反俗日記

多方面のジャンルについて探求する。

引用 第2回 久田恵著「家族を卒業します」~介護をしていると、優しくない自分にがむき出しになる~。←W。著者の嫌う「対象者意識」のベクトルを持つことが、このような関係の緩和になるのか?

          第1章家族介護の向こう側
     
     親の介護をしているってことはフシアワセなの?
  何かモヤモヤする要介護高齢者に対する対象者意識
 引用 「  」は省略
介護はもう日常で、子育てと同じく、人と人の人生に組み込まれたフツウのこと。人は負うべき当たり前のことよね、という気持ちになってくる。
事実 子育てと介護はどっか似ている。←W。であれば当然にも夫婦、男女関係、血縁関係のない男にとって介護は動物的に不向きなのではという疑問がわいてくる。介護労働市場において男の携わる現場は病院、施設の重度被介護者の世話、力仕事の分野である。

朝、起こして着替えさせて、トイレにつれていき←(W。身体介護である)、ご飯を作って食べさせる。さらにお風呂に入れたり、髪を切ったり、病院に連れて行ったり(W。身体介護)、むろん子供のようにひょいひょいと抱えてできない分、力がいるけれど、サポートの基本は同じようなものだ。←W。重心の定まらない人間を抱えると、力のロスが生まれて大変だ。

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 引用
  ①「身体介護 とは食事や入浴、排泄、着替えなどの介護であり、身体に直接触れて行う介護のことをいいます。具体的には、食事のケアをはじめ、入浴では部分浴洗顔・洗髪・陰部・足部などのみの洗浄)、清拭(体を拭いて清潔にすること)、衣類の着脱、床ずれ予防のための体位変換・姿勢交換、排泄のケア、歩行介助、車いす等にかかわる介助などがあげられます」

  ②身体介護と生活援助の違いは何ですか?
 引用
身体介護:利用者様の身体に直接触れて行うサービスのことです。(入浴や、着替え、おむつ交換など)
生活援助:利用者様の生活のお手伝いを行うサービスのことです。(掃除、洗濯、買物、食事作り、薬の受取など)
※但し、普通の生活に直接関係がないものや、日常の家事の範囲を超えているものは、介護保険のサービスを利用することができませんので注意が必要です。
介護保険サービス外の例:庭の草むしりや窓ガラスの掃除、雪かきなど)

 ③ 「立てない人・重たい人」の移乗介助 <3種類> YOU TUBE動画
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    私たちはシアワセ者
福祉の世界に根強くある<対象者意識>というやつで母子家庭だからと言って、お金がないからと言って、親の介護をしているからと言って、人はみなフシアワセとは限らないのである。

    不機嫌予報発令中
 自分のおぞましさと対面しなければならない

 優しくない自分に傷ついて
介護をしていると、優しくない自分にがむき出しになる。
母のトイレの介護にうんざりして、冷静になれば、母が傷つくだろとわかっているようなことを口走ったり、いろんな場面で、赤裸々には書きたくないような本当に嫌な嫌な自分と出会うことが多くなった。←W。著者の嫌う「対象者意識」のベクトルを持つことが、このような関係の緩和になるのかどうか
血縁関係 家族関係の無償介護労働と違って、
金銭と交換する有償介護労働力は、対象者に対する赤裸々な感情表現はできない。
このことは「家族介護など」血縁愛情に頼った介護の参考になる。
>親の介護をやりやすくするためにヘルパー学校に通って資格を取る人もかなりいる。

何にもしないで、美しいことを言っているだけなら、いくらでも人はいい人でいられるからね、そういいたくなる心境だった。
それがだんだん楽になったいった。
別にいいんだわ、そんなにいつもいつもいい人でいなくても、と思えるようになったからだ。
そもそも人の心の中には天使も悪魔も住んでいる。美しいところも、おぞましいところも、いろいろあって、それが人というものだ。
エゴイズムの根っこを抱えたお互いをありのまま受け入れて、なおかつ、どう愛し合えるか、それを追求していくのが人間の力量というものだ。

でもその道はあまりにも遥かだ。
で、致し方なくな、「私は不機嫌の嵐よ」と不機嫌予報を発しつつ何とかやっている
、介護の場面に映し出されるエゴイズムの問題は、なぜか、あまり語られていない←W。同感する。
 
 「介護地獄」を作っているのは、福祉がひどいせいだ、という声を頻繁に聞くけれど、「介護」にかかわる私たちのエゴイズムを克服する価値観を、ともに見つけ出す努力もしないままに、その苦しみもしないで、いやはいやよ、と見て見ぬふりで、通り過ぎてしまうと、皆の嫌なことを肩代わりするだけの思想のない施設ばかりを求めて、結局は自分たちの日々のシアワセじゃないものにしてしまうのではないだろうか
 

   人生の総決算がここにある
最近、「親の介護」問題で起こる家族間のごたごたを聞かされたり、取材をしていると、人生とはなかなか怖いものだなぁ、という思いがふつふつとわいてくる。
 それまでの人間関係、とりわけどういう夫婦として暮らしてきたかとか、どういう親子で会ったとか、どういう兄弟姉妹であったか、とかいうことが最後にあからさまにされてしまう。
いわば、その人の人生の総決算がそこにある、という気がするわけで、私も心して生きていかなくちゃ。そう思うのである。

    人間の力量が試されるとき
 これぞ介護のハレの時

 親が自分の身体をなげうってする最後の教育
ということを長年やり続けているうちに、人が生きることの原点は、いかに食べ、いかに排泄するかにあるなあ、としみじみ思うようになった。男も女も老人も中年も若者も子供も。あなたも私も。

ともあれ排泄問題が日常化すると、それが汚いというような感じを抱かなくなる。
あんなもの、食べたものが消化され出てきただけ。
自分のだって、人のものだって同じ。
 
思えば介護とは、
他者のその「食べる出す」の問題に深くかかわることで、こういうことをなんでもなくやれるか、やれないか、それってまさにg人としての力量が試されることだ
などといったら、介護を仕事としているヘルパーさんに「なによ、大げさな」と笑われるかもしれないが、私は、時々、「介護」って親が自分に進退を投げ出すようにして行う最後の教育ではないかしら?と思うことがある。

少なくとも私の場合、母のこういう介護に直面することによって、ふわふわと生きていた自己中心な自分が、一つのハードルを否応なく超えさせられ、気が付いたらある地平に着地していた、そんな気がする。

何か、いつの間にか怖いものがなくなちゃった、という気分である。
ただ率直に生きればいいさ、ありのままに、自然であればいいさ、という感じで、自意識とかコンプレックスとかが、いつの間にやらはげ落ちてしまった。
 シンプルに言えば、「人のウンチ」にまみれる、それをやったか、やれたか。わたしはそれをやっているし、やれる(そして、いずれ私もやってもらう立場に必ずなる)。

そう思うと不思議と人に自信を与える、、老いを受容する覚悟を持たせる。我が家の父も、80歳にして、その現場に立っているせいだろう。なんだかだんだん大物の風格がにじんできた。
 
 つづく