反俗日記

多方面のジャンルについて探求する。

子供の頃、先生に引率されて東京オリンピックの記録映画を見ました。

 地方の中核都市の大きな体育館の巨大スクリーンに映し出された映像は故市川昆監督の作だったが、子供心にも面白くなかった。
なぜかその前のローマオリンピックの記録映画を見ていたから比較していたのかもしれない。記憶は定かではないが、前編でローマが上映され後編で東京が上映されて比較対象できたのかもしれない。
 ローマオリンピックの記録映画の撮り方は主役の西ドイツのアルミン、ハリーという白人の100mのドイツの金メダリスト候補を主人公にし、他方で記録映画的要素を同時進行させた映画だった。
 主人公のハリーは当時としては最高タイムの10、0秒で見事本番で優勝する。多分白人の100Mランナーとしては最後のゴールドメダリストでなかったか。コースは今のような人口のものでなく文字どうりのアンツーカーだった。
 また古代ローマ時代もコロッセムを背景にマラソンのアジス、アベベが裸足で精悍な表情を崩さず圧倒的な強さで淡々とゴールする姿をオリンピックのフィナーレに持ってきた演出も見事だった。
 対して市川昆監督の東京オリンピックはテーマが拡散し、物語性もなければ記録性もない、中途半端な前衛的作品に終わっていたように思う。子供心にも感動が得られなかった。作品に対する肯定的評価は少なかった。当時は映画評論の世界もうるさ型というか、確たる自分の視点を持つ評論家が数多くいた。
 東京オリンピックのハイライトは何といっても東洋の魔女と言われた鬼の大松監督率いる日紡貝塚を中心とした全日本女子バレーの大活躍だろう。彼女らは猛練習で回転レシーブ、時間差攻撃という現在では当たり前になっている攻守を得意としていた。パワーと高さのソ連との優勝決定戦はまさに技と鍛錬が世界を制するの図だった。
 市川監督はローマ的演出から行けば彼女らを主人公にすれば良かったが、当時は前衛映画の最盛期で映画芸術を目指す監督はみんな前衛足らんとしてわけのわからない作品を撮っていた。またそんな作品が評論家の高い評価を得ていし、何より評判から客が映画館に詰めかけた。
 筆者も高校生の時代、街一番の高級映画館でわけのわからんギリシャ映画を見た記憶がある。友達に映画好きがいて連れて行かれたが最初から最後まで何のことか理解できなかったが、分からないというのが特別な意味を持つ時代であった。風俗小説というジャンルが一時あったように風俗映画とでもいうべきものだったのだろうか。フランスのゴダール、イタリアのトリフォーも今の時点から見直すとこの種に連なるものであろう。

 さて横道にそれたが石原都知事が再度、東京にオリンピックを招請したいと空しい悪あがきをしているようである。100%無理なことに賛同するミノモンタさんは石原さんのすぐ隣で頑張るぞーとばかり拳を振り上げている。
 ちょうどこんな光景は大阪オリンピック招致活動で展開されていました。
 桂三枝師匠は何を血迷ったのか絶対無理な大阪オリンピックに向け空しいパフォーマンスを繰り広げていました。
三枝落語の才能を評価する者として違和感を覚えたが、大阪オリンピックなるものには断固として反対であった。
 あり得ない。市内でホームレスの方々が数千人も野宿されている。この状況への対応が遅れたままのオリンピックなど。また会場アクセスも整備されていなかった。結果、招致活動途中で無理とわかっていながら招致活動に五十億ものカネをつきこんだ挙句、落選。カネは文字どうり溝に捨てられた。もっとも活動費を猫ババしたセコイこっは役人がのちに逮捕されたのは大阪らしいが。

 オリンピック東京招致活動の現状をみると失敗した大阪と瓜二つだ。一部の利害関係者だけが盛り上がっているが足元に反対者多し。主導者の政治的基盤は揺らいでいる。全国的盛り上がりは皆無に等しい。ほぼ確定的な候補地が存在する。必要条件と十分条件がオリンピック、NOを突きつけているのに一点突破、全面展開風に主導者と取り巻きだけが力を空しく入れている。

 大阪は50億をどぶに捨てた。緊急にカネが必要なところにカネを回さずに。
 東京も同じではないのか。もっと多くのカネが使われていると思う。

 本当に不思議でならないのは首長になったら巨大開発方面にだけ財布の紐が緩んでいくこと。
 その代わりと言っては何だが必要なところにけちけちする。

 勘違いしている人間しか首長になれないのか首長になって環境に変身させられるのか?