反俗日記

多方面のジャンルについて探求する。

1920年~30年代重大事態の年譜と注釈。

1919年 
 ムッソリーニ、自らの政治理論を実行に移すべく、退役兵からなる政治団体『戦闘者ファッショ』を結成。反政府集会の妨害などを行う。
 
1921年
 ファシスト党議会選挙に出馬、35議席を獲得して政界入りを果たす。『戦闘者ファッショ』を正式に政党として再編して『ファシスト党』を結成
 
1922年 
ファシスト党によるクーデターを決行(ローマ進軍)。国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世の支持を得て自由党政権を転覆させ、臨時政権を樹立する。
 
1923年 
 イタリア。選挙法改正案が可決、得票率25%以下の小規模政党を強制的に解散させる。改正後の選挙では解散政党の支持票を吸い上げ、議席過半数を確保
 
1923年 
 
1925年 
 治安維持法実施
 
1927年 
 イタリア。国家保護特別裁判所を設置。政府に治安権限を集中させる。
 
1927年 
 昭和金融恐慌鈴木商店台湾銀行倒産=200円券大量増刷で沈静化。普通選挙実施
 
1928年 
 イタリア。国議会を解散させ、ファシスト党の諮問機関「ファシズム大評議会」に立法権限を移動、独裁体制を確立する
 
1929年 
 
1930年 
 ロンドン<海軍軍縮>会議(1月~4月)日米工業力の格段の差異にもかかわらず、破格の条件の獲得にも海軍に不満潜在。
 
1930年 
 為替相場安定、国際経済強調のために日本金解禁=金本本位制復帰。1ドル=2、005円の旧平価
米恐慌でも世界経済の中心ロンドン、シティー安定ならば恐慌収束との判断。ドル金兌換停止。
W。工業生産値米44%英9%独11%
 
1931年 
 ヨーロッパ金融市場大混乱=為替相場の政府の財政金融政策によって維持してきた円高から一気の円安傾向予測=大手銀行、投機筋の為替差益を狙ったドル買い投機画策。
 
1931年 
 関東軍中国東北地域に軍事侵略=満州事変イギリス金本位制離脱=従来の緊縮財政、金本位制維持の根拠崩壊を見た一斉ドル買い=金正貨流出=デフレ深刻化。
      ドル買い最大手米シティーバンク36%。住友銀行8,6%。<三井>銀行7,8%。三菱銀行7,2%。<三井>物産5、5%。三井系合計13、3%。日本金融資本合計29、1%
      政府公定歩合引き上げの資金ルート圧迫で金融界に対抗。
 
1931年 
 陸軍青年将校と右翼による10月事件。11月社会民衆党、青年同盟赤松克磨ら30名による三井銀行乱入。
 
1931年12月11日 
 政府ドル為替停止。
 
1931年12月13日 
 犬養内閣発足、高橋是清大蔵大臣兌換紙幣発行停止。
>>為替相場大暴落=金本位制の固定相場、1ドル=2,025円~金本位制離脱相場、半年後1ドル=3、333円 1年後1ドル=5、000円  1934年円安阻止のための政府介入と恐慌小康状態のため=1ドル3、450円で安定。
>>>「この間にドルを買い占めた大銀行が莫大な利益を上げたことは明らかでありこれが国民世論における大手銀行を抱えた財閥への非難と軍部の対外進出路線への支持に転化する一因となった」
 
1931年~35年 
 イギリス。ラムゼイ、マクドナルド労働党党首、労働党を除く挙国一致内閣首相。 
 
1932年 
 満州国樹立。
 
1932年 
 5、15事件 ロンドン軍縮会議の結果を根に持つ海軍青年将校首相官邸乱入犬養首相暗殺。
>>五・一五事件後の斎藤実内閣成立による「政党政治の終焉」=<憲政の常道>に基づく立憲政治の終焉。後継内閣として成立した斉藤内閣は政党(政友会、民政党)軍部、官僚の勢力からなる挙国一致内閣。
上智大学国際学論集抜粋引用。
「解決を迫られた政策課題は内政面では数年来困窮化した農村の救済問題であり、対外的には関東軍によって着々と進められていた満蒙問題の解決、32年3月成立した満州国の承認問題だった。
前首相の犬養は内外情勢の見通しと、中国問題への自負心から独自の満蒙問題解決策を有し、容易には満州国を承認しようとしなかった。
>>また軍部を統制化におくことで満蒙問題を解決しようとしたため、軍部の憤激を誘発することになった。犬養のこうした意図が実は5、15事件の遠因になったのである。
>>軍部ことに陸軍は満蒙問題を自らの聖域とし、他のいかなる勢力の介入も許そうとはしなかった。
>>しかもこのような軍部の強硬方針は<<満州国即時建国を煽る世論>>とあいまって、新内閣が満蒙問題で後退ないしは逡巡することを極めて困難にした。
政権を担当した斉藤及び閣僚たちも独自の解決案を有しているわけでなく、内外情勢によって逡巡の状を呈していた。
>>そのため即時承認を即す世論を刺激し、こうした内閣の姿勢は「云うべからざる失望」と「予期することのできない禍根を残すであろう」と雑誌改造(社会主義的<労農派>な評論を多く載せた)の社説は指摘するほどだった。
また多くの民間団体も政府に即時承認を求めたが、政府は慎重だった。政府が承認に始動したのは、満鉄総裁の内田が外相に就任して以降であった。
 
>>逡巡の原因
1)国際関係の動向見極め。満州事変勃発後、列強の対日姿勢に微妙な変化。
 A、米国の変化は際立っていた。犬養、斉藤内閣ではこの点を一致して憂慮し、ことに外務省内で深刻な問題になっていた。
 B、また外務省の慎重な姿勢の主因はAとあいまって(W。米国は連盟未加盟)連盟の対日態度の評価を推し量りかねることであった。
 C,ソ連は独自に日ソ不可侵条約締結に動いていたので、斉藤内閣は余り積極的な配慮を示さなかった。
 
2)日本の国内政治情勢。特に西園寺公望に動向 。
【書評】『憲政常道と政党政治 ― 近代日本二大政党制の構想と挫折』 小山俊樹著(思文閣出版、2012年)抜粋引用
憲政の常道(両党迭立)」論に修正を迫るのが協力内閣論であり、単純な政権交代固執する元老西園寺と協力内閣を支持する牧野内大臣という通説に対して、両者の相違を宮中の政治介入の是非に求め、宮中官僚が政党内閣を放棄していなかったこと、さらに西園寺については「必ずしも『憲政常道』方式に固執していたわけではなく、政党両首脳が自発的に連立するのであれば、『協力内閣』に異論はなかった、と述べる。
 
>>その上で「自らの意思で『憲政の常道』を中断するに至った」西園寺の判断基準に迫る。
>>政党政治への支持を基本姿勢としながらも「指導者層全体の『輿論』を重んじる」西園寺の判断に決定的であったのは、「右翼」的と見られた平沼騏一郎枢密院副議長のみならず、党派的人事を問題視された鈴木喜三郎政友会総裁の首相就任も拒否する<<昭和天皇の希望>>であったと結論づける。」
 
>>昭和天皇の希望=鈴木喜三郎政友会総裁の首相就任拒否について。抜粋国際学論集より。
民政党は斉藤実挙国一致内閣支持で一致していたが、鈴木喜三郎政友会総裁は政権授受に野心を持っていたため予断を許さぬ状態だった。しかし政友会も満州国早期承認の方針だった。」
 
3)結論的政治判断。
満州事変後、変化しつつあった国際情勢に対しては容易に特定しがたかったが、列強の態度にほとんど変化が見られず??国内政治上、これ以上引き伸ばしえず、という情勢判断があいまって
かかる時期が決定されたのである。」
W。軍部暴走、世論熱狂、政治は世界状況への政治判断なき、小状況の追認。結果、満州国承認、連盟不承認ー連盟脱退。
 その後、1936年の2、26事件を鋏んで、の1937年の日中戦争に至る事態まで、この政治軍事過程の暴走は修正できるはずも無かった。
 
 >>日本にとって日中戦争とはどういう意味を持っていたのか?
1935年の日本。日米戦争は論外だった。ー数字から見る日本の石油需給構造ー」引用。
 
「日本が中国大陸への進出を深めれば深める程、軍備拡張すなわち生産力拡充のための重工業が必要とする原材料を英国のアジア植民地の経済圏に依存し、
また、交換性のある外貨獲得するために米国との貿易がますます重要となる。
しかしますますそのパイプは絞られていく。」
 
<日本の石油需給>
「日本の石油需給は貿易構造と同じく、米国オランダに依存。
日本が中国大陸への進出を深めれば深める程、軍拡に必要な原材料と石油が必要であり、英米への依存度は高まる。
従って、米国の許容範囲でしか行動できないことはおよそ陸海軍を含めて誰もが認める?ところであった。
米国が禁輸したら戦争は直ぐストップだから、日中戦争の初期、陸軍の米へ気の使いようは半端ではなかった 
 日本と中国蒋介石も互いに宣戦布告しなかったのは米国の中立法の発動により、日中は米国から輸入できなくなるからであった。」   
1932年 
 ナチス党230議席獲得第一党。
 
1933年 
 フランクリン、ルーズベルト大統領就任。50歳。
 
1933年 
 ヒンデンブルク大統領、ヒットラーを首相に任命。3月5日 国会議員選挙結果発表。ナチスは43.9%の票を獲得、288議席を得た。
3月23日 議会において授権法(全権委任法)が成立。立法権を政府が掌握し、独裁体制が確立された。
 
1933年 
 満州国樹立承認を国際連盟に迫るも賛成日本だけで否決。連盟脱退=事実上の追放措置。なお米国は連盟に加盟せず。ドイツも脱退。
 
1934年 
 日本、ワシントン軍縮条約破棄
 
1934年 
 ヒットラーに首相職と大統領職統合。8月19日国家元首に関する法律の措置に対する国民投票投票率95.7%、うち89.9%が賛成票を投じる。
 
1935年 
 ドイツ再軍備宣言。
 
1936年 
 2、26事件。陸軍青年将校らが1483名の兵士を率いて首都武装蜂起。高橋是清。当時、リフレーション政策はほぼ所期の目的を達していたが、これに伴い高率のインフレーションの発生が予見されたため、
これを抑えるべく軍事予算の縮小を図ったところ軍部の恨みを買い、二・二六事件において、赤坂の自宅二階で反乱軍の青年将校らに胸を6発撃たれ、暗殺された。
 
1936年~1939年
 スペイン、共和国派とフランコ派の間で内戦。
 
1936年 
  ラインラント進駐。8月ベルリンオリンピック開催。
 
1937年 
 日独伊防共協定。、「反ソ」、「反共」を強く訴えることで、イギリス、フランス、アメリカ合衆国など先進資本主義諸国内の保守派や資本家の歓心を得ようという目的も有しており、
スペイン内戦へのドイツとイタリアの干渉、および日中戦争支那事変)により、これら列強との関係が悪化したことから三国の結束を深める意味もあった。
 
1937年 
 7月7日盧溝橋事件勃発。8月の第二次上海事変。この事件以後華中(中支)において交戦が拡大することになった
泥沼の日中戦争に引きずり込まれていく。12月、日本軍は国民政府の首都南京を落としたが、国民政府は、最初漢口に、漢口陥落後は重慶に遷都し交戦を継続した。
 
1938年 
 近衛文麿首相は「国民政府を対手とせず」の声明を発表。日本は蒋介石重慶政権を否定した。
同年、国家総動員法が成立し、日本は日中戦争に全力を投入、国力をすり減らして行く。
 
1939年 
 ノモンハン事件勃発、日本はソ連の脅威と陸軍装備の劣勢を認識するも、事実を隠匿したために、結局日本軍の得た教訓は、「対戦車攻撃には火炎瓶が有効」といった程度だった。