反俗日記

多方面のジャンルについて探求する。

介護の社会化の必要性増加という社会環境と狭い枠内のまま難題を抱えた介護現場の実情のかい離を埋め合わせているのは介護現場の個々や自分の社会的役割をきちんと踏まえた専門家たちの頑り、機会を作り価値を知る

                 第1章 家族介護の向こう側
      いい仕事、してますね
  自分の社会的役割をきちんと踏まえて
W。この項の引用の予定はなかったが、最近起こった身近な出来事で改めて痛感したので載せることにした。
 核家族化、労働力編成の不安定化、手狭な住居、当事者側の資金不足、IT金融グローバル化による個々人の屹立化、地域の共同性の希薄化、福祉財源不足による介護施設の不足などの要因で一つの自宅介護現場において、できるだけ複数で幅広い手立てが求められている

そういう意味で自宅介護現場を取り巻く社会環境としては介護の社会化の必要性が高まってきているのだが、まだまだ前記に挙げた社会環境に規定された当事者の狭い枠内での介護が続いている。
>この介護の社会化の必要性増加という介護現場を取り巻く社会環境と
相変わらず狭い枠内のまま難題を抱えた介護現場の実情のかい離を埋め合わせているのは、
>介護現場の個々や自分の社会的役割をきちんと踏まえた>専門家たちの頑張りである。そういう人たちに出合う機会を作り、その価値を知り大切にすることである。

著者があげる医師よりもはるかに広域、多数の患者を月二回の訪問診療でリカバリーしている医師がいる。
一人の患者を継続診療しての経過と現状の明快な説明は、漠然とした認識しか持たない者に合理的な指針と心構えを与えてくれる。現状への科学的根拠を持たない介護は何かと不必要でまずい軋轢を生む。

引用
「母の尾てい骨のあたりに小さなかさぶたを見つけた。
なんだろう、と思っていたら、そこがはがれていずになった。
「あっ、これって褥瘡じゃないの?」
 私は、老人ホームで、ヘルパーさんが入居者の褥瘡 - Wikipedia(W。じょくそう。一般的に床ずれ。摂食・嚥下 - Wikipediaえんげ)を治療するのを取材したことがある。
病院に入院したら「こうなって帰ってきたのよ」と嘆いていたが、見るからにしのぶなかった。
 放置して褥瘡がひどくなったら大変になる。すぐ手を打たなければ。と我が家では大騒ぎになった。
即刻、皮膚科のお医者さんに見せたいと思ったが、車いすなのでそう簡単にはいかない。

~おまけに市民病院の皮膚科で診察を受けるには、地域の個人病院の医者の紹介状が必要なのだ。

車いすで行ける個人病院を探そうと、あちこちに電話をして聞いていたら、地域の民間介護相談センターで往診をしてくれる皮膚科の先生がいるので頼んでごらんなさいよ、と言われた。
 いやはや驚いた。
今時往診をしてくれる親切な皮膚科のお医者さんがいるんだ!←Wの前記の医師は内科。往診してくれる皮膚科の医師は希少

 さっそく紹介されたM先生に電話すると、往診は医院の休診日にやっていることなので、来週になるが、家の地図を描いてくれれば、カルテを作って、とりあえず家でできる簡単な治療法を教えるからという話だった。
 慌てて出かけていくと、M先生はまだ30代かなという若くてハンサムな先生で、それはそれは親切に褥瘡治療の方法を教えていただいた。
 しかもその場で市役所に電話して、保健婦さんの派遣を依頼し、エアマットのリースの申し込み場所の確認までして切れたのだった。
おお、これは全部無料。
ほとんどボランティアだ。
感謝、感謝で委員を出ての帰り道、不思議なほど幸福な気持ちになった。
自分の社会的役割とは何なのか、そのことにきちんと答えるように仕事している医者がいる、世間も捨てたものじゃないな、そんな思いだった。

  自分が輝いているだけで人のためになる
家に戻って、この話をすると80歳に父もまた気持ちを打たれたらしい。
「そうか、そりゃあ、いい先生だ」と珍しくし素直に感動している。
何しろ市民病院はなちゃいないとか、役所の窓口は、なんで、老人に同じ書類ばかり書かせるんだ、何でも手続きて続きで、ぼけた老人などはどうするんだ、などと彼は年中怒っている人なのだ。

~それから父の努力は大変なものだった。
M先生のくれた「褥瘡の解説と治療」のマニュアルを、「これはどうも医者向きだな」と言いつつ熟読した。
彼は元エンジニアの理系男なので何事も、理論からいらねば気の済まないタイプなのだ。
その結果、治療は、とにもかくにも清潔に保ち、自然治癒力を高めることが一番、ということで、一日何度も患部を蒸しタオルで洗い、乾いたら薄く軟膏をぬって、ガーゼを当てる、を繰り返した。

 そのうちエアマットが届いた。M先生の威力なのか、ずいぶんと行政の対応が速やかじゃないの、いつもと違うじゃないの、という感じだった。
 電動ベッドにコンピューター制御のエアマット 我が家の介護も次第にハイテク化してきた。

そして1週間後である。
M先生が往診にやってきた。
~でもせっかく先生が来て切れたものの、幹部は、父の努力の甲斐あって、ほぼ治っていた。
「1週間で、よく、ここまで治しましたねぇ、薬はもうつけないでいいでしょう。完璧な治療です、いやあ、大したものです」
M先生から痛く褒められて、父も私も大変よい気分だった。

それから2週間後である。
今度は母の目がおかしくなった。目やにがひどくて右目が真っ赤になった。
 どうするどうするということになって、ひょっとして「往診してくれる眼科のお医者さんはいないかしら?」とずうずうしくもM先生に電話したら、いたのである。
 週に一度、休診日日位置に往診して回ってくれている眼科の先生が!

自分の仕事に使命感を持って、いい仕事をしている。そういう人がいるのを知っただけで何となく励まされることか。そういえばある本で読んだことがある。
自分が輝いて生きている、それだけで人のためになるんだよ、と。
私も、もう少し仕事に気を入れなければならない、そう思った。

    どうして子供あつかいするの?
  老人は子供ではありません
途中、父が保健婦さんにコーヒーを入れるようにといった。
キッチンに立ちながら、私は若い彼女(保健婦)にきちんというべきだろうか、と一瞬考えた。
「介護が必要だからと言って、老人は子供ではありません、言葉がしゃべれなかろうが、オシメをしていようが、ぼけていようが、フツウの大人に対するように向き合うべきではないかしら。相手にやさしくせすることと、子ども扱いすることは、違うことではないかしら?」
 でもやっぱりいう勇気はなかった。

  豊かなものがいっぱい詰まっている
何しろ彼女はよい人なのだ。ただ一生懸命なだけなのだ。
結局、私と父も母と同様、にこにこと愛想笑いをして、最後に「どうもありがとうございました」と丁寧に礼を言って、送り出した。その後、なんだか疲れて、フーッとため息が出た。

 実は、母は地域の保健センターに月に1ち度、2度、リハビリに通っていたことがあった。
来るか椅子を車に積んで父と二人係で行くのは、、結構大変だったが、母には人と触れ合う場所が必要だ、という思いで利用していた

 ところが、ここも、なんだか要介護のの高齢者をいたく子ども扱いする場所だった。
身振り手振りの付きの歌を皆で歌わされる。ゲームなんかさせられる。
そういうことを、私は子供の保育園や学童保育時代にずいぶんやったので、抵抗なく平気で楽しんでやれるタイプだが、母には、とぷ亭我慢がならなかったらしい。

だんだんと行くのを渋るようになり、数か月でやめてしまった。
きっと母のような人は少なくないに違いがない。
いつも母に付き添っていってみていたが、高齢者には、皆、リハビリのためと割り切ってはいても、どことなくぶぜんとした顔つきで、「大きな栗の木の下で~」とお遊戯付きの歌を歌わせられていた。私には彼らのうち全部が楽しんでいるようには見えなかった。 ←W。やらせる側にも疑問を持っている人もいる!

しばしば、老人になると子供に戻る、と言われていて、痴ほう症などを「「二度、童」と言ったりするが、そういう老人感はあまりにもシンプルすぎるという気がする。

取材で時々通っている老人ホームには、相当にいろいろなことがわからなくなっている人たちが多いが、こちらが対等な大人として向き合うと、表情がふっと変わる。
人はお互いを映しあう鏡だから、お互いの向き合い方でどんな人も変わる。
礼儀正しくすれば、相手もそうなるし、意地悪な人には意地悪に、優しい人には優しくなる。

>そもそも高齢者は、記憶のインプットやアウトプット装置が機能しにくくなっていても長い人生の中で養ってきた豊かなものが、頭と体にも詰まっている。
それを外側に向かって表現する回路が失われていても、その人その人自身であることに変わりはない、という風に私は思える。
というよりそう思いたい。
 母のように言葉を失うなどして、上手に自分を表現できなくなると、何も考えず、何も感じない人のように見なされがちだけれど、それは、当事者にとってずいぶんと悲しいことに違いがない。
 そういえば、以前、「ニューズウィーク」に、老人ホームで亡くなったアメリカ人の高齢者の日記が掲載されていて、それにはこう書いてあった。
 「なぜ、皆、私に赤ちゃん言葉で話しかけるの?」と。

      介護ボランティアの義務を
 遊んでいる女と遊べない女
~~
こういう状況を見ると、確実に女の世界が二極化していることが実感させられる。

 誰もが平等に社会に貢献し、役割を果たす
介護保険よりも介護ボランティアの義務を課す制度を設けるべきだわ、と。
その祖茂福祉社会とは、国民がお互いに支えあうシステムを持った社会のことだ。
だとすれば、予算という回路を使ったお金の再配分システムばかりでなく、海女っている時間と労力を再配分しあう福祉システムがあっていいのではないかしら?

 介護というのはある人に振ってきて、ある人には降ってこないという運命的な問題だ。
しかも、たまたま家族のだれかとか子供の誰かに集中的に負担が言って、なかなかみんなでシェアされない
 シェアされないと、問題が一向に共有化されない

これを家族観でのシェアという狭い枠組みで考えるのではなく、もっと広く、社会的にシェアするという価値観が生まれてくれば、それぞれの負担がぐっと少なくなり、高齢社会もうまく乗り切れる気がする