反俗日記

多方面のジャンルについて探求する。

引用 「認知症と一線を引いた時点で高齢者の個性が死んでしまう。」

 痴呆症=認知症の人にたいする無給ケアサービス提供者(アンペイドケア、ギバーUnpaid caregiver)を始めてから半年以上が過ぎた。偶然そうなったのではなく、人生の最終局面を迎えるにあたって、半ば目的意識的に現状を迎えた。煎じ詰めていえば、「社会的人間としての人生を全うしたい」ということである。
 
このような状態を第3者はなかなか理解できない。
 
世間の常識の目、感覚からするとこれがまず第1の大きな違和感であり、裏返すと世間からの大きなハードルが設けられた解釈するが、はたして当方に説明責任があるだろうかという思いが常にある。
 
聞かれると手短に答え、それ以上話を膨らまさせないようにする。
我が道を行け、人は語るに任せよ。
 
とはいっても、こうした介護は周囲の人たちの理解、見守りという生活環境が不可欠なわけで、自分の周囲に対する態度は180度とはいかなくても90度ぐらいは変えた、つもりである。
中身は変えられない保護色であるが
 
目的を達成するための手段は、常識の許す範囲だけのものではない、とは自己流解釈だが介護専門家の報告書の要点はここにある。
重度に向かって進行する被介護者の「世界」<非常識世界>ファーストを貫けばそういうことになる
 
しかしこれが在宅介護では実行し難い
情が絡みつく。
施設のような環境に恵まれない。
組織的対応のメリットとがない。
なお、現在の介護保険制度の現場は当初から見るとリストラされて、事業者にとって都合の良いように改変されている。
地域の人たちのケアがスルーされていると感じる。
そういうヒトを相手にしすれば余計な手間がかかる。労働市場の人手不足から人材が集まらない。
在宅介護制度、医療制度、福祉制度内における法人事業所の都合、利益優先の放置状況→病院経営施設送り(飼い殺し)、のレールが敷き詰められているようだ。
 
 しかし、「優良」施設の専門職の介護を受けるようになった被介護者が、入所以前より症状の進行が緩くなる場合もある
介護保険制度の初期には環境の良い小規模グループホームでも空き部屋があった。~施設環境の現状将来は厳しい)
 
であれば在宅でも実行できる余地はあるということだが、
割り切ってしまえば、
>在宅介護ではテキストにあるような対応は100点満点の理想であり、実行不可能。
課題や問題の難度が高いので60点ぐらいの合格点を目標にして70点も取れば最高ぐらいに思っていた方が、ストレスがたまらない。
 
変なたとえだが、東大入試にやさしい問題が出たら合否の線引きはできない。
介護は難題である。
できるはずのない目標を掲げるよりも最低ラインの合格を目指す。
 
認知症キャラバンの講習会を受けて感じたことは、現場の実践者の生の意見、体験を講師はもっと取りいれるべき。現場実践に邪魔になる座学があまりにも先行しすぎている。
 その意味では、2回目の講習会で夫介護をしている女性が講義中、一気にしゃべりだし、それに講師が答えて授業が終わった内容は参考になった
介護女性は、症状を理解しながらも切ない胸の内を吐き出し、できれば対策を授かりたかったが、何もなかった。
介護現場のボタンの掛け違い、はこの分野では是正し難い。
 
>だったら、啓もうを社会に広めるしかないのだが、そもそも理念に問題があるような気がする。W.注、前回記事、参照。
 
あとは介護現場の事実行為の積み重ねしかない
 
しかしそれが実に難しい。
自己葛藤と将来に対する不安(健康を害する介護者も多い)が鎌首をもたげてきて、その渦中にはまってしまうのも正直なところである
 
>痴呆症=認知症は現在進行形の症状である。
頭の老衰である。
老衰を病気と呼べるだろうか?
 
>また短期の記憶が抹消されるという新参介護者にとって厄介な特徴もある
古い経験と記憶に裏打ちされた肯定的な人たちの言動は重く(過去回帰型の人の場合美化されている)、
新参者の信頼度は低い。←W。この基本中の基本の認識さえ、教科書は強調していない。地域のケアがリアルに位置づけられておらず、結局は家族介護や施設介護に頼っているからだ。しかもそれらに政策的、社会経済ファンダメンタルズ的限界が見えてきた。ならば、地域への回帰だが、くりかえすが啓もうを社会に広めるしかないのだが、そもそも理念に問題があるような気がする
在宅に限界を持った膨大な人たちの施設入所への渇望が高まるが、ヒトモノ習慣などの環境大変化は症状の進行を早めると想定できる。
それを承知で施設へ、ということは何を意味するか分かり切っている。
 
良かれと思って実行する前の説明に多言を必要とし、当人にとって悪影響を与える長い説明や説得がどうしても必要になる。長い説明説得はダメージを与える。真剣に耳を傾けても、理解力判断力が追い付かなくて神経がいら立つ。
結果、中身の理解は遠のき、くどくどといわれたという感情が残り、人間的関係形成への妨げになる。
頭の老衰の進行に対応は後追いになり続ける。
制度、地域共々距離を置いて遠巻きに見守る方がましという放置主義が発生する。
やることはさっさとやってほしいという常識は通用せず、一気にことを運ぶと大きなダメージを与える。
施設入所は多大なダメージを覚悟しなければならない。
 
教科書的にわかっていても実際にダメージを与えて初めて分かる。
科学の真理は常識の通用しないことの方が多い。
介護は神経と頭を使わなければならない。

本人の個性や生活環境の症状に及ぼす影響は非常に大きいが
教科書は深入りして説明していないので教科書的説明は恐怖感を呼ぶ教材は一般論は展開できても個別事情は現場にしかない認知症=病気認識の落とし穴である。(W。注。資料をあげた)
本人たちは必ずしも教材あるような経過をたどるわけではないのに、教材によって恐怖感が埋め込まれ、目の前の実像への豊かな接し方よりも将来不安をオーバーラッピングした対応になる。
ただし、この点には長寿という要素が加味されるので、頭の老衰は最終局面を迎えることは間違いない。それでも介護なのである。
 
まさに1歩前進、2歩後退といわず3歩以上後退している。頭の老衰は止まらない
 
介護者は、進行する新たな症状にたじろぎ、経験や認識の中で獲得した<割り切った接し方>の段階から、戸惑いと怒り、不安の渦巻く被介護者、介護者双方にとって悪環境に逆戻りする。
そしてそのたびに介護者は<反省し>以前に獲得した段階を目指す。
 
賽の河原の石積
積み木崩し
シューシュポスの神話の世界だ。サバイバルだ。

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If I wasn't hard, I wouldn't be alive. If I couldn't ever be gentle, I wouldn't deserve to be alive.」

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W。資料
認知症という言葉が生まれた
 
認知症」という言葉のパワー
認知症」となり、「病気」で「患者」になってしまってからは、「あの人は認知症だ」という目で見られます。さらにその先入観から、差別にも似た敬遠や対応をされるようになってしまったように感じ、そのことに私は疑問を持っています。
悲しいのは、その対象とする人物像。「高齢者・お年寄り・おじいちゃん・おばあちゃん」だからではなく、「認知症患者だから」と一線引いた関係性がもたらしているものだということ無条件で手が差し伸べられているわけではありません。改定以降、その傾向は速度を増しているようです「年を取れば、誰でも多かれ少なかれ物忘れが出てくる」といった価値観さえ影を潜めつつあります
そして壮年の健常者は、普段のちょっとした物忘れも「認知症の始まりなんじゃないか」と恐れるようになりました
私は「もぅ、おばあちゃんしっかりしてよ!」なんていう、昔のおおらかな受け止め方ができていた時代を懐かしく感じます。また、それこそが人間味のある、温かい介護の原点なのではないかと思うのです。
 
今の若者にも伝えたい
若い男女の間でも、似たようなことがあるでしょう。「あなた(おまえ)って、そういうとこあるよね」なんていう言葉で、
言い出したら終わってしまう関係あの人は認知症だから」という認識はこれに似ているような気がして~。
一線引いた時点で、高齢者の個性が死んでしまう
認知症」という病気で治療中の患者だから正しい対応をしなければいけない
果たしてそれが本当の介護であり、個別性の理解なのでしょうか
このことに、答えは無いのかもしれません。
しかし今の若者には、「昔、認知症はありのままみんなで受け止めて、ゆったり世話してたんだよ」と教えてあげたいものです。
 

再び問う!
厚労省主導の認知症キャラバンのこんなに意識で良いのか!
   ↓     ↓
「  我が国の重要課題です。
尊厳を持って最後まで自分らしくありたい。コレは誰もが望むことですが、
この願いを阻み、深刻な問題になっているのが、『認知症』です
今や老後の最大の不安となり、超高齢社会を突き進む日本にとって最重要課題の一つとなっています。」
他人事ではありません。
~周囲の理解と気遣いがあれば穏やかに暮らしていくことは可能です。」
 
認知症を引き起こす最大のリスクファクターは、長生きなのです。
>高齢であれば、「認知症になるくらい長生きしたのだ」と喜ばなければなりません。
>そこがスッポリと抜け落ちた状態で治療へと走るから、事態が悪化します 
 
Q それだけ、認知症が恐がられているということですね。
東田 「長生きをしたい」という願いと「認知症にはなりたくない」という願いは、本来矛盾しているのです。
 
それなのに多くの日本人は、「認知症にならずに長生きしたい」と考えます
極端になると、「認知症になるくらいなら、長生きしなくてもいい」と言う人もいるほどです。
>海外の先進国では、認知症を怖がらせないキャンペーンをどの政府も率先して行っているのに、日本の政府は「早期発見、早期絶望」へと向かわせています。 

 
自分は認知症とは絶対に伝えない、と決めている。
宣告する当事者の筋道は通っているだろうが、本人にはよい効果は与えない。
がんの宣告とはわけが違う。
スーパー後期高齢者になれば物忘れが激しくなって当然と、繰り返すことに決めている。
頭の老衰説をとれば、矛盾は少ない。
身体の老衰と頭の老衰が同時進行することなど
主として脳の進化を先行させてきた現生人類にはありえない!
頭の老衰が先行する場合も十分にあり得る。
その場合、動物的脳の部分から老衰が始まるところに特徴があるので、本人と周囲を戸惑わせる。←W。その後の学習によって、アル系の場合は動物的脳の部分海馬の老衰が特徴だが、一般的には人類進化の道程の中で発達した連合野などの老衰が進行する、とわかった。
 
本人にも呆けてきているとは言うが認知症とは言わない。
 
また認知症とはなどと説明する必要は一切ないと考えている。
根底にあるのは本人へのリスペクトである
 
 ところがある医者は診察室の本人を目の前にして「かなり認知がすすんでいる」と付き添いの自分に突然言った。外科医である。その前後の日々の自分の対応の誤りもあって、体調を崩した。本人に原因はなく周囲に誤りがあった。
 
服薬自己管理が厳しくなっているのに、休薬期間を設ける特殊な飲み方をしなければならない薬を出し続けてしので他の医者から飲むほどの数値ではないと聞き、自分が付き添って断りに行くようになった。
ケアマネジャーは自分の仕事でないと不思議なことをいう。
 
介護保険制度は政府、事業者及びその関係者の都合利益に沿うように替えられた。
生身の人間である最弱者に一番しわ寄せがいく。