反俗日記

多方面のジャンルについて探求する。

引用 第3回 久田恵著「家族を卒業します」~W。「介護する者、される者双方にたいする<核心的価値観><原理原則>への問いかけがある。

                第1章 家族介護の向こう側
    私たちはシアワセ者  
W。逆転(正<肯定>→反<否定>→合<止揚>。弱者がその立場に立ち切って反転攻勢に転じる論理)の発想である。マスコミ伝播の日本の常識ではこのような発想は徹底的に回避される。
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参考資料 反俗日記  2017/6/3(土) 午後 1:17 弁証法 - Wikipedia
① 全てのものは己のうちに矛盾を含んでおり、それによって必然的に己と対立するものを生み出す

② 生み出したものと生み出されたものは互いに対立しあうが(ここに優劣関係はない)、同時にまさにその対立によって互いに結びついている(相互媒介)。

  ↓
  ↓W。客体と主体の関係によって止揚されるのであって、自動的に行われない。ヘーゲル弁証法は人間主体に転倒する
③ 最後には二つがアウフヘーベン(aufheben, 止揚,揚棄)される

このアウフヘーベンは「否定の否定」であり、一見すると単なる二重否定すなわち肯定=正のようである
しかしアウフヘーベンにおいては、正のみならず、正に対立していた反もまた保存されているのである。
ドイツ語のアウフヘーベンは「捨てる」(否定する)と「持ち上げる」(高める)という、互いに相反する二つの意味をもちあわせている。
なおカトリックではaufhebenは上へあげること(例:聖体の奉挙Elevation)の意。
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 が、一方では、日常的な暮らしの感覚の中で、
「ただ年をとっているだけ」が高齢者」になったり、「ただ車いすに持っているだけ」が「障害者」になったり、「ただ夫がいないだけ」で「母子家庭」になったり、そうされてしまうことへの違和感がどうにも消えない。
 そもそも、この<福祉の対象者>という視線には時として「かわいそうな人」とか不幸な人とか「同情してあげなければいけない人」とか「つらい問題を抱えた人」という感じを含んでいて、なんだかいやな気分もするのである。

とりわけ「高齢者介護」には、最近過剰に暗く過剰に大変なことのように世間で語られている。
「介護地獄」なんて言葉まで使われている。
確かに「介護は大変じゃない」とは言わない。いろんな問題も葛藤もある。
けれど、「地獄」などといわれると、私のやっている生活って「地獄」なんだ、そんなに他の人は楽に生きているのか、と気がめいってしまう。

 おまけにこれって「子育て」と同様に、大変だからいやだ、と言って放り投げることなどできない
>~むしろ、「福祉の対象者」とか「高齢者問題」という視線の枠組みを潔く取っ払って、
介護する」とか「介護される」ことはあらかじめ人の人生の中に組み込まれた当たり前のことなんだよね、と肯定的に自然に受け入れていく考え方や視線がもっと必要な気がする。

W。この著作「家族を卒業します」の底流には、
>「介護する者、される者双方にたいする<核心的価値観><原理原則>の問いかけがある。
>グローバル資本制による家族の絆の希薄化、構成員の個性の突出、福祉の市場化(財源不足と格差)が傾向的に必然化する以上、当事者現場における抽象的な<核心的価値観><原理原則>への希求は潜在的に高まる

と同時に、一方では介護のリアルな技術問題が注目される
家族の血縁、身内意識による介護に金銭授受の訪問介護労働のような客観的対応が付加されるとスムーズに事が運ぶ場合が多いと想定する(一種の介護の「社会化」)。
息子の嫁が義理の親を「献身的」に介護するような場合でも、よくよく考えてみると、金銭授受の訪問介護労働の変形ではなかろうか?特に介護分野において愛は愛とのみ交換され難い。
そのような絶対的環境があるから
                  ↓
高齢者介護の講演会などでは前記二つの分野の問題がワンセットで語られ、実演されている。地域からの参加者は非常に多い。

    人生の総決算がここにある 
W。息子の嫁の義理親介護は金銭労働の絡まないホームヘルパーのごとし。気分的にはそういうものではないか?
  介護責任の順番を決めよう
こんなに「介護」の問題が家族の葛藤を産むのなら、この際、「老人介護」のルールというものをきっちり作って、みんなのコンセンサスにしていく必要があるのではないかしら、と思う。
 例えば、介護の順番。これなどは、もう、ごちゃごちゃせずにはっきりさせた方がいい。

 そもそも日本という国は変な国なのである
現行民法では、家制度なんてものはすでに消滅していて(W。細かく云えばそうではない)、親の扶養義務なども子供は平等に負うことになっているし、相続権も平等だ。

 にもかかわらず、長男の嫁、などという意識がいまだに根強く残っていて、「親の介護」問題起きると、突然、その古典的な意識が浮上し、皆がそれに寄りかかりたがる。←W。古いものが長期潜在したのちの突然の浮上という日本イデオロギー(政治、文化など)の特性はKim hang 「帝国の閾(しきい)」文中の丸山真男論に詳しく解説されている。煎じ詰めると東アジアにおける日本の近代化の特徴と戦後市民革命未完遂によって、古いイデオロギーが底流に温存される。もちろん、前回の連載で再三指摘した明治の法律による市民社会への強制力が温存されている側面も濃厚。

事実、統計的にみると在宅で寝たきりの高齢者の介護をしている人で、一番多いのが「息子の妻」つまり「嫁」なのである。
次が配偶者で、最後が子供の順番になっている。
まず「配偶者」次に「「子供全員」。「息子の嫁」には、基本的には介護責任などないのだ。
いや息子が仕事などがあって介護ができない場合、同居している妻に頭を下げてて代わりにお願いする、というのが筋なのだ。
 介護責任の順番をはっきりさせるだけで、介護をめぐる人々の意識を変えることができる、と思う。

「嫁なんだから当然よ」から、「子供の自分たちがやれないがために、お嫁さんにやっていただいている、ありがとう」という風に変わる。
     ↑
W。「息子の嫁」の義理親介護は一種の無償ホームヘルパー労働である。それが「事実、統計的にみると在宅で寝たきりの高齢者の介護をしている人で、一番多いのが「息子の妻」つまり「嫁」なのである。」とは家族介護を円滑に行うことへの示唆である。

W.。家族という法的枠組みとヘルパー的客観介護技術、介護をする側される側の「核心的価値観」原理原則への希求が生まれる。
>家族という枠組みが取っ払われると、介護現場では愛は愛とのみ交換され難いのだから、純粋、無償ヘルパー労働(技術問題の役割が大きい)及び主として介護する側の「核心的価値観」原理原則が介護場面で露出せざる得ない。
解りやすく云えば、<無償ボランティア>。突き放して言えばそういうことになる

   楽しいから行くのではない、楽しい場所にするのだ
 介護家庭を生き抜いてきた息子
省略

  老いてなお自立するために
なんせ、まだ17歳。
ようやく大人になりかけたばかりの息子に親の老後の心配までさせたくない。
にもかかわらず、最近、急激に何かと彼に寄りかかることが多くなったのだ。学校に行かずに家にいるのをいいことに、「おばあちゃんの移動」ばかりでなく、モノを運ぶ、モノを移動する、パソコンっを使うなど、私の「ちょっとしたお願い」がやたらと多くなった。
それとともに、家庭内の力関係が、変わっていった。
父を中心にした家父長制度が崩れかけてきたと思ったら、軟弱な母の私を飛び越して、息子が力を持ちつつある。ふと気づくと息子が「ああして」「こうして」と、家で皆に指図なんかしている。

でも今や「老いては子に従え」の時代ではなくなった。

さすが能天気な私も、これからのことを考えてしまった。

>そもそも、現在の介護世代というのは、親の介護をする最後の世代だといわれている。
>つまり、介護観が大きく変わっていく端境期にある世代、親の介護はしても、将来は子供の介護を受けられないとの覚悟を持って、自分の老後設計を立てなければならない。

しかも私のような場合は、要介護の親を抱えての老後の自立設計を立てなければならない。
これからの高齢化社会とは、そういう時代なのだ、ということにしみじみと考えていたら、目下、取材で通っている有料の民間老人ホームが、今後、親子で入れる老人ホームを作るという。
これだと思わずにんまり笑ってしまった。←W.。介護の現場に格差が。介護現場での様々な形の介護の「社会化」が必要となってきている。訪問介護や施設だけで対応できるものではない

「お母さんは、将来、老人ホームで暮らすよ。その時おじいちゃんもおばあちゃんもつれていくからね。心配ないよ」とさっそく息子にいったら彼が、「そこは楽しいところなの?」とやっぱり心配げだった
楽しいから行くのではない。自ら楽しい場所にするのだ。それがこれからの老人の自立の精神なのだ。お母さんに任せなさいと言ったら彼がずいぶんとほっとした顔になったのがおかしかった。

介護の社会化は社会の必然的な要請ではあるけれど、たぶん一番大事なのは、そのサービスを受けるのは私自身なのだ、という当事者の覚悟ではないかしら、そこに足場踏まえて発言していかなければと、この頃しきりに思う私である。

   つづく