もう小説の時代は終わっている想う。
ヘミングウェイの有名な短編小説「殺人者」をこの前読み返してみたが、ちっともリアル感がなかった。うらぶれた中西部の田舎町のレストランに殺しターゲットを求めて訪れた二人のプロの殺し屋と偶々そこにいたニックアダムス、マスター、黒人のコック、簡易ホテルで殺し屋から逃げ回ることに疲れ果てたスウェーデン人の元ヘビィー級ボクサーの描写は無駄を削りに削って、簡潔かつ文学的に精緻なヘミングウェイ調の典型。
だが、その時代の空気感がなければ、まったく臨場感がない、絵空事になってしまう。
昔読んだときは、まだ、「殺人者」が書かれた時代の空気が理解できた頃だった、様に思う。
PCはあったけど、インターネットはなかった。
読み手の自分の感性が鈍ったしまったのではないと想う。
ヘミングウェイのもう一つの中編小説はアフリカにサファリに出かけた金持ち夫婦と案内ガイドとの金持ちの妻を巡る三角関係の話だったが、吐き気を催す様な腐りきった話にしか思えなかった。
ただ、ヘミングウェイ自身の心の闇がこの小説世界の救いようのなさに投影されている。
乾ききった心は肉体が良く動いている間は平衡感覚を保てる。
が、身体が想うように動かなくなれば、乾ききった心の闇が世界を覆っていくしかない。
身体に傷を負ったヘミングウェイを乾ききった心の闇の世界が覆い尽くし、自分で死を選ぶしかなかった。
円熟した老いたヘミングウェイは元々なかった。肉体の老いは精神の死とイコールだった。
実行する勇気はズットと彼のテーマだった。
しかし、サファリという舞台設定を含めて、やっぱり、この小説も捨て去られるものである。
現代の小説の衰退について、良く云われrているのは、現実の方が小説の創りだす世界を乗り越えてしまっていると。
実際にそういうことだと想う。
立松和平さんの小説なるものを今までまともに最後まで読んだ記憶がない。
それでも小説家の中では一番気になる存在だった。
立松より二歳年下の村上春樹の文章には二回しかお目にかかっていない。
あんな時代の表面をなでただけの言葉がもてはやされる時代なのか?
読んだ短編小説はアメリカに良くある手法を使っていた。
私と村上春樹の年齢は近いけど、彼は遥か遠い存在で、まるで関心がない。と云うより、敵意さえ感じる。
何をやっているのか!もっと、シャッキとしろよ、と云いたくなる。
その点、立松さんのエッセイ、ノンフィクションはその時代をくぐりぬけてきた、痕性を何時までもとどめており、
良く分り、親しみがある。
彼の行動もその世代のモノの一つの典型の様な気がする。
自然環境保護から、仏教の世界に足を踏み入れていく気持ちも理解の範囲だ。
やっぱり今の時代の風潮に、そういう方向で抵抗し、自分の立ち位置を確認しているのだと理解する。
彼にはそういう、私の様なありきたりの人間が漠として時代風潮に感じている気持ち、不安、不満感に文学的道筋をきちんとつける特殊才能があるようだ。
でもやっぱり、村上春樹の世界は遠い世界でしかない。
立松和平に納得する。
自分の体験、遭遇した世界からは村上春樹の世界はほど遠い。何かそれらを水で薄めて、それでよし、とすることの様な気がする。
私にはもっと、別の考えが確かにある。
でも、熟成させるだけのものが自分の中にない。
あの講演のまだその先の世界も含めるとトータルな世界となる、と確信しているのだが。
あれで済ませたらダメだと想っている。あの世界に生きた政治経済軍事はない。単なる認識論の倫理上の世界だ。
人の認識や倫理で、トータルな世界は動いていない現実がある。