介護は運命なのである。ある人は遭遇し、ある人は遭遇の機会がない。シーシュポスは明晰へのあくなき希求をもって自らに課せられた運命に抗い続け、その徹底した渦中で「解放」を覚える。
介護する者も実は介護されているのだ。そういう<とき>がつづく。
Chuck Berry, Eric Clapton, Keith Richards jam
シューシュポスの神話 P168
「神々がシューポスに課した刑罰は、休みなく岩を転がして、ある山の頂まで運び上げるというものだったが、ひとたび山頂まで達すると、岩はそれ自体の重さでいつも転がり落ちてしまうのであった。
>無益で希望のない労働ほど恐ろしい懲罰はないと神々は考えた。~」
「~その情熱によって、また同じくその苦しみによって、彼は不条理な英雄なのである。
神々に対する彼の侮蔑、死への憎悪、生への情熱が、全身全霊を打ち込んで、しかも何ものも成就されないという、この言語に絶した責苦を彼に招いたのである。」
同上 P170
「石とまじかに取り組んでいる顔は、もはやそれ自体が石である!
この男が、重い、しかし乱れぬ足取りで、いつ終わりになるか彼自身では少しも知らぬ責め苦の方へと再び降りてゆく~。
いわばちょっと息をついているこの時間、彼の不幸と同じく、確実に繰り返して舞い戻ってくるこの時間、これは意識の張りつめた時間だ。
彼は山頂を離れ、神々の洞窟に少しづつ降りていくこの時の、どの瞬間においても、彼は自分の運命よりも勝っている。
彼は、彼を苦しめているあの岩よりも強いのだ。
この神話が悲劇的であるのは、主人公が意識に目覚めているからだ。
きっとやり遂げられるという希望が岩を押し上げるその一歩ごとに彼を支えているとすれば、彼の苦痛などどこにもないということになるだろう。
今日の労働者は、生活の毎日毎日を、同じ仕事に従事している。
その運命はシューシュポスに劣らず無意味だ。
しかし彼が悲劇的であるのは、彼が意識的になるまれな瞬間だけだ。
ところが神々のプロレタリアートであるシューシュポスは、無力でしかも反抗するシューシュポスは、自分の悲惨な在り方の隅々まで知っている。
まさにこの悲劇的な在り方を、彼は下山の間中考えているのだ。
彼を苦しめたに違いがない明晰な視力が、同時に、彼の勝利を完璧なもの足らしめる。
侮蔑によって乗り越えられぬ運命はないのである。」
同上 P171
「このように、下山が苦しみのうちになされる日々もあるが、それが喜びのうちになされることもありうる。
シューシュポスは自分の岩の方へ戻っていく、そして、はじめはそれが苦しみであった。
その地上の様々な映像があまりにも強く記憶に焼き付いているとき、幸福の呼びかけがあまりにも激しく行われるとき、悲哀が人間の心の中に湧き上がることがある。
>これは岩の勝利だ!いや岩そのものだ。
限りなく悲惨な境遇は担うには、あまりにも重すぎる。
これはぼくらのゲッセマネの夜だ。W,資料 ゲッセマネの夜のイエスの苦悶とはなんでしょうか?新約聖書について
しかし人を押しつぶす真理は認識されることによって滅びる。
オイディプース - Wikipediaの場合も同じだ。
オイディプスh、はじめはそれと知らずに運命に従う。彼が運命を知ったその瞬間から、彼の悲劇が始まる。
しかしまさにその瞬間に、絶望した彼は、自分をこの世界につなぎとめる唯一の絆が若い娘のみずみずしい手であることを知る。
このとき、途方もない言葉が響き渡るのだ。
「これほどおびただしい試練を受けようと、私の高齢と私の魂の偉大さは、私にこう判断させる。
すべてよし、と」。
古代の英知が近代の英雄的姿勢と合致する。
~~
「私はすべてよし、と判断する」とオイディプスはゆうが、これは「不条理な精神にとっては」まさに畏敬すべき言葉だ。
この言葉は、人間の残酷で有限な宇宙に響き渡る。
すべてははまだ汲みつくされていない、かつて汲みつくされたされたことがないということを、この言葉は教える。
この言葉は不満足感と無益な苦しみへの思考を伴ってこの世界に入りこんでいた神を、そこから追放する。
この言葉は、運命を人間のなすべき事柄へ、人間たちの間で解決されるべき事柄へと変える。
シューシュポスの沈黙の喜びの一切がここにある。
彼の運命は彼の手に属しているのだ。彼の岩は彼の持ち物なのだ。
同様に、不条理な人間は、自らの責め苦を凝視するとき、一切の偶像を沈黙させる。
~
影を生まぬ太陽はないし、夜を知らねばならぬ
不条理な人間は「よろしい」という。
彼の努力はもはや終わることがないであろう。人はそれぞれ運命があるにしても、人間を超えた宿命などありはしない。
少なくとも、そういう宿命はたった一つしかないし、しかもその宿命とは、人間はいつかは必ず死ぬという不可避なもの、しかも軽蔑すべきものだと、不条理な人間は判断している。
それ以外については、不条理な人間は、自分こそが自分の日々をしないするものだと知っている」。
~~
この時以後もはや支配者を持たぬこの宇宙は、彼には不毛だとも下らぬとも思えない。
~頂上をめがける闘争ただしれだけで、人間の心を満たすに十分足りるにだ。
今やシューシュポスは幸福なのだと思わなけれなならぬ。」
不条理な論証 不条理な自由 P78
「一つの運命を生きるとは、それを完全に受け入れることだ。ところで、この運命を不条理だと知ったときには、意識が明るみに出すこの不条理を、全力を挙げて自分の眼前にささえ続けなければ、人はこの不条理な運命を生き抜いてゆくことできぬであろう。
この不条理は対立を糧とするものであり、対立の一方の項を否定することは、不条理から逃げ出すことだ、意識的反抗を破棄することは、問題を回避することだ。
永久革命の主題がこうして個人の経験内に移されることになる。
生きることは不条理を生かすことだ。不条理を生かすことは、なによりも不条理を見つめることだ。
~不条理は人がそこから目を背けるときにのみ死ぬ。こうして筋道の通った数少ない哲学的姿勢の一つは反抗である。
反抗とは人間と人間固有の暗黒との不断の対決だ。不可能な透明性への要求だ。」
不条理な論証 不条理な P80
「反抗は一人の人間の全生涯を貫かれたとき、はじめてその生涯に偉大という形容が関せられるのだ。
偏見のない人間にとっては、知力が自分をはるかに超える現実と格闘している姿ほど素晴らしい光景はない。
~
精神が自らに命じるあの規律、隅々まで鍛え上げられたあの意思、あの毅然向き合ってたじろがぬ姿勢、それらには力強い独特な何ものかがある。
現実の非人間性が人間の偉大さを作るのだから、そうした現実を弱めることは、同時に人間自体の力を弱めることだ。
~重要なのは和解することなく死ぬことであり、すすんで死ぬことではない。