第3章 サヨナラ‘家族‘という名の幻想
助け合いながら自立して W。この家族の変転→P130時点
家族を解散してしまった! ↓
息子が大学生になって独り暮らしをし始めたのをきっかけに、、寝たきり状態の母が東京の有料老人ホームの介護型に入居し、父はその隣の自立型のコレクティブハウス(というのだそうだ)に入居した。
私?私はそのホームから自転車で5分のところのマンションに部屋を借りて、一人暮らしを始めたのだ。
家族全員がバラバラになって、でも助け合いながら、自立して生きようね、ということにしたのだ。とはいっても、私は家族のことが気になって、ほっとけない。
毎朝ホームに行って、父と母に会い、昼はマンションで原稿を書いたり、取材に行ったりして、夕方またホームに行って、母の部屋で夕ご飯を食べている。その後父とラウンジでコーヒーを飲んだりしてマンションに帰って、また仕事して、寝る。
で、夕方ホームにご飯を食べに行くとヘルパーさんたちがから、「おかえりなさい」なんて言われる。
彼女たちから見れば、みんなして老人ホームに引っ越ししてしまった、変な家族、ということらしい。
~
思えば、同居していた母が脳血栓で倒れたのが10年前。
当時父は71歳で息子はまだ8歳の小学生だった。
母子家庭の私は仕事をやめるわけにはいかないから、父と二人で、日々、ケンカしつつも、育児、家事、仕事、介護を分け合うようにやってきた。
その間、いろいろなことがあった。
母のリハビリ入院、病院通い、息子のいじめられ問題やら不登校、家族全員が一日中、家に閉じこもっているなんて時期もあり、「家族全員がノイローゼ」なあんて言われもした。
それでも、私はノンフィクションの書きおろしを2冊やって物書きとしても何とか自立したし、父は70過ぎてから、見事なまでに生活自立を果たし家事のベテランになったし、息子は大検経由で希望通り大学生になって独り暮らしの自信を得たし、よくやったんじゃない、それぞれ自分のことをちゃんとほめていやっていいよ、という結果になった。
25年ぶりの一人暮らし
~特に父は81歳だ。自分たちの老後のためと思って、ローンを背負いながら立てた大切な家を私と一緒に出る決心を浴してくれて、と思う。
>なんせ高齢者が、生活環境の変化を受け入れるのは大変なことで、無理やりこれを強行すればぼけてしまうのだから。
父はそれを決断できるぎりぎりのところだったという感じだがともかくこうした我が家の新しい生活が始まっている。
ままならないのが人生 W。その後の‘家族解散‘ P147時点
父の不満がどんどん募って
人生思うようにいかないものである。
家族を解散して、民間有料老人ホームのコレクティブハウスに入居、これで将来のことは何も心配がなくなった、とか言って喜んでいたはずの父の表情がだんだんさえなくなった。
ともかく不満が多い。
ホームの管理システムがなちょらんとか、ご飯の量が少ないとか、自分のめしは自分で作りたいとか、一人で部屋にはとてもいられないとか。
そのたびに私は、ホームの人に、ああいったり、こう言ったり。ご飯のおかずの量を増やしてもらったり(父は大くらいなのだ)週1度、私のマンションで一緒にご飯を食べたり、それなりの努力をした。
が、父の不満は一向に解消されないのだ。
12畳のトイレとシャワー付きのホテルみたいな個室で、3食付きで、ちょっとした庭まであるのに、ヘルパーさんたちもみんな親切、隣の胸の介護ホームに入居した母の介護も、父の言うとおりにやってくれているのに~。
全く何の不満があるのか!と思うが、不満はエスカレートするばかり。
何しろ、母の在宅介護10年にギブアップして、ホームへの入居を提案し、みんなこの際、一人ひとりになってそれぞれ自立して暮らそうよ、と家族解散を提案したのは、この私なのである。
そして、家事と介護と子育てから解放され、これで仕事に打ち込める、とルンルン気分になっているのはこの私なのである。
父が不満を言うと「お前は、自分のシアワセばかりをを追求している」と非難されているようで、どうにも罪悪感を覚えてしまうのだ。
以前、息子にも言われたことがある。
「お母さん手t、自分のシアワセばかりを追求して生きている」と。
>というわけで、父の不満を言うたびに、まるで、すべて私が悪いような気がして、なんで兄姉の中で、私ばかりがこんな思いをさせられるのか、と兄や姉に恨みを抱いてしまうということを繰り返しているうちに、とうとう疲れてきて、とうとう私はいってしまった。
ホームで暮らすのが嫌なら出れば?
80歳になろうが、90歳になろうが、これが最後の選択だ、なんて思うことはない。何回でも暮らし方なんぞ、選びなおせばいい。最後まで自分の人生は自分のものなんだから。
私の自由を!家族からの解放を!
どうもこれに父ははっとしたらしいのである。
それでどうなったかというと、父はいつか帰りたいと思っていた藤沢の家を等価交換方式で売って、母の入居する老人ホームに走っていける距離のところに、家を買う決心をしてしまった。
等価交換方式といっても、当然ながら、かたや神奈川、かたや東京の23区内。土地付きの新築の家などは、買えず、庭もほとんどないのだけれど、それでも、「自分の所有する家」で、自分で食事を作ったり、掃除をしたり、屋根を直したりして、あれやこれやhン雑な日常に追われながら暮らす、というのが父の本当の望みだったのである。
思えば82歳の大決断であった。
この家を売ったり、買ったりをすべて自力でわずか1か月でやってしまったのだ。
兄や姉にも事後承諾、いきなり、おい、引っ越すから手伝いに来い、であった。
で、私も、結局その家で父と暮らすことにした。
夢にまで見た一人暮らしは、実現して1年もたたず挫折してしまったわけで~~。
要するに、家族解散しても、父の心配、母の心配、息子の心配、さらに放置したままの実家の家の心配から解放されることがなかったということ。
一緒にいるだけでその心配の一つ、しかも最大の心配が和らぐなら、もうそっちの方がずっとましだわ、という結論に達したというわけ。
>さらに、この選択の背景には経済的な問題もあった。
母の介護費用が毎月かなりの額になっているので、父の年金額の枠内では、二人の生活費が収まらない。
別々に暮らしていた私と父とが一緒に暮らせば、生活費が激減する、どんどん消えていくお金の心配から、私たちはとりあえず解放されたのだ。
>なければ働けばいい、では済まない高齢者にとって、お金の問題は思っていたよりずっと大きい。
それに自分が寝たきりになったらとか、病気になったらとか、高齢になると、あれこれ追うらしく、大丈夫、何とかなるわよ、の私のアバウントさは、おおらかさでなくいい加減としか父には思えないようだ。
おまけに「お前は自分の老後をどうするんだ~~」
人には野垂れ死にする権利があるのだ、私の自己決定権まで侵害しないで、と言いたい気分出るが、大正生まれは通用しない。
第4章 女が一人に戻るとき
とことんしゃべりつくして心が癒えた
この結論を出さず、追及せず、問題を整理せず、あっちに飛んだり、こっちに飛んだりしつつ、ひたすらとりとめもなくいくのが女の会話ってもので、その果てしなさの向こうにしか、女の安心に地平はない。
「そうよねえ」
「そうかも」
「けっきょくはねえ、そういうことかもね。」
と、やっているうちに、だんだんとお互いに心安らいできて、いつしか40代の我々の世代である中年女性が社会や地域家庭の中で、ふと覚える奇妙な孤立感へと話が流れていった。
~
そう昼間の女のワインとおしゃべりには夜の男のちょっと一杯と同様の必要かつ不可欠なニーズってものがある。
中年男同様、中年女も、皆、寂しい。時々これをやらなきゃやってられない。
病気と仲良く健康をコントロール
ストレスが身体にくる
ヒトには2種類あって、ストレスが身体にくるタイプト心にくるタイプがいる。
私は、どちらかというと前者で、心で感じる前に身体に来てしまう。
このことに気づいたのは、実は7,8年ほど前のこと。
~
ああ、きたきた、って感じで。1日か二日、ひたすら眠る。
仕事を休んで、とことん眠ってだらだら過ごせば、ほぼ、二日、三日で回復した威力を持ち直し、また仕事ができるようになる。
お医者さんからは、ストレスのない生活をころろ掛けなさい、と言われるが、そもそも、私の生活から、ストレスをなくそうと思っても不可能なのだ。
家族の選択、失った得たもの
老人ホームに‘お帰り‘
パソコンの前で仕事をして、はっと気が付くと、夕方の5時を過ぎている。大急ぎで、夕食の支度をして、「ちょっと行ってくる、悪い、ご飯食べといて」と父に声をかけ、母の入居する老人ホームに行く。走って1分。
~
渡り廊下を過ぎ、食堂の向かいのエレベーターで母の部屋に行く。母はベッドの中だ。
「私よ」と声をかけると「あら」というように微笑む。この微笑みを見ると、私は何か身体からすーと、力が抜けてくるように思う。
「ご飯食べた?」
母はこっくりする。
10年の在宅介護を経た、ホームに入居した母は、目下、全介護状態の寝たきりで、今や流動食だ。ヘルパーさんに水差し状のもので朝も昼も夜もゆっくりゆっくり食べさせてもらっている。
母の前で父娘喧嘩
母は重い失語症でしゃべれない。私は傍らでご飯を食べながら、一人暮らしをさせている大学生の息子、つまり母の孫がどうしたこうしたとか、最近の父はあっだこうだとか、名古屋に住む姉や兄のうわさなどを喋りまくる。
鼻に酸素の管をつけた母は、厳しい状態にある。
のどに痰が絡んだら、吸引しなければならないし、さすがに私も「人生には悲しんでも致し方のないことがおこるのだ」という心境に至っている。
7時を過ぎると、夕食を済ませた父が「おう」などと言いながらやってきた。
82歳だがまだまだ元気。
午前2時間、午後2時間、そしてよる2時間、母の部屋に入り浸って実によく面倒を見ている。
むしろ面倒を見すぎて大変~。母はいささかうんざりしている。
母の介護は父の生きがいである。
そんな彼と私が時々けんかする。
些細なことでお互いエネルギーが余っているせいだと思うけれど、父は文句と積極が多いのだ。いくつになっても、親は娘に何を言ってもいいと思っている。一方、娘の私もいくつになっても、親にたてついていいと思っている。
母の前でけんかはいけない、と思うどうもお互い配慮を忘れる。
で、平穏な家族など無きに等しいのだから、それはそれで、ああ、またやっている、やっている、と母には刺激的で面白くていいのかもしれない、と勝手に思ったりする。
というわけで、母が入居したホームに走って1分のところに、父と娘が引っ越して住むというこの風変わりな生活が、働きながら親の介護をしなければならない私の考えた末の選択だったのだ。
将来の父の介護、私自身の老後を考えれば、我が家は代々ここでお世話になり生ます、という主治医ならずお世話になる介護ホームを持たなければ、到底やっていけないと思たのだ。
そのため父は長年住んだ家を捨てた。もう、あの家には生涯戻ることはかなわない、と覚悟を決めたからだ。
そして母は家族とともには、もう再び暮らせないかもしれない。
でも、時々、お天気が良くて、体調が良い日は、寝たままでも乗れる車いすで家に連れてきてもらって一緒に家で過ごすこともできる。
そして母がここで最期を送ることになったら、この同じホームの同じベッドで、母と同じように私も介護を受け、この世とおさらばしようと思っている。そう思うことで不思議と心が慰められる。
ともあれ、どんな人生の選択にもそのことによって失うものとえるものとがある。
だとしたら、失ったものを悲しむよりも、得たものの喜びを見つけてやっていかなければならないんだろうな、と思う。
文庫本あとがき
「私来週アメリカに行くのよ」
~
「で、どうするの?お父さんのごはんは?」
電話の向こうのは、相変わらず現実的かつ日常的だ。
私も「それが問題だ」との不安を覚えて思案中なのだが、何でもないように元気に答えた。
「うん、この際、放置。というより出かけられるのは今しかないから、もう、私、アメリカでもどこでも行っちゃおうかな!って」
「そうか今しかないか。もう行っちゃえ、いっちゃえ、どこにでも行っちゃえ、で息子はどうしている?」
「あいつはパキスタンに行くのよ」
電話の向こうと事らで、あまりにも深ーい感懐を覚えて同時にうめき声をあげたのだった。
>そんなわけで、本書を上辞して3年後の今、私は86歳にならんとする父と二人だけでひっそりと暮らしている。
>その間に、私は長年介護してきた母を失ってしまった、息子を自立させてしまった。疲労蓄積がたたって病気になって入院してしまった。でも回復して書下ろしのノンフィクション作品を一つ仕上げて、ついに開き直った。
で、英語もしゃべれないのにちょっとアメリカへ3週間」なあんて仕事を平気で引き受けてしまったのである。
ま、そんな状況の私である。
~~
がこの頃は朝起きると、老いて勢いを失った父が今で一人ぼんやりとしていたりする。
「わしは、何をしたらいいのだろうか」という顔で。
私もいささか気が抜けた状況にあり、「人生は、かくも先延ばし可能なことばかりで成り立っていたのか」ということにとうとう気が付いてしまったりもした。
このような事態にここ20年ほど、、遭遇したことがなかった私は不安に陥った。
このまま父との暮らしで、相も変わらずどこにも出かけられないままでいたら、もう書くべきことのなく職業的に行き詰まりをきたすのではないだろうか、と。
そんなわけで、とりあえず「ちょっとアメリカへ3週間」のささやかな冒険に乗り出して、どこも行かない、いやいけなかった私の心を一度りリハビリして、何とか人生の再起、再展開を図ろうともくろんでいるのである。
でも、心のどこかで思っている。
本当は、どこに出かけずとも、家族を無事、卒業してしまっても、私の人生は予測不能な災難、不意を衝く困難、信じがたいトラブルによってこそ展開していくのではないだろうか、おそらく、そのタイプの女なのではないだろうか、と。
2017年 9月15日 引用終了