反俗日記

多方面のジャンルについて探求する。

阪神タイガース正史 →全面引用 安威川敏樹のネターランド王国~消えた球団(15)阪急ブレーブス

                        阪神タイガース正史
 資料1 文中に阪神電気鉄道の生い立ちが簡潔に指摘されている。20世紀初頭、大阪ー阪神間の経済力が今より数段大きかった。私鉄資本の創生ー発展は東京圏よりも先行していた。
 
引用 抜粋、整理はW。
「今回、阪急ブレーブスのことを調べるに当たって、「阪神」という単語は避けて通れなかった。
逆もまた真なりで、阪神を知ることは阪急を知るということでもある。」
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        阪神電気鉄道阪神急行鉄道の創生>
 
日露戦争終結した1905年(明治38年)、大阪と神戸の間に阪神電気鉄道が開通した。
                 ↓
「この頃、大阪~神戸間には既に国鉄が走っていたので、阪神は国に喧嘩を売ったようなものである。
しかも、阪神は鉄道敷設の許可を得るために、認可されやすい軌道線、即ち路面電車として申請したのだ。
認可されると、実際に軌道線となったのは僅かな区間で、大部分は専用線を走り、しかも軌道線の規定速度(僅か13km/h)を遥かに上回る速度で高速運転したのである。
こうして反則スレスレ(というより反則そのものだが)の運営により、阪神国鉄の客を奪い取っていった。」
 
W。この項目の注意点
路面として国に申請し、実際は阪神間の専用「高速」線を施設した阪神電気鉄道の経営陣のトップは明治維新のころの元会津藩士で、慶応義塾福沢諭吉のもとに学び、日銀大阪支店支店長を務め関西財界の重鎮になり上がった人物である。
阪神電気鉄道傍流維新経済官僚が主導し、地元財界が協力して創生された「半官半民的」鉄道会社である。ココに民間経済人小林一三の経営する後発阪急との違いがある。
この点はその後の阪急の経営成長と阪神電鉄の停滞、隆盛するアマチュア野球依存の経営、及び現在の阪神電気鉄道の経営体質を理解する鍵。 
その後、阪神間の海岸線の従来から開発された住宅工場地帯を沿線とした阪神電鉄、開発の余地が残された山側を沿線とする阪急、その中間に国鉄の立地条件の構図ができあがった。
 
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  <先発、阪神電鉄と後発、阪急の争いはアマチュア野球の開催地を巡って阪神に軍配が上がる>
 
②それから15年後の1920年(大正9年)、国鉄阪神の喧嘩に割り込んできたのが阪神急行電鉄、即ち現在の阪急電鉄だ。
 
「大阪~神戸間というドル箱路線を、このまま指をくわえて見ているのはもったいない、と考えたのである。
そう考えたのは阪急グループの創始者、鉄道経営の神様とも言える小林一三だった。
その方法も、阪神と同じく軌道線として申請し、実際には専用路線で高速運転を行ったのである。」

小林一三は、阪神に対してある恨みを抱いていたのである。
原因は中等野球、つまり現在の高校野球だった。
 
第1回全国中等学校優勝野球大会(現:全国高等学校野球選手権大会夏の甲子園)が行われたのは1915年(大正4年)のことだ。
全国大会の会場となったのが、阪急の前身である箕面有馬電気軌道の沿線にあった豊中グラウンドである。
この頃の箕面有馬電軌は単線の田舎電車豊中グラウンドも粗末なものだったので大勢の客をさばききれず、僅か2年で豊中グラウンドの使用を諦めた。
>そして、白羽の矢が立ったのが阪神沿線の鳴尾競馬場だったのである。
鳴尾競馬場に二面のグラウンドを設置して、大観衆に対応しようとしたのだ。
複線路線を持ち、大勢の競馬客に慣れている阪神電車が、人気の高まりつつあった中等野球にうってつけだったのである。
小林一三阪神に中等野球を持って行かれて、相当悔しかったに違いない。
そう考えると、大阪~神戸間に電車を走らせようとしたのも頷ける。
やはり大都市間に電車を走らせないと、商売にならないのだ
 
 
 <日本プロ野球の発足 最初のチームは読売ジャイアンツではなく芝浦協会→関東財震災で消滅>
ようやく野球の話になったところで、日本最初のプロ野球チームはどこだろうか?
この答えが読売ジャイアンツでないことは、「消えた球団シリーズ」をご覧になっている方ならご存知だろう。
 
そう、その答えは日本運動協会(通称:芝浦協会)だ。
 
>1920年(大正9年)に東京で発足したプロ野球チームだったが、その僅か3年後の関東大震災によって活動を休止せざるを得なくなったのである。
そこで、手を差し伸べたのが阪急グループの総帥である小林一三だった
 
小林一三は元々、鉄道経営は鉄道事業のみで終わらせてはいけないと思っていた。
鉄道を敷設するとともに、沿線には住宅地を開発し、沿線人口を増やせば鉄道事業が潤う。
そのため、当時増えつつあった会社勤めのサラリーマンがマイホームを購入しやすいように、住宅ローンを日本で初めて導入したのも小林一三の案だった。
さらに、沿線にはレジャー施設を建設し、大勢の家族連れを取り込むことによって運賃収入と入場料を得ることができ、阪急の懐はますます温まる。
 
林一三は、こうした多角経営の先駆者だった。
 
 
      
 
    <阪急小林は芸能娯楽とスポーツを多角経営のコンテンツとした>
そして、小林一三はもう一つの狙いを付けた。
芸能界とスポーツ界である。
芸能界とは即ち宝塚歌劇団、スポーツ事業は言うまでもなくプロ野球だ。
 
>日本運動協会(関東大震災で消滅した通称芝浦協会)を引き取った小林一三は、1924年(大正13年)に宝塚運動協会というプロ野球チームを設立した。
 
この頃、中等野球を阪神に取られた悔しさからか、1922年(大正11年)に宝塚球場を既に完成させていた。
この宝塚球場が宝塚協会の本拠地になったのは言うまでもない。
宝塚球場の存在は、阪神にも危機感を持たせた。
 
 <阪急の宝塚運動協会ー宝塚球場に対抗して、阪神甲子園球場建設へW。この時代は積極経営。経営体力があった。>
 
というのも、全国中等野球の会場だった鳴尾球場は、競馬場を改造した即席球場だったため、高まる中等野球人気に対して限界を迎えており、もはや中等野球を行うのは不可能だったのである。
とはいえ、このまま手をこまねいていると、宝塚球場を持つ阪急に再び中等野球を取られかねない。
そこで阪神が採った決断は、本格的な球場を造る、ということだった。
それも、宝塚球場など足元にも及ばず、アメリカのメジャー・リーグにも負けない東洋一の大球場を。
こうして乾坤一擲、阪神電鉄が社運を賭けて建設したのが甲子園球場だった。
 
今の時代では、甲子園球場ほどの大球場を一鉄道会社が建設するのは不可能だろう。
それほどまでに、阪神は阪急に対して恐怖感があったのだ。
つまり、もし阪急という存在がなかったら、甲子園球場は存在していなかったかも知れない。
 
       <阪急小林はプロ野球リーグ設立~鉄道リーグ?~を画策>
一方、宝塚協会を発足させた小林一三には、1923年(大正12年)の頃からある構想があった。
それは「鉄道リーグ」とも言えるプロ野球リーグを設立する、というものである。
 
関西からはライバル会社である阪神電気鉄道の他に、京阪電気鉄道、大阪鉄道(現:近畿日本鉄道近鉄)、関東からは京成電鉄東京横浜電鉄(現:東京急行電鉄=東急)に声をかけ、プロ野球のリーグ戦を行おうとしていたのだ。
         ↓5年後解散
しかし、小林一三の壮大な計画も虚しく、宝塚協会は1929年(昭和4年)に解散してしまった。
日本運動協会が設立してから10年、宝塚協会が引き取ってからは僅か6年という短い命だった。
鉄道リーグが発足することもなく、対戦相手のプロ野球チームがなかったことも祟って、チーム運営が立ち行かなくなったのである。
 
        読売巨人軍の誕生>
宝塚協会の消滅から5年後の1934年(昭和9年)、大日本東京野球倶楽部が誕生した。
読売新聞社が招いた全米オールスター・チームに対抗すべく全日本軍が結成され、そのままプロ野球チームとして発足したのだ。←W。満蒙武力侵略、高橋是清の財政金融拡張政策による軍需需要の好景気を背景に戦前日本資本主義の生産力がピークを迎えたころだった。
これが現在まで続く読売ジャイアンツである。
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 阪神タイガース読売巨人軍の腐れ縁の発端。読売が目を付けたのは全国アマチャ野球の本拠地を所有する阪神電気鉄道
 
そして日本にいた読売新聞社社長の正力松太郎は、読売お抱えのプロ野球チームと対戦する、プロ野球チームを経営できる資本家を探し回った。
そこで白羽の矢が立ったのが阪神電鉄だったのである。
東京の読売チームに対し、大阪のプロ野球チームが必要と思っていた正力松太郎は、東洋一の大球場である甲子園球場を持つ阪神電鉄はうってつけだと考えたのだ。
 
さらに正力松太郎には、もう一つの計算があった。
阪神プロ野球団設立に向かえば、ライバルの阪急も黙っていないだろう、という読みである。
 
 
 阪神電鉄の球団設立の最大の障害は中等野球開催スケジュールとの調整>W。「反俗日記」の主張する阪神タイガースの野球環境偏差値は12球団最低はこの時代から意識されていた阪神タイガースは5試合以上、ハンデをもらわなければ、同じスタートラインに立っているとは云い難い!元々春夏甲子園大会とプロ野球阪神球団のスケジュールはかみ合わないのである。ただし、裏面ではマスコミ支援の恩恵も受けているという構図。これが阪神タイガースの原風景であり、この視点を無視したタイガース評はうわべだけのモノだ!根本的突破口はチーム環境への設備投資以外になく、人的資源の活用はその土台の上に行われるべきものである。
金本のような輩を監督に招いたのは、土台への投資ができない<カネなし、ヒトなし、知恵無し→ロクで無し>経営が行き着く先だった。同じ鉄道資本という古い業態の西武ライオンズも同じ次元の問題を抱えている。
 
     
       <アマ野球開催とのスケジュール調整の問題を超えて大阪タイガースの結成へ>W。夏の甲子園時代でもこれだけのもんだいになった。
 
甲子園は中等野球のために建設された球場なので日程上の問題があり、さらにこれまで日本では職業野球(プロ野球)が成功しなかったことから阪神側は難色を示したものの、阪急の動向も睨んで、ようやく1935年(昭和10年)にプロ野球チーム結成と相成った。
それが大阪野球倶楽部、つまり大阪タイガース(現:阪神タイガース)である。
 
当時、プロ野球チーム発足に熱心だったのは、中等野球を抱える阪神よりも、鉄道リーグという構想を持っていた阪急だったのは明らかだった。
 
だが、正力松太郎が先に誘ったのは阪急ではなく阪神である。
 
そこには、正力松太郎のしたたかなもう一つの計算があった。
          ↓
    <W。読売は主導権を握るためにアマ野球(朝日新聞主催)の殿堂を握る阪神を利用>
W。なかなかの好投政治技術である。当時はアマ野球全盛の時代、読売は職業野球成立に賭けた。
 
このまま阪急を勧誘すれば、東と西で読売と阪急は対等でプロ野球リーグを運営していかなければならない。
だが、大阪地区で阪神というワンクッションを置けば、阪急を差し置いて読売がプロ野球リーグのイニシアチブを取ることが出来るのだ。
そしてこの頃、小林一三が外遊していたというのも幸いした。
 
アメリカのワシントンにいた小林一三は、阪神プロ野球チームを設立したと聞いて、直ちにプロ野球チームの発足を本社に命じる。
そして1936年(昭和11年)に設立されたのが大阪阪急野球協会、即ち阪急軍だ。
しかし、新聞社である読売、そしてライバル鉄道会社の阪神に遅れを取ったのである。
それが、今後の阪急の運命に影響を与えたのかも知れない。
 
1936年(昭和11年)、設立当初の日本プロ野球に参加した球団は、
 
 
     プロ野球創生当時は巨人VS阪神は黄金カードではなく、関西の早慶戦阪神VS阪急>
現在の日本プロ野球(NPB)では、巨人×阪神が黄金カードと呼ばれる。
だが、日本プロ野球の創立時は、そうではなかったようだ。
最大のライバル対決は大阪タイガース×阪急軍、要するに阪神×阪急だった。
小林一三の口癖は「タイガースには絶対に負けるな!」だったのである。
これは阪神とて同じで、タイガース初代監督の森茂雄は、ある試合で「阪急に負けた」という理由だけで、アッサリと解任されたという。
阪神にとっての最大のライバルは東京巨人軍ではなく、同じ関西の鉄道会社を母体に持つ阪急軍だった。
阪急軍大阪タイガースとの定期戦は人気を呼び、「関西の早慶戦とも呼ばれたのである。
阪急と阪神は、お互いの定期戦の時には社員を動員して、応援合戦を繰り広げた
 
        
 
        阪急西宮球場は内野も芝生であった>
 
そして1937年(昭和12年)には、阪神甲子園球場に匹敵する本格的な本拠地球場である阪急西宮球場を、同じ西宮市内に完成させたのだ。
アメリカの球場を模した造りになっており、当時の日本の球場としては初めてとなる二層式のスタンド、さらに内野にも芝生を敷き詰めていた。
このあたり、阪神に対する過剰なまでのライバル意識が見て取れる。       
 
       <阪神VS読売、大阪VS東京の構図の成立~優勝を分け合っていた~>
だが阪神とのライバル関係も、1936年(昭和11年)秋から本格的に始まったプロ野球リーグ戦で、次第に崩れていく。
戦前は、東京巨人軍大阪タイガース阪神軍)で、ずっと優勝を分け合っていたのである。
こうなると、狭い関西圏でライバル関係もあったものではない。
阪神軍のターゲットは東京巨人軍となり、ここに大阪vs東京という、新たな構図が出来上がったのだ。
こうして、阪急軍は取り残されてしまったのである。

       <戦後プロ野球
勇者・阪急ブレーブスが誕生したのである。
しかし、阪急ブレーブスは戦後なお低迷し続けた。
ライバルの大阪タイガースはおろか、後発球団で関西大手私鉄が資本の南海ホークス(現:福岡ソフトバンク・ホークス)にも後塵を拝することになる。
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        <2リーグ分裂>鉄道リーグから阪神だけが抜けセリーグ
1950年(昭和25年)、日本プロ野球は2リーグに分裂する。
 
新球団で毎日新聞を母体とする毎日オリオンズ が中心になって結成されたパシフィック・リーグは、映画会社を親会社とする大映スターズ、鉄道会社としては阪急ブレーブスの他に南海ホークス東急フライヤーズ、新球団の近鉄パールスおよび西鉄クリッパースといった鉄道会社を親会社とするチームが集まり、小林一三がかつて唱えていた鉄道リーグがほぼ実現していたのだ。
 
だが、ここに裏切り者がいた。
同じ鉄道会社を母体とする、阪神電鉄お抱えの大阪タイガースである。
 
2リーグ分裂の際、大阪タイガースパ・リーグ所属はほぼ決まっていた。
しかし、セントラル・リーグの中心だった読売ジャイアンツの引き止めに遭い、大阪タイガースセ・リーグに寝返ったとされる。
阪神にとっても、タイガースvsジャイアンツ、大阪vs東京という、プロ野球創始以来のドル箱カードを失いたくない。
 
こうして、阪急はライバル会社の阪神に裏切られたのである。
 
  
 
 阪神タイガースの第一次暗黒時代>毎日の怒りを買って、選手大量引き抜きによりチーム弱体化
だが、阪神にとっても、その代償は大きかった。
この裏切りによって毎日新聞社の怒りを買い、大勢の主力選手を毎日オリオンズに引き抜かれたのである。
そのため、大阪タイガースは弱体化し、長いあいだ優勝から遠ざかってしまったのだ。
 
   <阪急ブレーブスのチーム力強化と衰退>
昭和の終焉を告げる1988年(昭和63年)10月19日、その日は突然やってきた。
阪急ブレーブスオリエント・リースに身売り、というものである。
実はシーズン終盤、同じパ・リーグに所属する南海ホークスの身売りが取り沙汰されていた。
そしてそれは現実のものとなり、南海ホークスダイエーに売られたのである。
だがそれは、以前から噂されていたことだった。
しかし、阪急ブレーブスの身売りは、まさしく寝耳に水だったのである。
誰もが予測していないことだった。
鉄道会社としては磐石な基盤を持ち、プロ野球でも常にAクラスを保持している阪急ブレーブスが身売りするなど、誰も想像していなかったのである。
たしかに、阪急ブレーブスはその強さの割に、人気のない球団だった。
今から思えば、山田久志福本豊加藤秀司山口高志とスターが揃い、しかも常勝軍団だったのだから、なぜ人気がなかったのか不思議に思える。
その原因は、やはり阪神タイガースにあったと言わざるを得ない。
同じ兵庫県西宮市に本拠地を持ちながら、当時はセ・リーグパ・リーグの人気差に阪急ブレーブスは苦しんだだろう。
2リーグ分裂時、阪神タイガース読売ジャイアンツと対戦できるセ・リーグを選んだことが、結果的に良かったのだ。
一方の阪急ブレーブスは、いくらパ・リーグで勝っても、テレビなどのメディアからは注目されない。
まさしく、世の理不尽を実感しただろう。
 
1989年(平成元年)、オリエント・リースに売却された阪急ブレーブスは、オリックス・ブレーブスとして再出発した。
この時、親会社のオリエント・リースオリックスとして社名変更したので、球団買収は渡りに船だったのである。
オリエンタル・リースなんて会社は誰も知らなくても、新社名のオリックスは誰もがわかる社名となったのだ。
これこそ球団買収の、親会社にとっての最大のメリットである。
 
           
         
 
 近鉄バファローズ消滅>オリとの合併承認。楽天ゴールデンイーグルス球団の設立の折衷策。
2004年(平成16年)のシーズン中、オリックス・ブルーウェーブ大阪近鉄バファローズは合併すると発表された。
まさしく青天の霹靂で、ファン無視以外の何物でもなかったのである。
オリックス近鉄の合併は、球団削減を意味していた。
球団を減らして、既得権を確保しようとオーナーたちが画策したのである。
 
こんな理不尽な要求は、ファンも選手たちも納得せず、日本プロ野球初のストライキにまで発展したのだ。
思わぬ反発に屈したオーナー連中は、球団削減を実行せず、新球団の東北楽天ゴールデンイーグルスを誕生させて、12球団による2リーグ制を維持した。
しかし、オリックス近鉄の合併は承認され、新たにオリックス・バファローズが誕生したのである。
 
 
   <球団身売り、合併で成果が得られていないのはオリックスだけ!>
だが、オリックス球団は1996年以降に優勝を果たしておらず、何のための身売り劇だったのかわからない。
普通、身売りがあれば、その時こそ批判はあるだろうが、ちゃんと結果を残している球団がほとんどだ。
福岡から埼玉に球団を奪い取った西武ライオンズは常勝球団となったし、大阪から福岡に移転させた福岡ダイエー・ホークス、現在の福岡ソフトバンク・ホークスは九州の超人気球団となった。
 
観客動員数が増えたわけでもなく、強くなったわけでもない。
もう一度言えば、1996年以来、オリックスは18年間優勝がないのだ。
しかも、一つの球団(近鉄)を吸収合併しているのである。
2チームを連合させて(しかも、新球団の楽天には選手供出をケチって)、それでも下位を低迷しているのだ。
オリックスといえば、今や大企業に成長した。
赤字で喘いでいた京セラドーム大阪まで買い取ってしまったのである。
この不況の世の中、これだけ躍進した企業も珍しい。
しかし、それがプロ野球チームにちっとも反映されていない。
一方、選手不足の弱小球団として発足した東北楽天ゴールデンイーグルスは、球団結成後の僅か9年で日本一まで登り詰めた。
その間、オリックス・バファローズは一度たりともリーグ優勝すらしていない。
資金力は豊富なはずなのに、これは明らかに球団経営努力の不足である。
小林一三は草葉の陰で泣いているのではないだろうか
だが、オリックス球団が近鉄球団を吸収合併したことによって、何かメリットでもあったのだろうか。
 
   
 
<乗っ取りの危機に喘ぐ阪神電気鉄道の「白馬の騎士」はバブル崩壊で大借金を抱えた阪急HDという構造敵対矛盾>阪急阪神HD誕生。阪神電気鉄道は株式非上場会社になった。阪神電鉄の子会社の経営責任は不明確になった、と云える。
 
 
   
最後に、現在の阪急と阪神の関係についても記しておこう。
2005年(平成17年)に村上ファンド阪神タイガースの株を買い付け、タイガースを乗っ取られると思った阪神電鉄は、ライバルだった阪急電鉄に協力を求め、結果的に阪急阪神ホールディングスというグループ企業に収まるのである。
鉄道でも野球でも、あれだけいがみ合っていた両社が、結局は手を結んだわけだ。