家の主体形成の歴史的契機を長く喪失してきた。政治思想的営為は途絶していた。
そしてスンニ派化したオスマントルコの支配を受けたので、民族主義的反抗、集団意識形成の契機を失ってきており、部族統合の地域の宗教君主制でしか対応できないのは必然である。
 
だったら、衣が脱ぎ捨てられるが如き、アラブ民族主義にも深みも中身はなく、もっといえば、原理主義の政治活動に代表されるようになったイスラム宗教主義もお手軽なものじゃないだろうかと云う疑惑である。
この疑惑は、
①日本が西洋に直面し対処した時の選択であった明治維新や、
大正デモクラシーの国体主義への展開、
③敗戦後の日本政治の在り方という近世近代現代の日本歴史に引きつけて考えることができる。
拡大家族形態に根ざした氏族~部族の在り方にピッタリ張り付いた習俗習慣の宗教主義による共同政治幻想による統合は、いわゆる近代化=資本主義生産関係への急速な転換の障害になることは、歴史的に自明の理であった。
ここにも、アラブ民族主義の挫折の要因をみる。宗教政治幻想による帝国主義への民族自立解放の反抗には大きな限界があることは歴史が証明している(太平天国の乱、北アイルランドの対立)

さいごに時間不足で
 [PDF]第 1章 アラブ世界のイスラム原理主義―その変質 - .日本国際問題研究所
                                                   主任研究員松本弘
を引用する。
 参考資料
「1.はじめ
小論の目的は、
>アラブ世界におけるイスラム原理主義が変質しており、その結果として今回のテロ攻撃が起こったのではないかという問題関心を説明することにある。
それは、イスラム原理主義そのものが過激であり、その延長線上にテロ攻撃があるのではなく、
近年の変化のなかで過激派が少数化していく傾向があり、その少数化ゆえに彼らがより先鋭化した結果が、今回のテロ攻撃なのではないかという評価である。

今回のテロ攻撃は、初めてアメリカが直接の攻撃対象になったものと言われている。
これまで、自国の体制や政治的指導者を対象としてきたテロが、なぜ今回アメリカに向かったのか。
また、首謀者や実行犯がアラブ人であるのに対し、その最大の活動拠点はアフガニスタンとなっている。
どうして、彼ら活動家の自国ではないのか。
未だ妥当性のある説明はなされていない。本稿の論述は、その疑問に答えることでもある。
そのためには、今回のテロ攻撃との関連という視点から、
                      2.イスラム原理主義への評価に関わる問題
一般に、日本の研究者のあいだでは「イスラム原理主義」という言葉は用いられず、「イスラーム復興主義」という言葉が使われる。
 実は言葉の問題は、それを意味する対象への評価の問題に直結している。
イスラム原理主義」は、アメリカのメディアによるIslamic Fundament a lismの直訳であり、
日本でもメディア先行で広まった言葉だが、アメリカのメディアがこの言葉を用いた背景には、アメリカのプロテスタントにFundament a lismと呼ばれる一派があり、そのイスラム版といった大雑把な理解があった。
そのような言葉のなかに、Polit ical Islam(政治的イスラム)およびRadica l Islam(イスラム過激派)があるが、
この2つに関してはイスラム世界の側から強い批判が生じている。
>「政治的イスラム
への批判は、イスラム原理主義という事象を政治の枠内に矮小化する、誤った理解であるというものである
 
W。重要。「今日の友は明日の敵」「為政者のその都度の都合によって、イスラム教を利用してきた。 
 
*要するに、同一人物が状況次第で「過激」にも「穏健」にもなるので、社会のある特定の分野や集団に限って論じても意味がないという評価と言える。

このような評価と今回の事件との関係は、どのように考えればよいのか。
やはり今回の事件は、イスラム原理主義そのものが原因となっているのか。
 
 しかし、筆者は別の見方をとっている。
それは、上記した「政治的イスラム」および「イスラム過激派」とそれへの批判との、言わば中間的なものである。
イスラム原理主義を個別的に限定することは確かにできないが、
*その総体を時間的経過とともに追い、全体的な変化や傾向を読み取ることは可能であろう
 
W。重要な視点である→すなわち、人々が過激化したり穏健化したりするのならば、それが個人の問題のみならず社会全体としての傾向を帯びている場合(過激化/穏健化する人々が増加/
減少する場合)、<その傾向を時間的な変化として見出すことができる>と思う。
その説明は困難を伴うが、以下に試論ないし仮説として提示してみたい。

           3.イスラム原理主義の変質
>アラブ世界におけるイスラム原理主義の変質に関しては、1970年代から現在までの展開を、3期に分けて考えることが可能と思う。
 
W。このような説明には、腑に落ちない、所はあった。そのそのアラブ民族主義とは、政治的大フレームとして統一的に存在しえたのか。自生したのではなく、欧米の対オスマントルコ戦略として与えられたもの。アラブ側はイスラ教の枠内の政治で反応した。
一般に、アラブ世界のイスラム原理主義勢力は、1967年の第3次中東戦争でアラブ側が大敗し、
アラブ民族主義の権威が失墜したことを契機に、従前のアラブ民族主義に代わるオータナティブとして急速に拡大したと言われている。

それは間違いではないが、アラブ世界における政治イデオロギーの主流がアラブ民族主義からイスラム原理主義に移行するプロセスには、見落とされがちなひとつのファクターがある。
 
それは、アラブ民族主義
W。大事な歴史的事実である!<アラブ民族主義が影響力を失った状況と、イスラム原理主義が台頭する状況の中間に>、
アラブ各国の政権が突然イスラムを鼓舞したり、支援したりし始めた事例が多く存在することである
 
W重要!ここでは便宜的に、そのファクターを「イスラム強調政策」と呼ぶが
これがなければ、アラブ世界においてイスラム原理主義が極めて短期間のうちに、政治イデオロギーの主流になることはおそらくなかったと考えられる
****
      -第1期-→W。ポイントアラブ民族主義失墜とイスラム原理主義伸長の間には、中間期があった。
 
「それは自然発生的に生じたわけではなく、当時の政権による作為を媒体としていたと考えることができる。
アラブ民族主義の権威失墜は、上記第3次中東戦争の敗退を契機としてはいるが、
その本質的な原因は、国民経済の悪化や政権の腐敗による政治不信からくる国内情勢の不安定化にあった。
1950、60年代に革命やクーデターによる体制変革が続いたのに対し、
W。支配体制はイスラムを人民統治に利用した。
 
70年代以降はデモや暴動が頻発しながらも、体制自体は維持されるという展開を「中東の構造的変化」と呼ぶが、イスラム原理主義の台頭はまさにその境目と時期的に符合する。
 
W。エジプト? 
①アラブ社会主義経済体制の破綻、②および政治イデオロギーとしてのアラブ民族主義の退潮を認識したアラブ各国の政府は、
①前者に対しては開放的な経済政策の導入やIMF・世銀の構造調整の受け入れ
②後者に対しては複数政党制の導入などによる民主化措置を打ち出す
*そして、そのなかで様々な「イスラム強調政策」が実施されることとなる。
*アラブ民族主義世俗主義であったため、それまでイスラムは体制からは無視同然の扱いを受けていた。
*それが突如、政権自身によるイスラムへの積極的な言及が始まり、それはあたかもアラブ民族主義に取って代わったかのように、
W。重要! 体制維持・政権維持のためのイデオロギーとして、また支配の正当性として利用されるようになっていった。
W.ナルホド。
その明確な具体例としては、エジプトとアルジェリアが挙げられる。
 
<エジプトでは>、
第3次中東戦争直後から、政府系メディアがイスラム特集を組むなど、イスラムを高揚・鼓舞する企画を続けるようになる。
W。一見、経済開放と国家社会主義勢力へのけん制要因にイスラム勢力利用はバランスを取っているように見えるが、イスラム勢力伸長という矛盾を抱え込むことになった。
 
70年に大統領に就任したサダトは開放経済導入のため、政権内部の左派への対抗手段として、宗教勢力の取り込みを図る。
 
 
71には憲法を改正して、イスラムを国教としシャリーアイスラム法)を法源とする条項を加えるとともに、ムスリム同胞団などの政治犯釈放を開始した。
 
73年の第4次中東戦争は、エジプト政府からジハードと規定された。この間、サダトは各大学に「イスラム集団」と呼ばれる学生組織を作り、左派学生と対抗させた。
 
76年総選挙は、当時の単独支配政党であるアラブ社会主義連合の党内各派が別々に候補者を立てる、複数政党制に近い選挙方式で行なわれたが、その選挙戦においては、すべての派が「シャリーア適用」
を公約に掲げた(サダト大統領率いる中間派が勝利)。
同じ年、ムスリム同胞団(1954年非合法化)は機関誌の発行を許可され、事実上の復活を遂げる。
 
 
 
W参考資料 石油輸出国機構 1970年代には石油の価格決定権を国際石油資本より奪い、2度のオイルショックを引き起こした。
アルジェリアにおいても>、
荒廃したまま打ち捨てられていたモスクが、
 
1970年以降は政府公認のもとで再建・新設されるようになる。
また、以前には情報・言論統制からイスラム原理主義的な発言が公になることはなかったが、78年頃からそのような政治的主張が黙認され、公然化する。
 
84年には、政府によりイスラム研究センターが設置されるとともに、それまでのフランス語に代わり、学校教育のアラビア語化が始まった(注1)
 
>このような変化は、エジプトやアルジェリアに限らず、時期や内容に違いはあるものの、多くのアラブ諸国に共通して見られる。
たとえば王制国家でも、モロッコでは79年に各大学にイスラム学科が新設され、左派系とイスラム系の学生による衝突事件が発生するようになるし、
 
当時のファイサル国王がウラマーに対する国家統制を進め、イスラムへの言及に国家がより強く関与するようになった。
 
W。重要! 
すなわち、イスラム原理主義と呼ばれる政治現象や政治勢力が影響力を急速に高めていくその当初においては、それは自然発生的に生じたわけではなく、
当時の政権による作為を媒体としていたと考えることができる

そのような状況を、ここではアラブ世界におけるイスラム原理主義の第1期と考える。
この時期において、イスラム原理主義の思想と勢力は、政府の庇護下または監督下で拡大していったものだった。
     
 
        -第2期-
政府と原理主義勢力との関係は、すぐに破綻する。
>その理由は、イスラム原理主義勢力が政府の統制を凌駕するほどに、拡大・隆盛していったことにある
 <エジプトでは>、
経済の悪化による暴動が続くなか、
77年にサダト大統領がイスラエルを訪問した。
これはエジプトの対イスラエル単独和平の始まりであると同時に、経済援助受け入れを目的とした西側への方向転換であったが、イスラム原理主義勢力からは強い反発を受けることになる。
その後も79年の最高イスラム会議設置、
 
80年の憲法改正シャリーアは唯一の法源)といったイスラム強調政策は続くが、イスラム原理主義勢力の体制批判は激化し、
 
81年にサダトムスリム同胞団メンバーの大量逮捕に踏み切る(サダト暗殺は、逮捕の1カ月後)。
その後のムバーラク政権下において、イスラム集団やジハード団といった過激派は、要人暗殺や南部での政府軍との戦闘、外国人旅行客への襲撃などを繰り返す。
アルジェリアでは>、
88年の暴動を契機として複数政党制が導入され、
 
翌89年にイスラム政党であるイスラム救国戦線(FIS)が結党された。
周知のように、91年12月の総選挙においてFISは圧勝を収めるが、その直後の92年1月に軍の介入により議会は停止され、
 
以後、イスラム勢力、特に武装イスラム集団(GIA)と国軍との間で凄惨な内戦が続くことになる。
 
>>このように、政権側の作為によって活動の基盤を得、民衆の支持を取り込んでいったイスラム原理主義勢力が、やがて体制批判もしくは反体制の立場を明確化し、弾圧に転じた政権と闘争を繰り返した時期を第2期と考える
 
W、失政である。
 
イスラム原理主義への現在の理解やイメージは、この第2期に関わるものであるが、これにはさらなる説明を要する。
 
省略する。