「項羽と劉邦」<あとがき>
この広い地上には、文明という人間の暮らしのための普遍的体系と技術群が、集中的におこる場所があったらしい。
参考資料①
日本・中国・韓国 対照年表←W。歴史は事実の集積。抽象化の仕方を間違えると決定論宿命論になる。今、目の前の大状況やソレがこれからどうなっていくかは見当が付き難いが、昔のことになるほどは分かり易い!司馬遼はこのきらいがある。
参考資料②
中国東アジア歴史地図←W。面白そうだ。地歴の観点を使うと歴史の眺望が開ける。
「項羽と劉邦」の<あとがき>を読むときも参考になる。
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古代の時代の中国大陸も、そういう場所の中の、しかも最も重要な一つであった。
>一つにはこの大陸の場合、周辺から様々な暮らしの仕方を持った民族が間断なく流入し続けた、という事をみなければならないであろう。
具体的情景としては、農業だけしか知らなかった民族に、牧畜を専業とする民族が接してくると、
長靴をはくことや、動物の腱を干して弓を作ること、あるいは干し肉を作り、乳製品を食べることなどが教えられる。ソレらはむろん彼等(農民文化課からみると蛮族)は教師団としてやってくるのではなく、戦争の形をとってやってくるのだが。
また別の具体的情景としては、冶金を得意とする民族の流入も考えられる。
彼等が入りこむことによって、例えば矢じりを金属にすることだけでも在来の狩猟生産高が変わる。
又それまで木製だったスキやクワに金属片をはめ込むことで、ソレによって統治領域農業生産が飛躍的に上がりが変わる。
つまり広域国家が出来上がる
広域を統治するために文字ができ、ソレを使用する官僚が発生し、
>文字は統治の道具であることから、思想その他を表現する道具としてその場を広げていく。
冶金を得意とした民族とは、例えば、殷がそうであったかもしれない。青銅の遺物で、ソレを十分に創造することが出きる。
殷に替わって起こった周は、元々西方の草原にいた。
彼らはその草原の主である遊牧民族の>くきょう)と混在した民族で、冶金技術は殷よりうまくなかったが、騎馬民族の特技である戦争に習熟していた。また戦士や農民を数量的に把握する能力があり、ソレを目的に向かって巧みに案配する能力も、稼業がら、長けていたと想われる。
>古代にあっては民族は暮らし方によって形成されるもので、20世紀の語感とは違っていたのではないか
文明というのは多様な稼業の違いの諸民族が、互いに異質な文化を持ち込んで、ソレらをるつぼの中で溶かし合う条件を持った場所に起こるものであったように思われる。
少なくとも中国大陸の場合はそうであった。むろんその巨大な<るつぼ>は、農業が基盤でなければならなかったが。
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ただし筆者が属する社会は、中国文明の周辺地域に存在していた。
古代、この草木の茂った島嶼は一望の未開地で、ぼ音を長く言語を持った素朴な採集生活者がわずか人数で住んでいた。
ソコへ水田方式の稲作という、多数の人間をくわせることができる技術が入ってきた。非金属ながらスキやクワなどの道具類もセットとしては入り、また縄、むしろ、ぞうりといったワラ工芸品も入り、あるいは稲作儀礼もソレに付属して入ったかと思われる。
誰でもそのセットの下に従属すれば稲作の暮らしにに入ることができると云う事で、それなりに普遍性を持つ文明であったと云えるが、
中国大陸の様に多様な暮らし方を持った諸民族が混入してくると云う条件に乏しかったために、
文化的単一性の強いーーつまり単純なーー古代社会が出来上がったのである。
日本に水田稲作が入ってきたそうそうか、あるいはそれよりもも少し前の時代が、
「項羽と劉邦」の時代である。
春秋、戦国という農業生産力が上昇した時代を経て、中国古代文明が、形而上的な所思想を含めて熟成しきったころと云える。
文明の熟成とあいまいな言葉をそのまま使えば、ソコに世界史の近代の要素さえ多量に見られる。
前時代から引き継いでいる形而上的な書思想が社会に根付き、それぞれが教団を作り人材を養成しているかのようなにおいさえある
士という個人も成立している。
日本でいう士。は封建大名の家来のことであるが、中国のこの時代の<士>とは思想と志を持ち自主的に自分の進退を考えると云う個性を指す。
むろん、一方においては、数の子の様に均等性と没個性でもって部族や家族に隷属している古代的な状態が海のように広がっている。
<士>とは、ソレらと相関しながらもその現実からわずかに離れた個性群の事を云うらしい。
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中国史は不思議なところがある。
後代の方が文化の均一性が高くなるのは当然であるとして、知的好奇心が衰弱することである。後漢の末ごろからいわゆるアジア的停滞が始まりその停滞が驚嘆すべきことに、近代までの長い歴史の中に居座り続ける。
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秦帝国は思想の側でいえば法家思想の実験帝国であったが、その成立については、何処かにひそかな放火結社があって宮廷に取り入り、帝国に原理を与え、構造を作らせ、中央地方の官僚組織の隅々まで設計したのではないかと思えるほどだった。
秦帝国を崩壊させていく力は、一にも二にも流民であった。
少なくとも表面上法家がいなかったのは、思想の徒にとっては何よりも法家主義を倒すという意識が顕在、又は潜在していたからではないかと思われる。
1975年の5月半ばに洛陽に入ったとき、唐代から街の名物であり続けている牡丹花はすでに時期を過ぎてしおれていた。
→鉄道線路わきの体育館の様に大きな屋根組の建物があり、、入ってみると、穀物用の巨大な穴ぐらが保存されていた。
1969年、ココに工場を建てようとして土の質を調べるべくボーリングが行われていたとき、地中から一個の刻銘*W漢字読めず!が発見された。
*には含嘉倉(がんかそう)と刻まれていた。さっそく発掘され、保存された。
穴は直径11m、深さは7mで縁に立つと吸い込まれそうなほど大きい。倉といっても建物ではなく黄土層を深く掘って(黄土層は水が出ない)穴の周りを多少固め、吸湿材その他を入れ、上から穀物を流し込むのである。
穀物の多くは揚子江付近の諸地方から集めた年貢米で、舟運で運ばれる。運河を通り、黄河に入り、更に黄河を遡ってこの洛陽に揚陸され、この種の穴ぐらに収められているのである。←W?揚子江と黄河を結ぶ大運河建設は髄の時代に開始されたのでは?
コメなら5年、粟なら9年持つと云う。
むろんこの穴が一つではない。含嘉倉(がんかそう)が発見されてから、どう種類の穴が、この穴を含め、洛陽だけでも261個も発見された。
>穴の縁に立ちながら、中国的発想の即物性の凄さを感じた。
孔の縁まできて食うのかとあわてて思ってしまったほどに、生々しい情景である。←W。フランク王朝も宮廷が食いぶちの得られる地域に移動した。食糧の輸送経路が戦乱で寸断されない合理的発想!中世日本における武士の発生の一方の根拠は京の都への年貢の輸送経路を下級軍事貴族の武力で確保することであった。
章 邯 を 討 て !( 続 き )
かれは洛陽を落としてココに固執し、情勢が悪化しても、ついついたようにここを動かなかった時期がある。10数万というかれの士卒に食を与えるためである。
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含嘉倉(がんかそう)をのぞき込みつつ、流民の事を思った。
中国大陸は何百年かに一度、凄まじい飢餓に襲われる。青いモノと云えば雑草一茎も見当たらぬと云う状況の中で、むらぐる流民化して他村を襲ってその食物を食い、襲われる他方の村民も村を棄てて集団で流民化し、食を求めて転々とする。
>いわゆる英雄というのはその状況下で成立する。
何処そこで五〇〇〇人を食わせるヒトがいると聞けば殺到しその傘下に入るのである。
やがてその狩猟も五〇〇〇人の食を保障しかねるととなると、首領は四方を探し、5万人の食を保障する者の下に流民ごとなだれ込み、そのげいかに入る。
ついには100万人の食を保証する者が最大の勢力を持つことになるのだが、こう云う種類の存在を中国では英雄という。
日本ではこの定義の様に正札の付いた英雄はかつて存在した事がない。
日本では降雨量が多く、山野に水が枯れることはまれで、例え飢饉があっても狭い地域に限られ、大陸全土が流民を載せて渦巻く様な中国的現象というのはかつて起こったことがない。
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中国の政治は、人々を食わせようという事が第一義になっている。
流民が大発生するには一つの王朝の滅びるときであり、その動乱の中で流民を食わせる大首領が現れ、食わせるという姿勢をとりつつ古い王朝を倒し、新王朝を作る。
逆にいえば、食わせるという能力を喪失した王朝については天が命を革めてしまう。他の食わせる者に対して新たな命を下すのである。
>食わせると云う事は、事実食わせたかどうかは別として、少なくとも食わせることに懸命な姿勢をとり続けることであった。
>同時に、その姿勢があるために、中国史には有り余るほどの政治哲学と政策論を生産してきた。
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日本史においては、大流民現象がなかったために、ソレに見合う首領もいなかったし、従って政治哲学や政策論の過剰な生産もなかった。
有史以来の最大の乱世といわれる室町期にあっては、政治とかかわりなく農業生産が飛躍的に拡大した。
このことを想うと、日本史でいう英雄とは、中国史におけるその定義に当てはまる存在ではないらしい。
同時に日本にあっては中国皇帝のような強大な権力が成立した事がないと云う事についても、この基盤の相違の中から何事かをうかがう事ができ層である。
項羽は楚人である。
ともかくも楚人の民族、気質というものは、単に稲作文化という共通項があるせいかそうか、古い日本に類縁性がある様な気がしてならない。
中国の古代文明が、多様な稼業の違いの民族の混在によって起こったと云う想像が正しければ、楚というのは中原に対する最後の異質文化であった。
ただしこの時期になると、文字も文章表現も中原で発生したものを使い、その下半身は中原文化に溶かされ込んではいた。
しかし、中原とは生産社会も違い、王朝の制度も違い、農民文化や気質も大いに異なっている。このような楚人が項羽に率いられ、大反乱をおこしたようにくご中流域の中原に向かって殺到するのは、この時期が初めてではなかったか。
>この意味で中原文化という大きなるつぼの中に楚人の稲作と湖沼の文化が投げ込まれたといってよく、その意味で項羽の活躍とその溶ける様な滅亡~情景としては楚兵がことごとく劉邦に就いた四面楚歌~はこの大陸の古代文明最後の仕上げともいえるし、汎中国的なものへの最初の出発ともいえいるかもしれない。
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項羽は紀元前202年に死ぬ。
日本に弥生式文化とよばれる暮らし向きが、既に海外において成熟した仕組みとして渡来してくるのもほぼその前後である。
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日本人が中国大陸から漢字、漢籍 - Wikipedia漢籍を導入するのは遥かのちのことである。
以後日本社会はその歴史を記録として織り上げてゆくのだが、人間のさまざまな典型について自分の社会の実例よりも、漢籍に描かれた古代中国社会に登場する典型群を借用するのが常であった。
このことは、一つには江戸末期に日本社会が成熟し、頼山陽 - Wikipediaが出て【日本外史を書くまで自国の通史がかかれなかったことにもよる。
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W注 、頼山陽 - Wikipedia引用
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中国の周辺文化というのは自国を雛(ひな)であるとするらしく~朝鮮やベトナムも同じだと思うが~追試が成立しにくい。
たとえ成立しても人間についての刻啄にとぼしい。
中国社会の場合、既に述べたように田園に自らを飼い養っている人々が一挙に柵を脱し、山野へ**だすということがあるために、ソコに浮沈する人間たちは、浮沈の力学としての刻啄が深刻にならざる得ない。
天啓ができやすいと云うことであり、特に戦国から秦末の騒乱に掛けてはそうである。
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彼は宋代の学者よりもはるかに今日的な感覚を持ち、20世紀に突如出てきても違和感なく暮らせるほどに、物や人の姿を平明に見ることができた。
司馬遼太郎の持論が展開されている。
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鎌倉時代からあとが自分に解る日本で、つまり現代とは共通しているものだ、あおの前にが断層がある、というのが司馬さんの持論である」
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以下筆者自身に関して云う。
私は文明というのは1個の光源で、、その周辺から利用されるべきものであると想ってきた。W。冒頭の文明の定義を参照!
逆にいえばりようさええないものは文明とはいえないに違いがない。
この意味において、私は、日本の中世のある時期までの知的文化は、唐の文化の周辺化したものでると感じてきた。
例えば日本文化が、宋の政治論文が持つ観念性に影響された例は少なくないが、
唐の詩人たちの詩情を、
あるいは現代中国人よりも生き生きと感じる感受性を持っていることでも傍証できる。
↓W。断絶論
>日本は唐の制度や風習、典籍を奈良朝から平安初期まで圧倒的に導入しながら、894年遣唐使の廃止によってにわかにそのことを止め、
>以後、室町のある時期までほとんど正規の交渉をもたなかった。
>唐以後、中国文化は変遷するが、日本において、特に漢音、建築、儀礼と云ったものの中に唐文化が凍結保存された。
*そういう場から、中国古代社会をみるとき、既に精神風景としては、外国ではなく自分がかつて属した文明圏のものであるという気分がこくなる。
この作品は、そういう気安さの中で書いた。