反俗日記

多方面のジャンルについて探求する。

「隠者の文学」石田吉貞は革命的名著。虚しくなって(無常)出家し絶対的孤独(サビしい)を選択するも、物的貧困(ワビしい)になる。西行、長明、兼好等はその苦悶の世界に、「ワビサビ」の原点を見出す。

 大学で国文学とかその関係方面の学問を学んだ方はタイトルの様な観点を多少知っているかもしれないが、私が習った高校の古文の教科書では、タイトルの様な観点からの説明は一切なかったように想う。
 グーグルで「ワビ、サビ」を検索してみるとさすが、「ワビ」の説明の導入部分から「粗末な様子」「簡素な様子」とあり、端的と云って「貧しい様子」「貧乏」と言葉発生の原点をシッカリと説明している。
 
 高度成長が一段落したあたりから、戦後日本史における中世論の世界を中心に、実証主義的研究成果から、戦前の皇国史観の裏返しとしての、単純、進歩史観が見直されてきた事と同じことが「ワビ、サビ」方面の研究にも表れてきたのではないか、と想う。
 
 私が学んだ高校時代に「ワビサビ」の説明を中世の隠遁者の物的貧困による「わびしさ」、絶対孤独から来る「寂しさ」から説明してくれていたら、身近リアルに感じられただろう。
 
 ところが、
 
グーグルのとる最新の解説はここまでは正しかった。
が、そこから後は「ワビ」は千利休によって切り開かれた茶の湯の歴史の説明に突如として置き換えられている。
 
 「サビ」は「寂しい」という気持ちから説明しないで「経年劣化」の様な観点から説明し、吉田兼好徒然草」を抑えているが、「古びた様子に美を見出す意識」と解釈し、後は俳諧能楽松尾芭蕉の世界に関連付け、終いには骨董趣味となっている有り様だ。
 
 グーグルの「ワビサビ」説明は現時点の常識論だろう。
が、その説明でも、解った様で実は不明点が多すぎる。「ワビしい、サビしい」という隠者の生活の心境が茶の湯俳諧能楽、骨董趣味などの具体的な文化芸術の説明に横滑りしている。
 
 どうして、解った様でわからない、説明に陥っているか?を解き明かしてくれているのが、
田吉貞さんの「隠者の文学」ー苦悶する美ーである。
 
 平安末期から中世にかけて無常感から信仰を求めて、出家遁世した西行鴨長明吉田兼好は寺院に頼らず、個人として絶対孤独を選択し、物的貧困に陥った日常生活の「わびしさ、さびしさ」の向こう側、底にあるモノを和歌、随筆によって追及、表現しようとした。
 
吉田さんは「ワビサビ」の原点をここに置く。
 
 各地を旅する出家遁世者として西行は自然の中にわびしさ、さびしさを見出し、和歌に表現した。
西行の和歌には「さびしい」という言葉は頻繁に使用されている。
 
 さびしさにたへたる人のまたもあれな庵ならむ冬の山里。
 
「寂しさに耐えている人の庵並ぶ冬の山里」の「さびしさ」は「サビ」の原点ではないだろうか?
 
 モノには出発点があり、それを説明しなければ、説明は不十分になる。
吉田さんの「隠者の文学」はそれを懇切丁寧にやってくれている。
 
 その点はわかりやすいのだが、非常に哲学的観点満載で厄介。
1890年生まれ、この作品を書いたのが81歳と云うが、物凄く気力充実し、哲学的文体に迫力がある。
といって、大学などで教えていたから、ざっくばらんな表現もある。これがなければ、もっと解り辛い。
 
 「隠遁者の文学」の論評の特徴は西行鴨長明吉田兼好の古典に哲学的観点から解釈しているところである。その哲学は多分、西田幾太郎系の哲学なんだろうけど、私には難しすぎる。でもそこが面白い。
 
例えば、こういう処。
 ロシアのチェーホフの作品にみる静かさ、アイヌ青年の目に見る静かさ、と中世隠遁者にどこか通ずるところがあるがただ一つ違うのは「日本の隠遁者の心には、底にかすかなる、かすかなるが故に最も大きな、生への望みがある。
そこに民族の違いがあると想う。性急なのだ。百億年でも耐えているという、果てしれない静かさがないのだ。
このような民族は滅ぶにも会わない代わりに、途方もない偉大性はないかも知れないのだ。」
 
 石田吉貞さんは解っている人なのである。
 
 
 西行の和歌の作品鑑賞の部分はハッキリ言って、在り来たりでツマラン。
 
>心なき身にもあわれはしられけり鴫立つ沢の秋の夕暮れ。
 
石田さんは、これを最大級に褒めてたたえる。周辺の自然が限りない寂しき美としてとらえられている、と云う解説までは理解できるが、目に触れる自然が限りない無常の美としてとらえられ、とまでは少し大げさすぎないか?
 この程度で無常ならば、日本人の虚無感は万有、で宇宙的広がりを持たない。心も時空も狭苦しい。
 
 >時間不足で侘しさについて書けない。
次回にしたいが。
 
個人的には三人のうち、鴨長明が最も身近に感じられる。
石田さんの云っている様に長明の生活者としての楽しみを残した生活重視の隠遁が最も現代人の云意味でも悪い意味でも個人重視の生活感覚に近い、と想う。
 
 世の中に無常を感じて隠遁生活してみても、生活や趣味の楽しみは信仰のためになかなか断ち切れない
また、長明の「発心集」などを見ても、個人的に発心した出家者は熱烈な信仰故、事実上自殺行為に至っている
 有名な「一編上人絵伝」には浄土信仰から、西に向かって入水自殺する信仰者の絵が何枚も描かれている。
中世に突然、発心した信仰者の信仰生活は寺院に頼らなければ、事実上、生命を賭すものだった。
 
 西行たちも、文芸=美を信仰生活の車の両輪とすることで生き延びられて、後世に成果を残しえた。
庶民にとって、個人出家は死を意味していただろう。
ただ、それはそれでよかったのである。浄土にたどり着けただろうから。
 
>中世後期の無常感は「一変して、死や滅びの戦慄的なモノから、一切を無限泡影」とみる観点に代わって行った。「無常感の担い手は平安貴族の遺民たちだけでなく、むしろ武士や庶民になって行った。」
 
人間五十年、下天のうちにくらぶれば、夢幻のごとくなり、ひとたび生を得て滅せぬもののあるべきか!
                                              敦盛より織田信長
 
なにせうぞ くすんで 一期は夢よ  ただ狂へ
                                 庶民の小唄を集めた「閑吟集」より
 
 昔、興味あって、戦国大名の戦乱に臨むの実際の世界観を調べたことがあった。
学者先生の学術論文には戦闘的な輪廻転生感、この世、夢幻感を持っていて運を天にまかすような身を捨てた徹底した行動主義が綴られていた。
信長の有名な桶狭間出陣前の舞歌はその典型だった。
やるかやられるかの日常の支配する戦乱の世に現代の様な軍事的プレゼンスだけでは通用しなかったのである。事実、信長が勝って、今川義元の首は切り裂かれた。
 
 >小沢一郎はお天道様が見ているといった。
どこか戦乱の武将の世界観と相通じるものがある。
厳しい新帝国主義時代の政治家の世界観であると想う。