反俗日記

多方面のジャンルについて探求する。

ロシア革命の連続革命の展望喪失と、世界戦略の転換を明らかにし、スルタンガリエフと汎イスラム主義の現状考察。世俗宗教としてのイスラム教。新約聖書マタイ伝の高等話体引用。

 
先日、大きな図書館に、イスラム教そのものを論じた書籍があると思って出向いたが、書棚に一切なかった。
もちろん、書庫にはあるのだろうが、検索する気になれなかった。
その一方、キリスト教の書籍は5メートル以上の書棚に満載されていた。ユダヤ教の書籍も結構な数なのは、驚いた。聖書の一節を読んで調べて、旧約聖書新約聖書のつながりが分かってやっと納得した。
 
 
>この大きな図書館の現状が、そっくりそのまま、日本の中東イスラム理解につながっている。
 
日本ではイスラム教自体を学術として研究する専門学者が非常に少ない。翻訳者や研究者はいないことはなかったが、有力な後継者が育たなかったようだ。
専門分野として探求するに値しなかったのか。そういう疑惑は大いにある。
 
ムハンマドの初期の言動はそっくりそのまま受け入れられない。そこに宗教発祥の美しい物語はなく、リアルで当たり前の政治騒乱が宗教による政治統一の物語として肯定的語られている
教の衣で覆い隠せない事態と判断し、強い拒絶感がある
原因ははっきりしている。ムハンマド的環境を歴史的社会経済的に思考してしまう習慣が身についてしまっているからだ。
この価値観、美意識とムハンマド受容の宗教性の間には大きな溝がある。価値観と美意識があまりにも違いすぎる。
 
 私には世界中の13億人のイスラム教徒の人口が存在するなどと云う常識は100%ない。
この間の特集で得たイスラム教観は極めて世俗的な宗教であり、宗教的道徳律、習慣、家族形態にべったりと張り付く宗教であるということであった。今の時代に果たしてそこまで宗教にお世話をしてもらわなければならない人たちがどれほどいるのか、と考えてしまう。どこに住まおうが、各宗教のチョイスと云うことも全地球一体化の時代にはあり得る。
宗教フレームが世俗的日常的なのであり、宗教の祈りのフレームと日常の諸活動を分離させない思考が絶えず働いている、とみる。政治と宗教が分離されていないとよく言われるが、宗教行為と日常生活が分離できていない。ここまで宗教に侵入されると不都合も生じる。イエスユダヤ教の戒律を実行できない庶民に寄り添ったという話は納得できる。
 
 さらにこう云う日本人的な考え方もある。
第二次世界大戦後日本では深々と首を垂れることがあっても、土下座することは、庶民にとって屈辱的行為になっている。江戸時代はそうではなかった。参勤交代の行列には居合わせた街道の住民は土下座した。
なにも知らなかった幕末のイギリス人は薩摩武士によって斬殺された。コレが生麦事件であり、薩摩藩との戦争につながり、完全に彼我の軍事力の開きに驚愕し、政治戦略の転換を決断につながった。
日本人にとって土下座行為とは、明治維新への踏み台になった忌避する行為に転化した。土下座させる土下座させられる、土下座するすることは、異常事態そのものの演出であり、そこに屈辱や禊ぎはあっても、宗教的祈りはない。
 また、忙しく頭を低くして働く者にとって土下座は、二重の屈辱行為である。
ここまでさせる宗教は忌避される。
近代的自我の形成は日本近代文学の始原的テーマであり、その際に宗教的祈りは問題になったが、土下座宗教は論外であった。
 
こうした考え方に対しては、逆のことが云えるのだから、政治判断による妥協しかない。17年ロシア革命のヨーロッパ革命への波及=連続革命(英訳のパーマネントレボルーションの和訳や文化大革命の影響あるいは丸山真男の民主主義永続革命論の影響で永続革命などと誤解されている)が挫折して以降、現実政治の歴史は反植民地の民族解放、国家独立に重心を置く方向に、妥協点を見出してきた。
 
レーニンの「国家と革命」を現時点で読みこむと、ヨーロッパ先進各国(イギリス、フランス、スイス、ドイツの連邦制、民主主義制度の統治形態をコンミューン制の観点から分類。)と米国の統治形態を分類し、イギリスやスイス、(フランス)米国パターンでは、既存の国家機構をコンミューン形態の機構に置き換える必要はないのではないか、と受け取れる記述に注目した。リアリスト、レーニンらしい具体的政治へ執着である。
 
 
 ところがこの中で、ドイツだけは別格に扱われている。
第一次世界大戦ロシア革命の最中に書かれた、「帝国主義論」におけるドイツ社民の代表的理論家であるカウツキーへの激烈な批判は、当時のボルシェビキの党内合意では、後進工業国であり半農業国家のロシアの革命はヨーロッパ屈指の工業国であるドイツの革命に地政学的に連動しなければ、厳しい局面に突入するというものであった。
 
 しかし、1919年、ドイツの大衆蜂起は旧体制と社会民主党の妥協連合によって鎮圧された。政治的な独立性に乏しいドイツブルジョアジーとの合作のワイマール憲法の内容は旧体制の強権政治指向と社会民主党の議会制社会主義労働組合主義との妥協の条項が多く、ベルサイユ体制の賠償負担、世界大恐慌を通じて結果的にドイツ金融資本支配層は、ボナパルチズム政治の選択が短期間で行き詰ると、ヒットラーナチス党に政権を委ねる<決断>をした。カールjシミットが、ワイマール「民主主義」体制に対峙させた<決断の政治>はこうして始まった。
 
 以上がロシア革命を視座に置いたリアルな政治動向だが、レーニンの国家と革命では、革命後の過渡期社会の国家形態と独裁制の問題は、リアルな混迷状態への対処とコンミューン論のレーニン的解釈の政治思想として論じられていても、
ロシア革命の地理的拡張という政治スケジュールについて、政治思想の課題として一切、扱わず、先進各国の統治形態の分類と云うリアリズム政治の課題として取り上げているだけだった。
正しい対処法だと考える。革命の必要のない政治体制は当時も存在しているリアリストレーニン(革命の現実性)は間接的に認めたのである。ロシア革命の拡張を政治思想として、練り上げることはできるはずもなかったしその必要も感じなかった。ただし、ドイツ革命の連動の必要性は痛感していたので、激しく執拗なカウツキー批判が続いた。自分の影響力をドイツ社会民主党内に浸透させようとしたのである。コレがレーニンの現実主義である。空虚な大ぼらを吹かない、大風呂敷を広げない。
 
マルクスレーニンの著作で、世界革命と云う概念?が出現するのは、マルクスの「ドイツイデオロギー」のみであり、その未発表原稿が刊行されたのは、レーニン死後のドイツ社会民主党によるものである。
また、日本語の原典に当たってみるとその中での記述は断片的なものに留まっている。この見解に異論のある方はいまい。もちろんその世界革命への記述の根底には、産業資本主義段階と云う限界がある。
基本的にマルクスは学者であって革命家としては使い物にならない人である。
 
さらに。
レーニン「国家と革命」には一国社会主義可能論を発生する余地が多いにある。
この著書の主眼は進行するロシア革命過程において現状の国家権力がどういう云うものか(ブルジョアの主導権はあり得ない。反革命反動に転じる。)、どこにあるのか(二重権力状態である)、ソレが労働者兵士評議会への権力移行によって、今後どのように運用されるのかととう点である。過渡的国家形態については、無政府主義を批判しながら、詳しく論じており、独裁論が政治思想として全面的に展開されている。
 
 なお、池上彰の「政治を分からないまま社会人になってしまった人たちへ」では、真正面から、民主主義制度と独裁政治の実際の関係を明示している。
 
第1章  政治とは何か
1 政治とは何か
政治は『王様ありき」だった。
税金と政治の仕組み~W。王様の政治と徴税のことである。ヨーロッパの絶対主義王権は農民への徴税が都市と商業に課税することで、日本のような5公5民ではなくなった。経済発展のひとつの要因である。アッバース朝などのイスラム王朝の退潮は、農耕の軽視と見る。もっとも気候風土の影響も強く受けている。本質的に富が生まれるのは労働からであって、物流からは富が生まれない。
 
2『民主主義』とは何か?
民主主義の始まり ~古代ギリシアアテナイ民主政治をデモスの支配を民衆支配と日本人流にいい加減に読み変えている。厳密には戸籍と権限を一体化して保持するアテナイ市民(戦士)である。
 
>3民主主義とは、国民が政治家に独裁的な権力を与えること。
 引用 P22~23
「政治のスタイルは大きく分けて二つあります。~
一つは『君主制』や『独裁性』と呼ばれるものです。
コレは生まれつき、国家権力を有している人によって、独裁的な政治がおこなわれていることを指します。
 
W。池上は北朝鮮を例に挙げているが、アラブ湾岸諸国、サウジアラビア、ヨルダンは全部、君主世襲制。サウジなどは特定宗派政治を絡めているのでたちが悪い。
 
>コレに対して、現在、多くの国がとっている政治スタイルが民主制。(W。形態と云う意味で状況によっては形は変わるという歴史的事実をきちんと踏まえた用語の選択!)
コレは国民が選んだ人に対して、ある種の独裁的な権力を与えるtことを意味します。
政治家にはある種の独裁的な権力があります。
『民主政』と云う<名前W!>であっても、選挙で選んだ政治家に独裁的な権限を与えるのです。
 政治のスタイルは、独裁的な権力を生まれつき持っているか、選挙で選ばれたかによって大きく違ってきます。
>生まれつき独裁権力を手にしている人物は、国民が止めさせる仕組みがありません。
>その仕組みがないため、クーデターや内乱、革命と云った<暴力でしか>W。云いきっているところが凄い!権力者を引きずり下ろすことができません。
 
W。日本政治を想定すると含蓄のあるお言葉である。
コーポラリズム体制を選択した方が合理的だと考える。
実際にその時期の日本経済は発展していた。
現状の自公政権大阪維新の政治支配は、民衆の利益に背を向け国家ーグローバル資本複合体の国体政治化の道を進んでいる。国民国家は経済的に分裂しているのである。よって、国家主義によるイデオロギー共同体幻想による統合が必要になる。その役割の先頭に立って刷り込み作業にいそしんでいるのが、マスコミ媒体である。相手にしないこと。コレが一番の対処法である。
 
>その点、民主主義国家では、選挙で選ばれた人に独裁的権限を与えますが、
>うまくいかない場合は、次の選挙によってその権力を奪い、別のヒトにゆだねることができます。
 
つまり「とりあえず独裁ていな権力を与えて、政治を任せてみる。その結果、国民の希望にこたえる政治ができなかった場合は次の選挙で引きずり下ろして、別のヒトいにやらせてみる」という
この試行錯誤を繰り返せるのが民主主義です。
 
W。試行錯誤の少ない国々には北欧諸国が挙げられる。
 
民主主義は政治家を信用しない仕組み。
(省略)

 だから、1920年代半ば以降の革命の潮流の世界的退潮期を前にすると、スターリンソ連邦一国社会主義可能論が主流になり、その地政学的拡大が当然課題として浮上するが、政治思想の中身は空虚なままだった。
他方、連続革命のロシア革命方式は、先進国リアルな国際政治の場では(第二次世界大戦前の帝国主義の政治)、政治理念の喪失状態に陥る。
知っている範囲のレーニンの著作に世界革命の記述の記憶はない。マルクスにはあるが、深い考察はなく断片的なものだ。(「ドイツイデオロギー」)その個所を繰り返し読んだ記憶があるが、なにも具体的なことや政治思想的なことは語っていない文字通りの断片的記述だった。
 
 トロツキーの「永続革命論」と云う著作は、ジャーナリステックな政治評論であり、そもそも、スターリンとの論争の分岐点は、ロシア革命のヨーロッパ革命との連動性を重視する従来の党内の暗黙の合意=国際主義に政治理念的に比重を置くかどうかの問題及び党内権力のヒエラルキー化の問題だったので、その永続革命論の本質は、官僚体制批判を取り除くと、スターリンロシア革命地政学的拡張とほとんど変わらない。永続革命の政治思想的中身はつめられていないし、事がリアルな国際政治上の問題なので、詰められるはずがないのである。

ここまで書かないと納得できないのである。書きながら、問題意識を煮詰めていく。
 
予め、断っておくと、この間の一連の中東問題特集の問題意識から、スルタンガリエフを取り上げるのは、参考資料程度の意味合いしかもたない。
問題式のフォーカスはココだ。
汎アラブ主義 - Wikipedia W。この解説は問題設定は真っ当だが、解説者が今一咀嚼しきれていない。自分にもわかないところがあり過ぎるが、この記事の最初に自己の思考とイスラムの根本的な相違を明らかにし、イスラム教は馴染まないが政治的な妥協はできると明言している。この解説はその違いの国家版を考えてよい。
 
            汎アラブ主義とイスラーム主義
なお、職業的なマスコミでさえしばしば誤解、もしくは曲解と受け止められる報道をするが民族運動である汎アラブ主義と、宗教運動であるイスラーム主義(W。前回の記事の分類でいえば政治的イスラム、端的にいえばムスリム同胞団)更にはイスラーム原理主義」(W。ラジカルイスラム。アルカイーダ、IS)は時と場合によっては対立する概念である。
 
>汎アラブ主義においてはイスラム教は「アラブ民族の誇る宗教文化の一つ」とされるが政治へのイスラム教の介入は忌避された。
この事はキリスト教徒、ユダヤ教徒等の非イスラム教徒アラブ人が汎アラブ主義に参加している大きな理由である。
また、シリアのハーフィズ・アル=アサド大統領の出身であるイスラムアラウィー派の様に、イスラム主流社会たるスンニ派シーア派(12イマーム派)から差別された少数派であっても参加する事ができる大きな理由となった。
 
*①しかし、これは明確な主張というよりは、
無神論を訴える共産主義マルクス主義)と既存の民族主義の妥協の産物といえるものであった。
W。ここまでの記事とスルタンガリエフを取り上げる理由は、ここをはっきりさせたいがためである。
 
アラブ諸国においてソヴィエト式の厳密なマルクス・レーニン主義体制を取った国は、過去には旧南イエメン人民共和国(現・イエメン)しか存在していない。~~
>このため、現実には宗教と政治を分離する名分に乏しく、伝統的に宗教の力が強いアラブにおいて発生した汎アラブ主義は政教分離に成功していないとされる
W。ソビエト連邦崩壊以降、イスラム教を旗印に分離運動の発生した地域は、わずかしかなかった。コレをどう見るかと云うことだ。
>エマニュエルトッドの世界の家族形態の違いの考察、識字率の向上、出産率の低下を指標にした論評によれば、ソ連邦体制の教育の普及が、イスラム主義の根幹である内婚拡大家族、女性の地位の低さ~~必然的に地縁血縁のつながりが強くなり、そこにイスラム法の習慣性がからみついている~~高出産率を払しょくした、と云うことになっている。草の根動員できるので、選挙に強い宗教でもあり、権力者側もそのことは重々承知しているが、国家の脱宗教化を率先する大義名分が見いだせない。
一番良いのは政権を任せてみることである。ただし、立憲とは名ばかりの世襲君主制国家も存在するため、半並び主義の宗教と政治の分離は困難になる。又、君主国家側に油経済力はあるので余計に難しくなる。
 
シリアでは1973年にハーフィズ・アル=アサド大統領レバノンシーア派イスラーム指導者ムーサ・サドルから「アラウィー派シーア派の分派である」とのファトワーを引き出した。この様にイスラームとの距離のおき方は成立以来の懸念材料であった。
 
それでも神権を第一とするイスラーム主義にとっては、イスラームを表面的・形式的とはいえ減退させる汎アラブ主義とは対立せざるを得ない
エジプト、シリア等では早くからムスリム同胞団等による爆弾テロや要人誘拐・暗殺が起こり、シリアに至っては多数の無関係の一般市民を巻き込んだ弾圧に乗り出した
 
1982年、シリアの大都市の一つでスンニ派社会の中心であったハマーでムスリム同胞団による反政府暴動が発生し、当時のシリア大統領ハーフィズ・アル=アサドは大統領親衛隊、特殊部隊、空軍を動員してこれを強硬に鎮圧。ムスリム同胞団ばかりでなく一般市民の多くが逮捕・拷問・処刑され、歴史的建造物やモスクを含むハマ市街そのものが砲撃や爆撃で破壊されるという大弾圧を行った(ハマー虐殺)。
W.いろんな見方が 混在しているのが日本のアラブ専門家の特徴である。
アサド政権は基本的にバアス党世俗政権。政局を宗派対立の移行させたい総本山はサウジアラビア
IS、アルカイーダもスンニ派多数派のシリア国内上から、その方が好都合。
>宗教と政治が混然一体に政治軍事目的のために利用するから、こういう解けない糸の絡まった事態になる。
>究極のところ、各種の指導者の無能、政治責任に帰着するというのが結論。
>イギリス、フランスの歴史が体験したことである。
>日本でも国体主義がヒートアップして天皇制変則一神教的事態に立ち至ったことがある。米国の専門家の視線では(「菊と刀」に映り、現実の占領政策に適応された!)。
、「現実には宗教と政治を分離する名分に乏しく」
他人ごとの様に済ませているが、政教分離の全くできない新興宗教政党が政権の片棒を担いでいるのはどこの国か!ドイツのキリスト教**同盟とはわけが違う。歴史的な検証をまだ受けていない。
        ↓
なお、シリアはアメリカからレバノンイスラーム主義組織「ヒズボラ」に対する支援が指摘されてテロ支援国家に指定されているが、これはシリアのバアス党政権ヒズボラが掲げる反イスラエルという共通の利害の一致によるものと考えられる。
また、近年ではイスラエル以上にアルカイーダ系のスンナ派イスラム過激派勢力の伸張が、
世俗主義イスラーム主義、アラブ人とペルシア人という本来なら対立概念をも含んでいるはずのシリア・ヒズボラ・イランの非スンナ派同盟をより強固なものとしている。)
 
イラン(ペルシア人)のイスラム革命の直後に起こったイラン・イラク戦争は、この対立が具現化したものである。
 
このほか表面的、欧米的な見方ではあるが、汎アラブ主義の社会主義的側面を捉えてアラブ独自の左翼、民族主義的側面を捉えて右翼と捉える識者もいるW。左翼右翼はヨーロッパの政治基準だろう米国にはこう云った発想はない。
 
またアルカーイダ系のイスラム過激派は汎アラブ主義に強硬に反対しており、アメリカのブッシュ(息子)政権がイラク戦争前に主張した「サッダーム・フセイン政権とアルカイーダが協力関係にある」との見解は、汎アラブ主義に基づいた反欧米・反イスラエルと、イスラーム主義に基づいた反欧米・反イスラエルを混同した最たるものである。

ロシア革命型の社会主義共産主義は、植民地半植民地からの民族解放、国家統一独立の世界的拡大という具体的な国際政治を世界資本主義の国際政治に対置する道にハッキリと舵を切った。
この国際政治路線の確定が、第一次、第二次世界大戦の間の、ロシア共産党の党内闘争の課題~ロシア一国革命の拡張(孤立打破と云いかえることもできる)への明確な回答だった。
 
従って、国際共産主義運動センターの政治集中力は、こう云った地域に投入され、金融資本の発展し帝国主義なった先進工業国は「革命のスケジュール」から、除外された。
第二次堺大戦後の生まれた、東西対立の政治地図は、予め政治思想的ソ連側で準備されたとも云える。
 
レーニン帝国主義論」の有名な最後の言葉。
帝国主義戦争を内乱に転化せよ!」は、
<世界戦争事態を必然化した世界帝国主義の弱い環>へのスターリン主義体制の軍事的拡張と云う政治地図をもたらした。
>こんなことが急激に実現するほど、世界資本主義の矛盾は深刻だった、というべきだ。

 が、しかし。
スルタンガリエフの名前と紹介者の名前山内昌之スルタンガリエフの夢―イスラム世界とロシア革命 (新しい世界史)』1986年山内昌之イスラムとロシア―その後のスルタンガリエフ (中東イスラム世界)』東京大学出版会1992年だけは知っていても、その中身はまるっきり知らない。
 
このヒトのブログに、ここまで書いてきた事の問題意識が整理されている。
流行りのクーデター説には強い異論もある。
激動情勢の政治の本質は国家権力がどこにあるかと云う問題に行き着く。
日本型自由民主主義観は激動事態を真っ正面から見据え対処することの邪魔になる。
>こう云った見解は民衆運動が、ほんとうに政治規定力を有してきた歴史のある国を前提に発せられるべきであって、日本政治の歴史では残念ながら除外される。韓国中国も同類である。
 
 
ロシア革命という、①ロシア共産党が革命の成果をクーデター簒奪して得た体制の下で、②この革命が西漸し、③ヨーロッパのプロレタリアートを巻き込んで世界革命を成し遂げることなど、夢想に過ぎないこと、④再びロシアの民族支配を招来することを、スルタンガリエフは予期していた。
W。①~④に深い考察はなく、ムード的言辞がちりばめらてているだけである。

ガリエフは、タタールをはじめとしたムスリム民衆が、民族ブルジョアジーやインテリゲンチアの育成を成し遂げる前に、ヨーロッパと同様のプロ独裁は意味がなく、まずイスラムの「民主的な」利点を活用し、独自のムスリム社会主義を成立させるべきだという主張を行った。」
 
W。17年11月武装蜂起がなければ、ソビエト憲法制定会議の二重権力状態は、最終的に反革命の勝利に収束していったと想定する。
メンシェビキの民主段階発展論はロシア情勢、その社会経済基盤、社会運動から生まれた活動家群の質において、対処できない。
 
結果、ロシア民衆「革命」を通じて、ロシアの20世紀は日本と同じような道を歩んでいたであろう。
アラブの春も次元は同じ。
 
19年のドイツ革命のワイマール憲法の時代的推移は参考になるが、ロシア情勢はもっと暴力的に進行する要素があった。当時の情勢(戦争と革命に時代)において大衆の実力決起には革命か反革命かの二つの側面を常にはらんでいる。

究極的な考え方として、
日本の戦後民主主義と経済発展は、ロシア革命に端を発する、巨大な体制的対抗物が世界資本主義に修正を余儀なくした事態に大きく依存していた、と総括できる
 
また、資本主義の本来的運動法則である資本の価値増殖過程の世界的拡大とその不均衡発展性ゆえに、いま、今目の前にしている世界的な格差拡大と、紛争は、もっともっと早急に出現していただろう。
私は理性の政治などあまり信用しない。こうした世界資本主義の経済本質ゆえに政府の政治選択や政策運用には、実体的な実力行使できる対抗物の存在が不可欠である。
 
スルタンガリエフ的方向に関心がなかった、とも云えるし、そこまでこだわる視線もなかった。
理由ははっきりしている。
経済決定論者の視角で見つめてしまうので、植民地半植民地からの解放、と国家独立の実体と将来に対して、つい冷やかな態度しか取れない自分を払しょくできない。
W.スルタンガリエフイスラム論の核心は、世界共産主義運動の反帝国主義民族解放独立支援の世界政策に適応するものである。経済発展による知識人層、民族ブルジョアジアー育成などのイスラム地域段階発展論は、現状の中東地位の紛争を見ても<絵にかいた餅>であることが分かる。
1930年代ヒットラーナチス党台頭のドイツ政治情勢でさえ、社民党のパートナーであったドイツブルジョア政党の独立性のなさから、金融資本の意向に政治が左右されるようになった、という歴史的事実を重視すれば、なおさらのことである。
 
学者さんがスルタンガリエフを持ち出すのは、中東地域が混迷を通じて、国家ーグローバル資本複合体の世界システムに統合される趨勢に対して、手の込んだ気休めを試みている、としか思えない。曇りなき眼で事態の成り行きを直視する。

 
  
 上記と違う次元の記事を挙げる。分割して掲載することはできない。
イスラム教に対する率直な感想である。
 
私の宗教的体験 非宗教的な信仰者。http://www.asahi-net.or.jp/~VS6H-OOND/sinkou.html 引用。W結論「イエスと釈迦は互いに通じ合うものを持っている。」は、引用した方の主義主張に同調しているわけでなく(記事の冒頭にハッキリと示されているが削除させてもらった。)、ムハンマド宗教環境とイエス、釈迦を対比するところに主眼があった。
 
イスラム原理主義の根幹には、このムハンマドの初期の言動をそっくりそのまま受容しているところがある
分立し、相互摩擦の激しい各共同体(部族<共同体>、豪族<共同体>、地縁血縁<共同体>、様々な呼び名が可能)を統一するときに、共同政治幻想として、実際に、合理的解釈外の超一神教の規範を持ち出している。
 
 まず、日本のいわゆるイスラム学者について、の私見
これまで関心が向かわなった分野で、断片的な主張、発言からしか類推できないが、彼らは「イスラム教自体を宗教学、学術的として研究する専門学者」ではない、と感じる。
 
 中にはイスラム教の教義まで踏み込んで、論じる人が見受けられるが、教義の解釈の仕方が即物的すぎて、宗教政治思想的な広がりと深みを全く感じさせない(現時点の情勢で個人名は挙げるのは公平ではない)。
 
 ただし、この間の中東特集で得た知識の範囲で判断すると、イスラム教とは、あらゆる人間活動の具体的なあり方に踏み込んできて規範を設ける極めて世俗的宗教であり、人類の発展に避けられない物質文明の即物性にナイーブに対応してしまう宗教であるという感想から、
「教義の解釈の仕方が即物的すぎて、宗教政治思想的な広がりと深みを全く感じさせない」イスラム教解釈は、イスラム教の在りのままを提示しているのかもしれないとも思う。
 
さらに、中東専門家は、イスラム圏の政治関連、地域研究に没入している現状がある。
この前の記事で取り上げたパレスチナ、ヨルダン地域研究は非常に参考になった。今まで集めた中では加藤博さんの地域研究、ジェトロページのの各論文ともにハイレベルな基礎研究である。
 
前から、イスラエルの圧力をまともに受け、パレスチナを内外に抱え込んだヨルダン社会には関心があった。アラブ地域の共通の社会構造も解き明かしてくているので、もう一度読み返そうと思う。
 
おそらく両方に原因がある。
 
第二。
イスラム教自体が研究に値する宗教なのかどうかと云う初歩的な疑問がある。
過去のイスラムコーランに瞬間的関心を抱き、一節を読んで読んでみたが、コレは単なる道徳律ではないかと、それ以上読む気がしなかった。戒律主義の世俗宗教のにおいがプンプンとする。そのいみで受け入れる準備、環境にある者にとって、大した抵抗なしに心にすんなり入ってくるだろう。13億イスラム教徒はの理由はココにあると思っている。
 
前回の記事は、関連情報を収集して記事にする間に生まれた疑問にある程度こたえるものであった。相変わらずの乱文は修正しない。そんな時間があったら前に進む。
 
 
>前回の記事を再読し、自分の考えがまだ詰められていないことを痛感した。枝葉末節のことならすっ飛ばしてもいい。肝心なことが抜けている。
 
宗教政治イデオロギーに、コアになる原理の体系が欠如しているとファンダメンタリズムの存在する余地はない。
宗教政治イデオロギーと限定したところがキーポイントである。指導者たちは、宗教を個々人の心の中の問題として済ますことなく、人々に共同政治幻想を喚起し、ソレをモチベーションに現世的な実現行動に走らせる。
 
この特集の、前半の記事で、キリスト教イスラム教、仏教を、宗教政治イデオロギーと云う観点から比較する記事を書いた。
仏教は政治参加を直接的に組織し実行するイデオロギー構造に<乏しく>、個人修養を中心に据えた宗教であるとした。
理由は、キリスト教イスラム教よりも古い宗教だから、社会関係が自然様態のままなので宗教イデオロギーに社会認識を取り込む認識は生まれなかった、必要でなかった、と云うべきだろう。
日本仏教は社会関係の発達した中国経由のものなので、その点を考慮してどうなのかと云う問題があるが、中国には土着の政治思想である各派の儒教が中国の社会関係を取り込んで、受け入れられているので、同じ領分を中国仏教が視野に入れることなく、仏教の体質である修養と世界観の完結という儒教とは別方向に純化した。
しかし、社会関係が複雑化すると、事情は違ってくる。
一神教であるか多神教であるかと云う視点は、ここでは深入りしないが、感覚として、宗教政治イデオロギー的希求が強烈になる条件がそろえば、原始性を持った多神教世界も一神教的世界を求めるはずだ。偶像を宗教的に崇拝する祈りと即物性が、コレを押しとどめていると思う。悪いことではない。心の在り方は云ううに及ばずコレによって芸術も発展してきた。宗教的モニュメントを強烈に忌避するところに中世文化は育たないのではないか。
 
 ここで、新約聖書の該当箇所を引用する。意味深で、イロイロな解釈の幅を持たせた、多分に逆説的な高等話術体を駆使して、保守的な共同体や家族関係から個々人を相対化させ(自律?)、強烈な共同政治幻想に統合している。コレを読むと宗教政治イデオロギーとくくりあげる意味がわかる。
 
  引用。マタイの福音書
「イエスに従う者の心得
私は来たのは地に平和をもたらすためだとと思ってはなりません。私は、平和をもたらすために来たのではなく、剣をもたらすために来たのです。 なぜなら、私は人をその父に、娘をその母に、嫁をその姑に逆らわすために来たからです。 さらに家族の者がその人の敵になります。 私よりも父や母を愛する者は、私にふさわしいものではありません。 又私よりも息子や娘を愛する者は、私にふさわしいものではありません。 
自分の十字架を追ってわたしについてこないものは、私にふさわしいものではありません。 自分の命を自分のものにしたものはそれを失い、わたしのために自分の命を失った者は、それを自分のものにします。」
 
以前の記事で、仏教は政治参加を直接的に組織し実行するイデオロギー構造に<乏しく>、個人修養を中心に据えた宗教であるとした。
理由は、キリスト教イスラム教よりも古い宗教だから、社会関係が自然様態のままなので宗教イデオロギーに社会関係への認識を取り込む必要がなかった、と云うべきだろう。
しかし、社会関係が複雑化すると、
がしかし、日本中世に対する歴史観である権門体制論の立場から、<乏しい>としているのであって、<無い>とすれば歴史の偽造である。自らの歴史を偽造したお手軽歴史観で、イスラム原理主義を批判しては、自分たちのためにならない。
 
鎌倉に封建軍事貴族の軍事政権が開かれた鎌倉時代は、天皇、有力寺社勢力がエスタブリッシュメントである京の都と、(平清盛の神戸福原遷都の政治的意味)山に囲まれ前に海が開けた鎌倉との「二重権力状態」であった。
この歴史的文脈から、後醍醐天皇の決起と南北朝の争乱時代の核心が見えてくる。
 
私などが学んだころの歴史教科書は、鎌倉幕府と京都の「二重権力状態」と云う歴史的事実を過小評価し、鎌倉幕府開闢を封建軍事貴族への単純権力移動とみなし、京の天皇、有力寺社勢力のエスタブリッシュメントを過小評価する歴史観によって、結果的に戦後民主主義に孕まれたぜい弱性に、矮小化すると、日本国憲法1条~8条天皇条項に目をふさぐ役割を果たしてきた。
戦ヨーロッパ各国の立憲君主制と日本の戦前戦後を通じた立憲君主制では歴史的にみて、その政治内容がまるで違う。丸山真男に代表される近代主義者、戦後民主主義のイデオローグは、戦前戦後の日本の移り変わりを体験してきた立場から、
 
日本国民の多数は天皇宗教政治イデオロギーを漠然と受容している、と云っても過言ではない。
一神教多神教(四国遍路旅の特集で学んだのは仏教は現世後利益のために神の序列化、役割分担させた多神教に分類できる)
 
①の定理のごとき文節に踏まえると、天皇宗教政治イデオロギー(寺社勢力と取りまとめることもできる)をなんとなく受け入れている多数派の人々のなかに天皇原理主義者がいるという事実、そして原理主義行動を実行しているという事実に気づく。
そして、前回の記事の主旨の一つであるイスラム原理主義をラディカル、(発信元の米語の直訳ではラディカルは<過激ではない。>イスラムだけでなく、政治イスラムイスラム純化主義を選択せざる得ない)まで幅広く含める立場から、アベ等も天皇原理主義者に範疇に入れることができる。
 加えて、実質的に政教一致の活動を展開している政党が政権に連立政権の片方を担っている。この状態が長期化しているので、日本国家機構は宗教勢力に中立であり得ない状態になっている、と云わざる得ない。
 
>日本近世の戦乱時代、織田信長は旧仏教の総本山の比叡山僧兵勢力を壊滅し、一向宗親鸞系)勢力との長く続いた対峙戦の末、各地で軍事的に一掃してしまった。それでも、まだ幕藩体制の固まらない江戸初期、地元の武士勢力とキリスト教徒住民が結合し、籠城作戦を何カ月も敢行した。
 
時間不足で終了。 宗教と政治の分離は、世俗化の進行だけでは、固定できない。フランス国家の脱宗教化とまで行かなくて良いから、国家機構(自公長期政権は国家機構を侵食する)への宗教の浸食に対するの戦いは必要である。