反俗日記

多方面のジャンルについて探求する。

詐欺商法に騙される人は何回でも騙される、と詐欺師(マスコミ)はよく知っている

 詐欺商法の典型がマルチ商法だが、本質は古来から民間にあったねずみ講の原理だ。
ところが頼母子講などと称されるものは原理的にはねずみ講なんだけど発起者=資金管理者が講の拡張を抑制している、資金を勝手に流用しない、参加者の窮迫時に講の資金を用立てる、といった理にかなった側面がある。
 民間のシロウト資金拡張員の子が講の拡大において多少の利益を得るこのシステムは考えてみると、キチンと運営されると実に合理的な側面がある。
 こんなものが巷で蔓延ってしまうと街の信金は打撃を受けることは間違いない。

 おそらく金融制度が整っていく過程で金融資本の利害を妨げるのでキツイ取り締まりの対象となったのであろう。

 一部の庶民はこうした慎ましいねずみ講の有効性を何となく知っていて潜在的願望さえあるのではないか。

 これとむき出しのねずみ講とは違うし、いくら単純な欲ボケの方でも情報の発達した現代では簡単には騙されない。

 マルチ商法は今まで説明した各段階のねずみ講を現代的に様々な手練手管を駆使し巧妙にアレンジしたものである。
 とにかくその手口たるや実に巧妙である。民間に古くあったねずみ講願望、単なる欲ボケ、カネは持っていても状況判断能力が希薄になっている方などいろんな事情を抱えた方が簡単に吸い寄せられ餌食となってしまう。
 
 ところがここが重要なポイント。この手口に引っかかる方の中には何度でも騙されてしまう方が多数おられるらしい。信じられないが本当のことで警察の警告にキチンと載っている。

 騙す方も常習塁犯性があるならなら騙される方にも常習性がある。大袈裟にいえば覚醒剤の販売と常習者のような関係なんだろう。
やっぱり、こうなると被害者の側のそれなりの受け入れ態勢の様なものも考慮しなければ全体像は見えてこないとなろう。

 さて今度は騙す側に注目してみる。
もう繰り返し指摘されているのは一流の詐欺師は自分の練り上げた得手勝手な虚構を本気で真実と思い込める、という。この「才能」がなければ一流の詐欺師ではないらしい。
  
 当然である。得手勝手な虚構でも騙す本人に確信がなければ「被害者」から大きなカネを巻き上げられない。

 以上長々と書いてきた。
 
 昨年の大久保秘書逮捕、起訴、小沢氏幹事長辞任、にも関わらずの衆院選における民主党319議席獲得。 
 
 新年の形式犯にすぎない石川議員や小沢事務所の秘書逮捕、これ見よがしの強制捜査、逮捕者への特捜シナリオの強制、そして大がかりな捜査体制にもかかわらず石川議員の形式犯だけの起訴に終わっている事実。

 この過程、その後においてマスコミや自民党などの輩の果たした役割と特捜捜査とマスコミ、自民などの輩の言説に魅入られ拍手する一部の国民の実態は私が長々と回りくどく説明した詐欺商法の加害者と被害者の関係に共通しないだろうか。

 うがった見方かもしれないが、そういうパロディも成立する、と思う。

だってそうだろう。
 
 たった4、5年前。小泉郵政選挙で自公衆院3分の2の与党絶対多数を与えたのはマスコミが
刺客がどうのこうのと大騒ぎを演出し多くの国民がその扇動に載ってしまったからだろう。
 
 そしてその結果何が起こったか「騙された」と国民多数が気付いたから昨年の大久保秘書逮捕、小沢報道にもかかわらず、民主党に多くは投票した。

 ところが、もともとこの結果に反発している騙す側の確信犯どもが新年早々、また大がかりな騙しのテクニックを発揮して、またしても騙され易い人が騙されている。
双方とも懲りない人たちではあるが、これが日本の現実そのものである。
 
 こう考えた方が事態の推移を丸裸にできるというものだ。
ねずみ講の犯罪性は大抵の人は理解できる。ところが頼母子講の実利性への納得が庶民感覚にあるり、その歴史は古くまでさかのぼれる。

 マルチ詐欺商法は頼母子講的庶民感覚さえ取り込んだ巧妙で大掛かりな詐欺行為である。
 
マスコミや自民党がやっているのはこれである。庶民感覚の小さな正義感にとりいって、利用し、自分たちの政治的意図を貫徹し、旧来の利権癒着構造が民主党新政権によって侵されないようにする、この国の御主人さまは自分たちだと納得させようとしている。
 
 この結論に行きつかずどこに行きつくのか。もちろんアメリカの利害も絡んでいる。

 多くの人について必要なのは自分がこの社会でどの位置にいるのかという曇りのない冷厳な認識である。こんな表現は憚られるが年収300万の方が3000万人の世界観を持って世の中を見ているところに根本的な誤りがある。
 当然、そんな不合理な世界観だから常に苛立っている。
 そして苛立ちの持って行き場所がこの世で弱い方たちに向けられる。
 
 また自分の若さの可能性がやがて消滅し、老いて行くという想像力が欠けている面もある。
昔を例に出すのは気が引けるが、当時も利己主義者はいたが、それを理屈として公言するのは憚られた。それを拒む社会の空気はあったが、いまは何か悪い意味でのユダヤ人の強欲さが日本でも若者の間で正当性を持っているようだ。
 
 宗教的絆、自省が彼らにはあるが、それを欠いた強欲は醜悪をさらすだ出なく世界からも相手にされない。宗教性を抜きにしたアメリカの合理主義の日本での跋扈は日本の精神風土を破壊し、日本を混乱に陥れる。