W。通院の付き添いの待合室で思ったよりも長い時間が経過した。
幸いそういうこともあるだろうと、ポケットには、愛読書カミユ「シーシュポスの神話」忍ばせてきた。看護婦が何度も待合にいるWに声をかけてきた。あとで聞けば、通院者本人が待合室の私を気遣って看護婦に尋ねくれたのだ。
心配無用。読みたい本があれば勝手に時間が過ぎていく。そんなWのキャラクターをご存じない。
適当にページをめくっているうちに、今まで読まなかった冒頭の訳者付記に目がいった。
読んでみるとなかなか含蓄の深い文章で、「シーシュポスの神話」のエッセンスが、肝心な不条理概念がいまひとつはっきりしなかったW向きにまとめられているように感じた。
長い診察が終わって帰宅すると、不条理人間を自覚するWに最も適切な<通知>が郵便受けに届いていた。
何ということだ!運命の悪戯にしてもほどがある。競馬で万馬券を当てることは今ではそんなに難しくない。
宝くじの大当たりを射止めることよりも確率はよっぽど低いが、当たるということが、人を厳しい選択の岐路に立たせることもある。なぜこうなるのか自分でも不思議でしょうがない。
その際、ここに示された「不条理」の思考が対置されることによって、政治軍事総体に対して別の次元の視野(複眼視)が開けてくるのではないだろうか?
カミユ「シーシュポスの神話」訳者付記
翻訳のはじめにあたって<不条理>というこの書物における基本概念について一言しておこう。
~ところで、普通のフランス語としてはabusurdeとは「なんとも筋道の通らない」「意味をなさない」「荒唐無稽な」という意味である。
つまり論理や常識を破っているばかりか、それ自体として矛盾しているためとても考えられないような状態や行為について言われる言葉である。それは「不合理な」とか「非論理的な」ということとも違う。
例えていえば、
>水にぬれないつもりで川の中に飛び込むーーそれがabsurdeな行為なのだ。
だから、この第一の表題**フランス語省略**にしても、ここでは「不条理な論証」と訳したが、
これを普通のフランス語として受け取れば、「理屈にならぬ理屈」「なんとも辻道の通らぬ論証」というような意味になるだろう。
ところで、カミユはこの不条理L absyrdeという語を特別な使い方をして、
「この世界が理性では割り切れず、しかも人間の奥底には明晰を求める死に物狂いの願望が激しく鳴り響いて、この両者がともに相対峙したままである状態」を「不条理」という、「不条理」とはこうした対立関係のことだと説明している。
とすれば、こうした定義不可能なもの~なぜなら定義するとは理性の領域内での仕事であり、「不条理」とは理性の外にある関係なのだから~を出発点として、そこから出てくる帰結を探る、それは通常の論理の手続きを超えており、
当然、「理屈にならぬ理屈」「倫理的論証とはならないが、しかもそれであろうとする」の形をとるだろう。
不条理の論証のの意味の広がりをここまで考えてもおそらく間違いではあるまい。
おそらくカミユは、今説明したような普通のフランス語としての語感を踏まえて上で、
この語に独特な力と重さを加えて彼の基本概念としているのだ。
~だから読者は「不条理な」という語にたいして
一方ではこの漢語の原義でもある「なんとも筋道の通らぬ」「筋道のない」という意味で、
もう一方では、(語のカミュ的内容において「<不条理な状態にある>あるいは<不条理な状態にある人間>から発した」といい意味で読んでいただきたい。
もう一つこの不条理という概念といわば対比的に用いられているものとして、existentirlという語がある。
「これら実存哲学にみられるような、不条理を見つめていながら、それを貫こうとせず、ぎりぎりの段階で飛躍を遂げてしまう思考」という意味でこの言葉を<実存哲学的思考>と訳した。文字通りに、実存的思考と訳したのでは日本語として意味をなさないと判断したからである。もちろんサルトルの実存主義と何の関係もない。
また、現在の日本語での「実存哲学」という語の普通の意味ともかなり違う用法であることもちゅいされたい。
↓ ↓ ↓ A、カミユ「シューシュポスの神話」P76引用
もしぼくが樹々に囲まれた一本の樹であれば、動物たちに囲まれた一匹の猫であればその生は意義があるだろう、
というかむしろ意義があるかどうかという問題そのものが存在しないであろう、
↓
その場合ぼくはこの世界の一部であるのだから。
その場合ぼくはこの世界そのものであるだろう。
↓
だが、現実のぼくは、ぼくの意識のすべてによって、また永続性と親密な関係を結びたいという要求のすべてによって、この世界と対立しているのである。
あの実につまらぬ力しか持たぬ理性、それが僕を全被造物に対立させているのだ。
この理性をペンで一本線を引いて抹殺するようにして否定することはできない。
だから僕は自分が真実だと思うものを守り続けなければならぬ。明証的だと僕に見えるものはたとえ僕を否定しかかってくるものであろうと支持しなければならぬ。
そして、この世界と僕の精神との間のこの葛藤、この断絶の本質をなすものは、それについての僕の意識以外の何物であろうか。
↓
それゆえ僕がこの葛藤・断絶を維持していこうと思う時の方法は
絶えず繰り返し更新され、絶えず緊張させられている不断の意識によってである。
この意識こそ当面僕が失ってはならぬものだ。
この意識を保ち続ければ、
極めて明証的であると同時に極めて把握しがたいものである不条理が、
ひとりの人間の生の内部に戻ってきて、そこに祖国を見出すことになる。
そのときまた、精神は明察を求める努力の不毛で乾ききった道から離れることができるのだ。
↓
>その道は今や日常生活へと行きつく。
その道の終わったところに、
>無名の<<ひと*ダス、マン>>の世界が再び見いだされるのだが、
今度は反抗の姿勢で、明徹な視力をもってそこに戻ってゆくのである。
>彼は希望を抱くすべを忘れてしまった。
現在時のこの地獄、それがついに彼の王国となる。
あらゆる問題が再びその先鋭さを取り戻す。
抽象的明証性は、感情に激しく訴えてくるさまざまな形態と色彩とを前にし引退く。
精神的葛藤は具象化して(W。具象化とは?哲学的用語だが、暫定的に次のように解釈する→具体化とは?手に取り触れるようにする。具象化とは?はっきりとした姿があるようにする)
人間の心情という惨めでしかも壮麗な住居の中に再び入り込む。
W、私記
W。Aカミユは植民地アルジェリアで、身体障碍者の父とスペイン人の母のもとに貧しく育った。幼年、青年時代の生活苦は、こういう文節に昇華された。ブルジョア出身の同時代の作家と違う。それでも知識人として道が開かれているところが、戦前日本とおなじ帝国主義でも先発と後発、資本蓄積によるおこぼれが違った。日本の同時代にAカミユのような人材は存在の余地がなかった。
カミユの対象は不条理な個人、社会への叶えられぬとわかったうえでの明晰を希求する永続反抗。
丸山は絶えず繰り返し更新され、絶えず緊張させられている不断の意識をもった個人とそのことによって抽象化されず、生きた個々人が具象化された国民国家。
しかし、丸山と同時代のこういう領域の議論の最大の欠陥は、Aカミユの論法に従えば、不条理を見つめていながら、それを貫こうとせず、ぎりぎりの段階で飛躍を遂げてしまう思考である。
生きた日常生活の中での繰り返し更新される不断の葛藤を経た個々人の国民国家とは、飛躍に出口を求めた抽象的で安易な論法である。
庶民の日常生活において実際にはありえないこと、不可能なことである。
「高級知識人」の内面思考をあたかも一般的思考のような意匠を着せているだけである。
個としての人間への突き詰めが足りず、安易に最上位の政治幻想共同体である国民国家に飛躍させている。
そこに中間団体への目線もなかった。←当時の情況からして仕方がないとは思わない。
だからこそ、個々人、家庭の生活様式を大きく変質させた60年安保以前から始まった高度経済成長に丸山の云う繰り返し更新され絶えず緊張させられている意識を持った(個々人の抽象化ではなく)具象化された幻の国民国家はその幻想性を大衆消費生活において理念の現実性を失い議論として有効に機能しなくなった。
60年安保闘争が論理的筋道としての安保条約破棄の仮想の国民国家主権者の総がかりの反米闘争の予定調和に向かわず、岸内閣打倒!(与党政権たらいまわし可能)国会突入の大衆運動のダイナミズムをエポックとしたことはなぜか?
戦前から残った旧来の中間組織の結び目を解き、個々人の在り方を前社会的に解除しつつあったからだ。
ここにおいて大衆運動のダイナミズムの原動力は市民個々人の在り方に変転しつつあった。
あの時代の大衆闘争こそ予定調和の方向に向かわなかった壮大な実物教育であった。
同時に戦前の日本資本主義論争における講座派的日本半封建的残滓有する資本主義論と日本の半家父長的社会観(戸籍制度など)がいまだ有効性を保つ実例だった。
丸山が日本思想における古層分析にこだわったのもここである。
西部はヤプードットコム。
反俗日記で繰り返したのは、付加体列島原住民。
グローバル資本制下、個々人が家族家庭という紐帯からも浮遊しがちになり、中間団体組織の解体及び再編によって社会にむき出しの形で対置されるようになっても、
いやそうであるがゆえに
国家と市民の大分裂が物質的にも明らかになった現実を超えて、
>丸山の云う意味での繰り返し更新される個々人の、この度は具象的ではない抽象的仮想現実の結集が発生しているのだ。
偽愛国、排外のイデオロギー装置のリアルズムはそういう位相にある。
丸山国民国家思想が転倒されたのである。
韓国とは仲たがいしなければならない。中国は嫌いだ。
丸山の同時代の議論は
において問題になった諸点をカバーしていない。1950年代中期から60年安保→70年安保を通じて本質的に何も変わらなかった保守的政党は論外としても、それ以外の政治勢力において、丸山の同時代の議論の根源的展開不足は大きな影響を及ぼした。
あの時代情況は荒漠たる人材と時間のロスを生み出し政治的文化的土壌を無機質化した。
しかし、グローバル資本制の深化とその上部構造への反映は嗤える。
グローバル資本制という下部構造が、見世物のような政治を要求しそれに呼応する所業が、本人たちの意図する、しないにかかわらず、いうところの国家間の統治形態の違いや紛争を超えて、全世界的な資産、給与、生活様式における階層分裂を急進的に引き起こしている。
世界中の住民が偽愛国、排外騒動に耳目を奪われている大きな間隙を突いて更なる資本蓄積が急伸し、その際先端においては、(ゼニの力)が住民の居住空間を見えざるバリケードで囲い込み、住民を無力化し排除スクラップ化し、かくしてグロ資本によるジェントリフィケーションが行われていく。
「シーシュポスの神話」 P77引用
何物も解決されない。しかしすべてげ変容する。
この先僕らは、このまま死んでいくのか、飛躍によって逃れようとするのか、
自分に合った大きさの観念と形態との家を再建するのか、
それとも反対に、不条理にかけるという悲痛な、しかも惨憺たるかけを続行しようとするのか。
~~
方法についてもう一度念を押しておこう。
頑強であるということだ。
自分の道を進んである地点まで来ると、不条理な人間は扇動される。~そこで彼は飛躍を命じられる。
彼の可能な返答は自分にはよくわからない。それは明々白々たることでない。ただこれだけだ。
彼は自分で良くわかることしかやろうと思わないのだ。
以前は人生をいきるためには人生に意義がなければならぬのか、それを知ること問題だった。
ところがここでは反対に、人生は意義がなければないだけ、それだけ一層よく生きられるだろうと思えるのである。
>一つの経験を一つの運命を生きるとは、それを完全に受け入れることだ。
>この運命は不条理だと知ったときには、意識が明るみに出すこの不条理を、
>全力を挙げて自分の眼前に支え続けなければ、人はこの不条理な運命を生き抜いてゆくことはできぬであろう。
この不条理は対立を糧とするものであり、対立の一方の功を否定することは不条理から逃げ出すことだ。
>意識的反抗を廃棄することは、問題を回避することだ。
*永久革命の主題がこうして個人の経験内に移されることになる。
*不条理を生かすとは、何よりも不条理を見つめることだ。
*こうして、筋道の通った数少ない姿勢の一つは反抗である。
反抗とは
人間と人間固有の暗黒との不断の対決だ。不可能な透明性への要求だ。
>不条理とは死を意識しつつ同時にしを拒否することだ、
~~省略~死刑囚の脳裏によぎる最後の思考がぎりぎりの極点に至り、目くるめく死への転落がいまにも起ころうとするまさにその直前の地点で、
しかもなお彼が数メートル前方に目にする靴紐、不条理とはそれだ。
>自殺者と正反対にもの、まさしくそれが死刑囚だ。
こうした反抗が生を価値あるもたらしめる。
反抗が一人の人間の全生涯に貫かれたとき、はじめてその生涯に偉大という形容が関せられるのだ。
偏見のない人間にとっては、知力が自分の遥かに超える現実と格闘している姿ほど素晴らしい光景はない。
いかにけなそうとその価値を減ずることはできないだろう。
精神自ら命じるあの規律、隅々まで鍛え上げられたあの意志、あの毅然と向き合ってたじろがぬ姿勢、それらは独特の力強いものがある。
>現実の非人間性が人間の偉大さを作るのだから、そうした現実を弱めることは、同時に人間の力を弱めることだ。
>重要なのは和解することなく死ぬことであり、進んで死ぬことではない。
不条理とは人間のなしうることいっさいくみつくし、そして自己をくみ尽くす、ただそれだけだ。
不条理とは、彼のもっとも極限的な緊張、孤独な努力で彼が支え続けている緊張のことだ。
なぜなら、このような日々に意識的であり続け、反抗をつらぬくことで、挑戦という自分の唯一の真実を明かしているのだということを、彼は知っているから。
以上が第一の帰結である。