反俗日記

多方面のジャンルについて探求する。

仕事に恵まれない。当然銀行に預金もない。住むところも狭い小汚いところ

 社会から取り残されている自分を感じ不平不満がたまっている。
 世の中が競走社会だとすれば普通に考えると自分の力が足りなかったのだとなる。
 しかし人はなかなか自己責任論で納得して大人しく現状を肯定しづらいものだ。普通は。
 
 結果的に現状肯定できる装置はないことはない。宗教。恋愛。セックス。家族。友人関係。ギャンブル。スポーツ。レジャー。
 しかしそこに収まらない場合、フラストレーションは外に向かう。

 昔も今も個人のおかれたこんな状況は変わらない。
しかし現在のほうがモノ、情報の氾濫している。おまけに格差のある社会。社会経済関係からいっても個人はより一層、孤立し人間関係は希薄になりがちだ。
昔よりももっと大きなフラストレーションを抱え、もっと孤立化した人が広範に社会に点在している。
  
 問題は欲求不満のはけ口の向かう方向と対象だ。

 これがどうしたことか昔も今も身近な対象、弱い者。攻撃し易いものに向かう傾向にある。
原因は動物的本能にまで遡らなければならないような気がするし、人間の歴史の一面であるのかもしれない。
 上位の者は下位の者を統治管理しようとするのは当たり前の行為だが、下位の者の中で上位の者に統治された社会であっても自分ががこの社会に生きているという生々しい現実から社会全体を維持したいという本能が働き、ここから社会全体への共同体防衛意識が生まれてくる。社会が現実的には統治すりものとされるもの、管理するものとされるもの、に分裂していても社会全体が存立していてこそ自分の存在もある、とする社会保守の意識は下位の者にも本能的に備わっている。

 欲求不満の捌け口を弱いもの、攻撃しやすいものに求めるのは下位者の社会保守の本能的社会心理である。
 統治とは一方的な抑圧だけでは長続きしない。被統治者の迎合があって存続していく。

 野生の動物が飼い慣らされて都合のよいように改良されて家畜になった。
家畜は経済動物である限りにおいて存在を許されている。非経済な存在になったら処分される。

 支配的人間は被支配的人間が家畜人のような存在であることが究極として望ましい。
 家畜人の本能は自分が家畜のまま生かされていくことだから、現状の飼い主と家畜人との関係が混乱破壊されないことが好ましい。だから家畜人の中から飼い主に反抗したり、ましてや自分が飼い主に転向しようなんてするものがいたら断乎排撃しなければならないのである。もう生理的肉体的に反発嫌悪する。