反俗日記

多方面のジャンルについて探求する。

第3回。今回から資料を連載。「資料戦後の日本風俗、文化は明治以降の近代化における欧米の様々な意匠取り込みの流れにすぎなかった。日本社会の基礎単位である夫婦関係の位相はほとんど変わらなかった。」

Wの必要から生まれた前回記事の再確認なので、すっ飛ばして読んでも良い!
なぜそうなのかという説明は最後尾に多少したつもりだ。
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第1回。グローバル資本制における日本の国家~中間集団→家族、「地域共同体」、企業、宗教的政治的幻想共同体及び<自律>した個的人間関係の形成。は今回の連載を始める前に各種の資料を収集し一覧した結果の率直な問題意識ではあったが、さらに突っ込んで立場を鮮明にする必要を覚え
2017/3/14(火) 午後 0:35第2回を記した。       戦闘的唯物論者の精神と実存主義 ①宇宙史的に展開する物質の最先端である蜂起する人間の意志←戦う唯物論者の立ち位置)。 ②カミユ「シューシュポスの神話」←戦う唯物論者の精神)。 リアル個性  ↓ 国定忠治→「こちとら、伊達や酔狂で、博徒をやってんだよ!~
「じょうだんじゃねぇや。  磔が怖くてよ、酒を何杯もかっくらって
酔っちまったらどうすんだい。酔って死んじゃ、男じゃねぇ!、てっよ」。
 
      なぜ国定忠治なのか?
 
 Aカミユ「シューシュポスの神話」 に適切なフォローがあった。
党派的政治人間になり切った者が解らなくなったリアルな日常的人間の存在と精神の在り方に不条理があり、カミユの云う実存主義はソレを意識化(情報化)する。
引用 
「前回引用部分→現実の非人間性が人間の偉大さを作るのだから、そうした現実の力を弱めることは、同時に人間自体の力を弱めることだ(W。逆説の真実である)。
 
>ここで様々な協議、学説が僕に一切を解き明かしてくれるとき、なぜ同時に僕の気力をくじいてしまうのか、その理由を理解する。
 
ココからなぜ国定忠治なのか?リアルな個性は忠治を求める。
     ↓
そういう教義学説は僕自身の人生の重みを取り除いてくれるのだが、
*実はその重みは僕がひとりでになってゆかなくてはならぬのだ
~~ヒトが弱いのは群れられないからではなく、群れるから弱いのだ。by竹中労~W。一人で重大局面に対峙しなければならないときの実感的総括である。
この曲がり角で懐疑論的な形而上学が自己放棄の道徳と結びつこうとしているなどという事は僕には納得できない。
 意識的であり続け、反抗を貫く、--こうした拒否は自己放棄とは反対のものだ
人間の心の中の不とう不屈で情熱的なモノのすべてが、拒否をかきたて人生には向かわせるのだ。
重要なのは和解することではなく死ぬことであり、すすんで死ぬことではない
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戦闘的的唯物論者の精神は、過程に生き過程に死す不条理人間であった。
不条理人間の精神を持つ戦闘的唯物論者は「自分こそが自分の日々を支配するものだと知らねばならない。」が、宿命である死から逃れることができない。
その意識下の老病の<過程>において<不条理の総括>のときがくる。
 
過程に死ぬ前に、リアルな全人的状況を総括する<知的にも最も発展性のある観念と価値観~普遍性世界性到達への回路~>を確認する。
個々人は世界のすべてを認識できるはずはないのに、世界はその全てから成り立っている。
そして人間は世界の、構成主体であり、認識主体である。明晰でありたいとの反抗を放棄することはできない。
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今回から列記するほとんどの資料は
100人の日本国民いて、80人にそういう傾向や事実があるとしているだけである。
しかしながら、20人にその傾向を実行しなければならない理由は一切、ない。
多数の傾向や事実を示すとソレを世間の空気として感得して、ショートカットに<実行>する傾向が顕著に表れるのが日本人の特性である。~日本人だけではなく欧米の人々にもその傾向はあるが程度の如何の問題は大いにある~
 
理由は煎じ詰めると、二つの政治、社会用語に切り縮められるが、そうした用語系を何度繰り返して記しても、どうどうめぐりになるだけのなのであえて記さず、日本が世界と違うのはコレだと云う法律系の歴史的事実関係資料を提出し、考えてみる。
 
ただし、一言。<自立>という用語はリアルな社会関係、経済関係をリアルに反映しない間違ったカテゴリー使用の象徴である。よくよく考えてみると<自立>できる人間などニホンにどれほど存在してきたのだろうか?と。幼稚な政治思想の象徴でもある。正しくは<自律>!
 
なお、収集した80KBの資料は選んで掲載するつもりである。

資料2。■「中央調査報(No.626)」より
 ■ 日本社会における中間集団の揺らぎ  大妻女子大学人間関係学部 専任講師 石田光規
 
W。本文の冒頭部分は既に記した、以降は記事の図表、グラフを掲載する。
W。世界に冠たる個人、個性、自律性滅却の日本の家族の特異性を順を追ってあげていく。
まずは常道から始める
 イメージ 1
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 2社会実情データ実録
 
グラフの解説記事 引用
「1.婚外子の世界的増加
各国における結婚していない母(未婚の母、離別・死別後再婚していない母(下線はW。)からの出生(婚外子・非嫡出子)の割合を掲げた。
一目瞭然、目立っているのは日本の婚外子割合の低さである。日本と欧米の文化の差を感じさせる図録である。香港の値をアジアの代表としてとらえると、儒教圏アジアは欧米と比較して婚外子割合が低く、日本はその中でも格段に低いと見なせるであろう。すなわち、日本したものと考えられる。
日本の婚外子割合の低さは、アジア的な特徴と日本的な特徴がミックス
 
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2番目の図に日米の1940年以降の推移を示した。
>1940年代にはほとんどかわらなかった婚外子の割合が、その後、いかに急速に日米で異なる動きを示したかがうかがわれる。
 
W。感想。
戦後の日本風俗、文化は明治以降の近代化における様々な意匠の一つにすぎなかった。日本社会の基礎単位である夫婦関係の位相はほとんど変わらなかった。
>注目すべきは1960年代後半の先進諸国の家族家庭夫婦関係などの社会的文化革命の影響は日本にはほとんど及んでいないことである。当時の日本のウーマンリブ、後のジェンダーは日本社会の表層を漂っただけであり、ココに至って、政府の女性の労働力市場への動員政策のささやかな一助を担うまでもも至っていない!1970年から200頃までのグラフの低迷をみればコレ以上の説明はない。
>言い換えると、世界的社会的文化革命を実行したものは特殊日本社会では極小派であり、社会的に孤立状態におかれる。
 
引用に戻る
「~省略~
欧米で婚外子割合が高い要因としては、
結婚に伴う法的保護や社会的信用が結婚していなくとも与えられているという側面
若者が未婚でも後先考えずに子どもを生めば後は何とかなる(国、社会が何とかする)という側面の両面があると考えられる。
出生率回復に寄与しているのは主として後者の側面であろう。

 自由を求める人間精神はついに結婚制度を変容ないし瓦解せしめているともいえる。
 
この解説は世界に冠たる日本の戸籍制度について一切触れていない欠陥がある。
明治維新以前の長州藩が実行した戸籍制度は古代中国専制国家の人民掌握の必要から(兵役、労役)生まれた<戸>(黄河中流域の農民は拡大家族ではなく緊密な小家族の編成)の制度を導入したものであり、維新に先行した長州藩の戸籍制度が社会会関係の資本制近代化に並列して実行された。もちろん天皇制の強行的樹立とも並列している。

*時間不足のため次回へ