反俗日記

多方面のジャンルについて探求する。

マニー・ラミレス外野手(44)、四国アイランドリーグ高知と契約合意。野球への熱い心は不変。カブス3A選手兼任コーチ、メジャーマイナー打撃コンサルタントの2年間で育てた代表的選手にジャビールバエス

イメージ 1←W。転載http://news.livedoor.com/article/image_detail/7995958/?img_id=52463602008年東京ドーム巨人戦
マニー、アレックスラミレス。オルティス
 
>W。マニーラミレス四国アイランドリーグ、高知ファイティングドックス契約の経過
2016年12月2日 ... インディアンス、レッドソックスなどでプレーし、大リーグ通算555本塁打を誇るマニーラミレス外野手(44)が、独立リーグ四国アイランドリーグ(IL)plusの高知入団交渉を行っていることが1日、分かった。来年5月で45歳を迎えるが~
「メジャーの超大物が来季、日本で活躍する可能性が浮上した。独立リーグの四国IL高知に、仰天の逆オファーが舞い込んだのは11月22日。あのマニー・ラミレスから、代理人と同球団の外国人内野手を介して入団の売り込みがあった。梶田宙球団社長(33)は「名前はもちろん知っていましたし、ビックリですよね」と青天のへきれきに興奮を隠せない。」
 
>W。マニーラミレスの経歴、人物の詳しい情報はコレしかない。
ドミニカ共和国サントドミンゴで生まれ(1972年5月30日)、13歳の頃に家族と共にニューヨークへ移り住む。
ジョージ・ワシントン高校へ入学し、野球部に入部。」
1991年6月のドラフトでクリーブランド・インディアンスに1巡目(全体13位)指名を受け契約金25万ドルで入団。
1995年にインディアンスの外野の定位置を確保(右翼)し137試合に出場。5月には打率.394、11本塁打、27打点、8二塁打の成績で初の月間MVPを獲得。
 
>2001年にレッドソックスへと移籍。
「FAの超目玉であるラミレスが示した希望額は8年1億6000万ドルという破格の金額であった。また、長くプレーしたいと思っていたラミレスは、将来的にDHになることを考えていたためア・リーグのチームを希望していた。これに対しヤンキースを始め複数の球団が獲得の意思を示したが、最終的には、ラミレス自身がプレーしたいインディアンスと、ラミレスの希望額の満額を唯一提示したレッドソックスに絞られた。
 
>インディアンスは球団の方針として、一人の選手に対してチームの合計サラリーの29%を超える年俸は支払わないことを決めていた為その範囲で支払える満額をオファーしていたが、ラミレスの希望額には及んでいなかった。
結局、悩みぬいた末にラミレスはレッドソックスを選択
会見でレッドソックスのユニフォームに袖を通すと「ヤンキースが勝つのはもう見飽きた」とコメントし、打倒ヤンキースを誓う。このラミレスの契約はアレックス・ロドリゲス10年2億5200万ドルに次ぐ大型契約であった。」
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全盛期は現シカゴカブスのフロントを取り仕切っているセオ、エプスタインの下でレッドソックスの3番オツティス4番マニーラミレスの強力打線。
メジャーリーグシカゴ・カブスの副社長(2011年10月 - )。ニューヨーク市出身。2002年
から2011年まではボストンレッドソックスのゼネラルマネージャー (GM)を務めた。」
2004年は43本塁打で初のア・リーグ本塁打王となり、打率・打点・本塁打の打撃主要3部門全てを獲得した打者となる。
43本塁打で初のア・リーグ本塁打王となり、打率・打点・本塁打の打撃主要3部門全てを獲得した打者となる。
>この年、米国籍も取得している。プレーオフでは全14試合に出場し60打数21安打、打率.350、2本塁打、11打点を記録。自身3度目となるワールドシリーズでは17打数7安打、打率.412、1本塁打、4打点と活躍。第3戦ではジム・エドモンズの飛球を捕るとすかさず本塁へダイレクト送球、見事にラリー・ウォーカーをしとめるファインプレーなどでチーム86年ぶりの世界制覇に大きく貢献し、ワールドシリーズMVPに選出されている。
2004 ALCS, Game 5: Yankees @ Red Sox 
2004 ALCS Game 7 - Red Sox @ Yankees 
 
2004 World Series Game 3 Red Sox @ Cardinals 
2004 World Series, Game 4: Red Sox at Cardinals 
 
 
2006年は8年連続9度目のシルバースラッガー賞
>右膝を痛めて休みがちとなり、チームのプレーオフ進出が困難となった8月終盤以降は数試合に出場するのみであった。
 
W。パワーだけでなく打撃テクニックを兼備した勝負強い打者でもあった。
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>「前年に引き続き主に4番打者として出場したが、3番オルティーズが54本塁打長打率.636という成績だったこと、また5番にそれほどの打者がいなかったことで、彼の打席はオルティーズの一発で走者がいないか、走者がいても一塁が空いていれば四球で歩かされることが多く~」
>「一方で出塁率トラビス・ハフナーと並ぶメジャートップの.439、四死球少ない出場試合数で自己最多の100に上った。
 
2007年 3年ぶりの世界制覇に大きく貢献した。このシリーズでバーニー・ウィリアムスの持つ22本を超えて単独トップとなる24本塁打(最終的に29本まで伸ばし、ギネス世界記録に認定)、リーグ優勝決定戦第5戦までに記録した15試合連続安打(ピート・ローズと並ぶ歴代最多タイ)、1ポストシーズン最多の3押し出し四球など、多くのポストシーズン記録に名を連ねた。
 
2008年7月31日パイレーツを加えた三角トレードでドジャースへの電撃移籍が発表された。
 
「移籍後は53試合で打率.396本塁打17、打点では出場試合数と同じ53を記録、8月には月間MVPを獲得するなどドジャースの地区優勝に貢献したプレーオフでも好調を維持し、リーグ優勝決定戦までの8試合で打率.520、4本塁打10打点、出塁率は.667。自身の持つポストシーズン最多本塁打を28本に更新、打点も現役選手最多となる74に伸ばした。」
 
2009年5月7日にはドーピング検査でアナボリックステロイドの副作用を消す禁止薬物のヒト絨毛性ゴナドトロピン(hCG)の陽性反応を示したとして50試合の出場停止処分を科された
 
ホワイトソックス時代 38歳のシーズン
>「2010年8月30日、ウェーバー公示で、シカゴ・ホワイトソックスへ移籍。打率.261本塁打1、打点2と低調な成績だった。」
 
レイズ時代
2011年、年俸200万ドルの1年契約でタンパベイ・レイズに移籍した。
開幕直後の4月8日に現役引退を発表。
その後、この年のスプリングトレーニング中に行われたドーピング検査で禁止薬物に陽性反応を示し、MLB機構から2度目の100試合出場停止処分を命じられていた事が発覚」
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「1954年2月8日 -
レイズ監督としては「レイズ旋風」で、カブス監督としては「ビリーゴートの呪い」を解いた監督として知られ、これらの業績から現代野球を代表する名将と認識されている。リーグ最優秀監督賞を3度受賞。」
>「2002年以来4年ぶりとなる、球団史上ワースト2位の101敗を喫し、2007年には66勝96敗・借金30でMLB最低勝率(.407)となったが、チーム名をレイズと改称した2008年は快進撃を続けて、一気に球団創設11年目で初の地区優勝・アメリカンリーグ優勝を果たし、ワールドシリーズにまで進出。フィラデルフィア・フィリーズに敗れ、世界一はならなかったものの、監督としての手腕が評価され2008年のアメリカンリーグ最優秀監督に選出された。
W。ジョーマドンがレイズ監督時代に 、年俸200万ドルの1年契約でタンパベイ・レイズに移籍。スプリングトレーニング中に禁止薬物が発覚し、契約したが引退表明をした。
>2011年、監督としての手腕が評価され、同年のアメリカンリーグ最優秀監督に選出された。
 
2012年2月、監督としての契約を2015年まで3年間延長した。
 
2014年10月24日、レイズから退団が発表された。2015年が契約最終年だったが、本人の希望で契約を解除した。
 
2014年10月31日、シカゴ・カブスから新監督に迎えると発表された。
 
2012年2月20日オークランド・アスレチックスマイナー契約で合意した事が発表された。6月15日に契約を破棄するよう球団に申し出て退団
    台湾球界時代
2013年2月
台湾・義大ライノズとの契約に口頭で合意したと報じられたが、3月7日までMLBとの球団と契約できなければ義大でプレーするという条件付きであった。12日、義大ライノズと推定年俸30万ドル(約2880万)で正式契約を交わした。義大の主催試合を中心に、ラミレスの出場試合には大勢の観客が集まり、第3回WBC以降の台湾プロ野球の観客動員数増加に貢献したが、
6月19日、家族と離れて長くプレーすることはできないとの理由で退団を表明した。

レンジャース傘下時代
 
2013年7月3日にテキサス・レンジャーズマイナー契約を結んだ。AAA級ラウンドロック・エクスプレスで30試合に出場したが、8月13日に球団が契約を解除したと発表した。

      カブス傘下時代
2014年5月25日にシカゴ・カブスAAA級アイオワカブスの選手兼任コーチとして、マイナー契約を結んだ。選手としては主に指名打者や代打として24試合の出場で打率.222、3本塁打OPS.648を残した。
オフにはドミニカ共和国でのウィンターリーグに参加。←W。野球に対する熱い心を持ち続けている。技術指導のできるヒトでもある。
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カブス球団フロント時代
2015年2月24日選手兼任コーチ契約から、新たにカブスの球団フロント契約となり、メジャー・マイナー両方の打撃指導に携わる打撃コンサルタントに就任した。
シカゴカブス
 9 ハビアー・バエズ (Javier Baez)←マニーラミレスのアドバイスで急成長した選手との評価が定着している
2015年3月5日にカブスと1年契約に合意。3月30日にAAA級アイオワへ異動し、開幕をAAA級で迎えた。
AAA級では70試合に出場し、打率.324、13本塁打61打点17盗塁と好成績を残したが、メジャー1年目のアディソン・ラッセルが正二塁手として活躍していたため、なかなか昇格できず、ロースターが拡大した9月1日にようやくメジャーへ昇格。昇格後は二塁・遊撃・三塁を守ったが、定位置を確保することはできなかった。
この年は28試合に出場し、打率.289、1本塁打4打点1盗塁だった。
 
W。2016年 カブス108年ぶりにワールドドシリーズ制覇の年、大活躍。セカンドの定位置をつかむ。ショート、外野もこなし、パワーと脚力好守備を兼備したマドン監督好みの本物のメジャーリーガーに成長した。
打撃フォーム、スイングの軌道がマニーラミレスに似ている。大リーガーとしては小柄な体でパワーと確実性を発揮できるフォームである。
ちなみに5 アルバート・アルモーラ・ジュニア (Albert Almora)の打撃スタイルもマニーラミレス流である。
>マニーラミレスは優秀な打撃指導者である。
 
「自己最多となる142試合に出場、打率.273、14本塁打、59打点の成績だった。10月7日、サンフランシスコ・ジャイアンツとの地区シリーズ第1戦で8回裏にジョニー・クエトから先制のソロ本塁打を放ち、チームはこの1点を守り切って1-0で勝利した。カブスにとって、プレーオフにおいての1-0での勝利は1906年シカゴ・ホワイトソックスとのワールドシリーズ第4戦以来、110年ぶりのことであった。カブスが2勝1敗とリーグチャンピオンシップシリーズ進出に王手をかけて迎えた10月11日の第4戦では9回表、2対5のビハインドから同点に追いついて迎えた1死2塁の場面で、ジャイアンツ6番手のハンター・ストリックランドから決勝のタイムリーを放ち、チームはリーグチャンピオンシップシリーズへ進出した。10月15日、ロサンゼルス・ドジャースとのチャンピオンシップシリーズ第1戦において、カブス2点リードの2回裏に3点目となる本盗を成功させた。カブスにおいて、プレーオフにおいての本盗成功は1907年のデトロイト・タイガースとのワールドシリーズでのジミー・スレイガル以来、109年ぶりのことであった。バエズはまた、プレーオフにおいて本盗を成功させたメジャー19人目の選手となった。このシリーズでは6試合で打率.318、5打点の活躍を見せ、同僚のジョン・レスターと共にMVPに選出された。」
 
マニーラミレスは球団フロント入りに際して選手として現場を離れるが、現役引退の表明はしていない
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カブス退団後
2016年12月、日本の独立リーグである四国アイランドリーグplus高知ファイティングドッグスへの入団を検討していると日本のスポーツ紙で報じられた。この報道に対して高知球団側はその時点ではラミレス側と直接の接触を取っている状態ではなく、具体的な話には至っていないとしていた。
年が明けた2017年1月9日、高知球団はラミレスとの入団交渉がまとまり契約が合意に至ったと発表した[。高知球団オーナーの北古味鈴太郎によると、前年秋にアメリカで実施したトライアウトを契機に接触があり、その後の交渉では所属選手のザック・コルビーの援助があったという。
 
人物
 
好人物と言われているが気まぐれな発言(「ボストンにいるとプライベートが無いよ!」等)や、あからさまにやる気のないプレー(レフトの定位置で観客と一緒になってウェーブに興じる等)を見せるなど気持ちの波が大きい。ラミレスの愛称の1つにManny being Mannyというものがあるが、和訳すると「マニーはマニー」という意味で、ラミレスの自由奔放なプレースタイルや振る舞いから来ている。これらが原因で、彼のトレードを巡る騒動はシーズン中のトレード期限間際やシーズンオフの風物詩となっていた。
また、メジャーでも指折りの高給取りであったにも関わらず、キャンプ中は自炊をしたりディスカウントショップで買い物をするなど金銭感覚は庶民的という一面も持ち合わせた
 
W。ドラフト1順目(全体13位)指名、以降、順調に成長し4年目でインディアンスの定位置を確保。その後も順風満帆のエリート野球人生。以降も常にチャレンジしてきたことが経歴から解る。
カブス打撃コンサルタント時代の評価は高かったが、新天地を求めた(新たなチャレンジ)と解釈できる。
 
節約生活を心がけてるヒトで大金持ちでもある。
 
 
 
Manny being Mannyは当然の成り行きである。
2016年シーズン
「シーズン序盤から3番を任される。シーズン終盤には4番のアルフレド・デスパイネの怪我により4番を任されることもあった。最終的に打率.339、178安打を残し、自身2度目の首位打者、自身初の最多安打を獲得した。打率2位に2分5厘以上の大差をつけたのは、パ・リーグでは2000年イチローが5分5厘の差をつけて以来16年振り。」
 
日本航空第二高等学校では甲子園出場経験はなく、3年の夏は県予選3回戦で敗退。
W。社会人野球のチーム数は減少し、ほとんどの球団は、寡占大企業の社員選手のチームである。
Wの社会人野球選手権を垣間見た感想。
いわゆる名門チームの選手の出身校をみると名門大学や高校が多く、同じ寡占企業チームの中でも様相が違っているのが現状なのだが、後者のチームに潜在能力を秘めていそうな選手が目についた
前者は良い選手をそろえているが、成長が止まっている感の選手がずらっと並んでいる。
>この条件下ではNPB以外の野球機構では、高卒の潜在能力のある選手をカバーしきれない。
その代表が角中選手であった。
 
ソフトバンク3軍は四国アイランドリーグのチームとの試合日程を組んでいる。社会人野球や高校野球とNPBとの間に旧来の障壁がいまだにある以上、独立リーグの人的交流連携は自然の流れである。
>「2006年に四国アイランドリーグ高知ファイティングドッグスへ入団すると、1年目の高卒入団でありながら開幕試合から1番打者で先発起用された。既に首脳陣からの評価は高く、当時監督だった藤城和明は角中を「実戦向きの選手」と評した。
>2006年シーズンは主にクリーンアップを任され、打率.253・4本塁打・28打点を記録するなど、勝負所ではパンチ力のある打撃を披露した。また、ウエスタン・リーグに所属するチームとの交流戦にも選出され、日本プロ野球のスカウトからも持ち前の俊足とミートセンスを評価された。←W。社会人選手権で目に付いたのもそうった部類の選手であった。
 
2006年のドラフト会議において、千葉ロッテマリーンズから7巡目で指名を受け、入団。与えられた背番号61について「(独立リーグの)高知では9を付けていた。ロッテの9は福浦さん。今は無理だけど、いつかは9を付けられるように頑張りたいです」と抱負を語っている。
 
2015年(11年目)
前期終了翌日の6月1日、高知市出身で、前テキサス・レンジャーズ藤川球児が入団することを発表
1試合単位のスポット契約(無報酬)で、登板試合のチケット売上から10%を児童養護施設に寄付することが明らかにされた。入団時点では藤川との契約文書はなく、試合外での行動については球団ではなく藤川の所属するエイベックス・スポーツが管理する異例の形であった。
藤川が初登板した6月20日の香川・徳島連合チームとのオープン戦には、球団史上最多となる2,685人の観客が詰めかけた。NPBの復帰期限であった7月31日までにNPB球団と契約を結ばなかったため、高知球団は8月4日に後期シーズンについて藤川とリーグ基準に従う形で契約(ポストシーズンを含む最終戦まで)を締結した。
>ただし、引き続き報酬は受け取らず、チームにも常時の帯同はおこなわないと報じられた。
>注目を集めた藤川は主に先発として6試合に登板、2勝1敗で防御率0.82の成績を残したが、9月10日に今シーズン限りで高知を退団することを発表し、その後の試合には練習中の負傷により登板しなかった。
 
*シーズン終了後の10月26日、監督の弘田澄男とコーチの萩原淳の退団が発表された。同時に元阪神タイガース江本孟紀が総監督に就任
*監督やコーチの人事も江本がおこなうと報じられた。
*12月7日、駒田徳広(元横浜ベイスターズコーチ)の監督就任が決定]。12月22日には、前読売ジャイアンツコーチで、香川でのコーチ歴もある勝呂壽統の野手コーチ就任が発表された。
 
2016年(12年目)
*10月18日、駒田の監督続投、10月27日、オリックス・バファローズのコーチへの就任が決まった野手コーチの勝呂の退任[が発表された。 *10月から11月にかけて、リーグ初となる単独球団での海外トライアウトを大韓民国アメリカ合衆国で実施した
 

>たかが野球、されど野球。BY江本
MLBは奥が深いよ。150年もやっていると。
 ↓江本さんのベストセラー本の源流、ボールファイブ」 ジムバウトン著
「球団と喧嘩してクビになった野球選手」読了←その後も著作を連発しているようだ。
2015-02-01 08:06:27
「かつて(70年代)に、元大リーガー・ジムバウトンが書いてベストセラーになった「ボールファア」って面白本があった。←W。タイトルを「ボールフォア」と間違って書いている。コレでは単なる四球だよ。正しくは「ボールファイブ」。翻訳版敢行以来35年も経つと、本の中身の精神と共にタイトルも希薄になる。タイトル自体が番外編無手勝流ユーモアを暗示している。日米のプロ野球評論の新境地を切り開いた本である。その底に流れる心意気を適切に表現したの江本著「たかが野球、されど野球」であった。
本文引用
「ボールフォア」は中学位で読んだので、すごく面白かった印象だけはあるが正直あまり覚えてない。←W。中学生じゃ、この本の痛快な皮肉とユーモアは解らない。
また当時はあまり大リーガーの情報がなかったので、←W。今と比べると日本人選手の情報は無かったが
メジャー情報は昔からありました。本人の興味が少なかっただけだ。
その面白さは十分にはわかってなかったかもしれない。
でもこっちは、90年代後半の選手や監督の顔がすぐさま浮かぶ分、より面白い。
その悪態に声を出して笑ってしまう。
野球が好きな人にもそれ程でない人にもオススメです。」
日本のプロ野球は、ファンも球団もアマチュア野球の文化から抜け出ていない。
マニーラミレスが高知で好成績を残すかどうか、などは二の次のことなんだ!
>総監督江本が、マニーラミレスのカブス時代2年間の野球指導者としての実績ある球歴をどのようにプロデュースできるのかできないのか、マスコミ及び一部の野球ファンがその方向に関心が向かうのかどうか、興味がある。
**************
 
ジートは歌手ナット・キング・コールのバックバンドの指揮者(作曲や編曲も手掛けた)を務めた父親を持ち、母親が同じバンドのコーラスだったという音楽一家で育った。自然と子供の頃から音楽に慣れ親しみ、現役時代から「プロ級」と呼ばれたギターの腕前を披露していたのが息子=バリーだ。」
>「米野球界ではCDを発売したこともあるバーニー・ウイリアム(元ヤンキース)と並び称される「ギターの達人」だったから、プロ・デビューの話を聞いてもそう驚きはない。」
 
Bernie Williams Plays 'Take Me Out to the Ballgame' For Jeter's Last Game 
Bernie Williams plays guitar during the pregame ceremony at the final game of Derek Jeter's career as the New York Yankees play the Boston Red Sox in Fenway Park.
 
 
ジートが書いた「Secret of Life」は米国で根強い人気のあるカントリー・ソングだ。
Secret of Life - James Taylor
メタリカガンズ・アンド・ローゼズがカントリーの楽曲を自分たちのアルバムに入れているぐらいだから、そのことにも驚きはない。面白いのはジートとカントリーが急接近した過程に、少なからず野球が絡んでいることだろう。
カントリーを好きになり始めたのは妻の影響だ」
 プロ野球選手ジートにとって最後のシーズンとなった2015年、彼は古巣アスレチックス傘下のAAA級マイナーのナッシュビル・サウンズにいた。そう、ナッシュビルは「カントリー・ミュージックの聖地」と呼ばれている場所である。当時の彼は地元紙にこんなことを話している。
「カントリーを好きになり始めたのは妻の影響で、今から4年ぐらい前のこと。この街に来ていろんな人に会って、自分が曲を書きたいんだという確信を得たし、いつかこの街にまた戻ってくるだろうとも感じた。今の僕はサンディエゴの自宅で家族と過ごしながら曲を書いて、ここにいる人たち(音楽関係者)と一緒にそれを発表することが夢なんだ」
W。プロの演奏ではないが永久欠番の大選手は良くやっている。日本ではこんなヒトはいない。