反俗日記

多方面のジャンルについて探求する。

広島に行かなくては分からないことがある。憲法も実際に読まなくては。

昔全国を旅していた時、軽い気持ちで一生に一度は広島を確認しておきたいと思って訪れた。
もしあのころのような暇がなければ平和記念館も原爆資料館も訪れる機会はなかったのではないか。
 日本国憲法をじっくり読む機会があったのもたまたまとしか言いようがない。
学校教育の中で広島、長崎についてキチンと教えられた記憶がない。大学になってやっと憲法が一般教養の選択科目になっていたが選択しなかった。
 私の考える政治の中には核兵器日本国憲法も文脈として組み込まれていなかった。
 もし機会がなければその二つのことについて実感できなかった。
 
 広島の体験は予想を超えて強烈だった。
 原子爆弾の威力は想像を超えていた。圧倒的な爆風の威力。超高温の白熱の光線は爆心地の人を
一瞬のうちに石の階段に写る影に変えていた。余りの高温は人体を一瞬にして蒸発させたのだ。
そこにあるのは地獄絵を超えた惨禍だ。後遺症もある。

 しかし気になることもあった。
 平和ひろばの記念碑に刻まれた言葉。 二度と過ちを犯しません。
二度と戦争はしません、とは書かれていなかった。
それから広島の街のあちこちにあの戦争を推進した勢力の残滓が平和の願いに対抗するように打ち立てられていた。さすがかつての軍事都市だと思った。広島の街は平和への願いと軍国が相対している町との印象を持った。原爆記念日の度に映し出されているのは平和の部分だけで軍国の部分は無視されている。
 
 以上のことから今言えるのは
 核兵器は絶対だめだということ。破壊力、使用による惨禍は想像を絶している。実際に体験するか遺物を見なければ理解できない性質のものである。だから想像を超えているのだ。この兵器の保持、使用は人類に対する犯罪だ。
もう一つ。
 広島、長崎の体験、記憶の継承、平和への祈願はそれを無きものにしようとする者への戦いでもある。この戦いがなければ平和は守れない。これが現実だ。

   日本国憲法
明らかに政治的配慮で書かれているのが見て取れる。
アメリカ占領軍は戦争を推進した君主制の軍事的側面を換骨奪胎し日本占領の道具に転化しようとの政治目的を持っていた。
 憲法の前文につずく1~8条は新たな君主制の制約、権限、義務を確定したものであり、国家基本法の記述の冒頭にこれを持ってきたのは象徴とはいっても形としては戦前の君主制国家基本法の継承である。戦前のいわゆる国体のトップとその法制的物質基盤、支持勢力が温存されたのである。
 9条は今盛んに問題視されているところだが、国家の暴力装置のあり方を規定したものであり、国家論、現実対応からいってものちのち問題化するのは記述当初から自明の理としていた。
 国家とは支配者の暴力装置であり、国民としての共同の幻想性の付随するものである。
 1~8条で戦争推進の君主制の残滓を政治的思惑で残せば、そのメダルの裏側では当然政治的バランスとして国家非武装という概念が提出された。この概念提起がなければ君主制に手加勢足枷をかけても歴史的に見れば戦争推進勢力が力を盛り返してくるとの日本情勢に対するシビィアな見方があった。
 現状を見ればこの洞察は間違いではなかった。
 日本の独裁体制はイタリア、ドイツと同類項でない。
日本では既成の国家機構、行政機構が海外情勢の切迫に対応して君主を頂点とした軍事独裁になし崩し的に転化したものであって、イタリア、ドイツのような階級闘争のせめぎ合いの中から金融資本が民間に存在する反革命団体を育成しテロリズム的支配を完成していったのではない。
 日本では労働者市民の対抗力は弱かった。ごく短い期間しか日本では民主主義はなかった。
 だから戦後の君主制の残滓の温存は対抗勢力の未熟性ゆえ歴史発展の中で君主制の強大化へと展開していく懸念があった。
 ゆえに日本人の民主主義的要素の発展性が9条を必要とした。政治的バランス、折衷がそこにある。

 改憲とは生きた歴史の中で選択されるものだ。日本の民主主義の発展度合い。特に重要なのは支える実体の広さ深さだろう。日米安保。極東、アジア情勢、世界情勢の推移。
これらを勘案すれば改憲は間違いだ。やればタガが外れる。軍人の地位、名誉、指揮、戦闘能力は現憲法の枠内における改革で達成できる。
 
 タモガミさんは政治的イデオロギー軍人の範疇に分類できる。
体内での反憲法活動の持続展開は本来なら軍法会議で厳しく処断されるものである。
その規定がないからといって得手勝手な隊内宣伝活動は指導的軍人として恥ずべき個人主義である。
自衛隊の軍隊としての指揮は上からかく乱されていた。指揮が上がらないというが指揮を上から率先してかく乱しているには本人である。こういうミィーイズムに侵された指揮官は軍隊の恥だ。
 また過去の政治軍人の戦争指導の誤りをどこまで踏まえているのか。
 歴史認識やら文化論、民族論にすり替えてはいまいか。
 軍人が政治に大きく関与して道を誤ったのではないか。

 過去の戦争はアメリカ、ヨーロッパとは帝国主義戦争であった。
したがって世界市場の再分割戦争であったので日本帝国主義アメリカ、ヨーロッパとアジアの支配権をめぐってたたかったがアジア側から見ればどちらも侵略者だ。
戦勝国歴史観のゆがみを指摘しても日本帝国主義のアジア侵略の歴史を否定しては片手落ちだ。 政治家を含めこういう人がいるから日本がアジアから浮いて結局後退するアメリカの利益に従属せざる得ないんだ。