反俗日記

多方面のジャンルについて探求する。

日本中世に仏教を語りつつも実存主義者表明をした鴨長明。「発心集」序末尾⇒ただ道端のたわいない話の中に自らの僅かな一念の発心を<楽しむばかり>。隠遁者から武士への生死観の進化←W何処が進化なのか?普遍的生死観(卜部兼好)⇒W論証されていない!W⇒今、死は個別個人の実存状況による。進化もないし普遍性もない。

http://rp-kumakendai.pu-kumamoto.ac.jp/dspace/bitstream/123456789/1373/1/2405_matsumoto_29_38.pdf

         鴨長明
~「方丈記」「無名抄」「発心集」を通して~松本勝

W。所業が閉ざされ挫折するか(神職就任阻止、再就職固辞隠遁)中途半端なまま(殿上人の歌の世界の末席)、我執を超えられなかった(出家大原、方丈庵隠遁)というベクトルで、絶えず文芸と並走してきた長明の自己総括とするのは、当時の長明の心境をそのまま表現している、という意味ではリアルではあるが、現代において長明を論ずるものとしては片手落ちも良いところだ!もっと人生は複雑多岐人間は本質的に実存的な存在。

そもそも、方丈庵において本人が発心集に挙げる人物たちのように発心に達することを志したら「方丈記」や「発心集」は創作できなかった。我が内に我執を抱え込み続け、それとの対話を続けていたから創作活動ができた。発心という宗教的な境地と我執(背負った業)との絶対的な自己矛盾が長明と身体に同居していたからこそ長明的な<数奇>に凝縮された一点突破と実存的世界の開示が可能になった(数奇の手段による昇華)。

長明は発心の直接行動者ではなく(宗教者というよりも)、発心の様な形態を記述し世に問う目的意識性、立場性を自覚する文芸の数奇者の最後の居場所は、(発心は実行されない以上)方丈庵での数奇以外になかったが、問題の所在は数奇の実相である。それは長明が著した編著、著作の中にあり(歌は鑑賞能力がないので省く)、後代の卜部兼好徒然草良寛とは異質に感じる所が多い。長明の<数奇>は破天荒なところがあり現代人の常識から大きくはみ出る部分が多すぎる。ザックリ云えば、今昔物語の世界に近く、兼好から遠く離れ、芭蕉良寛とは異質の世界にあり独特の非ヒューマニズムに貫かれている。

 

 長明は発心集、序の最期の文言に次のように記している。

 長明の簡略文ではW説の主旨が解り難いので「発心集、現代語訳付き」角川ソフィア文庫、現代語訳を引用する。

W。用語解説。

菩薩(ウィキ引用⇒菩薩とは、ボーディ・サットヴァ の音写である菩提薩埵の略であり、仏教において一般的には菩提を求める衆生を意味する。仏教では、声聞や縁覚とともに、声聞と縁覚に続く修行段階を指し示す名辞として用いられた。またその一方で助けを求めているものに、救いの手を差し伸べてくれるありがたい存在

   現代語訳、引用開始

「仏、菩薩の有りがたい因縁譚は我が身に恐れ多いのでこれらを採らなかった。

>ただ我が国の身近な分かり易い話を優先して、耳にした話に限って記すことにした。

それゆえきっと誤りも多く真実は少ないかもしれない。

~~~いうなれば雲をつかみ、風を結ぼうとするような儚いものだ。

一体だれがこのようなものを相手にするだろうか。

事情は以上の通りではあるが、

>人にこれを信じろという訳でもないので、

>必ずしも確かな証拠というようなものを尋ねとることとはしなかった。

@ただ道端のたわいない話の中に

@自らの僅かな一念の発

@楽しむばかりというだけである。」

                        引用終わり

W。人性の最晩年の5年間の文芸(数奇)~~<57歳>鎌倉へ、源実朝訪問。無名抄<58歳>方丈記<60歳>発心集~~に一点に集中し昇華している!62歳没

⇒参考資料発心集第六、8。時光、茂光、<数奇>天聴(W、天皇が知る)に及ぶ。

<数奇>本来は〈好き者(もの)〉の意。中世になって風流を好む人を意味 ⇒W。この解釈は正確ではないと想う。

 引用

「中ごろ、時光という<しょう吹き>ありにけり。茂光という<ひちりき師>と囲碁を打ちて、同じ声に裏頭楽を唱歌しけるが、面白く覚えけるほどに、内よりとみ(急用)のことにて時光を召しにけり。

 お使い至りて、この由を云うに、いかにも、耳に聞きえれずただもろともゆるぎあいて、何とも返事しなかったので、お使い帰り参りて、この由を有りのままにぞ申す。

 いかなる戒めあらんと想うほどに(帝)「いとあわれなる(見事なる)ものどもかな

さほどに楽にめでて(夢中になって)何事も忘れるばかり思うらんこそ、いとやんごとなけれ(尊い)。

王位は口惜しきなりけり。行ても得聞かぬこと(行って聞くことができないのだから)」とて涙ぐみ給えりければ、使いは思いがけないことと想った。

@これらから考えると、この世の俗事を想いきるためには<数奇>は有効な手段となるに違いない。」

原文⇒「この世の事思いすてむ事も

>数奇はことに頼りとなりぬべし」

*******

 発心集第六、7。永秀法師の数奇のこと  W。この説話の主人公、笛の名手永秀法師(<八幡(石清水八幡宮別当(遠縁)の貧者)は日夜、笛を吹き続けるので近所の家々は騒音被害を被って次々に引っ越していき、終いには誰も住まなくなっても「全く気にも留めない」

W。「この世の事思いすてむ事も数奇はことに頼りとなりぬべし」発心集第六、8結語より一貫性がある<数奇>のニュアンスである。

長明の方丈庵の<数奇>の全貌が見えてきた。

数奇=風流を楽しむ、は仏教的観想の姿勢と世界であり、それだけでは出家者長明はこの世の俗事に対処できない。<術として、手段としての数奇>=文芸が不可欠だった。

1216年(長明62歳)

禅寂 ぜんじゃく日野兼光W。~~~寿永2年(1183)右大弁兼参議,文治(ぶんじ)2年権(ごんの)中納言となる。右兵衛督(うひょうえのかみ),検非違使(けびいし)別当をかね,従二位にいたる。高倉天皇,後鳥羽(とば)天皇2代の侍読。~~~の次男。浄土宗。刑部少輔(しょう),民部大輔(たいふ)W。民部省①の次官二人のうち、上位の者の官名。正五位下相当の官。20歳ごろの文治(ぶんじ)4年(1188)出家法然の弟子となり,鴨(かもの)長明としたしんだ。俗名は長親(ながちか)。生前の長明より依頼の『月講式』を草して長明の墓前に捧げる。

引用 

https://www.kci.go.kr/kciportal/ci/sereArticleSearch/ciSereArtiView.kci?sereArticleSearchBean.artiId=ART001203008

月講式は鴨長明の最晩年の思想を知りうる資料である平安時代から鎌 倉時代へと変わる転換期に生を営んだ鴨長明は絶えず変わって行く世の中に比べて、いつも変わることなく照り輝いている月を誰よりも好んだ作家といえよう。彼の作品の所々に月が登場しているし、彼の最晩年に月の講式を依頼した事実からもわかる。長明は例を見ない月の講式を法友である禅寂に依頼したが、完成を見ないまま他界してしまったのである。これを惜しんだ禅寂が長明の歿後35日目の供養として月講式を長明の霊前にささげた。長明は音楽愛好家を呼び寄せて仏教音楽会を開催しようとして月講式を依頼したのではなかろうか。音楽、和歌に対する執着を断ちきれない長明が彼の往生希求の心をこめて例を見ない月の講式を企画したのだと思うのである。

講式(こうしき)は、仏典に節をつけた宗教音楽である声明のうち、語りものの部分。

元来、講式とは法会講会を行う際の儀式次第を漢文訓読体の文章にしたもので、時代が下るとともに文学性や音楽性を付与されて声明としての性格を持つようになった

講式は、声明の一部分であり、演奏様式としては邦楽の「語りもの音楽」のなかの一ジャンルに属している.

講式は民衆布教において重要な役割を果たした。

例えば、法然の没後、門人らによって開かれた「知恩講」における作法を書いた『知恩講私記(知恩講式)』は浄土宗の専修念仏の教えと法然の生涯を分かりやすく説いたものとして、浄土宗の布教に大きな影響を与えた.」

          引用終わり

 本文開始

今の感覚で言えば事件になり、地域から追い出されても仕方のない人物なのに、<八幡(石清水八幡宮別当(遠縁)が(本人の)望みを聴くという。

この現代とはかけ離れた一種の日本中世カースト制度~~~名門に連なる貧者の遠縁者は近所家々が立ち退くほどの騒音被害を撒き散らしても所属するヒエラルキートップが望みを聴く~~~は長明の出家遁世の実相を解くカギ。「徒然草」の卜部兼好の生活実態、社会的な位置は今や当時の時代背景や文献を駆使した研究によってほぼ解明されている。その出家は我々阿がイメージする出家遁世ではなく支配層の一部と自由に行き来情報交換できる活動の自由を担保できる便利なものであった。現在で言えば御用評論家。そういう実態が明らかになれば「徒然草」の洒脱も納得できる。卜部兼好は厳密な意味での出家者ではない。

 現代語訳の小見出し

永秀法師、笛を愛する

 ここに八幡八幡宮別当の遠縁に当たる本人が日夜、笛に夢中になり騒音発生源となり地域の家々を立ち退かせても「全き気にしない」事実を提示する一方で、「とても貧しかったけれど見っとも無いふるまいなどはしなかったので人々から軽蔑されることもなかった」などとその人間性情状酌量の余地を残しているがしているがこの<数奇>人物像は

 

説話の中には見事発心した人々の話もあるが、発心往生(自死)する一瞬に後悔の念がよぎったにもかかわらず死んでいった人の生々しい話が載っている。このヒトはときの勢いで死を選んだ。

 

今の話として、死にきれず後遺症が残って生きている人もいる。それでももう一回死にたいとおもうのか、生きていてよかったと思うのか。

生きることは死ぬことだが、死ぬことは生きることではない。動かし難い物証だ。

 ただし、自死願望の強いヒトはいつの世も一定数いる。酒を組みまわしながら一晩かけて死や宇宙論を語り合った人がアパートに帰ってこなくなった。しばらくして1通のはがきが本人の住所に届いた。死を目前に控えた遺書だった。犬吠埼の海岸からアメリカまで泳いでいきます、と書かれたはがきに涙で滲んだ跡があった。病気ではなかった。友人、知友も普通の人よりも多い素人の絵描きさんだった。みんなで集まって追悼会を開いた。その後、その人の親友で自分も親しいヒトから「お前がそんなことを云うから死んでしまった」といわれた。議論のときその人の得意は宇宙論とわかった。宇宙に帰るみたいな論法にナルホドとおもい、カミユに傾倒するWは「異邦人」の結末、死刑の直前のムルソーが説教に訪れた神父を罵倒し宇宙との一体感を得た場面を話し、「シューシュポスの神話」にはどこまでも泳いで行って力尽き果てて死ぬ論理的な自殺の難しさについて、載っていると語った。

生きんがため理念実現のために戦っていた。死ぬことは一切考えなかったことが、間違いだった。闘いの場はそういう環境ではなかった。(下段の論文に描かれているような武士の死生観は闘いの場では通用しない。)

今に至って死に寄り添っている自分は、それこそ「ゆく川の流れに浮かぶ泡沫」のような存在だ。だから、訳知り顔を捨て方丈記から発心集に至った鴨長明は自分にとってリアルな存在だ。

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     中世武士の生死観(1)
―中世武士の出家と隠遁の諸相―大山 眞一

未読、ざっと目を通したところ、「西行鴨長明の現世的生死観はあくまでも個人的
な思惟の範疇に止まっていたが、卜部兼好の生死観にあっては彼らより一歩進んだ普遍化した生死観の萌芽を窺うことができる。⇒W。卜部兼好は本名。吉田兼好の吉田は吉田神道のステップアップを謀るために卜部兼好を吉田系譜に入れた偽造であるが、下線部分に一言の言及もなく、論証されていない。卜部兼好に普遍化した死生観があるとすれば現代に通じる死生観に近いものだろう。そもそも、「徒然草」は点描的な随筆、という意味では「枕草子」に近い日本的ファジーを謳った文化論とその時代においては進んだ大人の常識的人性訓話をミキシングしたモノであり、そこからぎりぎりの死生観のごときインパクトのある哲学は引き出せない。

https://gssc.dld.nihon-u.ac.jp/wp-content/uploads/journal/pdf08/8-443-454-Oyama.pdf

引用

「中世隠遁者の生死観の系譜上に中世武士の生死観が存在する
という仮説を立て、隠遁者たちの確立した思想、換言するならば、彼らの生きざま、死にざまに表れた宗教観、そしてディレッタンティズム(数寄)が武士の生死観に有形無形のうちに継承されたことを考察し、中世隠遁者から中世武士に引き継がれた生死
観を系譜学的に検証していきたい。
西行鴨長明の現世的生死観はあくまでも個人的な思惟の範疇に止まっていたが、卜部兼好の生死観にあっては彼らより一歩進んだ普遍化した生死観の萌芽を窺うことができる。

2 そして、その系譜上に浮上するのが武士の生死観であるという仮定が本論に於ける研究の核となってくるのだが、隠遁者の系譜上にある武士の生死観は本質的に隠遁者のそれとは異なる側面を持つ。

例えば武士の生死観が個人の範疇に止まらず、武士団、主従関係といった〈しがらみ〉の中にその実体があるように、あくまでも組織的な尺度で捉えなければならない点なども隠遁者の生死観との決定的な違いである

そのような武士(武士団)に受容された生死観がどのように変容していったのかが興味の対象となってくる。 ここで、その隠遁者から武士への生死観の進化←W?の過程を簡略化してみると、「来世的死生観(浄土教思想)→現世的生死観(西行鴨長明)→普遍的生死観(卜部兼好→倫理的生死観(武士)」という生死観の変容過程のチャート化が可能となってくる。

     時間の都合でここまで。

注目点ピックアップ。方丈記⇒終の棲家方丈庵の「栄華」を連綿と書き記して結びの自己省察*お前は、姿は聖人の振りをしているだけ、と。貧賤の因果応報、迷いごころの果てに狂ってしまったのか、その時、心はさらには答えなかった。心のあずかり知らない南無阿弥陀仏を、三べんほど唱えて、この暁の随筆を、静かに終わりにしようか。W.方丈記は日本初の実存主義者宣言の書である!

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shikinobi.com   方丈記 心の章

   この身の遍歴

 おおよそ、あってはならない世の中だと堪えしのぎながら、心を悩ませること、三十年あまり。そのあいだ、折々に出会う不本意に、みずからつたない運命を悟る。そうしてついに、五十歳(いそじ)の春を迎えたとき、家を出て世を逃れたのであった。

もともと妻子もなければ、捨てられない身寄りなどいない。この身には官禄(かんろく)[身分に応じた職から得られる収入]さえないのだ何に対して執着を留(とど)めようか。ただいたずらに、大原山(おおはらやま)の雲に隠れるように暮らしながら、また五回の春秋(しゅんしゅう)を繰り返すばかりであった。

 

 ここに六十歳(むそじ)のいのちの露も、消えようとする頃になってさらに末の葉にすがるように、つかの間の庵(いおり)を得ることとなった。

>言ってみれば、旅人が一夜かぎりの宿を求め、

>老いた蚕(かいこ)が、柩(ひつぎ)の繭(まゆ)を囲うようなものである

これを賀茂川の住みかに比べれば、また百分が一にも及ばない。

語るにしたがって、齢(よわい)[=年齢]は年ごとに高く、住みかは折々に狭くなるということか。

 

   そこでの生活

もし念仏をするのも物憂げで、読経(どきょう)に身の入らないときは、みずから休み、みずから怠(なま)ける。

咎(とが)める人もなく、また恥ずかしく思うような人もいない。ことさら無言などしなくても、ひとりでいれば、口の災いを収められる。必ずしも戒律を守ろうとしなくても、世俗にまみれる境遇さえなければ、どうしてそれを破ることなどあるだろう。

 

   住まいを出ての生活

また、ふもとには、柴(しば)で作られた庵(いおり)がひとつ。ここの山守(やまもり)が住んでいるところである。そこには子供がひとりいて、ときどき出向いては、わたしを訪ねてくる。そんな時は、もしする事がなければ、彼を友として遊び歩くのだった。彼は十歳、わたしは六十歳(むそじ)、その年齢はことのほか離れているけれども、こころを慰める方法は同じである。ある時は、例えばちがやの花を抜き、岩梨(いわなし)を取り、零余子(ぬかご)をもぎ取り、芹を摘んでは、これらを口にしてみたりする。あるいは山すその田んぼに出かけて、稲の落ち穂を拾って、穂組(ほぐみ)[穂を乾かすために掛け束ねたもの]を作ってみる。

 

   夜となれば

       省略

   我がためにのみ

すべてにおいて、世の人の住みかを作る訳は、必ずしも身を宿らせるためではない。
わたしは今、この身のために築く。他の者(もの)のためには作らない。

 

   ただ心のために

人に仕えるものは、恩賞が大きく、恩顧(おんこ)[ひきたて]が厚いことを先とする。決して、親身に世話をしてくれるとか、安らかで静かにいられることを願わない。それならば、ただ我が身を召使いとした方がよい。

 どのように召し使うかと言えば、もしするべき事があれば、すなわちおのれの身を使う。気だるくないとはいえないが、誰かを従え、誰かの世話をするよりはたやすい。もし、歩くべき用事があれば、みずから歩いていく。苦しいとは言っても、馬鞍(うまくら)や、牛車(うしくるま)のことに心を悩ませるよりはましだ。

@ここにわたしは、この身を使い分けて、二つの用を果たす。

手を従者として、足を乗り物とすれば、よく自分のこころに従うものだ

身心(しんしん)[人を形成すべき心とからだの一体となったもの。精神と肉体の一体化したもの]の苦しみが伝われば、苦しくなれば休むし、確かであれば[朗読「になれば」とあるは、苦しくなり終わった後の意味なれど、ここは苦しくなると併置された、「確かであれば」の方はるかに勝れり]使う。使うと言っても、それほど度を過ごさず、気だるいからといって、動揺するほどのこともない。まして言うならば、常にみずから歩き、常に働くことは、養生(ようじょう)[健康促進]ではないだろうか。どうして無駄に休んでいられようか。第一、他人を悩ませるのは、罪業(ざいごう)[仏教で悪い結果を生む行いのこと]には違いないのだ。どうして他人のちからなんか借りる必要があろうか。いいや、決して借りる必要などないのである。

 第一、他人を悩ませるのは、罪業(ざいごう)[仏教で悪い結果を生む行いのこと]には違いないのだ。どうして他人のちからなんか借りる必要があろうか。いいや、決して借りる必要などないので

  

  *つまるところ*

今、さびれた住まい、ひと間の庵(いおり)、みずからこれを愛する。
>たまたまみやこに出て、身を乞食(こつじき)[物乞い。ここでは出家した僧が、托鉢(たくはつ)を求めこと]とすることを恥じるとはいっても帰ってここにいる時は、人々の、世俗の塵(ちり)にまみれ、あくせくすることを哀れむくらいである
 もし誰か、この言葉を疑うならば、

@魚(うお)と鳥とのありさまを見るがよい。

@魚は水に飽きることがない。魚でなければ、その心は分からない。
@鳥は林に住みたいと願う、鳥でなければ、その心は分からない。
>閑居(かんきょ)[世を離れてのんびり暮らすこと]のおもむきもまた同じ。住まないものに、どうして知ることが出来ようか。

 

      結(むすび)

   結(むすび)
>そろそろ、生涯を渡りゆく月のひかりも傾いて、余命という名の山の端に近づいた。まもなく、三途(さんず)の闇[悪行によって死者の向かう暗黒世界のこと]へと落ちようとしている

@どのような行いを、いまさら弁明しようというのだろう。

仏(ほとけ)の教えられる真実は、
@何事に対しても執着のないようにという。

                
@もし、そうであるならば、今この草庵を愛することも、閑寂(かんせき)のおもむきにひたることも、悟りへの妨げには違いないのだ。

                ↓
@それなのに、うしてわたしは、このような不要な楽しみを述べて、大切な時を過ごしたのだろうか。
@執筆を終えた静かなあかつきに、その理由を思い続けて、みずから心に問い掛けてみれば……

                     ↓       ↓  
*世を逃れて、山林に籠もったのは、こころを悟り修めて、仏の道を歩ませるためである。
                     ↓       ↓
*それなのにお前は、姿は聖人(ひじり)の振(ふ)りをして、こころは濁りに満ちている。
*住みかだけは、浄名居士(じょうみょうこじ)[維摩居士(ゆいまこじ)インドの富豪であり、釈迦の在家の弟子一丈四方を住まいとしたという]]の跡を真似るように見えながら、保っている精神は、ほんのわずかでさえ、周利槃特(しゅりはんどく)[釈迦の弟子、十六羅漢の一人。極めて愚鈍であったが、ついに悟りに達したの行いにすら達してはいないではないか。
*あるいはこれは、貧賤の因果応報に、悩まされ続けた結果なのだろうか、
*それとも、このような迷いごころ[つまり方丈記』などと銘打って執筆してしまったようなその心の果てに、ついに狂ってしまったのだろうか……
         
>その時、心はさらには答えなかった。そうであるならば……


> 今はただ、答えない心のかたわらに、つかの間の舌のちからを借りて、
>心のあずかり知らない南無阿弥陀仏を、三べんほど唱えて、この暁(あかつき)の随筆を、静かに終わりにしようか。

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  出典

   ↓

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W.徒然草は世慣れた知恵者の人性訓話、社会批評のごときものだ。文は人なりというが基本、斜に構えている本人の本心がどこにあるか定かでない。あくまでも文筆上の小話である。100年ほど忘れられていたのももっともなことだと思う。徒然草の懐の深さ、洒脱が理解されるようになったのは、方丈記」に描かれた天変地異で瞬く間に巷に死体ゴロゴロ、貧窮した人々が神仏への希求、救済を願うしかなかった時代から、日本中世がようやく豊穣を生み出していた時代背景を抜きに語れない。

 兼好の時代には方丈庵と長明のような隠者はいなくなり、まして西行、長明流の隠者の文学は成立する社会環境(本人の貧困積極受容体験が基盤)はなくなり世俗の文芸社生活力を背景にした世慣れた形態をとる。そこにあるのは隠者文学ではなく当時の世と花鳥風月に対する(一応、客観的視座)優位な鑑賞眼、批評の披歴である。徒然草には批評精神は横溢しているが哲学に到達する道が全くみえない言い換えると行動への糸口がない。文によって人の上に立とうとしている魂胆が透けて見える。反俗日記の立場から言えば、ナルホドそうなんだ、所でそれがどうした?で終わる。

それでも徒然草は日本初の批評精神の発揮された書であることは間違いないが、日本初の実存主義者宣言の方に馴染む。

徒然草」に興隆した日本中世文学の質的な後退の一形態を見る。基本的に中世文芸は支配者層から生まれたわけだから支配者層が文よりも武の軍事勢力だったという事情もある。街場の文芸は徒然草止まりだった。 

           徒然草

     第7段|あだし野の露

      [要約]
    死があるから生が輝段

原文

あだし野の露消ゆる時なく、鳥部山の煙立ちさらでのみ住み果つる習ひならば、いかに物の哀れもなからん。
世は定めなきこそいみじけれ。
命あるものを見るに、人ばかり久しきはなし。

かげろふの夕を待ち、夏の蝉の春秋を知らぬもあるぞかし。
つくづくと一年(ひととせ)を暮らす程だにも、こよなうのどけしや。飽かず、惜しと思はば、千年(ちとせ)を過すとも、一夜の夢の心地こそせめ。
住みはてぬ世に、醜きすがたを待ちえて、何かはせん。

命長ければ辱(はじ)多し。
長くとも四十(よそぢ)に足らぬほどにて死なんこそ、目安かるべけれ。

そのほど過ぎぬれば、

かたちを恥づる心もなく、人に出(い)でまじらはん事を思ひ、

夕(ゆふべ)の日に子孫を愛して、榮行(さかゆ)く末を見んまでの命をあらまし、

ひたすら世を貪る心のみ深く、物のあはれも知らずなりゆくなん、あさましき。

現代語訳

露や煙ははかなく消える命なのに、この世に死者はなくならないので、あだし野霊園の草露や鳥部山火葬場の煙はいつまでも消えることはない。
だが、その草露や煙のように人間がこの世に永住して死ぬことがないならば、人生の深い感動は生まれてくるはずもない。
やはり、人の命ははかないほうが断然良い。命あるもので、人間ほど長生きなものはない。

かげろうのように朝生まれて夕べには死に、夏の蟬のように春秋の季節美を知らない短命な生物もいる。
それに比べたら、人間の場合は心安らかに一年間を送れるというだけでもなんとものどかな話ではないか。
もしも命に執着するとたとえ千年の長い年月を過ごしても、それはたった一夜の夢のようにはかなく感じるだろう。
どうせ永遠には住めないこの世に醜い姿になるまで生きていて何になろうか長生きすると恥をかくことも多くなる。
長くとも四十そこそこで死ぬのが無難というものだ。

その年齢を過ぎると容姿の衰えを恥じる気持ちがなくなり、平気で人前に出て社交的にふるまおうとする。
更に日没の太陽のような老齢の身で子孫を溺愛し、子孫の繁栄を見届けようと長生きを望んで世俗の欲望ばかり強くなり、深い感動の味わいもわからなくなっていくのはなんとも救いがたい気がする。

    第8段|世の人の心

     [要約]
   人間は色欲に惑わされる

原文

世の人の心を惑はすこと、色欲には如かず。人の心は愚かなるものかな。
匂ひなどは仮のものなるに、しばらく衣裳に薫物(たきもの)すと知りながら、えならぬ匂ひには、必ず心ときめきするものなり。
久米の仙人の、物洗ふ女の脛(はぎ)の白きを見て、通を失ひけんは、まことに手足・膚(はだえ)などのきよらに、肥えあぶらづきたらんは、外の色ならねば、さもあらんかし。

     第51段|亀山殿の御池に
       [要約]
     道を心得ている者は尊い
原文
亀山殿の御池に、大井川の水をまかせられんとて、大井の土民に仰せて、水車を造らせられけり。
多くの銭を賜ひて、数日に営み出だして、掛けたりけるに、おほかた廻らざりければ、とかく直しけれども、つひに回らで、いたづらに立てりけり。

さて、宇治の里人を召して、こしらへさせられければ、やすらかに結ひて参らせたりけるが、思ふやうに廻りて、水を汲み入るること、めでたかりけり。

よろづにその道を知れる者は、やんごとなきものなり。
   
   第52段|仁和寺にある法師
   [要約]
 人に聞いた方が良い事もある
現代語訳
仁和寺にいたある僧は、老年になるまで、石清水八幡宮を参拝した事が無かった。
そこで、我ながら情けないと思って、ある時一大決心してたった一人、徒歩で参拝に出掛けた。
ところが、この僧は極楽寺・高良神社を拝むと、八幡宮はこれで全部だと思いこんで[目的である山上の八幡宮を拝まずに]帰ってしまった。

そして同僚に向かって「長年心にかけていた参拝を果たしました。八幡宮は噂で聞いた以上に荘厳な境内でした。それにしても、参詣者が皆、山へ登ったのは何があったのでしょうか。知りたかったのですが、八幡宮の参拝が目的でしたから、山上には登りませんでした」と、きまじめな顔で話したという

ちょっとしたことでも、案内者のいたほうが大失敗を避けることが出来るものだ

  

   第59段|大事を思ひ立たむ人
  [要約]
 やりたい事を決めたら、それに全力を注ぐべし
原文
大事を思ひ立たむ人は、さり難き心にかからむ事の本意を遂げずして、さながら捨つべきなり。

「しばしこの事果てて」、「同じくは彼の事沙汰しおきて」、「しかしかの事、人の嘲りやあらむ、行末難なくしたためまうけて」、「年ごろもあればこそあれ、その事待たん、程あらじ。物さわがしからぬやうに」など思はんには、えさらぬ事のみいとど重なりて、事の尽くる限りもなく、思ひたつ日もあるべからず。
おほやう、人を見るに、少し心ある際は、皆このあらましにてぞ一期は過ぐめる。

近き火などに逃ぐる人は、「しばし」とやいふ
身を助けむとすれば、恥をも顧みず、財(たから)をも捨てて遁れ去るぞかし
命は人を待つものかは。無常の來ることは、水火の攻むるよりも速かに、逃れがたきものを、その時老いたる親、いときなき子、君の恩、人の情、捨てがたしとて捨てざらんや。
 現代語訳
道を求め悟りを開くという一大事を決意している人間は、放っておけず、心にかかる事があっても、その解決を望まずに、そっくりそのまま捨ててしまうべきだ。

「もうしばらく。これが終わってから」とか、「同じことなら、あれを片付けてから」「これこれのことは、人に笑われるかもしれない。将来非難されないように、ちゃんと整理しておいて」「長年こうしてきたのだから、片付くのを持ったとしても時間はかからないだろう。そうせっかちになる事もない」などと考えていたら、放ったらかしに出来ないような用事ばかり積み重なってくる。
しかも用事が消えてなくなるはずもなく、ついには一大事を決行する日も失われてしまうのだ。
だいたい世間の人々を観察すると、少々しっかりした程度の人物は皆、こうした計画倒れで人生を終えてしまうそうだ。

近所に火事があって逃げるとき、火に向かって「ちょっと待って」と言うだろうか。言うはずがない。
助かりたければ、恥も外聞も構わず、財産さえ捨てて逃げるものだ。
いったい寿命というものは人間の都合を待ってくれるだろうか。そんなことはない。死の迫り来るさまは洪水や猛火が襲いかかるよりも早く、逃れがたい。人生がこんな緊迫した状況に置かれているにもかかわらず、老いた親、幼い子、主君の恩、人の情けを、捨てにくいといって、捨てないだろうか。捨てないでいられるはずはない。
求道者は、いっさいを捨てて、速やかに一大事を決行しなければならない。

    第74段|蟻のごとくに
  [要約]
 一生は短く、万物は常に流転している
原文
蟻のごとくに集りて、東西に急ぎ、南北に走(わし)る。
高きあり、賎しきあり。老いたるあり、若きあり。行く所あり帰る家あり。夕に寝(い)ねて、朝に起く。
営む所何事ぞや。生をむさぼり利を求めてやむ時なし。

身を養ひて何事をか待つ、期(ご)するところ、ただ老(おい)と死とにあり。
その来る事速かにして、念々の間に留まらず。これを待つ間、何の楽しみかあらむ。

>惑へるものはこれを恐れず。
名利に溺れて、先途の近きことを顧みねばなり。
>愚かなる人は、またこれをかなしぶ。
常住ならんことを思ひて、変化の理を知らねばなり。

  第79段|何事も入り立たぬ
  [要約]
 知ったかぶりをしてはいけない
現代語訳
どんな場合でも、よく知らないふりをするにかぎる。
立派な人間は、知っていても知ったかぶりをしないものだ。

軽薄な人間に限って、何でも知らない事はないといった返事をする。
だから、聞いている相手が圧倒されることもあるが、本人自身が自分からすごい思い込んでいるさまは、どうにも救いがたい。

よく知っている方面については、口数少なく、聞かれない限りは黙っているのが一番である。
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  第137段|花は盛りに①
  [要約]
 物事は盛り以外にも魅力がある
原文
花は盛りに、月は隈なきをのみ見るものかは。
雨にむかひて月を恋ひ、たれこめて春のゆくへ知らぬも、なほあはれに情ふかし。
咲きぬべきほどの梢、散りしをれたる庭などこそ見どころおほけれ。

歌の詞書(ことばがき)にも、「花見にまかれりけるに、はやく散り過ぎにければ」とも、「さはることありてまからで」なども書けるは、「花を見て」といへるに劣れる事かは。

花の散り、月の傾くを慕ふ習ひはさる事なれど、殊に頑なる人ぞ、「この枝かの枝散りにけり。今は見所なし」などはいふめる。

現代語訳
桜の花は満開だけを、月は満月だけを見て楽しむべきものだろうか。いや、そうとは限らない。
物事の最盛だけを鑑賞する事が全てではないのだ。
例えば、月を覆い隠している雨に向かって、見えない月を思い焦がれ、あるいは、簾を垂れた部屋に閉じこもり、春が過ぎていく外の様子を目で確かめることもなく想像しながら過ごすのも、やはり優れた味わい方であって、心に響くような風流な味わいを感じさせる。
今にも花ひらきそうな蕾(つぼみ)の桜の梢や、桜の花びらが落ちて散り敷いている庭などは、とりわけ見る価値が多い。

作歌の事情を記した詞書も、「花見に出かけたところ、もうすでに花が散ってしまっていて見られなかった」とか、「用事があって花見に出かけず、花を見なかった」などと書いてあるのは、「実際に花を見て」と書くのに、劣っているだろうか。そんなことはない。

確かに、桜が散るのや、月が西に沈むのを名残惜しむ美意識の伝統はよくわかる。
けれども、まるで美というものに無関心な人間に限って「この枝も、あの枝も散ってしまった。盛りを過ぎたから、もう見る価値はない」と、短絡的に決めつけるようだ。
       

今の世に文学であることは<数寄>なのだ。貴司山治メモリアルサイトと「ゴーストップ」。鴨野長明メモ(11資料)。

 今回の記事は1月4日(火)に大幅に追加編集した。現時点の拙い意見をそれはそれとして記すことが反俗日記の立場を貫くことになると思ったからだ。

1つはプロレタリア文学がずっと気になっていたものとし旧文をそのままにしておけなかった。「ゴーストップ」に立ち入った意見が必要だった。そのためには当時の政治環境についての意見を整理する必要に迫られた。後者は幼稚な段階に留まっているのは承知である。前者は自信がある。

第2。日本経済政治に対しての意見が必要に思えた。我流であるが、率直な意見。このトレースの大きな方向は間違っていない、と確信している。

>全体の主旨はどこかに行ってしまったが仕方がない。コレが流儀だ。

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 正月用に図書館から一杯本を借り出してきた。ほとんどの本はざっと目を通しただけで興味が失せた。貴司山治「同志愛」新プロレタリア文学精選集ゆまに書房。厚さ3、5cm400P。登場人物の設定に違和感を覚える。もっとも当時の有りのまま、だったのかもしれないが。作者には興味を持った。幼い頃の記憶にその名前が刻み込まれていた。そこでネット検索してみたところ、下記のサイトを見つけた。今の世に文学であることは<数寄>なのだ。世の中がこうなっているあ~なっている、社会、経済がどうのこうの客観的な分析から、行動を導き出せないタイプの人間である。

 「方丈記」「発心集」の作者、鴨長明に関連する膨大なネット資料や唐木順三「中世の文学 無常」の鴨長明関連を読み進めるうちに、再確認した。

ito-jun.readymade.jp

W。語り口調は近年、NHKで大物作家の懐かしのインタビュー録音を再放送していた番組の解説者(文学誌編集長)とよく似ている。偶然の一致なのか、その編集長がまねたのか?

1)志賀直哉 

http://ito-jun.readymade.jp/nhk-omoide/01siga.mp3

3)芥川龍之介

http://ito-jun.readymade.jp/nhk-omoide/03akutagawa.mp3

4)菊池寛

http://ito-jun.readymade.jp/nhk-omoide/04kikuti.mp3

5)宮本百合子 

http://ito-jun.readymade.jp/nhk-omoide/05miyamoto.mp3

W。「この天才作家(W。作品を読めば女流作家ではNO1の文才があった、と解る!党員作家みたいな立ち位置になってしまったのでその実力が正当に評価されていない。)が付き合ってみるとても厄介な性質の人と解ってきた。」⇒要するのお嬢さん育ちが世間でて角が取れずにそのまま表に出るから厄介。そんな人が身近にいる!中條百合子の父親は日銀本店の設計者。典型的な都会の小ブルジョア家庭の出身者。1)志賀直哉、女性版。

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プロレタリア大衆小説 ゴー・ストップ 発禁初版復刻

W。一気に読了した。面白かった。

http://ito-jun.readymade.jp/go-stop/gostop-honbun/gostop1.htm

「ゴー・ストップ」1955年戦後版に付された作者自身の解説(抜粋)

                  貴 司 山 治 (伊藤純・編注)

引用

「鳥羽のような型のテロリストは、大正時代の労働運動の内部にはいくらでもいた。しかし私が「ゴー・ストップ」に鳥羽を英雄のように書いたというゴウゴウたる当時の非難には、そういう理由では対抗できなかった。
 ……
 鳥羽の行動は私の「塩田争議資料」中からの抜粋であって、鳥羽が塩田争議の同志と巡りあうなどという話のつけたりも、そのせいである。……

*多くの資料が残っている大正15年~昭和2年の鳴門塩田争議でみても、暴力団の介入、それに対抗する自衛団の結成などで、暴力行為が頻発した。組合側の暴力実行者として警察に追われながら逃げおおせ迷宮入りになった事件もあったようで、関西から逃げてきた鳥羽の設定はそれらを反映しているようである。1967年の徳島の郷土史岩村武勇氏への手紙でも「行動隊の責任者はMだった」と逃げおおせた人物の実名をあげている。

W。他のプロレタリア文学作品群と違ってこの小説が出色なのは、鳥羽を登場させたところにある

>あまたのプロレタリア小説よりも椎名麟三の若き日の大胆活動家時代を描いた小説(ある意味悪漢小説)がなぜ面白いのか、完成度が高いのか。

結論を先に言えば、椎名麟三の作品には当時の大胆活動を包み隠さず描く力がある。才気あふれ周囲の人々を活動のために犠牲にすることを厭わない彼の大胆な行動力は読者に一種の痛快な悪漢小説を読む思いにさせる。実際、当時そういう人物は一杯いたと想わせる実在感がある。

 鳥羽が登場する展開になるとそれまでの下町庶民生活や労働運動の舞台が最先端の社会風俗に一挙に広がりを持ち解き放たれたように感じる。お決まりのプロレタリア小説の陰隠滅滅、やられっぱなし、隠れっぱなしの舞台設定からは逸脱しているのは間違いない。しかし爽快感を読者に与える。もっと言えば、小林多喜二蟹工船」よりも面白い。⇒善悪二分、劇画チックで小説の体をなしていない。大昔、あの小説を読み終えるのは苦痛そのものだった。「党生活者」⇒陰隠滅滅4畳半プロレタリア文学の象徴。

下町の大きなガラス工場の一斉組合結成は当時の情勢から治安警察案件とやくざの介入に対して運動側に赤色組合主義的な「全国規模のセンター」である評議会が出てくれば当然にも労働運動、地域闘争の場面に収まらず、社会闘争の様相を濃くし、当時の社会風潮や政治情勢と労働運動の接点が必然化する。それを労働者側の登場人物を配して描き切るためには、この小説のそれまでの登場人物の政治的な変身では無理があり、新たな舞台回しの役割として鳥羽のような人物を配する以外になかった。

>下町工場の労働組合結成時の紛争に対して治安警察とやくざ暴力団が直接介入した舞台設定の小説に、「鳥羽のような型のテロリストは、大正時代の労働運動の内部にはいくらでもいた。」リアルな労働運動側の実情を描くことに内部から大きな非難が集中したのは、鳥羽の最期に登場する場面に典型を見たのだろう。逃亡先で治安警察の厳重包囲された鳥羽が所持していたピストルで最先頭の突入してきた警察官を撃ち、

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渡辺政之輔 - Wikipedia

1899年明治32年9月7日 ‐ 1928年昭和3年10月6日

関連個所引用

1928年昭和3年)、国際連絡の帰途、台湾基隆で挙動不審ゆえ刑事に誰何された際、隠し持っていた拳銃で刑事を狙撃(翌日、死亡)したため官憲に追われ、包囲され自身の拳銃で自殺した[注 1]。」⇒劇画チックなシーンではなくリアルな事案を踏まえている。

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その勢いで銃器を所持しない包囲網を逃亡者2名を従え、まるでモーゼの出エジプトの場面のように突破するシーンであろう。(当時の情勢ではあり得ない!と想うこの小説は毎夕新聞に連載されたが、本として発行直ぐ発禁処分になった。それでも多くの本が市中に出回った。

モーゼの出エジプトのようなシーンに轟々たる非難が集中するのは当然としても、そのシーンの一部は事実に踏まえている

>いずれにしても発禁処分は免れず、戦線への大弾圧は避けられない情勢だった。この小説のタイトル、<ゴー、ストップ>はその象徴であり、文中にも大弾圧を予測する指導者の発言がある

「27テーゼ」を具体化する党の大衆化、機関紙の確立活動)によって、大弾圧必至になるのだから、文芸の表現の自粛は所詮枝葉の問題にすぎず自由を尊重すべきだった。~その路線は社会ファシスト論と表裏一体~~~<闘争激化戦術をとって社会民主主義勢力との統一戦線追求ではなく違いを際立たせ労働運動の主導権を握る戦い>によって合法性が確保されると見積もっていたのか。⇒社会ファシスト論は独ソ不可侵条約と後の反ファシズム統一戦線への呼び水的役割を果たした

@以下は編集追加した。自分でも考えの足りなさを自覚している。

   ↓

 なお、社会民主主義政治がソ連邦共産党大会でいわゆる共産主義と改名された歴史はその1として国際的な社会民主主義運動の20世紀初頭の世界的な金融寡頭制による戦争と対抗する革命の時代におけるロシアなどの皇帝支配資本制下の政治経済環境における適応形態であったロシア革命の闘争形態から決定的な影響を受けた

当時、自然発生的に起こった労働者兵士の評議会を統治権力にするためにはあの方法しかなかった。その他の方途では皇帝は外国勢力の介入によって復権し市民革命的政治状況はロシアと世界情勢にその経済条件がないのだから定着しなかったと思う

 

 その2。スターリンの一国で社会主義が可能論とその実行、軍事主義と植民地半植民地解放がミックスされて共産主義とされるようになり、その源流である社会民主主義は否定された。

 

 中国共産党は安門事態以降の改革開放の政治路線の正統化、と統治権力行使、共産党の行動の自由確保のために過渡期社会主義論を綿密に研究し整合性求め理論的な基礎付けを行った

の方向は一貫して統治権力を行使するものとしての一応の筋道が立っている。

文化大革命の国内騒乱において権力者はそのよって立つ理論的な基盤も問われた。その成果が天安門事態以降の権力のよって立つ理論的な基盤の整合性をその継続性の中で求める方向に向かわせた。統治する者、政治弾圧する者にも理論と法制の確信が絶対に必要だ。

>ただし、中国共産党政権も中国史専制と人民の相克の習いに沿って中国人民の海に消えていくだろう!政治権力と人民に二層構造は変わらない。

 他方。ソ連共産党、その作業をロシア革命後、70年を経過した社会で社会民主主義政治が実行可能だと勘違いし一気に政治権力を社会民主主義化し経済権力を資本制化しようとした。コレは権力政党の慢性的な停滞傾向を示すものだ。Aからその条件もないのにBに乗り移った大間違いである

結果、国力は一気に弱体化し、経済は私的ルートに簒奪され、プーチンが登場する羽目に陥った。

その3。レーニン「国家と革命」を反俗日記で再検討したとき、後段において世界各国の統治形態を分類し、イギリスやスイスのような議会主義的な統治形態の歴史の長い国では、闘争形態(戦術と政治路線)をそれに合わせることが必要だと主張していることに注目した。

 その4.日本のような一党が政権を握り続けている国は民主無きおしゃべりな独裁国家というほかない。同じように国王がいて長期政権、というか統治者の政策の振幅が小さく国民合意の幅が狭い国は北欧諸国があげられるが日本とずいぶん様相が違う。

 結局日本の「市民革命」は敗戦によるGHQ改革に代替えされ(ドイツ革命はヒットラー以前)、市民個々人やその結びつきは資本制下の民主に変化途上で、朝鮮戦争の特需が降って湧いてくると同時に、戦前の政治支配者の復活とその中核である政党の政治経済基盤が打ち固められその内外に日米軍事同盟のタガがはめられた。政治反対派はそれに従属する立ち位置に固定された(市民性が資本制下の民主に変化途上で挫折したのだから1票行き先は戦前普選次元と変わり様がない)。ことに日本資本主義は長期停滞するとこの傾向は強くなる。振り子は一方にしか触れない。

新聞マスコミ特権は敗戦後の総選挙で戦前勢力の横滑りを見たGHQが我流の市民革命が国民に行渡らないため、その宣伝媒体の優遇措置をとったものであったが、日本資本主義の長期停滞の様相を異録すればするほど、独裁長期政権免罪のあらゆる手練手管を使ってのおしゃべり媒体となっている

>高度経済成長とその余勢が効力を出来たのは80年代のプラザ合意までであり、日本バブル崩壊と冷戦体制崩壊とともに日本の経済成長力の環境が取り払われ、同時に新興工業国がグローバル資本制下で急速発展し、日本の世界工業製品市場への競争力を弱めさせた。

@結果、日本資本制支配者層は、国内の労働力商品の強搾取に利益を求めるようになり、人々は大きくならないパイの分け前争い、既成のヒエラルキー内の席取り争いに駆り立てられるようになった。

 この事態を過剰生産と過少消費。

だったら、政府が財政金融膨張政策をとればいい、と捉えるのは間違いだ!

なぜならいったん内で失われた生産力は外国が代替えしているのであり、円の力で外国から輸入しなければならないからだ。円の後ろ盾となるのは日本経済の力、煎じ詰めると国内総生産力なのだから、それが停滞すれば外国からの購買力も停滞し、モノの循環が停滞すればカネが循環しても商品価格の上昇はあっても内外の購買力は下がる。

MMTは大間違い、その環境にあるのは世界通貨の位置を未だずり落ちていないアメリカだけであり日本がそれを取り入れるときは、戦前の高橋是清財政金融政策のような事態になって最終出口を失って引き返せないところに至る。

日本のMMT論者の意見を聴いているとそれが会計経済主義のようなものか、経済原論的な域で立ち止まって、自らのリアルな政策を展開できないこと気づく

例えば田中角栄日本列島改造論のようなもの、身近ではアメリカ政権の嘘っぽいグリーンニューディール的な政策を展開する代わりに、現金融財政政策の批判で済ませている。アンチテーゼであってもジンテーゼになっていない。

そういう幼稚なことに熱心になっているよりもまず政権交代による政治権力を握ることが先だ。そして民主の徹底だ。

MMT論者の云うような政策が効力を発揮するのなら現長期政権が、導入しているはずだが、徐々に導入しつつあるというのが正確な見方だリフレ派による日銀批判で出てきたのは国債の大量買い付け、アベノミクスだった。それでも経済の実勢は停滞すればあと残された政治権力維持のための誤魔化しの道は金融財政膨張政策しかなくなるのは理の当然だ

ただし長期政権は反対勢力や世界市場の激変に追い詰められるまでに至っていないため、金融財政膨張政策がスローに押しとどめられているだけでいつでも最後の切り札として用意されている。

この政治感覚がないのはノー天気と云われても仕方がない。

>所詮、ケインズ政策程度の実行価値しかないものを羊頭狗肉している様にみえる。

>以上が、デフレと称される長期経済停滞の真相である。

 

@敗戦後の東アジアや世界の冷戦体制環境に最大に恵まれ発展してきた日本経済戦前の立ち位置。工業生産指数は列強の中の下位レベルに戻ろうとしているだけだ。外側の環境を主因に発展してきた経済に内発的な発展力は乏しいままだった、ということだ。

>経済発展の勢いの持続している中曽根政権時代に内発的なヒトの力による発展力を獲得する制度改革を獲得するチャンスだったが、逆方向のことをした。役所事務でハンコ廃止がつい最近などあり得ない事態。欧米先進国に家族革命が進行している頃、日本では専業主婦家庭モデルによって逆改革が行われた。

@今言われている改革は、経済の取り分争いの口実、ヒエラルキーをそのままにしての成り上がるための改革でアリ、結果としてパイの大きさが変わらないのだから、急激な階級差の拡大に寄与するだけだ。

>それを承知でやっている。

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 ここから旧文に戻る。

>ゴーストップの英雄視批判は当時の共産党の政治路線に沿うものでなかったから、という他ない。

        ↓

「革命運動に生きた渡辺政之輔と丹野セツ」現代の労働研究会代表 小畑 精武 | コラム/温故知新

引用

「27テーゼと渡政の客死

「日本問題に関する決議(27テーゼ)」として、コミンテルン執行委員会で採択された。渡政は11月に帰国。12月には日本共産党の最初の綱領的文書として、日本共産党拡大中央委員会で全員一致確認された。

「27テーゼ」を具体化する党の大衆化、機関紙の確立活動に渡政は取り組み、「赤旗」創刊の辞を執筆。第一回普通選挙を戦う。28年の3・15共産党弾圧を運よく逃れ潜伏、9月に鍋山貞親と上海へ党務でむかった。10月、さらに台湾の共産党支援に向かった。6日台湾の基隆港で警察から不審者と見られ銃撃戦となって、客死。自殺か、他殺か?結論は不明のまま。」

**

>引用

「しかし私が「ゴー・ストップ」に鳥羽を英雄のように書いたというゴウゴウたる当時の非難~」

英雄のように描いてはいけなかった、という非難があったならばどのように描くべきだったのか、という対案が白熱のリアル小説展開を追求する以上必要であったが、当時のこういう方向での批判は党路線の対置に終わっていた、と想う。そのような政治方針に限定した批判をするのは幹部としては簡単なことであり怠慢でさえある。しかしそれで、この小説が小説としての広がりと奥行き、読者の願望を叶えられたのか、と問わなければならない。はっきり言えば、のような自主規制はプロレタリア文学を狭路に追い込む道だった当時のプロレタリア文学、労働者人民の多くの犠牲を見据え描きながらも、戦後のいつ頃からは文学史上のエピソードのようになった。

 この小説にも描かれているように、共産党活動家が表面に出て合法運動を繰り広げる政治路線に転換すれば、当時の力関係からすれば、必ず一斉検挙という事態に遭遇し、戦線は非合法状態に置かれる。国際的な情報網の乏しい当時としては無理なことだが、1920年代後半から30年代への世界情勢展開の中で日本の運動を位置づけていく、という大きな視野も必要で、いずれにしてもプロレタリア文学の自主規制は、激動の時代において全く枝葉の問題でアリ、プラス面よりもマイナス面があまりにも大きすぎた。

>国内の力関係においていずれ国家権力の大弾圧に会うのだから、文芸は文芸としての領域を守り広げ豊富化すべきだった。それが当時の人々の闘いの軌跡を後代に生き生きと残す道だった。

 

 志賀直哉は言った「主持ちの小説はダメだ」。

表現がイデオロギーに大きく制限されると読者が想像力をはばたかせる小説空間が貧弱になる、と言いたいのだ。

 小田実は左翼小説があれば、右翼小説もあると三島由紀夫豊饒の海」を上げた。無理やり読んでみるとそこにあるのは三島流イデオロギーの狂気の世界だった。神主の唱える祝詞に共鳴し陶酔状態に陥った列席者と登場する昭和天皇皇道派2,26事態正当化の世界から市ヶ谷の事態へと道は真っすぐつながっている。小林多喜二蟹工船も読了に苦労したが、これには吐き気を模様した。

 なぜ戦前の国軍や国家に己の存在を溶解し陶酔できるのか、まったくその感覚が理解できない。右翼心理の不可解なところはここだ。しかも自分は世間の人よりも右翼個人が身近にいた。人として最高に良い奴だった。独自の世界と雰囲気を持っている。

 ただしその見解は現状否定の代替えにローマン的文学的独自世界を対置するだけで社会経済分析に踏み込もうとはしなかった、点を批判した。右翼の政治的な本質は国家主義であり、そこで己の政治欲求が満たされると日本経済がどうなろうと人々の困窮にも余り意に介さない。経済分析を政治の芯に置かないのだから、そういうことになる。だから言っている。右翼が政権を握るとロクなことがない。日本軍の主体を占める日本の農村の人と心の素朴な原風景に憧憬を抱いているようなところもあった。大島渚監督の「戦場のメリークリスマス」でビートたけし演じる農村出身古参兵がちょうどそれに当たる。しかしその素朴さが捕虜に対する暴力性に転化する、所まで大島は描き切っている。日本のアジア膨張の裏側がコレだ。ナチスドイツが確信犯なら、素朴な日本兵未必の故意犯か。

しかしイデオロギーでその人の考えや行動を退けるべきではないと想っていた。何よりも当人は実をもって反体制を実行していた。

 鈴木邦夫さんが云う様に左翼でも右翼でも嫌な奴は嫌な奴、良い奴は良い奴だ。

もっとはっきり言えば経験上、左翼一般に嫌な奴が多い。

ここが日本左翼の人格的な限界だろう。だから内輪で始まった亀裂がとんでもないほど拡大し始末に負えなくなる。ここで冒頭の宮本百合子=厄介なヒト評を想いだす。アレは女だけのケースではない。男にもいる。もっと質の悪いのが大勢。

マルクスレーニンをそのまま受け入れ運動の中で人格形成するそうなるのかもしれない。右翼は個人単位で動く。左翼は組織単位を重視し人格はそこで形成されるのだから、組織が歪めば歪んだ人格が大勢を占める。

養老氏に連合赤軍事件はいじめの象徴のように云われて、関係がない自分も侮辱された思いがするが、反体制をつらぬくためには個人を滅却する術を身につけなければならないのも事実だ。はっきり言えば、反体制の活動家は人間的な面白味を消した人格が多い。

前のその人を熟知しているものとして久々に会うと、人間的な面白みをすべてそぎ落とされた人物が目の前にいると感じた。その作った人格は外部のモノには信用できない。内輪だけで通用するものじゃないのか。

右翼はなんだかんだ言っても既得権とのつながりができる立場である。

高校時代、長い成績急落の間、乱読したので文系書物を批判的相対的に読む癖が身に染みていたので、鵜呑みにすることはできなかった。マルクスには終始一貫、違和感を覚えた。その政治論を歴史と経済史に照らし合わせて読み込めば、古さがあまりにも目立ちすぎた。マルクス市場原理主義の誰かさんがいったように学者さんで、それはわれわれ世代の共通認識だった。ただし共産党宣言を初めて読んだときは、歴史教科書に記された各統治者の権力と対比して、その富を生産する無告の人々という漠たる二重構造への想いを解き明かしてくれたような気がした。書かれた歴史は階級闘争の歴史だった、との総括は世界史を丹念に読んだ身には腑に落ちるものがあった。マルクス経済解説書から資本論を読み込んだとき、経済決定論純化したが、そこからレーニンに至る道は新鮮だった。レーニンは読者をその気にさせ、行動に駆り立てる独特の文章のリズムがある。毛沢東にもそういうところがある。革命は人間同士の闘いの中で生きた人間の力が起こすものであり革命を起こす主体が特定されるものである。そういった意味でマルクスには社会状況分析はあったが独立した革命論はなかった。しかしそれを労働者運動に持ち込んだことから混乱を拡散し惨憺たる結果に終わり自分はその任にあらず思い知り、時すでに遅しだが一粒の真砂として生きよう、と断定した。

>文学の世界は直接行動につながることがある。個別徹底が可能な<数寄>の世界と世間、社会とは切断されている場合もある。

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         鴨長明メモ

W.唐木順三「中世の文学 無常」教養不足で読み飛ばすところが出るのは仕方ないが、精緻な論旨を辿っていくとナルホドと感心する。

資料1

www.kotensinyaku.jp

資料2

kiss-hojoki.webnode.jp

資料3

ja.wikipedia.org

資料4

方丈記に対する誤解 :: 方丈記に、似た運命

資料5

方丈記の分析 :: 方丈記に、似た運命

資料6

ja.wikipedia.org

資料7

『方丈記』大ヒット記念!スーパーミニマリスト・鴨長明に独占インタビュー | 和樂web 日本文化の入り口マガジン

資料8  W。この資料は作者が現地探索をしているので非常に参考になる。

note.com

資料9  W。資料として価値がある。現地写真重要。

鴨長明(九)晩年と死|日本の歴史 解説音声つき

承元2年(1208)長明は大原を後に、日野に移ります。日野は醍醐と宇治の中間。笠置山を背に負った、のどかな山里です。

鴨長明の遍歴

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W。日野方丈庵現地。地図下は近年まであった大きな湖(京都競馬場などは埋めたて跡)

日野

承元2年(1208)長明は大原を後に、日野に移ります。日野は醍醐と宇治の中間。笠置山を背に負った、のどかな山里です。

 

法界寺

法界寺があり、承久の乱で衰退しますが、長明の時代には広大な伽藍が広がっていました。

承久の乱(じょうきゅうのらん)は、1221年(承久3年)に、後鳥羽上皇鎌倉幕府執権の北条義時に対して討伐の兵を挙げて敗れた兵乱。鴨長明1155年1216年7月26日

引用

日野は『方丈記』の著者である鴨長明の住んだ地であり、親鸞の生誕地としても知られる。かつて山城国宇治郡日野と呼ばれたこの地は日野家の領地であった。日野家藤原北家の一族で、儒学や歌道をよくした家柄である。」

W。官位官職を失った鴨長明の隠遁先に支援者がいて生活の糧を得ていた。

資料10

detail.chiebukuro.yahoo.co.jp

引用

「「心の師とは成るとも、心を師とするなかれ」と。 =感情の先生にはなってもいいが、感情を先生としてはいけない 直訳的な言い方だと 感情を支配する立場にはなっても、感情に支配される側になってはいけない つまり、 感情は自身でコントロール(制御)するものだから、感情(欲望)に翻弄されるな と言うニュアンスですね。」

W。唐木順三「中世文学 無常」鴨長明の項によれば、結局、長明は<発心>にたどり着いたことで、自力本願で人知れず阿弥陀の元に帰ることに最高の価値を置いた。

資料11

兼好法師 - 徒然草に記されなかった真実 (中公新書新書 – 2017/11/18

bunshun.jp

W。吉田兼好が取り上げられるようになったのは没後、ずっと後。世の中の物的な側面が充実しだした時代。

引用

本書はその系図吉田兼倶(かねとも/一四三五~一五一一)による偽作であることを示す。兼倶は自身が構築した神道の体系の権威を高め、吉田家の家格の上昇をはかるために、当時知名度の上がっていた兼好を一家の系図の中にとりこんだ。系図に記載された兼好の父や兄弟などは赤の他人、官歴にも根拠はなく、吉田家に箔をつけるために、いわば下駄をはかせたキャリアを書き込んだものだという。これまでの伝記研究は、ニセモノの系図から出発して、兼好の人物像を組み立てていた。」

「出家前の若き兼好は、北条氏の一門である金沢氏に仕えて右筆(書記)をつとめ、京都と鎌倉を行き来していた。金沢文庫所蔵の古文書には「卜部兼好」の署名がのこり、さらに彼の通称が「四郎太郎」だったこと、母や姉の動向まで知ることができるという。鎌倉幕府滅亡後には、室町幕府の要人に接近して重宝され、晩年には歌人として名を成し、死の直前まで四つ目の勅撰集への入集に執着していた。調子が良くて、どこにでも顔を出し、未練がましいところもある人だったのだろうか?

 著者は、兼好の「遁世」の意味についても再定義する。彼の遁世とは世を捨てて悟りすますのではなく、むしろ身分や礼式にとらわれない非公式の領域に属する者として才覚を発揮し、有力者の庇護を得て生き抜くための方便であった。

 本書によって私たちははじめて素のままの兼好を知り、自由な気持ちで『徒然草』に向うことができるといえる。同時に、兼好自身の「遁世」と、作品の随所で語られる無常観との関係を検証しなおさなくてはならないだろう。」

ぴすけす

2017年12月25日に日本でレビュー済み

Amazonで購入
引用 W。このレビューは面白い、参考になる。ナルホドそういう読み方ものあるのかと「徒然草」にチャレンジしてみたくなる。
 中学校の教科書にさえ載るくらいの古典のことだから、作者に関してもう知られる限りのことは知られている、と誰しも思う(少なくとも評者はそう思っていた)。その思い込みを片っ端から粉砕してくれる快著。これほど衝撃的な新知見を、しかも盛りだくさん、啓蒙書で披露してもったいなくはないのだろうか・・・などと余計な心配をしたくなる。日本の中世文学に関する専門知識は必要ない。まっさらの素人(評者がそう)でも昂奮して読める一冊です。
「京都吉田神社の神官を務めた吉田流卜部氏に生まれた出自、村上源氏一門である堀川家の家司となり、朝廷の神事に奉仕する下級公家の身分、堀川家を外戚とする後二条天皇の六位蔵人に抜擢され、五位の左兵衛佐に昇った経歴」を小川剛生は「造られた虚像」「出自や経歴はまったく信用できない」と小気味よく斬りすてる。

 断じるにはむろんそれだけの根拠がないといけない。社寺や公家の日記・記録などの記述を丹念におさえていることは専家として当然なのだろうが、評者には誰でも見ようと思えば見られる類いの資料を用いて鮮やかに読み解く=読み替える手際に感歎した。
たとえば我々もなじんでいる「兼好法師」という呼びかた。
兼好は七つの勅撰和歌集に十八首採られているが、その際の作者表記はすべて「兼好法師。そして侍品(これは公家社会での身分秩序における最下層を意味する)以下の出家者は「凡僧」と呼ばれて「○○法師」と表記されるのだそうな。
だから、
>五位の左兵衛佐になっていたのなら、「遁世しても必ずや俗名で表記されたはずである」。ナルホド。勅撰のような格式の高い集においてはこういう慣行は厳守されるだろうからな、と納得する。明快にして強力な論証。
@官位従五位鴨長明出家しても俗名で歌を発表している。ただし、最晩年に書いた「方丈記」は出家名を記している。したがって、和歌の作品に兼好法師と記すことはあり得ない。
 この例だけでなく一体に、鎌倉末期から南北朝の社会における常識・慣行のなかに対象を置いて見直していくのが小川さんの学風であるらしい。兼好の行動圏である六波羅周辺の住民層を検証して、「武士・宗教者・金融業者などがひしめく新興都市」と位置付け、そしてその空間のなかに是法なる法師の行動を追いかける所など。『徒然』百二十四段で賛美されるこの坊さんの、土地・金融取引の実態を跡づけた上で(「実に敏腕の経営者」)、「金融や不動産売買で巨万の富を得ようと、是法の進行と矛盾することはない」。ナルホド。七百年前の都びとのメンタリティーがいきいきと伝わってくる。
殊に、個人の自我の発露や創意よりも伝統や秩序を重んじた中世社会にあっては、人の発想・行動には必ず倣うべき範型が存在する。和歌でいえば「本意」というところ。あるいはクルツィウス風にトポスと呼んでもいいだろう。「当時の社会では、自らは公的な場でどのように振る舞えばよいのか、相手に対してはどの程度の敬意を払えばよいのか (W.下賀茂神社、河合社の神職が叶わず後鳥羽上皇に新たな社の神職を与えられて断った鴨長明は上層社会の掟を徹底的に破った。後は徹底的に隠遁するのみ。<数寄>に徹し芸事と和歌の道が開け最後に方丈庵から発心の希求に至る。ある意味上流遁世者の王道を歩んだ。―――すなわち書札礼、路頭礼といった作法を知ることが重要な教養であった乱世であればあるほど、その後の復原力もまた強く働いた」。最後の一句は史眼の冴えを示している。
詳密な伝記の再検討でありながら、作品の読みにあらたな角度を提供しているのも、優れた研究である証拠。
兼好さんは「何事も古き世のみぞ慕はしき」、と内裏のくまぐまをほとんど恍惚として賛している。過去の栄光の回想、という通説を著者はここでも退ける。兼好が実際に目にしたのは官庁御殿が連なる大内裏ではなく、「里内裏」(洛中の廷臣の邸を借り受ける)だったと指摘するのである。ナルホド。これだと、目の当たりにしているごく標準的な調度に「これこそ内裏!」とコーフンしているミーハーの姿が浮かんでくるわけだ。
当時は、内裏に一般住民が入り込むこともふつうだったらしい。殿上人などは狩衣で儀式に臨むな、という禁令が紹介されている。略装だと公家が群衆に紛れてしまうのである。「我先争って紫宸殿に昇り、禁廷を埋め尽くす見物人の存在が前提となっている」というから可笑しい。そして、「兼好の内裏へ抱いた憧憬は、この日に内裏につめかけた住民のそれと違いのあるものではなかった」

 この兼好像はすこぶる清新。この男の手になるものとしてあらためてあの本を思い浮かべてみよう。なにやら斜に構えた隠者の独り言はやがて音を潜め、かわっていかにも「町のひと」らしい好奇心と身ごなしの軽さと、少なからぬ軽佻さとが横溢するシャープなエッセイという姿がせり出してくるようである。かの有名な小林秀雄の文章(これも教科書の定番だったものだ)の、思わせぶりが阿呆らしくなる。
乱世でありながら活気に満ち、下剋上が横行しながら伝統が賛美されるケッタイな時代生きた、これまた矛盾だらけのケッタイなやつがものした一代の奇書。本来『徒然草』は教科書になんぞ採るべきではない、じつに愉快な読み物なのだった。

ガリレオ、ガリレイ(ユリウス暦1564年2月15日 - グレゴリオ暦1642年1月8日)「それでも地球は回っている」⇒「>地球と太陽と、どちらがどちらの周りを回るのか、これは本質的にどうでも良いことである。 一言でいえば取るのたらぬ疑問だ。」

 

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「シューシュポスの神話」アルベールカミユ。新潮文庫P11より引用

「 不条理と自殺

 ある問題の方が別のある問題より差し迫っているということを、いったいなんで判断するのかと考えてみると、僕の答えはこうだ。

その問題の引き起こす行動を手掛かりにしてだと。

ガリレオガリレイは重要な科学的真理を強く主張したが、

>その真理は真理だからといってそのために火あぶりの刑に処せられるだけの値打ちはなかったのだ。

>地球と太陽と、どちらがどちらの周りを回るのか、これは本質的にどうでも良いことである。

一言でいえば取るにたらぬ疑問だ。

>コレに反して多くの人々が人性は生きるに値しないと考えて死んでいくのを僕はよく知っている。(生きるための理由と称するものが、同時に、死ぬための見事な理由でもあるのだ)

~本質的な問題について、おそらく思考方法は二つしかない。

つまりラパリス的な思考方法とドンキホーテ的な思考方法とである。

@つまり明証性と情熱的態度との均衡によってのみ、僕らは感動と明晰とに同時に至ることができる。

それゆえに、実に目立たぬものだが同時に悲痛極まるこのような主題においては、

@精緻な学識に基づく教壇的弁証法は、

@良識と共感との両者から発するより謙虚な精神の態度に席を譲らねばならぬことが解るのである。

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ガリレオ・ガリレイ - Wikipedia

4月26日受洗 - ウィリアム・シェイクスピア[1]

 

  • 1609年 5月オランダの望遠鏡の噂を聞き、自分で製作。以後天体観測を行う。
  • 1609年 11月30日、月を観測し月が天体であることを理解する。
  • 1610年

第2回の裁判

1630年ガリレオは地動説の解説書『天文対話』を執筆した。この書は、天動説と地動説の両方をあくまで仮説上の話として、それぞれを信じる2人とその間をとりもつ中立者の計3人の対話という形を取って、地動説のみを唱えて禁令にふれることがないよう、注意深く書いてあった。

1633年ガリレオは再度ローマ教皇庁の検邪聖省に出頭するよう命じられた。被疑は、1616年の裁判で有罪の判決を受け、二度と地動説を唱えないと誓約したにもかかわらず、それを破って『天文対話』を発刊したというものだった。

1633年の裁判

有罪が告げられたガリレオは、地球が動くという説を放棄する旨が書かれた異端誓絶文を読み上げた[46]

ローマ ミネルヴァ修道院
1633年6月22日
故ヴィンツェンツォ・ガリレイの息子でありフィレンツェ在住、年齢70歳、この裁判所に召喚され、高貴なる枢機卿及びキリスト教世界全体の異端の罪を問う審問官の前にひざまずいております私、ことガリレオ・ガリレイが……検邪聖省により、世界の中心に不動であるのは、地球ではなく太陽であるという思想を信じ、説いているのは、強い異端の疑いがあると糾弾されました。
私は猊下及び、この説で私に不信を抱いた敬虔なキリスト教徒に対し、その強い疑いを晴らすことを望み、誠実かつ心よりの信仰をもって、前述の誤りと異端の教えを放棄し、嫌悪いたします……そして今後は決して、口頭でも著述でも、同様の疑いを抱かせることを表現しないことを誓います。— ガリレオ・ガリレイ『新科学対話』

その後につぶやいたとされる “E pur si muove”それでも地球は動く)という言葉は有名であるが、状況から考えて発言したのは事実でないと考えられ、ガリレオの説を信奉する弟子らが後付けで加えた説が有力である。

「それでも地球は動いている」とつぶやいたと言う逸話が出てくるのは、死後100年以上経った1757年に出版されたバレッティの著作『イタリアン・ライブラリー』で、ガリレオは、地球は動いていると言ったために、6年間取り調べられ拷問にかけられた。彼は自由になったとたん、空を見上げ地面を見下ろし、足を踏みならして、黙想にふけりながら、Eppur si m(u)ove つまり地球を指して、それでも動いていると言った」と書いているが、その出典は明らかでない。

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 反俗日記は思った。

見守り介護宅に新しく導入した2合炊き電気釜。(普通の電気釜のスイッチの入れ方より一手間多い。結局、購買想定者として独身、仕事忙しい、それでも工夫のある生活を楽しみたい層向け⇒手間のかかる操作などお手の物。)

Wは説明書を解読し(特殊な使い方を明記していない)自分では分かり易い使い方を記したつもりの簡単取説を電気釜にそばに張り付けたが、複数のヘルパーさんは、それでも使い方が解らず、炊飯できない状態。

  何なんだ、この事態は、と。

そこから「それでも地球は回っている」というガリレオがいったとされる言葉が突然、浮かんできた。

>ちょっと変わった取扱いの電気釜の使い方が解らなくても、彼女らは子供を産み家庭を作りヘルパーさんをやっている。

>現生人類が出アフリカした7万年以上前からガリレオに異端審問で有罪判決が下った17世紀中盤、もっと正確に言えば、天動説にローマ教会が異端断罪しなくなった死後100年以上経った1757年に出版されたバレッティの著作『イタリアン・ライブラリー』までの人類史に通底するのは

>電気釜の取説が理解されない人々の営み、であった。

ガリレオを異端審問裁判にかけたり、魔女狩りをさせた背後というか、その渦中には普通の人々の圧倒的な存在があった。

 

 >それを日本的にいえば世間の常識だ。

@16世紀、戦国時代の和泉国、日野根荘。戦乱の武装勢力の侵入で荘園経営が上手く機能しなくなった元摂政関白九条政基は自ら直接出向いて荘園経営に当たった。

その際、日記に地元の春夏秋冬の風物、荘民の営みを綴ったのが「政基旅引付」。

政基公旅引付とは - コトバンク

>その文中の圧巻は村の人々が飢餓対策に貯蔵していたどんぐりを飢えた母娘がその一部を盗んで食ってしまったことに対する過酷な制裁。この母娘はムラ掟を破った科に問答無用に斬殺されてしまった。

>このような事態は今は同調圧力などと云う用語に集約されているようだが、その発生源を歴史資料で突き詰めていくと

>同じ東アジアでも日本の歴史的に形成されたムラは人口の移動が異常に少なすぎるというところに行き着く。

移動性が少なすぎると結束力(自然的な共同体)が強くなる半面、異端排除は徹底する。絶対的な宗教的規範が乏しいから異端者に誰も助けの手を差し伸べる術がない斬殺された飢餓線上の母娘に神の救いは元からなかった。

であれば、この母娘は二重に疎外(宗教的共同体的に)されていた。

 

 @話題はとっ散らかるが、先週の有馬記念

馬券は買わないがテレビ中継で楽しもうとしていたら、いきなり「君が代」歌唱、演奏とくるではないか!

大昔は天皇賞でも君が代はなかった。君が代をやりだしのはごく近年のことだと思う。

 自分の考えはハッキリしている。

元々息苦しくなるほど、同調圧力の強い日本社会では、そいういうことをやらなく済む!むしろマイナス効果が目に付く。

ヒエラルキーのトップに象徴天皇制度を持ってきて自らそれに率先して同調する(素振りをする場合もある)ことで手前の都合の良いヒエラルキーを維持するという、のが本懐に過ぎない。物質的、共同政治幻想的な象徴天皇ヒエラルキーとの距離感で自らの心の平安、と地位を得ようとする。

 遅れてしまう、世界から。こういう風潮が政治システム化すると。

 元から日本語というのはグローバルITシステムにマッチしない言語である。

卑近な話になるが、頭のボケ程度の確認のために二つの単語を覚えて何時でも出てくるようにしている。

一つの方が必ず決まって出てこない。そこで英語の直訳して覚え込んだら先に英語の単語が出てきて日本語の単語はいえるようになった。少なくとも、日本語だけではダメで二つの言語を使うと脳の反応が良くなるみたいだ。

そもそも一応大学では第二外国語の授業がある。その意義は意外にもこういう脳の働きの活性化の役割もある、と想う。

 要するに、1つのことに純化すると脳内細胞とその連絡回路は機能を弱める、あるいは偏屈になる。

 福沢諭吉明治維新を論じて耽溺に陥らなかったことが明治維新を達成させた、と総括している。

 新型コロナワクチン開発の元となった研究を始め完成させたたのは東欧からアメリカに渡った女性科学者。

アメリカのIT巨大ビジネスの祖もアウトサイダー

 

 この前の養老さんの動画と一緒にアップしようとしたもう一つの動画で、面白いことを云っていた。

アメリカと中国は世界でも特殊な変わった国。

中国は人が多く、70ぐらいの異民族がいる。

アメリカも多人種、各州の独立性は強い特殊国家。

このような特殊環境において国をまとめていくには、共通の価値観を統治者が前面に押し出して偏差値の大きい住民を国民に統合していく必要に迫られている、とアメリカ流の民主主義はヨーロッパ最先端の技術、宗教を身につけた人々が渡来した物的自然環境に恵まれた新大陸国家という歴史環境を抜きに語れない。この点においてヨーロッパ、日本とは全く条件が違う。

W流に一言でいえば、強烈な国家共同幻想を政権が押し出していくことで国民に一まとめにする。

ところがその両国は自国統治の流儀を世界に転用するから、世界的に問題をばらまいていく。

>日本の一部がまねをしているのは、本当の意味での奥深い日本歴史が形成したムラ社会的共同体の上にアメリカ的な絶対価値観を押し脱すことで、さらに国民を統合しようとしている。巨大イベントのたびに国歌斉唱。

戦前の統治方法のアメリカ的焼き直し。社会学歴史学的にやる必要がないのにダメ押しをしている。

>当然にも社会全体は窮屈にひとまとまり安全になるかもしれないが、自由な創意工夫が生れる環境は損なわれる。それとアメリカと同じ位相の疎外されたものの暴発殺人事件が多くなる。

@昔イチロー、今大谷がもてはやされているが、あんなものは一定の野球という偏ったルールの中での完成度の達成に過ぎない。日本サッカー界にイチロー大谷に匹敵するプレイヤーは生まれないのは、サッカーに偏屈ルールはなく身体能力と技術が純粋に問われるからだ。自分の野球に熱中した世代だが、アレは見るスポーツではなく自らやって楽しむことに本質があるリージョナルなスポーツ。

国民の実生活に何の関係もない。科学の研究とも全く分野がちがう。経済能力の多元性柔軟性とも違う。

*********************

@ここから先はあまり言いたくない冷厳たる事実がある。

 単純な数の問題として

>騙されやすい人々がいるからだますものの存在がある。

>統治されやすい人々がいるから統治する人がいる。~ここの問題は統治されたがっている、と言い換えても良い~

そう云うヒトが一杯いる国は、ドイツのように2回ぐらい失敗しなくては自分のことがよくわからない。イタリアは戦後処理が日独とはかなり違う。

結局このままいけば、日本はよき国の大合唱で歴史的時間の経過に身を委ねる。いろんな日本固有の恵まれた条件はプラザ合意、日本バブル崩壊⇒冷戦体制崩壊以降崩れた。多数が日本は良い国、外国のことを取り上げてもその心根は内向き、外に出る元気、取っ掛かりがない、それで気が済むのだからそれでも良い。

~ネット上で大きな社会問題が起きたときのコメントの多くは割り切って言えばもっと合理的に統治してくださいということに尽きる。もっとも、その統治がリアルに自分に降りかかってくると拒絶する人もいるようなので自分だけは除外した管制高地にでもいるのか。自由にさせよ!という論旨の展開は極少数派。

*究極の所、人と人の関係でもない。人と人間的自然の普遍的な在り方の問題だ!

*前回の記事で載せた養老さんの動画もよくよく考えると怪しいところがある。

@自然との関係が希薄になり人と人との関係だけになるとそのプラスマイナスは2倍になる、という

確かにもっともらしい。

養老さんの解決策は即物的だ。現代版都会と田舎の自然の参勤交代だが、都市生活者にその物理的な余裕はない。

@それよりも養老さんの自然と人間の2分割法の問題点は人と人との関係が±あっても2倍になれば、人の操作ではどうすることもできない人間的自然が生れてしまうことだ。れは自由意志ではどうにもならない、絶対的外部にあり、自然のように無常に転生していく人間が物質的存在になってしまうのだ。

@この関係を逆転したのは、いわゆる民主主義制度ではなかった。大きく曲りなりという注釈はつくが、物的社会的歴史的条件から当然のことといえる。個々人、個性という最大級の要素も等閑視された。

@それでもグローバル資本制の巨大流動資本の蓄積がもたらす惨禍を修正できるのは、今までの歴史の中にあった政治思想以外にない。

【養老孟司】世界は二つある。人間の世界~「心」~とそうでない世界~「体」~。自然のほうがきれいに消えていますから、主観的な世界の中では人間世界のマイナスもプラスも倍に。生き物なんだから、やっぱり半分自然の世界がなければいけない。

養老孟司】「ざまあみろ俺は生きている!」と思えるようなことは何か? 

www.youtube.com

アンケート

「自分の欠点を指摘してくれる友人がいる」

「自分を想ってくれる家族や友人がいる」

  養老

「なんの縛りも受けずに自由に時間を使える」

「コレはちっと違うと思うんですけど」

W。見守り介護の難関に遭遇したとき、人性の最期をこれから病苦と介護に費やす時間が多くなる想うと虚無感や絶望感を抱いた。

*****

@「これ全部人間関係なんですね」「人なんです」

@「それでこれだけ大勢の人たちが幸せというときに、」「人を見て幸せといっている」

>「人との関係で幸せということは」

>「これひっくり返すと人との関係で不幸せになるっていうことですよね」

「基本的に人間関係の世界なんですね。人間が集まっている社会」

「それも何らかの理由で機械的に集められた社会なんですよ、人が」

 

「コレはある人が自分が中学生の時に虐められていた経験を本にしたことがある。

「10年たって14歳だったときのことを24歳になって書いた。」

>「いじめらるって経験を今のヒトがどう想っているのかと興味を持って読んだ。」

>「その本を読んだとときの印象と皆さんがここにアンケートで書いた印象が非常によく似ているんです」

@「その本の中に一言も出てこなかったことがある。」

@「それを端的にいうと『花鳥風月』なんです。

花であり鳥であり月なんです。つまり広い意味での自然なんです。

人の世界でない自然というものがほとんどないんだってことに気づいた。

>「そうすっと子供の世界でそういうモノがないと何が起こるっかていうと人間の世界が大きくなる。

そうすると人間の世界の良い点と悪い点が大きくなります。」

「だから皆さんが特別なトラブルがなくて今生きていたら幸せだってのは解るんです。」

@「問題は不幸せの時ですよね。人と人との関係が世界を占めちゃっている。」

「僕らが不幸せっていうときにどこに逃げ場があったていうと、解剖やってりゃ死んだヒトです。死んだヒトに出るとたいていの不幸は飛んじゃいますね。

『さまぁみろ、俺は生きている』って感じですから。

そこまで極端に思わなくったって」

@「要するに亡くなったヒトって自然なんですよね」

「だからそういう自然の世界っていうのは

「人間の世界と別にあるんですよ」

「このデカルト心身二元論じゃないんだけど僕は世界は二つあると想っておりましてえらい苦労して自分が何かあれしたら一番いいのは虫みてるんです。そうすると苦労しているのが何となく馬鹿みたいに見えてくる。

>「俺がいくら苦労したって虫は勝手に生きている。~今は面倒くさいのでネコを見ている。よっぽどうちの家族よりも猫の方が勝手気まましている。あれ見てたら人間関係のごちゃごちゃは馬鹿らしく見えてくる。あいつらはちゃんと平気でそれでも一生生きてるんよ。ちゃんと。虫なんてもっとそうでしょ。

>「ところがこのアンケートを見る限り皆さんに幸せは良いんですけどそれを決めているのは人となんですね。

@「そうすると人だけに幸せを賭けると危ないって本能じゃないんだけどそういうモノを持っている。W戦前と戦後、世界がひっくり返った体験を語る。

「それやっていると人を頼るとあぶねぇ~よ』、というのは

「そうすると生きている患者さんではなく死んでいるヒトです。生きている患者さんはどんなうそをつくかわからない。~~だけど死んだヒトだとそれは一切ありません。

>「一切ないってのは冷たいようだけど気持ちがいい。

それでしかも一切ないから例えば死んだヒトを解剖していってよく問題が起こるじゃないですか。おなかの中からはさみが出てきたとか

>「そうすっと人間関係の社会の中ではそういうことに対してどういう表現をするかというと、『あってはならないこと』っていうんです。~~解剖学の世界ではどういうかというと『出てきたものはしょうがないだろ』っていうんです。

『身も蓋もないけど』

~~それが好きなんですよ私は、

~~

「だから幸せって僕が気になった。

「世のなか全体がやっぱり~~~

「これだけ花もなきゃ、月もなきゃね。

「そういう世界の中で何が書いてあるかというと家族がどういう風に反応したとか、どういったとか、友達が相談にのってくれたとか、くれなかったとか、そういうことだけが永遠と書いてある。

「私なんかそれを読んでいると途中で放り出したくなる。まあ~そういうこともあるけれど、お宅に猫居なかったのか、どこかに鳥が鳴いていなかったのか、その鳥はなんて名の鳥なのか、そういうことを聴きたくなるんですよ。

「そうすると世界がちょと広がります。

「私の育ったころの世界はちょうど人間の世界とそうでない世界が乱暴に言うと半々でした。」

「だから人間の世界の良いこと悪いこと、当然今と同じようにあるんです。

友達がいて楽しかった。いじめにあってたいへんだった。コレマイナスでしょ。マイナスもあればプラスもある。

>「自然もそうなんです。自然のプラスはいろいろありますよ。天気が良くて気持ちがいい。逆に3月11日の震災とか津波が良い例でとんでもないことが起こることもある。

@どっちもプラスマイナスがあるんですけど、人間の世界だけになった時を考えると、そっち側のプラスマイナスが自然のほうがきれいに消えていますから、何と人間の主観的な世界の中では人間世界のマイナスもプラスも倍になっている訳です。そうですね。世界が半分になちゃってそれが広がってんだから

>「本来は皆さんは生き物なんだから、やっぱり半分自然の世界がなければいけないような気がするんで余計なお世話なんですけどいろんな運動している。

「それはどうしてかっていううとさっきのこれは

>「心と身体の問題と絡んでいる」

だから皆さん。

@実はそういう面で云うと皆さんは幸せって書いたということは多分体が丈夫だからです

20代前後二十歳前後で体の具合が悪いはずがない。

だいたいその辺が一番死なないと誌ですし解剖学で云うと、その辺の年代の人が死んでくれたらぜひくれという。ほんとうに無いんですよそういう死体は。死体がないって死なないからないんでしょうがないんですけどそれでそういう風なことがあるからおそら>人間関係の中だけいても十分幸せでいられるんだと私は見ています

 

@実は最近読んだ本の中で一番ショックだったのは渡辺恒雄という読売新聞のえらいさんがいて「反ポピュリズム論」って本を書いている。

@読んだ私はいじめの話と全く同じだった。もうわかったでしょ。花鳥風月無し。

なるほど政治の世界はこうなんだ。だから俺は昔から政治が嫌いなんだと解った。

そうすると僕はなんかバランスが悪いような気がする。でもあれだけ偉いヒトでいるでしょ今でもコレは世の中が変わったんだな、とおもった。半分百姓のような格好でいる人の方が私は信用できるんだけど

そういう人はあの年でも頑張って本を書いているってことは、私より年上ですから世の中変わったなあ~

やっぱりそういう人がえらくなる時代だってのがある。

日本ってのは基本的には花鳥風月を大切に知る文化を持っていましたね。

2021年、入浴後、ホワッーとした気分になって過去回帰状態。12月上旬、入浴後あらぬ動機で外出迷子になり通行人に交番に案内された。12月中旬、登録。

 

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前回の記事で布団を毎朝、押し入れにしまっているので<偉大だ>などというタイトルを付けた。

それでも圧迫骨折の可能性もあるし、当方が毎晩ベット上の掛け布団と毛布を敷きに出向くことが持病悪化の関係でできなくなってきた<病状に合わせた自己完結する生活サイクル>自宅療養生活パターンの確立>することが必要になってきた。

毎朝、毎夕の訪問から、不備を見つけ補助や予防をするコレまでの援助スタイルは前記の生活パターンとは矛盾するようになってきた。

敷きっぱなしにするように繰り返し説得したが逆効果で敷布団だけは上げないが枕諸共ぜんぶ押し入れにしまうようになってしまった。手許現金も上手く管理できるときとできないときが繰り返される。

 細部の生活習慣の改善に深くタッチすると逆効果になり、それを超えて慣れてもらうためには時間と労力がいる。今まで節目節目がそうだった。

 なぜこんなことになってしまうのか?とよくよく考えてみると。

布団の件、手許現金の件は説明と説得を伴う事項。

症状の教科書では進行すると説明説得は受け付けられない、むしろやり方によっては逆効果が発生する、という。

丁寧な説明説得を繰り返し、上手く行かい場合も根気強く丁寧に目的に誘導する。コレは素人には難しい。事務的な説明説得過程になってしまい相手の理解は目的からはみ出したところに及ぶ。

 経験の蓄積や技術のない素人では無理な部分が多くなる。

>それと本人自身がどの程度のレベルのリアルな介護を受けているかという、その時点での総合的な介護環境の中で、あくまでも部分としての説明説得、目的誘導行為が本人取って重要になる。

全体の介護環境を抜きに部分の目的が達成できないといって、本人を責めることはできない。本人は教室の生徒ではない。

>自分の病状悪化の説明はいってもさほど関心を示さないから、十分でなかった。

@相手の立場を思いやれたら、認知症の程度は低い。自己中心が認知症の特性。

@そういう事情で当方の病状悪化による従来支援ができなくなり、本人の介護環境が悪化が、この間の迷子事件を含む本人の混乱の大きな要因になっている。

@記憶障害、見当識障害によって日々の意識の連鎖の寸断度は増しているが、それでも嫌な想いが繰り返されると、脳の奥深くの始原的な部位に沈殿し本人の混乱度は深まる。

*不健康なものが症状の日常的な支援を担うと、本人との関係で最低レベルの事態が繰り返される。

異常事態に割り切ったつもりの対処を心掛けても、リアル現場に遭遇する回数が多くなり、反発が強くなれば、つい我を忘れるという情けない事態になる。今までも繰り返してきたが、ここ最近、その間隔が短くなり、深刻度は増してきた。反省、後悔、呪いが深くなり今までのようにねじを巻きなおして再出発できなくなった。

@そこで介護事業所の方に従来になってきたことの多くをやってもらうことにした。

@ただし、介護保険の点数を目いっぱい使っている。介護の人たちもよくやってくれている。彼ら個々人の頑張りに依存するようなことは避けたい。特に無償労働は絶対にダメ、それ相応の報酬が必要。本人の預金から介護保険外の対応をするというので安心した。

@自分も、実行行為によって訪問介護の人たちの個々人の頑張りを減らしたい。

>結局、今の自分の思惑と見守り介護の人の頭の中にある従来援助スタイルは異次元みたいに違う訳で、相変わらず相談や要望は継続する、と予測する。

@やはりトータルの介護環境は変わっていく訳だから、それが病状悪化に起因するとは繰り返し丁寧に説明しておいく必要がある。全部解ってもらえなくても。

>100点はとても無理。80点70点でも難しい。

@アバウトさと洞察力を両立が目標。

>しかも介護者の意識の絶対的外部で進行するのはこの症状。

ヘルパーさんの中の一人は母親介護に疲弊し家を出て精神不安定状況を克服したという。当方の事情を率直に話と解りますといってくれた。娘さんは看護師。

近所の老女は夫が度々転倒するのをそのたびに起こし、眠れない夜も多く、夫よりも自分が先に行く覚悟をしたという。92歳の夫は2度目の大転倒事故をきっかけに今施設入所。最近長話していたら「年寄っていやねぇ~」といっていた。

人間ってなんなのだ?

自分も先に死ぬ、は度々で口に出すこともあった。

最後の時間が削られて行っている焦燥感が先行する。多彩な趣味の持ち主、関心の向かう方向は多方面。それがある程度可能な健康が維持できていればまだやりたいことが一杯ある。介護がすべてではない!コレが今まで支援を長持ちさせてきた要因と想っている。部屋で時間が作れると頭の中から、興味がわいてきて介護からの転換はできる。

だからやり方を変えたら良い。

@今日は、見守り相談室の立会をした。

@この記事を書き上げた今、見守り介護のヒトは親指の先をケガしているので見てくれと尋ねてきた。キチンと塗りクスリを買い込んでいるよ。毎年水道水が冷たくなると指の先があかぎれする。

>今後介護関係でやることは二つ。

>近所のヘアーサロンに連れていく。

>介護事業所と細かい打ち合わせをする。~引継ぎと自分のやれることをはっきりする~

 葛西 善蔵。浅見ハナ(第二の妻)おせい(1906年生まれ~平成4年(1992年)86歳。89歳の女性が毎朝、ベットの上の毛布と掛け布団を抱えて押し入れに運ぶ。夜は8時に睡眠する。朝もちっきり起きてくる。偉大だ。

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https://www.plib.pref.aomori.lg.jp/top/museum/sakka/sakka13_kanren/kasaKRJ_03.html

 葛西 善蔵 1887年(明治20年)1月16日 - 1928年(昭和3年)7月23日 41歳。

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   浅見ハナ(第二の妻)1906年生まれ~平成4年(1992年)。86歳

大正8年12月下旬、善蔵は鎌倉山ノ内建長寺内の宝珠院の一室に住んだ。建 長寺内半僧権現下の茶屋[招寿軒]の娘、浅見ハナ(当時20歳)が、高い石段 を登り降りして三度の食事を運び、晩酌の相手をし、善蔵の長男(小学生)の 世話をみたりした。「鶩のやうに」他を経て、大正11年作「おせい」の可憐な モデルとして登場するが、善蔵との困窮生活は、「蠢く者」等に凄惨に描かれ た。女児二人を産んだ。「われと遊ぶ子」に、郷里と東京の妻子への思いを、 善蔵は深々と語る。善蔵から「お前のおかげで小説が書けた」と感謝されたこ とを、ハナは長く心の支えにしたと、伊藤ゆう子(善蔵三女、ハナ長女)は語 っている平成4年、東京で死去。」

W。鎌倉は好きな地。奈良京都と鎌倉はまったく様相が違う。周囲の自然など環境を加味して歴史に想いをふけるWにとって、鎌倉は癒される。

周囲を低い山に囲まれ正面が海に開けている。中世武士が京に対抗し軍事政権の都と定めた防戦と撤退ルートの確保の一挙両得の地。周囲の低山の縦走もした(今はほとんど宅地開発されていると思う。)海岸を有名な峠まで歩いた。一番、凄いと感心したのは、有名な寺への階段が長い年月をかけて踏まれてつるつるに角が取れていること。歴史の重みをこういうところに感じる。

城ヶ島で釣りをしたこともある。

京都の寺院は悪いがこういうところはない。応仁の乱で焼失し再建された寺院がほとんどだ。仏像やあの種のものには、ほとんど関心がない。あくまでも歴史的な幻想を掻き立てられる環境が大事だ。

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 89歳の女性が毎朝、ベットの上の毛布と掛け布団を抱えて押し入れに運ぶ習慣になっているので、「圧迫骨折」になるんだよ、と言い聞かせようとしたが、「お客さんが来たら見っとも無い」ときかなかった。仕方がないから、布団を置きやすいように押し入れを整理した。

夜は8時に睡眠する。朝もちっきり起きてくる。入口のドアを開け空気を入れ替えながら朝食の準備をする。今朝は当方がコーンスープを作ったが、寒い朝、身を縮こませた変な姿勢で動いているとしっかりしてよ、と冷やかされた。

 医学的には認知症などと云われているが、89歳で心と身体の両方がなんとのないなんて人は稀だ。

認知症などと云う枠にはめるよりも<ボケてきた>で良いのじゃないかなただし症状進行とともにかかわりは職業的な要素がなければ、本人にも介護者にとっても良くない。

 自分も先だって大金と免許証の入った財布を落として、交番に届け出た。

若い頃なら慌てたりするものだが、日ごろから室内でモノをなくし室内をウロウロしたり(どこに置いたか直近の本能レベルの記憶が飛んでいる~~~海馬<タツノオトシゴ状>のイソギンチャク作用が弱っているのだ~~)、そういう頭の訓練として絶対に覚えておこうとする二つの名詞の一つ(ケーブルカーで山頂まで行く有名な山の地名~山腹には国宝の中世画を所蔵する寺院、松永弾正が信長に攻め込まれて自爆した山城がある。何よりも大発見!は日当たりのよい南側斜面開けたなだらかな山腹に1千基以上の韓国朝鮮の人たちの墓群がある~~多分全国NO1~~。とここまで書いてやっとその地名を思い出した。~~が必ず頭から削除される、現実に直面していることが原因なのか、あっけらかんとしている自分にびっくりした。←また忘れた!脳細胞と連結部の反応を研究しても科学的な実態は解明されなかった、と養老さんが動画でしゃべっていた。無駄な探究はやらないほうが良い、と。

 結局、命と健康にかかわること以外、何が起きようと関心が薄れているのだと想う

>ここまで書いてきて、やっとわかった!

@あのひとが初ちゅう、室内で自分のカネをなくし、自分が今でも時折、解っているつもりなのに大騒ぎして家探しをする理不尽さを!

 

 @交番の若いお巡りさんに事情を聴かれ書類を作成した。

>そして帰宅後、燐家の漏水修理の部品をセットし部屋に帰って突然思い立った。

いつもの引き出しの一つ下を開けると財布がそこにあった。

>買い物帰りにいつもの場所の一つ下に財布を置くなんて今まで一度もなかった。

その日も忙しい一日で漏水修理に手間取った。自分と見守りの用事の同時進行。

 

>しかし、この漏水の件も後から想いうかべると変な具合だった。

>真下の部屋の天井へ漏水を発生させ本人(86歳女性、夫は半年前、2度目の転倒で有名な脳外科病院に搬送され、リハビリ後施設収容)のWへの申告と下の階の女性のいう過去を含めた5,6回の激しい漏水具合があまりにもチグハグ。

 @結論的にいえば、高齢者夫婦が解りきった漏水原因を治さずそのままにしていたことが原因だった本人たちの床を水浸しにしたことが何度もあったはずだ

老夫婦共々しっかりしているようで、高齢から来る設備的な状況判断ができていなかったということ。

>人間関係の機微は長い人生で培った知恵で処理できても、客観的なモノの実在関係への判断能力は疎くなっていた。

@漏水修理後、カネももらった。それはそれとして互酬ということで了解したが、多分、のひとは、真の漏水原因を放置していたことが隣人に知られてプライドを傷つけられたような気になっているのじゃないかと想う。

超高齢になっても世間に見えを張りたい。

死ぬ間際まで一定の人間関係の属性の柵から抜け出せない。

そこに死よりも重いものがあるかのようだ!

>統治するものとされるものの歴史の根深さをここにする想いだ。

 

@そこまでしてもらわなくても業者にたのめるのに、と。

Wはこの辺の人情の機微にまったく疎い。知恵も欠如。

>客観的な物体の実在関係に過去の仕事柄、異常な興味を持ち何とかすることを追求することが本能となっている。どんな大変なことでも最後はやり遂げるという習性が身についている。それによって人間関係を創り出して行こうなんて言う気持ちはさらさらない。もちろんカネなんて一切関心がなくもらわないほうがさばさばする。

@コレは説明する機会があっても解ってもらえないだろう。

@それに無党派で活動した期間が長すぎて、周囲の人に信頼してもらうためには、結果的に自分の利益をそっちのけの奉仕が必要だった。凡人なのでそれしか方法がなかった。一つの確固たる団体のヒエラルキーを登っていく活動とはかなり違った環境だった。

>ありがとうの一言だけの近所の今はなくなった高齢女性を高く評価した。

>そうすれば、そのご、距離を置きつつ親しくできる

@共同体の形成ってそんななものだ

@互酬関係はある意味、共同体~~**Ship~~への発展の拒絶だ。