反俗日記

多方面のジャンルについて探求する。

「諸君は、幸福の一致ばかり説くが、しかし誰も、不幸を一致しようとは言わぬではないか」不幸を連鎖せせる。自立ではなく自律だ。診察室効果。

 ○「諸君は、幸福の一致ばかり説くが、しかし誰も、不幸を一致しようとは言わぬではないか」 (信長と家康の関係をトゥーキュディデース『戦史』から引用して
                                 秋山駿 『信長』 新潮社 1996 まろまろ記より引用。

2018年度に身近で起こった事例を書き出すことは、そこから普遍性と教訓を引き出すことだ。
ただバラバラと情報として挙げるだけなら、マスコミのよくやる印象操作による結論誘導に過ぎず、それでは2018年Wの知っている人と情況は浮かばれない。
そもそも、この情況は不幸ではない
個々人の終末期の当たり前の光景である

もう一つ肝心な言葉の意味の取り違えがある。
庶民レベルで在りもしない、できもしない日本のみに流通する俗流思想用語の転用である<自立>ではなく、正しくは~<自律>セルフコントロールである
<自立>という用語の不適切使用の好例が下記にある。
これはこの分野で公認されている使用方法である。現場の実態からかけ離れている。
老衰によって、脳のセルフコントロールし難い症状が進行しているから、いわゆる認知症なのであって脳~~関係性、の認識が本質であり、その意味で関係性から自立していれば認知に障害があるということになる~~の<自立>が妨げられているわけではない

そもそも次元の低い労働条件でも働かなければ、飯が食えない、内々尽くしの民衆にあるのは動物的次元の<自立>だけである。
この関係において庶民がリアルに目指すべきは幻想のなかにしかない不可能な自立よりも、可能な自律だろうが!
ということで、<自立>とい用語はおのれの置かれた経済関係さえも、見えなくさせてしまう戦後日本思想の脆弱性を形作った用語である。

痴呆症の人へのサポートにはroutine work(ルーティンワーク)が不可欠。
何はともあれ服薬管理
記憶障害、見当識障害を見越したうえできちんと飲んでもらえるように何重にも段取り(日付分包吊り下げ、カレンダー、日付曜日メインの電波置時計)をして、見届けをルーティンワークにする

引用 反俗日記 2019/5/25(土) 午後 3:08
要介護認定者の認知症自立度と要介護度>
要介護5はⅣ,要介護4はⅢ,要介護3はⅢ~Ⅱ.
>W。Ⅱb(医師が主治医意見書を書く際に「内服管理が自分で出来るか出来ないか」で「Ⅱbレベル」の分岐点となる事が多いです。服薬管理が出来るならⅡbより良い状態、逆に出来ないならⅡb以下」引用終わり~~

>>なお、ⅡaとⅡbの違いは認知症理解の肝
科学とは常識的理解の真逆のことが多い。
認知症の人が症状を有りのままさらすことができるのが、一番身近な人の前。
外部には取り繕いがあるので~~関係性の中に生きてきた人間として当然の行為~~症状の実態が見えにくくなるあとで赤裸々な実例を示す
 
 認知症の啓もう教科書はこの点を前面に押し出していない。
そもそも当局は地域啓もうを本気でやるつもりがない。古代中国に倣った大きな家族単位の人心掌握でやってきた歴史(戸籍制度はその典型)の否定になり、日本の従来の制度には大きな限界を知っているからともいえる。個々のキャラクター重視は制度上できない。
認知症キャラバンの教科書は地域見守りについては手薄だし、講義はスルーしていた。地域の見守り活動は教科書好みの実例が見当たらないから、耳障りの良い空文句や底の浅い技術的人間関係形成に流れる。

 仏教思想そのものが宗教教義として、さらに釈迦の人生そのものがはグローバリズムにミスマッチではないのか。
葬式仏教は日本型封建制の「発明」だが(曹洞宗に始まった。武士階層の本格的位階制構築に必要だった、とみるべき)、ローマに弾圧され処刑の最期を遂げたキリストと弟子たちに見守られて息を引き取った釈迦を比較すると後者の最後は教祖として俗物の極みで少子化高齢化、個々が際立つ小規模家族ユニットのトレンドの中で、その環境が欠如しているにもかかわらず未だに大往生が通念化する根拠になっている。
人間(動物)は環境に適応しずらくなると委縮する。グローバル資本制の下部構造と上部構造のライフスタイルが一致していないから、委縮して繁殖を控えるようになる。
それで外国人労働力導入ということになるのだが、欧米に対して周回遅れも甚だしい経済至上主義満開といわねばならない。令和などという不気味な年号をよくもまぁ選択した、モノだと感心する。これは日本古代半国家時代の匂いプンプンなのは歴史に関心のあるものなら当たり前の感性として抱くものだ。

 日本の老人の最期は一人で死んではいけないのだ、一人で死ぬことは不幸ということになっている。ほんとうか?
実際にはに死ぬるときは周りとの関係性は途絶えて単体で物化するのであって、神(死)と向かい合える人はそうする。人間から解き放たれて自由になるのだ。

 認識することと実行の間には事柄が大事であればあるほど深い溝がある。
その場合、それを超えてやっている人を大事にすることから始めなければならないと思うが、現場ではそうなっていない。

オレンジキャラバン教科書の書き手はそもそも恵まれた条件で介護してきた人じゃないのか(その経歴から憶測すると東大の旧赤レンガのなれの果て?)、もしくは実践の現場から遠く距離を置いた人。

その人等は地域の力はあまり必要でない。必要がないので中身は詮索しない。
しかし地域の力が必要な人は、制度がそうなっているのだから、中身を充実させるしかないが、カネや大した伝手がなければ、まず何よりも自らの頭の中を変えることが肝心な実行行為となる(シールズさんの云う脳内チップの入れ替え)
この意味からいって、彼の観点、行動こそが厳しい現場、現場の直截的な実行力になるのであって(直接行動を起こさなかった人にはこの結論は得難い!)<小さな政治>、
>制度を変えよう!の掛け声や実行は日本国家の国民に対して訴えかけ、その訴えが多数派のなったときに叶えられるものだ(大きな政治)。

認知症を科学的に啓もうしているつもりが実は肝心な地域と認知症介護の関係のところが科学的でなく、結果的に被介護者、介護者双方に対する地域の理解を阻んでいる!科学の振りして実は科学的でない~~その典型は先に示した通り。あとでリアルな実例を挙げりる。

エラソーニいう見届け人が薬の飲み忘れをしていることが間々ある。
老年期にはミスが頻発する。自分が5年ほど前に書いた記事を読み返すと今ではそういう次元の記事を再生産するのは不可能と感じる。頭も体も衰えた。自分の衰えを棚に上げて上から目線で間違いを指摘するのは卑怯者、無知極まりない。自らを省みて他を言う、この姿勢が大事。なのに弱い者いじめをしている、と当人から指摘されるとあまりに心外に感じるが事実なのだから、返す言葉もない。

そういった状況に対して、脳内チップの入れ替えとともに大事になるのは
ルーティンワークだ。

緊急に診察を受ける必要のない症状悪化の対処法として、診察室効果と呼んでいるやり方がある
そのような場合はたいてい精神の興奮が症状を余計に意識させていることがほとんどなので、一種のセレモニー行為によって、自己暗示をかけて鎮静化させる。
W自身が簡単なセレモニーで精神の興奮を沈め、安静状態を取り戻し、準緊急事態を乗り切ってきた。
なのに、その効用の応用に気づかず、サポートをする以上、様々なケースにおける傾向を知りたいという一途で、バイタルチェックとノート記録を始めた。始めたばかりのころは、医者でもないのに、とか評するヒトもいたらしいが、コレが理由付け必要なWの流儀だから仕方がない。。
記録したり、いろいろその類のことをするのが、この人の変わったところ、と何となく理解してくれだすと、
体温や血圧を測り、記録をしながら前後の事情を詳しく聞きだす一連の行為に妙な安心感を与えるらしい、とわかってきた。
 頭のほうはぼけてきても、強靭な身体という長所を引き出し、それによって興奮状態に対抗させ鎮静化させるためには、この方法が最適だと最近、反俗日記を書きながらわかってきた
 自分の最弱の輪を自分の際立った長所で沈める
この場合、救急車、医者、専門家、地域の協力なしで済む。やれることは自分たちでできるいずれお世話になるチャンネルは大事に使いたい
そういう意味で小さな政治は必要不可欠であるが、善人の振りをしなければならないとの思い込みがあるので悪人仕様のWにはコレがつかれる。が、いずれにしても自分で自分を沈める手助けをWがしているに過ぎない。 
  
 一方で、診察室効果は、日常生活を削った煩わしい対処に苛立っている、Wにも効果を発揮するモノなのだ、と最近自覚した。
そもそも理不尽なのは当方なのだ。
情なし、二重人格、自分のことしか考えていない、開き直って生きている、と指摘されるWに理不尽の自覚はどこかに行ってしまいがちだが、ルーティンワークはしておかなければないと決めているので、診察室動作に入る。
そうすると自分の気持ちまで落ち着いてきて周りが良く見えるようになるから不思議だ。
徐々に反省も生まれ、なけなしの情の欠片を拾い集めていた。

Wに人間性を取り戻させてくれた。