反俗日記

多方面のジャンルについて探求する。

オスロ合意から20年。東京大学中東パレスチナ研究班~披占領地の軍事的・空間的な再編成は労働党、リクード、宗教シオニストの植民運動、イスラエル軍の間での総意に基づいたもので、過激な一部の植民者が暴力~

          オスロ合意から20年
       パレスチナイスラエルの変容と課題 
<NIHUイスラーム地域研究東京大学拠点中東パレスチナ研究班>
 
第 1 部 オスロ合意の意義と問題
第 1 章 オスロ・プロセスにおける国際社会の役割とその蹉跌    江﨑 智絵 …1 頁
第 2 章 反・二国家解決としてのオスロ・プロセスと新たな和平言説の誕生  金城 美幸 …21 頁
      
 
        第 2 部 オスロ合意で置き去りにされた問題
第 3 章 オスロ合意と難民問題      錦田 愛子 …39 頁
第 4 章 政治・外交的視点からの脱却   今野 泰三 …57 頁 ←W。
第 5 章 オスロ合意後のアラブ社会における新たな政治文化  田浪 亜央江 …77 頁
       
       
 
        第 3 部 オスロ合意以降の変化
第 6 章 2 つのインティファーダと和平        鈴木 啓之 …95 頁
第 7 章 制度の意図せざる結果としてのハマース与党化 清水 雅子 …109 頁
第 8 章 旧ソ連系移民とオスロ体制鶴見 太郎 …127 頁
       おわりに
鶴見太郎・今野泰三 …139  ←W。前回の記事は<おわり>を引用した。

W。ネットで公開されている論文は上記の一部。
 
        <はじめに>
野泰三・鶴見太郎
     1.オスロ・プロセスとパレスチナイスラエル研究
1993 年、長い間対立関係にあったイスラエル政府とパレスチナ解放機構PLO)が、オスロ合意(公式名称は「暫定自治政府編成に関する原則合意」)を締結して相互を承認し、和平交渉が開始された。
和平への機運は一気に高まり、双方の代表がノーベル平和賞を授与されるなど、オスロ合意に寄せられた期待は大きかった。
>だが、それから20 年以上が経過した今日でもなおパレスチナイスラエルの関係は改善せず、和平交渉はアルアクサ・インティファーダの開始で中断された後、
>数次にわたるイスラエル軍ガザ地区侵攻などにより頓挫している。
  
 
   <パレスチナ自治区となったヨルダン川西岸地区ガザ地区は>、
現在もイスラエルの占領下に置かれ、ファタハ(正式名称:パレスチナ解放運動)とハマース(正式名称:イスラーム抵抗運動)
というパレスチナの2大党派は、西岸地区とガザ地区にそれぞれ拠点を置き、分断された状態で緊張状態が続いている。
 
パレスチナ社会内部に目を転じてみると、
オスロ合意以降の「援助特需」の恩恵に授かったエリート層と、
②そうした果実を受け取れない貧困層や難民の間の格差が拡大し、潜在的な不安定要因に発展しつつある。

参考資料
 ②第1章 イスラエル占領地の社会経済構造/ 臼杵 陽
 ジェトロ アジア経済研究所
http://d-arch.ide.go.jp/idedp/KSS/KSS041100_003.pdf
W。さわりの部分を抜き書き要約した。
    ↓
イスラエル占領政策に関する社会経済的研究の基本課題
西岸で実際に起こっている事態から判断すると、イスラエル占領政策の基本課題は次の3点に要約できよう。
①西岸をイスラエルの植民地とする。
ユダヤ人入植地を拡大し、占領を既成事実化する。
③西岸在住のパレスチナ人っを追放する
イスラエル当局は以上の政策の実施を通して、西岸地域のイスラエル本国への従属を促進してきたのである。
①、次の3店を通じて西岸はイスラエルの植民地になってしまった。W。経済主義ではないのか?という大きな疑問。イスラエル本国は帝国主義国民国家なのか。
第一。イスラエル経済二重毒した西岸経済の形成。
第二。ヨルダン川東岸~通称、トランスヨルダン地域~との新たな関係の樹立。(オープン、ブリッジ政策)
第三。イスラエル労働市場におけるアラブ人雇用を通じての搾取。
 
①。従属的西岸経済の形成。
イスラエルは貿易を通じて西岸地域をイスラエル製品の独占的市場にした。
これは両社の不等価交換を通じての価値移転となった。
西岸はイスラエル占領以前も、ヨルダンの東岸重視の開発政策のため脆弱だった。
>しかし占領以降、イスラエル製品の氾濫によって西岸地場産業が壊滅的打撃を受けた。
>製造業において、西岸地場産業は小規模のため、イスラエル企業の下請けの地位に転落した。
>農業に関しては、土地没収や水資源の恣意的な制限によって、農業そのものを不可能にして、自作農の賃労働者化を即した。
同時に農業ブルジョアジー関しては、イスラエル農業と競合しない作物の生産を奨励し西岸農業のイスラエル市場への商品作物栽培の特化させ従属を促進した。
 
②オープンブリッジ政策。
西岸農業による商品策三つの輸出させ、外貨獲得の増加を図った。
 
③低賃金を通じて、パレスチナ人出稼ぎ労働を通じて剰余価値の収奪を図った。
イスラエルパレスチナ人雇用に関しては、占領地からの日々通勤が原則であり、またその雇用の機会は、イスラエル人が嫌う3K労働で、<日雇い契約>だった。
(つまり労働力の再生産に関しては、占領地域に押しつけられている。
~~
次にユダヤ入植地の拡大に伴う最大の問題は土地没収である。
もちろん『安全』を名目とする難民キャンプの家屋破壊は、確実に進行している。
占領地におけるユダヤ人入植地の拡大は、道路網整備などのインフラ拡充という側面も伴っており、イスラエルによる事実上の占領地の併合は着実に進行している。

>他方、イスラエル国でもこの間、
①従来からくすぶっていた世俗派と宗教派の対立や
 
②アシュケナジーム(ヨーロッパ系)とミズラヒーム(中東・北アフリカ系)の間の確執、
③>領土や安全保障を巡る右派と左派の対立、
 
ユダヤ人とアラブ人(パレスチナ人)の間の差別と対立といった諸問題が激化したことに加え、
 
>⑤大量の旧ソ連系移民の流入や、(W。150万人./イスラエル人口約800万人)
 
経済の自由化とグローバル化にともなう格差の拡大といった新たな問題が持ち上がった。
 
*こうした諸問題は、冷戦体制の崩壊に伴う国際政治上のパワーバランスの変化や、イスラーム主義運動の活性化、世界規模での経済構造の変容などとも密接に連動してきたものである。
 
それでも、オスロ合意はこうした荒波に呑まれた過去の単なる一幕だったわけではない。
なぜなら、こうした事態にもかかわらず、
オスロ合意とその後の一連の合意が、イスラエルパレスチナ、欧米世界、アラブ・イスラーム世界の関係性を枠づけ、現在まで引き継がれているからである。
 
それゆえ、オスロ合意がこの地域やその周辺に何をもたらしたのか、その陥穽は何であったのか、
そしてその枠組みは現在どのように機能しているのかといったことを改めて検証することは、
オスロ合意を歴史的に評価することはもとより、
この地域の現在を理解し、将来を占うことにもつながるのである。
 
本論集は、こうした問題意識から、パレスチナイスラエルに関わる研究者がそれぞれの専門に即してこの20 年間を振り返り、
過去20 年間の当該地域の変化と継続性を複眼的・包括的に分析するための知の体系を鍛えなおしていく
より具体的には、オスロ・プロセスを捉える枠組みや方法論を改めて議論の俎上に載せ、過去の研究において抜け落ちていた問題を再検討していく。

         2.オスロ合意およびオスロ・プロセスの概要
ここで改めて、オスロ合意およびオスロ・プロセス、すなわちオスロ合意を出発点として進められたその後の交渉過程と、
それが当該地域の主に政治的領域にもたらした波及効果について概要を振り返っておきたい。
 パレスチナ問題は一般に、
19 世紀末に始まるシオニズム運動によるパレスチナへの入植活動と、
1948 年のイスラエル独立宣言とパレスチナ難民の発生が主な契機となって始まった「ユダヤ人」対「アラブ人」ないしは「イスラエル人」対「パレスチナ人」の対立として理解される問題である。
 
>だが、これを単に、パレスチナと呼ばれてきた土地を巡る領土争いと見なすのでは不十分である。
なぜならこの問題は、

イスラエル国家の合法性と国際的承認の是非、
イスラエル人とパレスチナ人の歴史認識の違い、
パレスチナ難民の帰還権と財産保障の問題、聖地管理権の問題、
イスラエル国内のパレスチナ人の集団的権利の問題、
⑤アラブ民族主義ユダヤ民族主義と欧米の帝国主義植民地主義の関係
 
といった要素も含まれる広範かつ複雑な問題でもあるからだ。
 
>国際政治の場面でも、冷戦体制下の一方の中心大国であった米国が中心となって中東での和平交渉で仲介を行ってきたが、はかばかしい成果は上がらなかった。

その代表的なものは、イスラエルとエジプトの和平合意(1979 年)や、米ソが共同議長を務め、イスラエルと披占領地のパレスチナ人との間の和平を試みたマドリード会議(1991 年)である。
**
>こうしたなかでオスロ合意はノルウェーという小国が仲介し、イスラエル政府とPLOパレスチナ解放機構)の双方が、それぞれを交渉相手と承認する形でパレスチナ問題の解決に踏み出した点に画期性があった
それまでPLO は、パレスチナ人の対イスラエル抵抗運動とアイデンティティの中心であり続け、これによりイスラエルから「テロ組織」として交渉を拒否されていたからだ
  
 
   <パレスチナの暫定自治期間を5 年と定めたオスロ合意の主な取り決めは>、
1)西岸地区のエリコとガザ地区における先行自治の開始、
2)パレスチナ自治政府の大統領および立法評議会議員選挙の実施、
3)2 年以内における最終地位交渉の開始、の3点に集約される。
結果、

>1994 年5 月に先行自治が開始され、1995 年9 月に通称「オスロ合意Ⅱ」と呼ばれる「暫定自治拡大合意」がワシントンで締結され、
イスラエル軍は西岸地区内の主要都市から他の地域に再展開した。
 
1996 年1 月には、暫定自治区内での選挙によってアラファートが自治政府大統領に選出され、
立法評議会ではPLO 主流派のファタハが多数派の議席を獲得した。
 
*こうして、イスラエル領内および被占領地に対する事実上の決定権を保持するイスラエル政府と、
被占領地内において行政を代行するパレスチナ自治政府とが併存する、
*いわゆる「オスロ体制」が確立されたのである。
こうしてオスロ・プロセスは順調に進んでいたかに見えた。
 
W。疑問。
現状では、パレスチナ側が行政を代行しているのは、A、B地区、厳密にいえば、警察行政権を代行しているのは全体の13%のA地区だけで、B地区は行政権のみ代行し、両地区を包囲する形の西岸の半分を占めるC地区はイスラエルの単独行政治安地域である。
さらに、
現状では点在する(入植地と隔離壁、専用道路)、主要道路と多数の検問所によって、西岸地域住民の一体的社会経済環境がスムーズにできないようになっている。 
 
*問題は、こうした巧妙卑劣な西岸地域の占領政策は、いつ頃から開始されたのか?本格化したのはいつごろなのか?
西岸地域の第一次インティファーダに参加したPLO活動家の証言によれば、第一次インティファーダ以前は、パレスチナ住民は検問なしに自由に行き来できたということであった。
********
 
  詳しい現地事情の引用
「日々の雑感 243:
第1次インティファーダとは何だったのか(前編) 2011年11月13日(日)     
    
     
            <異なる組織の連帯>
「占領地の表面は静かだが、地下水が脈々と流れていた。それは外から見ることはできなかったが、地下にその流れはあったのだ。その流れはとても強力だった。その地下水が噴き出たのだ。
イスラエルはずっと自分たちは占領地を征服したと考えていた。
>全ては静かで、闘う者は誰もいない、イスラエルへ働きに出て、家に帰ってくることができる、イスラエルで働いて金を得て、子どもたちのために買い物をして、すべてはまったく問題ないと考えていた。
>その静けさが、人びとが自由に結びつくことを可能にした。
>まったく移動の制限はなかった
>検問所もなく、お互いが会うことを妨げるものは何もなかった
>それが人びとが結合することを物理的に可能性にした。西岸からイスラエルを通ってガザへ行くことは簡単だった。
ラファの人間がジェニンの人間にその日のうちに会うことができた。移動制限がなかったからだ。またある程度の「繁栄」や「経済発展」があった

我われは静けさを感じ、自信を感じた。闘争までにはしばらく時間がかかった。目標に達するための闘いを始めるためにはしばらく時間が必要だった。」
 
>W。大前提として、第一次インティファーダ以前のイスラエル占領政策と占領地の状況の経過が具体的に示されなければ、
第一次インティファーダ以降のイスラエル占領政策の経緯及び、第一次インティファーダオスロ合意、第二次インティファーダの評価と踏み込んだ議論にはならない。
       ↓W。状況全般の漠然とした説明である。
       ↓
>だが、イスラエルパレスチナ双方におけるオスロ反対派による妨害や、
>被占領地におけるイスラエル入植地の拡大継続によって次第に陰りを見せていった。
そのなかで起きた象徴的な出来事が、
       ↓
*1995 年11 月のラビン首相暗殺である。←W。後述の論文では、ずっと以前からイスラエル政治支配層の間では立場に関係なく、西岸占領政策は、基本合意が成立しており、首相暗殺を潮目(過大視)とするのは間違いであると指摘されている。
 
       ↓
*彼の死後、選挙を経て首相の座についたタカ派ベンヤミン・ネタニヤフは、入植地建設を加速化する一方で和平交渉を停滞させた。
       ↓
*結局、最終地位交渉は行われないまま、予定された暫定自治期間は終了した。
 
*だがその後も、実態としてはイスラエルパレスチナ自治区が併存するオスロ体制は続いていく。
    ↑
W。具体性がない。
W。結局、オスロ合意の秘密交渉過程で、少なくとも、統治の根幹の治安と行政の取り決めだけはしていたと、想像する。しかし、そのときすでに、第一次インティファーダへの反動で、現状の占領政策に近づく状態は既に開始されていた、とみる。
W。リアルな戦いの攻防とはそういうものである。
*******
>同時に、ヨルダン川西岸地区ガザ地区での土地の接収とイスラエル入植地の拡大は進行し、パレスチナ人の不満は高まっていった。
*******
そうした中、
>2000 年9 月、大きな転機となる事件が起きた
>のちに首相となるリクード党代表アリエル・シャロンエルサレムの「神殿の丘」(別名「ハラーム・アッ=シャリーフ」)を訪問し、
これを挑発行為と捉えたパレスチナ人が反発して投石を始めたことで、
アル=アクサー・インティファーダと呼ばれる衝突が勃発したのである。
イスラエル人入植者によるパレスチナ人に対する報復的な暴力も激化し、ヘブロンのモスクで虐殺事件が起こる。
>一方、パレスチナ武装勢力イスラエル国内でいわゆる「自爆テロ」を実行するようになった。
******
そして2002 年には、「テロリストの侵入を防ぐ」との名目で、←W。2001年9,11ニューヨーク事態
イスラエルは西岸地区に食い込む形で「安全保障フェンス」「隔離壁」「アパルトヘイト・ウォール」など様々に呼称される壁の建設に着手し、
*その建設過程で西岸地区の多くの土地を接収し、パレスチナ人の生活を困窮させていった。
さらに、パレスチナでの政権交代を受け、イスラエルとの関係は更に緊迫したものとなっていく。
********
 
>2004 年のアラファート死去後、2005 年に自治政府大統領に選出されたのは、同じくファタハマフムード・アッバースだった。
********
>しかし翌2006 年1 月に行われた第2 回パレスチナ立法評議会選挙では、イスラエルがテロ組織として忌避し
てきたオスロ反対派のイスラーム主義運動ハマースが過半数議席を獲得した。
W。*消去された記事あり
W。9,11事件以降のテロとの戦いを受けて、イスラエルハマスをテロ組織と認定した。
 
元来ガザ地区において支持が厚かったハマースが、
2005 年以降、完全封鎖されたガザからイスラエル領内にロケット弾を撃ち込むようになったこともあり、イスラエル軍はガザへの侵攻を繰り返し、空爆も頻繁に行っている。
 
>こうした背景から、オスロ・プロセスはもはや完全に破綻したというのが多くの論者が見るところである。
>他方で、オスロ合意が履行されていれば和平が訪れたかといえば、本論集のいくつかの章が示唆するように、これもまた疑わしい。←W。オスロ合意20年の喧嘩を踏まえた従来と違った目本研究の新しい視点である。
 
オスロ合意は多分に当時の地域情勢とイスラエルPLO、あるいはイスラエルパレスチナ内部の諸勢力の力関係の産物であった。
オスロ合意がいくつかの重要な問題を棚上げしていたことはその限界の証左の一つであるが、なかでも筆頭に挙がるのが難民問題である。W。原則問題にたちかえっている。
オスロ合意による交渉内容は、その大半が西岸・ガザでの統治形態に関するものであったため、外部に暮らす大半の難民の事情は副次的な問題とされてしまったのである。
オスロ合意はまた、国際法で違法とされ、パレスチナ人が撤退を求めてきた西岸・ガザのイスラエル入植地を、
>交渉の余地を残しつつも事実上正統化するもので、さらなる入植地拡大へとつながっていった。
 
イスラエル国内のアラブ人(イスラエルパレスチナ人)の地位やイスラエル国家の在り方そのものも、パレスチナ問題を全体として考える場合は本来重要性を持つはずであったが、オスロ・プロセスではそれらは不問に付された。
イスラエルユダヤ性を強調する極右勢力によってイスラエル国籍のアラブ系市民に対する排除を求めたり、
「国家への忠誠」を強制したりする動きが強まっている昨今の事態に対しても、オスロ体制は対処する論理を持ち合わせていない。


         3.本論集の目的
   省略
         4.論集の構成
第1 部には2 本の論文が収録されている。
 
第1 章では、江﨑智絵が「オスロ・プロセスにおける国際社会の役割とその蹉跌――国際政治学から見たオスロ合意」と題し
て、オスロ・プロセスが停滞した理由の一つとして、プロセスに内在した構造的問題に着目し、
その形成過程での国際社会の関与がどのような問題点を含んでいたのかを問う。
>そこでは、米国が主導したマドリード・プロセスと、小国ノルウェーが仲介したオスロ秘密交渉の関係性や差異を、
ノルウェーの役割や思惑などの観点から多角的に分析し、オスロ・プロセスの特徴と問題点が明らかにされる。
政治の舞台におけるオスロ合意の基本的事項や背景を丁寧に整理した論文である。
第2 章「オスロ・プロセス期イスラエルにおける新たな和平言説――民族・国家概
念の意味変容」では金城美幸が、オスロ・プロセスが、それ以前にイスラエルが示し
た和平の試み同様、
パレスチナ全?への?配を継続したうえでパレスチナ?に?治レベルの権限を与える体制作りに過ぎず、パレスチナ独立国家を否定する「反・二国家案」であったと論じる。
金城は、オスロ・プロセスにおいて「?族」、「?決」、「主権」などの概念が現実と乖離した形で再定義されたことに着目し、
イスラエルにおいてパレスチナ?に対する抑圧強化を正当化する?説が登場した背景を考察する。
*******
   第2 部には3 本の論文が収められている。
第3 章「オスロ合意と難民問題」では、
錦田愛子が、パレスチナ問題の重要なイシューの一つであるパレスチナ難民問題が、オスロ・プロセスの前後においてどのように扱われてきたかを考察する。
錦田はまず、
難民問題が中東和平交渉開始以前から注目を集め、研究されてきた重要な論点であったことを確認する。
その上で、オスロ合意以後の和平交渉が難?の帰還権を議題の中?から外し、パレスチナ?治区の外に残された?々に関する個別問題として矮?化させる過程だったと批判する。
難民?問題をめぐる今後の展望においては、難民自身の帰還権をめぐる声を聞くことの重要性を指摘し、多様な考え方や世論調査の結果などを紹介する。
 
W。1993年のオスロ合意、20年後の新しい視点である。注目の論説
             ↓
第4 章「政治・外交的視点からの脱却――実践主義的側面から見るオスロ・プロセス」では今野泰三が、
             ↓
イスラエル国家が主導して進められたパレスチナ被占領地での植民地建設と、米国の植民地に対する?方針転換が、オスロ・プロセスの崩壊につながったことを示す。
              ↓
イスラエル政府がオスロ・プロセスを通じ軍事的優位と米国の援を後ろ盾に、披占領地の軍事的・空間的な再編成を進めてきたが、
>それは労働党リクード、宗教シオニストの植民運動、イスラエル軍の間での総意に基づいたもので、過激な一部部の植民者が暴力によって政策をし向付けた結果ではなかったと論じる。
 
第5 章では田浪亜央江が「オスロ合意後のアラブ社会における新たな政治文化」と題して、
イスラエル総人口の約20%を占めるアラブ人たちの、オスロ合意以降の自己認識や政治文化の変化を考察する。
特に、イスラエル共産党への批判を行こないながら支持を広げたアズミー・ビシャーラの言説、および同時期に?まれたNGO の取り組みを分析し、
イスラエルのアラブ?の政治的アジェンダが、パレスチナ解放運動に連携することから、
>集団的権利の要求を通じて平等な市民社会の構築を目指すという方向にシフトしたことを明らかにしている。
*********

       第3 部は3 本の論文で構成されている。
第6 章「2 つのインティファーダと和平―
―西岸地区およびガザ地区PLO・1987~2000 年」では鈴木啓之が、

>第?次インティファーダとアル=アクサー・インティファーダという2 つのインティファーダの間に、非武装闘争と武装闘争、大衆運動と単独行動、指導部の有無といった違いがある
ことに着目し、
 
>その原因をオスロ・プロセスが西岸地区とガザ地区にもたらした影響(社会の変容)に求める。
さらに、第一次インティファーダオスロ・プロセスの因果関係を分析することで、現在のパレスチナ問題が抱える構造的問題を明らかにするという意欲的な試みを行っている。
 
第7 章「制度の意図せざる結果としてのハマース与党化」では清水雅子が、オスロ・プロセスによって設立されたパレスチナ?治政府において、
同プロセスに反対するハマースが与党になりえたのはなぜか、という問いへの答えを探る。
同章は、
>「制度の意図せざる結果」という観点から、憲法・法律で規定された自治政府の執政制度・議会制度・選挙制度の変化が、ハマースの与党化に与えた効果を考察する。
そして、ハマースの与党化というファタハと?国政府にとって好ましくない事象が、自治政府の制度設計の意図せざる結果であったと論じる。
 
第8 章では、鶴見太郎が「旧ソ連系移民とオスロ体制――イスラエルの変容か、強化か」と題して、オスロ和平プロセスと重なる1990 年代から2000 年代初頭にかけて旧ソ連圏から約120 万のユダヤ人移民が流?した点に着目し、
>彼らが対アラブ政策に関して強硬派を?持していくことになった社会・文化的要因を考察する。
鶴見によると、
旧ソ連系移?の流?は初期にはオスロ合意締結にプラスの影響を及ぼしたが、
>その後は、和平プロセス崩壊を早め、イスラエルが伝統的に潜在していた?妥協的要素を呼び覚ました。
だが、そのことは必ずしも「オスロ体制」の前提そのものの破壊は意味しないという。
***********
***********
 
           第2 部
      オスロ合意で置き去りにされた問題
政治・外交的視点からの脱却
―実践主義的側面から見るオスロ・プロセス―
今野 泰三
       はじめに
Ⅰ.国策としての入植地建設
Ⅱ.米国の入植地を巡る政策
      はじめに
本論考は、オスロ・プロセスを通じてパレスチナ被占領地に建設されたイスラエル入植地に焦点を当てる。
特に、イスラエル国家主導での入植地建設と、冷戦後の世界で覇権を握った米国政府の入植地に対する原則反対から支援への方針転換が、
オスロ和平プロセスの崩壊につながったことを示す。
その前にまず、この論考の根底にある問題意識を説明したい。
 
第 1 は、オスロ・プロセスの政治的・外交的側面を強調する見方は、オスロ・プロセスを理解する上で十分かどうかという問いである。
例えば、日本における中東和平の研究の第一線に立ってきた池田[2010, p.8]が論じるように、
オスロ・プロセスをこうした側面に限定して検討すれば、領土と入植地の問題は、当事者間の駆け引きの問題へと矮小化できるかもしれない。
   
 
 W。軍事優先主義と政治軍事主義。イスラエル内の二つの傾向。切り離せないということ。 
だが、イスラエル国家建設は、
ユダヤ人の入植とパレスチナ人社会の破壊とアラブ諸国に対する軍事的優位の確立を通じて国家主権を確立しようとする流れ(実践主義)と、
②外交舞台での大国による承認を中心に国家主権を思考する立場(政治主義)の両輪で進められてき
 
>そのためイスラエル建国以降も、
*W。超重要!移民と入植はイスラエルにおける主権概念と安全保障政策の根幹>であり続けたことを、まず念頭に置くべきである。
 
だが、オスロ合意に関する議論は多くの場合、その政治的・外交的側面にしか注目せず、
*依然として継続している実践的な、つまり入植地の拡大という側面からは十分に検討されてこなかった
 
W。イスラエル政府は、強硬策⇔和平策の繰り返しに、必ず西岸の移民と入植政策を絡ませる。
強硬策をとって、国際世論の反発を招くと、しぶしぶ修正するが、その一方で、西岸入植移民を強化→パレスチナは当事者なので猛反発~しかし、非当事者の国際世論の反応は弱い。
更に、サウジアラビアヨルダンなどの穏健国家の基本方針は大イスラエル主義(ヨルダン川東岸まで含めた領土的野心)を阻止できたら良いという、心情があり、西岸地域の具体的統治方式には、第三者的立場をとっている。
 
*さらに、こうした政治主義的側面と実践主義的側面を切り離す捉え方は、
オスロ・プロセスの構造的問題の一側面を看過するという他の問題も抱える。
 
オスロ・プロセスの特徴の一つは、
>当初の和平交渉が民衆やメディアが関与できない秘密交渉として進められ、パレスチナ被占領地の現実と切り離されてきた点にある。
その後も、交渉に関する報道は数多くなされたものの、
    ↓W。そうであれば、政治的馬鹿
イスラエル政府が米国の承認と支援のもとに土地を接収して入植地を拡大し、それによって占領地のパレスチナ人が多大な被害を被ってきたという現実は、
<政治交渉の進展によって解決されるものとして無視または黙認され>、

パレスチナ人の権利保障を求める声も交渉に直接の関連性をもたないものとして抑圧されてきた。
そのため、政治的駆け引きの次元と被占領地の現実を分離して捉える手法は、
オスロ・プロセスが持つこうした根本的問題をそのまま分析に持ちこむことを意味する。
そうした分析は、研究者と読者の目を和平プロセスの構造的問題からそらせる効果は発揮するかもしれないが、
オスロ・プロセスの限界とインパクトを真に理解することにはつながらないだろう。
 
第2 の問題意識は、
オスロ・プロセスをもたらしたイスラエル国家・社会の変化に関するものである。
W。重要!大間違い!
オスロ・プロセスの画期性を、イスラエルの伝統的な安全保障観の転換に求める見方がある
>この見方では、イスラエルにおいて政治・外交面で安全保障問題を解決しようとする志向性が強まったことで、
パレスチナ人の民族性と自決権を認め、恒久的な平和のために領土を妥協すべきと論じる勢力が存在感を強め、オスロ合意をもたらしたとされる。
 
だが、
当時の<イツハク・ラビン政権の構想>は、
~~例えば、ペレス[1993]、がこうした転換を主張しているほか、イスラエルの批判的社会学者として知られるShafir andPeled[2002: 21; 232]も同様の見方を採用している。

ベングリオンが1920 年代に提唱し、1949 年に定式化した安全保障ドクトリンに、
第三次中東戦争以降にイーガル・アロンが提唱した「防衛可能な国境線」というドクトリンと、
アリエル・シャロンが提唱した入植地と軍事拠点のネットワークで構成された動的防衛というドクトリンを積み重ねたものであり、
それら既存のドクトリンからの転換・決別ではなかった
 
W。重要!「平和と領土の交換」を目指した左派と一般に見なされる労働党政権
パレスチナ人の自治承認占領地内での軍隊の再展開を行ったにすぎず、土地の接収と入植地の拡大を止めることはなかったのである。
 
そのため、オスロ・プロセスの失敗を、イスラエルパレスチナの「強硬派」の台頭にのみ求めることが妥当かどうか、ということも問題となる。
>実際、オスロ合意以降も継続した入植地の拡大とそれらをつなぐバイパス道路の建設、そのための土地接収は、国の庇護と支援のもとにイスラエル政府が進めた国策であった。
 
 イスラエル内部で「強硬派」とされる民族宗教派のイスラエル国家機構に対する影響力は看過できない。
 1920 年代にベングリオンが提唱したドクトリンについては、イスラエル建国直後に定式化された移民・入植・人口拡散を基本とするドクトリンについてはLissakアロンとシャロンのドクトリンについてはWeizman[2007: 57-63]が詳しい。
 
        
「強硬派」の台頭に失敗の原因を求める見方の例として、オスロ交渉の当事者だったウリ・サビールの著書がある[Savir 1998: 265-313]。

だが、彼らの影響力や物理的繁栄を条件づけてきた外部要因、特にイスラエルの権力中枢の意図や外国勢力の対応を調査せず、
「強硬派」の台頭をことさらに強調することは、責任の所在を曖昧にすることには寄与しても、入植地問題を取り巻く政治的ダイナミズムを解明することにはつながらないだろう。

               
 
 
        Ⅱ. 国策としての入植地建設
   1.イツハク・ラビン政権下の入植政策
1992 年に樹立されたラビン率いる労働党連立政権は、穏健派として注目された
>確かにラビン首相は、リクード政権に承認・支援された西岸地区中部の入植地を「政治的入植地」と名付け、安全保障上の価値を疑問視した。
>だが、これをもって「穏健派」または「和平推進派」と見なすのは誤りである。
労働党政権はリクード政権下の入植政策に疑問を呈する一方、
以下の地域の入植地は「安全保障入植地」であると述べて多額の政府資金を投入し、パレスチナ側との和平交渉で妥協しない姿勢を示していたからである。
イスラエル軍政府諜報部元長官シュロモ・ガズィットによると、
*ラビン政権は、暫定自治期間の5 年間に、新たに3 万戸のユダヤ人専用住宅を被占領地に建設し、入植者を12 万人増やすことを目指していた
そして、この地域には、リクード政権下で建設された入植地も含まれていた。
         
 
    < 入植地問題から見たオスロ和平プロセス>
1.エルサレム周辺地域・・・マアレ・アドミーム入植地を東端とし、ギヴァット・ゼエヴ入植地を北端とする地域
2.ヨルダン渓谷・・・「ヨルダン渓谷」の地理的な定義の中でも最大限の範囲
3.エツィヨン入植地ブロック・・・エルサレム南部に散在する複数の入植地
4.ヨルダン川西岸地区西部に位置する入植地ブロック

ラビン政権はまた、1994 年からエルサレム周辺の入植地建設のためのマスタープランを策定し、翌年公表した。
この計画では、「大エルサレム首都圏」の境界線が設定され、その内部での入植地拡大・入植者数増大・インフラ整備が企画された(図2、図3参照)[Settlement
>この計画は、自国民を移送して入植させる点で国際法違反であり、西岸地区の領土的一体性の実現も事実上不可能とする決定であった。
にもかかわらず、ラビン政権は、
エルサレム周辺と西岸地区東部の入植地建設は、パレスチナ人との「交渉不可能(nonnegotiable)」な問題であると主張した。
実際の支出額よりも過62 入植地問題から見たオスロ和平プロセス小評価されたイスラエル政府と米国政府の試算でも、
 
イスラエル政府は1992~96年の4 年間で入植地の建設と維持の費用として、
>13 億5800 万ドルを投じた結果、94 年から96 年の間に毎年新たに3000~4000 戸が入植地に建設され
>西岸・ガザの入植者人口は、93 年の28 万人から98 年に35 万人に増加した]。
 
入植地建設と並ぶもう一つの重要な動きは、入植地間およびイスラエル領内と入植地を結ぶ約400km のバイパス道路の建設と、そのための土地接収であった
シモン・ペレス外相は、95 年1 月、入植地拡大とパレスチナ人私有地の囲い込みおよびバイパス道路建設に反対するパレスチナ人民衆の抗議運動が起こった直後、
パレスチナ交渉代表団に対し、「我々は既存の入植地を拡張するために土地を接収することはなく、新しい入植地を建設することもなく、入植地の拡大のために政府資金を投入することもしない」(1995 年1 月3 日)と述べた。
>だが、オスロ合意I が締結された93 年から96 年の3 年間で、入植地拡大とバイパス道路建設のため、西岸とガザの240~300k ㎡が新たに接収された
ペレス外相は、パレスチナ人が現在利用できない土地は全て、シャミール前政権が「国有地」に指定した土地をパレスチナ人が利用するのを停止したに過ぎないと主張し、接収を正当化した。
それ以外の土地の接収も、入植地や軍基地のためのインフラ整備と、入植地を結ぶバイパス道路の建設という目的であれば許されるとし、パレスチナ人が関与すべき問題でないと説明した。
 次回に続く