反俗日記

多方面のジャンルについて探求する。

大山眞一。中世武士の出家と隠遁。1) 隠遁願望型出家―西行 2) 自己救済型出家―熊谷次郎直実3)陰謀回避型出家―宇都宮頼綱

                      2.中世武士の出家と隠遁(西行

武士の出家隠遁の原因を以下の三ーンに便宜上カテゴライズしておきたい
1) 隠遁願望型出家―佐藤義清→西行
2) 自己救済型出家―熊谷次郎直実→蓮生
3)陰謀回避型出家―宇都宮頼綱→蓮生

 

   1) 隠遁願望型出家とは、

ディレッタンティズム(数寄)と仏道修行を融合させた隠遁願望の出家を意味するが、中世隠遁者のシンボリックな存在でもある西行を再び取り上げ、隠遁者以前の下北面の武士であった彼の生死観を考察してみたい。

史実には概ね忠実であると思われる西行物』の一節から、彼の出自を辿ってみよう。

藤原秀郷については承平・天慶の乱平将門を平らげたことであまりにも人口に膾炙している。この秀郷の嫡男千晴の系統が奥州藤原氏へと繋がり、また末子、千行へと繋がっていくのである。

  西行(佐藤義清)の出家原因

1) 隠遁願望型出家の可能性を窺うことができる。

西行の出家の原因を、徒にある個人的な事象に特定化するのではなく、本来的には精神の安寧を仏道に求める西行潜在的な願望が1~3の諸説に誘発され最終的に無常観を催し出家に至ったと考えるほうがむしろ説得力があるのではないだろうか。人間関係に惹起される厭世観は単なるトリガー的な誘因~。

したがって、西行が単純に1~3説で出家したとするならば、七十三年の生涯のうち五十年もの隠遁生活(仏道修行)を全うして

建久元年(1190)旧暦の二月十六日
にあの人口に膾炙した歌願はくは花の下にて春死なんその二月の望月のころ」の辞世を遺して河内の弘川寺弘川寺 - Wikipedia

の草庵で入滅することはできなかったのではないかと考える単な単なる厭世観による隠遁生活では、とどのつまり西行はこの世を儚で自死行為に及んでいたのではないだろうか。

 

【アクセス】近鉄長野線富田林駅より金剛バス「河内」又は「河内小学校前」下車

~1本/h~

【開館時間】本坊庭園は10:00〜17:00
 西行記念館は、春季:4月1日〜5月10日、秋季:10月10日〜11月20日
【入 館 料】本庭園拝観と西行記念館見学 大人500円/小人200円

>W。この寺は西行時代にこの場所にあったのかな?それほど何の面影もないのはどうした事だろうか?

**

 西行の隠遁の場合には、その他に忘れてはいけない要素がある。

ディレッタンティズム(数寄)としての和歌の存在である。雪舟の絵画における仏道修行の如きものと言い換えても差し支えないと思う。
彼の隠遁を厳密に分析するならば、

ディレッタンティズム(数寄)→厭世観→隠遁(仏道修行)願望→出家という過程を経たといったほうが的を射ているかもしれない。⇒W。鴨長明にもこのコースは適応できる!河合社神職就任が拒まれて、後鳥羽院から、同格の神職をあてがわれても拒否して隠遁したのは、元々長明にはディレッタンティズム(数寄)の耽溺と体質的な厭世観があって、出家した、とも想像できる。もちろん長明は先達、西行の生き様、文芸は知悉していた。

西行1118年〉 - 1190年

長明 1155年~ 1216年

寺社勢力強固な当時、出家へのハードルは低かった官職捨てても寄る辺は何とかなった。芸があれば貴族層から完全脱落する訳でもない。例、発心集第六、7説話。

卜部兼好の出家=一種の世渡りの擬態のケースは明らかに違う。

 

  3,中世武士の出家と隠遁(熊谷直実) 

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W。昔、熊谷駅に降り立った時、この像には目もくれなかった。

自己救済型とは厭世観に基づき、宗教に自己救済を求める出家を意味するが、その代表である熊谷直実(1141?-1207)年六十八歳

直実は桓武天皇を始祖と仰ぐれっきとした平家一門の血を受け継ぐ武士である。

保元の乱(1156)のとき、源義朝方についていた

平治の乱(1159)では、直実は源義朝方につくが、乱のあと京都大番役中に平知盛に仕える。石橋山の戦(1180)では大庭景親の軍とともに頼朝を攻めた。

富士川の戦い(1180)以後、直実は常陸の佐竹秀義を攻め、抜群の武功を立てた。

このようにして、直実は数々の武勲をあげ、鎌倉幕府でも地頭職を得て熊谷の本領を安堵された。まさに順風満帆たる武士人生を送るかにみえたが、後にその本領について久下直光との一大事件が出来する。

吾妻鏡』は鎌倉幕府の正史によれば

彼の伯母の夫である久下直光と熊谷郷の境界争いで嫌気がさして逐電したことになっている。

 直実の直情径行型の行動は同じく『吾妻鏡』にみられる。

鶴岡八幡宮の方丈会に於いて流鏑馬が挙行された際、「的立の役」を仰せつかると、直実は憤慨してこう答えた。「御家人は皆傍輩なり。しかるに射手は皆騎馬なり。的立の役人は歩行なり。すでに勝劣を分かつに似たり。かくのごときの事においては、直實厳命に従へがたしてへれば、重ねて仰せて云はく、かくのごときの所役は、その身の器を守り仰せ付けらるる事なり」頼朝が射手と的立に優劣はないと諭しても直実はこれを拒否した。

よって所領の一部を没収されてしまうのである。

このような人間関係のもつれが逐電(隠遁)の直接的な原因と捉えられがちであるが、

 果たしてそうだろうか。

この件は誘因であって、直接的ではないだろうか

それでは、次に、直実の生死観が 2) 自己救済型隠遁であるという根拠を、以下に記す平家物語』「敦盛最後」のストーリーから明らかにしてみたい。

W。この神戸の地における大会戦は今回の源氏VS平家より後代の足利尊氏軍VS後醍醐天皇新田義貞軍で2回、計3回とも行軍し攻めに回ったほうが防衛線を築いて戦った方を決定的に打ち負かしている。

 防衛戦線を張った側は、六甲山系に海岸に沿った緩やかな細長い傾斜地に陣を張り海側は背水の陣になる。

平氏側は海に兵站補給路と撤退路確保のために海上と岸に船を集結させていただろう。平氏の軍勢は細長い山と海に囲まれた傾斜地10Kmに展開していた桶狭間の戦いに敗れた今川の縦列行軍と同じ陣形で先端の軍勢だけが敵と戦い、後方が入れ替わって先陣になるという戦い方しかできず、縦長陣形の腹をつかれる弱点が生れる。

山側から突撃した義経の作戦行動が決まったのは定石通りで独創的な作戦ではない。

>陸上の騎馬武者が一挙に敗走し海路撤退するため馬をスムーズに乗り込ませる際にも大混乱が発生する。

>攻めてくる敵に背を見せて馬を入水させ海上に浮かぶ船に乗せる間に矢を受けるものが続出する。

>騎馬武者は狙いを定めて弓を引く際、下馬して安定した態勢で射る。コレが通常の武術。戦場は流鏑馬の場ではない。確実に殺すことが目的だったら、下馬して弓を射って、敵に致命傷を与える。

@後の戦闘形態が騎馬武者同士の闘いから歩兵主体(足軽)のモノに変わっていったことからもそれは証明されている。

熊谷直美と平敦盛が弓を引かず馬上同士の戦いになったのも馬に乗って追いかけてきた直美が敦盛を船上に逃げるまでの短い時間内の近距離で確実に殺傷できる手段は槍刀で馬上から転倒させる手段しかなかったからだ。留めは武勲の証として引き倒して首を切る。下馬して弓を引いている時間はなかった。実際には、馬上から落ちた敦盛は瀕死の状態で、直美と会話を交わすことはできなかったと想う。

 

馬と共に船に乗っても身動きの取れる余裕がないから危ない。

熊谷直美VS平敦盛の馬上同士の決闘の場面は結局、防衛しながらの撤退ではなく(突撃よりも全軍撤退の方が作戦として難しいのではないか)、一気に陣形が崩壊し全軍敗走の形で馬の乗船に手間取っている間に一気に敵が攻めてきて騎馬武者の有力武将が続々と戦死した一コマであった。山と海に囲まれた傾斜地神戸で防衛線を張ったほうは常に負けた。

荘園公領制下の軍事貴族として平氏は源氏よりも新興勢力であり開発地の東国を押さえるほどの全国的な基盤がなかった、ということが平氏滅亡の底流であった。

*******

  引用開始

 「源義経らの鵯越の坂落としにパニックに陥った一の谷の平家軍は海辺へと逃れていった。

熊谷次郎直実は逃げる敵を追いながら「平家の君達、たすけ舟に乗らんと汀の方へぞ落ちたまふらむ。あっぱれよからう大将軍にくまばや」と思っていると、「ねりぬきに鶴ぬうたる直垂に、萌黄匂の鎧着て、鍬形うったる甲の緒しめ、こがねづくりの太刀をはき、切班の矢負ひ、しげどうの弓持ッて連銭葦毛なる馬に黄覆輪の鞍置いて乗るッたる」若武者一騎が味方の舟目指して、ざっと海に入っていくところが目に飛び込んできた。それを見た直実は「あれは大将軍とこそ見まいらせ候へ。まさなうも敵にうしろを見せさせたまふものかな。かへさせ給へ」と扇を上げて招くと、若武者は招きに応じてもどってくる

格闘の末、直実が取り押さえて首を掻こうとすると、我が子小次郎程の、年の頃は十六、七と思しき、薄化粧にお歯黒を施した美少年だったあまりの美しさに怯んだ直実は「抑いかなる人にてましゝ候ぞ。名のらせ給へ、たすけまいらせん」と言うと、(中略)
若武者は「さては、なんぢにあふては、なのるまじひぞ。なんぢがためにはよい敵ぞ」と答えた。(中略)直実がどうしても助けたいと思っていると、後方には土肥、梶原の五十騎ばかりが迫ってくる。直実は涙を抑えながら「たすけまいらせんとは存候へども、御方の軍兵、雲霞のごとく候。よものがれさせ給はじ。人手にかけまいらせんより、同じくは、直実が手にかけまいらせて、後の御孝養をこそ仕候はめ」と申すと、

若武者は「たゞとくゝ頸をとれ」と言うばかりであったあまりのいとおしさに、直実は前後不覚になりながらも、泣く泣く若武者の頸を掻いてしまった

そして、「あはれ、弓矢とる身ほど口惜かりけるものはなし。武芸の家に生まれずは、何とてかゝる憂き目をば見るべき。なさけなうも討ちたてまつるものかな」とくどくどと恨み事をいいなが のらひながら、遂に讃仏乗の因となるこそ哀れなれ」命に往欠、袖を顔に押し当ててさめざめと泣いたのである。 
 かなりの時が経ってから、直実は若武者の頸を鎧直垂で包もうとしたところ錦の袋に笛が入っているのに気づいた。直実は「あないとおし、この暁、城のうちにて管絃し給ひつるは、此人々にておはしけり。当時みかたに、東国の勢なん万騎かあるらめども、いくさの陣へ笛持つ人よもあらじ。臈は、猶もやさしかりけりといって九郎御曹司(義経)にお目にかけるとこれを見た者で涙を流さない者はなかったのである。

 後のことであるが、この若武者は修理大夫平経盛の子息で大夫敦盛ということが
わかった。十七歳の若さであった。最後に『平家物語』の作者は次のように結んだ。

「それよりしてこそ熊谷が発心の思ひはすゝみけれ。件の笛はおほぢ忠盛笛の上手にて、鳥羽院より給はられたりけるとぞきこえし。経盛相伝せられたりしを、敦盛器量たるによッて、もたれたりけるとかや。名をば小枝とぞ申しける狂言綺語の理といひながら、遂に讃仏乗の因となるこそ哀れなれ」と表現で、直実の仏道への結縁を敦盛の持つ小枝(笛)に仮託している。

これは作者の巧妙なレトリックで、「狂言綺語」とは白氏文集 による言葉であるが、要するに仏道の妨げになる文学のことを指しているのだが、ここでは笛と解釈すべきである。仏道の妨げになるような音楽でも仏道への結縁となることを強調しているものと思われる。

 

 直実の出家は西行の 1) 隠遁願望型出家とは程遠いものであったことが推測できる。史料を見る限り、彼が西行のように仏道修行に興味があったような形跡を見出すことができない。無骨一辺倒の武士のイメージしか思い浮かばないこの時まで、彼が敵の頸を掻き、武勲をあげることに全精力を傾け、罪業感とは無縁な地侍というか野武士的
な人生を送ってきたことが、容易に想像がつく。

平家物語』の作者は「それよりしてこそ熊谷が発心の思ひはすゝみけれ」といって、敦盛殺害が直実の出家の直接的な原因であることを示唆し、しかも狂言綺語の理といひながら、遂に讃仏乗の因となるこそ哀れなれ」と表現で、直実の仏道への結縁を敦盛の持つ小枝(笛)に仮託している。

 

その後、出家して法名を蓮生(れんせい)とした直実が京都の法然上人に師事し、愚直なまでの念仏の徒となったことは言うまでもない。京都から関東下向の全行程を、後ろ向きに乗馬し決して西に背を向けなかったという「逆馬の話」

 

>京都の鳥羽という場所で、上品上生 の往生を誓いの話などはそれを物語るものであろう。

@また、極め付きは二回の予告往生である。

⇒W「発心集」鴨長明にも予告往生の説話が載っている。本人は衆目を集めた入水往生間際に一瞬思いとどまろうとしたが衆目の勢いに押されるようにで死んでしまっが、亡霊となってその一瞬、友人のあなたを目を見たのにとめてくれなかった、と語る。有名な一遍上人絵詞には庶民が入水往生する絵が数種類描かれている。往生自死へのハードルは高くなかった。死が時間的空間的に日常身近にあれば、人間は死ぬものだと簡単にわかる。地獄のような日常が続けば、往生を欲するのは自然の成り行きである。今の日本で無常というのと、鴨長明時代の無常はもしかして別次元かもしれない。我々は無常を説明しようとする。わかろうとする。「方丈記」は時間の早回しで無常の事実をていじするだけだ。そこに身体性が伴っている。無常は心と身体一体の事実進行形だ。

 

**

熊谷に戻った蓮生は建永元年(1206)八月に来年の二月に極楽往生するので、もし
不審を抱くものがあれば見に来るべしとの高札を立てたのである。そうしてその期日が到来したが、衆人環視のなか直実は一心不乱に念仏を唱え、懸生を試みるが敢え無く失敗してしまう。 
群集のあざけりを受ける中、蓮生は来る九月四日に必ず本意を遂げるからといって二回目の予告往生をする。そしてとうとう期日の建永二年(1207)の九月四日が到来した。『

法然上人行状絵図』(四十八巻伝)には次のように記してある。

「(前略)九月一日、そらに音楽をきゝてのち、更に苦痛なく、身心安楽なり。四日の後夜に沐浴(W注)して、ゆやく臨終の用意をなす。諸人また群集する事、さかりなる市のごとし。
すでに巳刻にいたるに、上人弥陀来迎の三尊、化仏菩薩の形像を、一鋪に図絵せられて、秘蔵し給けるを、蓮生洛陽より、武州へ下けるとき、給はりたりけるを懸たてまつりて、端座合掌し、高声念仏熾盛にして、念仏とともに息とゞまるとき口よりひかり
をはなつ、ながさ五六寸ばかりなり。(後略)」直実の死後五日まで奇瑞が続いたということである。 

W。熊谷直美の往生は実録なのかどうか知らないが、今昔物語と発心集に載っている讃岐の源太夫の発心説話の方がアニメチックだけど心妙にリアルで打たれるのはなぜか!ある日、突然発心を志し直ちに髷を切って郎党を解散し、阿弥陀様を探して真っ直線に野を超え山を越え西へ西へと進んで海の見える大木の股で往生した武士の素朴豪胆さに胸が熱くなる。

熊谷直美の生涯物語と今昔物語、発心集収録の讃岐の源太夫の出家説話のどちらに宗教性を見るかということだ。

そもそも聖書にしても仏典にしてもヘンじゃないか。そこにあるのは熊谷直美の往生物語のリアルはない。讃岐の源太夫の出家説話のような原因も動機もカットした鋭角的な行動譚に満ち溢れている。神様は悩まず、苦しまず一直線に進んでいく。つまり源太夫の出家発心大往生、説話は神様の世界の話なんだ。だから心打たれる。熊谷直美は悔い改めて菩薩になっただけかもしれない。極楽浄土に熊谷直美がいることを誰も見たことがない。

 では讃岐の源太夫の出家説話は神様が作ったのかということになる。

地上の発心を希求した数奇者が作った。人間が神様の世界の話も神様そのものも作り上げた。

***

>このように武士が隠遁して仏道修行に精進すると常人より熱心な修行者となるのは武士時代の罪障観如がもたらす反動行為のなせる業かもしれない。

西行ディレッタンティズム(数寄)を媒体とした信仰と比較すれば、直実の信仰は他の狭雑物を一切介しない純粋でストレートなそれ(<数奇>芸がなければ肉体派でいくしかなく自死一択。ほとんどの庶民的発心はこのケース!)であるが、これは両者の性格の相違といったレベルで解釈が可能なのではないだろうか。

     4.中世武士の出家と隠遁(宇都宮頼綱)

最後に、3) 陰謀回避型出家について考察し、宇都宮頼綱(1178?-1259)をその代表例として取り上げてみたい。

頼綱の出家は、西行や直実らと異なり理由は明確である。

三代目の朝綱(1122-1204)の時代から宇都宮の姓を名乗ることになり朝綱の代で
頼朝の信頼を得て宇都宮氏の勢力は拡大した。この飛ぶ鳥を落とす勢いの朝綱に思いもかけない事件が出来する。『吾妻鏡』によれば「 朝綱が国衙領である公田を横領したのだから、「将軍家殊に驚き聞こしめすところなり」とあることからも推測できるように、幕府としても有力御家人の処断に苦慮した形跡がある。その後、幕府は「去ぬる廿日、配流の宮符を下さる。朝綱は土佐國、孫弥三郎頼綱は豊後國、同五郎朝業は周防國なり」と朝綱父子の処分を決定した。

 

 孫の頼綱が宇都宮氏の五代目を襲うことになった。暗雲立ち込める船出の頼綱も、果たせる哉、朝綱同様突然の悲劇に見舞われる。頼綱謀反の疑惑であった。

この背景には頼綱が常陸國笠間の争いに乗じ出兵し、笠間一帯を略取してしまった事件があった。頼綱の強大化を恐れた幕府があらぬ謀反の疑いを頼綱にかけて宇都宮氏を取り潰してしまおうとの陰謀であったという説もあるが、

その最大の理由は、頼綱が北条時政の女(娘)を妻に迎え、時政と彼の後妻である牧の方が引き起こした一連の牧氏事件に頼綱が加担していたことが考えられる。幕府側が時政の息のかかった御家人を一掃してしまおうとする意図があったのは間違いない。

これに対し頼綱は 11 日には相州(義時)に弁明の書状を出しているが、もはやこれまでと思ったか、十六日には出家している。早くも十七日には宇都宮を立ち、十九日には鎌倉に到着している。

しかし、相州(義時)との対面は叶わず、蓮生は結城七郎朝光に陳謝の意を込めて髻を
献じている。後に義時はこれを容認したことが『吾妻鏡』に窺うことができる。これで事件は表面上では一件落着ということになった。

@それにしても、六十人の郎従の出家とは凄まじい限りである。

もしこの数字が正しいとするならば、数を頼みに恭順の意を示すデモンストレーションもさることながら、彼らの主従関係がここまで成熟の域に達していたことに驚きの念を禁じえない。この事実は後世の封建制における連座制や殉死などの萌芽と考えることができの出家、隠遁であったことに改めて信仰の域南を受けようとの下心るのではないだろうかここで、前述の西行熊谷直実の出家と頼綱のそれを比較すると、大きな相違があることに気づく。
それは西行、直実の場合は、あくまでも個人的動機による出家であったのに対し頼綱の場合は、政治的、外圧的動機による、やむにやまれぬ出家であったことが考えられる。宇都宮家を存続させるために頼綱のとった行動は個人的な無常観や厭世観に端を発することなく、むしろ御家存続の危機に個人を犠牲にして出家、隠遁する形をとったことに重要な意味がある。

言い換えるならば、自己犠牲的な出家である。
人身御供的な解決手段で組織を存続させようとする個人の没我的献身意識は、ともすれば美化され、切腹や殉死といった武士社会のいわば負の倫理的基調となっていく危うさを近世に先送りすることとなったことが考えられる。

それどころか、こういった風潮は現代社会の会社組織でも往々にして散見されるのではないだろうか。

研究当初、頼綱の隠遁は単なる現実逃避、厭世形の範疇に入るものと高を括っていたが、陰謀渦巻く武士社会のしがらみや矛盾とかいったものに苦しんだ果てに全てを達見したうえでの、前述の西行、直実らとは信仰の点でも少なからずその性格を異にする。

それは隠遁の身でありながら依然として鎌倉幕府との交渉があるからである。、出家してからも幕府の要請を受けている。また、承久の乱(1221)でも鎌倉の後詰としてその名が登場している。

宇都宮家の頭首は弟の朝業であるのに依然として頼綱の威光は衰えていないのである。したがって、仏道修行に没頭した隠遁生活を送っていたとは到底考えることはできない。

おそらく、西行、直実のには達していなかったように思われるしかし、西行と共通したところも見られる。ディレッタンティズム(数寄)である

鎌倉時代には京都歌壇、鎌倉歌壇、宇都宮歌壇といった三大歌壇が存在した。この宇都宮歌壇の成立は頼綱(蓮生)と弟の朝業(信生)に因るところが大きく藤原定家との親交も大きく影響しているものと思われる。

頼綱(以後蓮生)が出家、隠遁し、京都に居を構えたのは錦小路であり、二条京極の藤原定家邸とは指呼の間であった。歌を通じて二人の親交が深くなり、蓮生は娘を定家の嫡子為家に嫁がせている。

和歌と仏道修行を融合させた西行のように、また信仰に没頭した熊谷直実のようにディレッタンティズム(数寄)でも信仰でも、そして仏道修行でも中途半端なスタンスをとらざるを得なかったのではないだろうか。

それでも法然上人や証空上人との交渉の中から徐々に二次的・高次元な無常観へと熟成されていったことも史実や先の釈経歌からも窺い知ることができるが、本質的に真の信仰者たり得たのかという点では疑問が残る

>蓮生と鎌倉幕府の関係が蓮生と浄土教団(法然上人・証空上人)にすり替わったことが考えられる。和歌でも信仰の面でも徹完全燃焼はできなかったように思われる

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以上、貼り付けだらけ。面白かったが、コレまで記事にした長明、良寛、関連を深堀するのに少し役立った程度。発心集の説話の中に

1) 隠遁願望型出家―佐藤義清→西行
2) 自己救済型出家―熊谷次郎直実→蓮生

パターンは数多く載っている。

発心集は1)2)パターン変形の今の常識を超えた極端な話、きれいごとでは済まされない話が一杯載っていて考えさせられる。今とは世の中も人の在り方も大いに違う(説話は歴史の傍証になる)、と云ったらそれまでなんだけど、そこにあるような人間をむき出しにして生きたら、どうなんだろうと想わせる。

さすが3)陰謀回避型出家―宇都宮頼綱→蓮生はないが反俗日記が問題にした心戒上人(前歴は平氏一門の阿波国司)の場合、出家すれば許されたのかどうかということ。

一の谷合戦で身内から脱落者が出ているところを見ると、何らかの理由で平氏流浪の遊軍戦には参加しなかった模様だ。

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www.hyogo-c.ed.jp

引用「清盛は朝廷で勢力を強めた後、仁安4(1169)年春ごろからこの福原に住むようになり、それ以後10年ほどの間は重要問題が発生した時だけ都に上り、普段は福原から都の政治ににらみをきかせていました。このため、福原には清盛をはじめとする平家一門の別荘群が軒を並べるようになっていたようです。」福原近くの海岸部には、瀬戸内海水運の要衝である大輪田泊(おおわだのとまり、後の兵庫津)がありました。清盛はこの港に防波堤としての役割を担う経島(きょうがしま)を築くなど改修に力を注ぎ、ここを拠点として中国の南宋(なんそう)との貿易にも精力的に取り組みました。このように、生田森・一の谷合戦の舞台となった現在の神戸市街地は、平家一門にとっては清盛以来の重要拠点だったのです。」

「兼実は、生田森・一の谷へと向かう直前の鎌倉勢の様子も記録しています。鎌倉勢は数も少なく出陣には気乗りしておらず、合戦5日前の2月2日の段階でも、都は出たもののまだ西はずれの大江山(おおえやま=京都市西京区)付近に止まっていて、軍勢の幹部は平家に使者を送ることに賛成していた、と記されています。しかし、合わせて後白河の側近たちが、強硬に攻撃を主張していたとも記録していますどうやら後白河としては、平家討伐を強く希望しながら、和議の使者をも送ろうとしていたようです。 そして、後白河の側近から平家への使者が実際に送られたことを示す史料も残されています。幕府の正史として鎌倉時代後半に編纂された『吾妻鏡(あづまかがみ)』には、生田森・一の谷での敗戦直後、平宗盛から後白河法皇に送られた手紙が収録されています。この手紙で宗盛は、「戦いの前日に停戦を命じる手紙が届き、それを信じていたら源氏方に急に襲われてしまいました、これは一体どうしたことでしょうか?」と法皇を非難しています。 こうした史料を重視すると、どうやら平家は後白河のだましうちにあった、とも言えそうです。後白河は鎌倉勢を攻撃に向かわせながら、平家には和議をうながす使者を送っていたということになるのです。実際にどこまで平家方が油断していたか、敗戦後の宗盛の言葉をそのまま信用することはできませんが、こうした後白河の計略が勝敗に影響を与えた可能性は考えられます。「坂落とし」などの鎌倉勢の戦場での武勇だけではなく、こうした政治的な計略も、この合戦では大きな役割を果たしたかもしれないのです。」

鵯越は生田森から須磨まで、およそ10kmもの範囲に布陣していた平家方の中央を分断する位置にあたります。玉葉』では、戦いは午前8時ごろから10時ごろまでの2時間ほどで終わったと記されていて、案外に短時間で終わったことがうかがえます」

源氏方の進路

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 W注

引用 コトバンク

「沐浴が宗教的儀礼と考えられることの理由は、一つには、水で身体的汚れを洗い清めることと、その人がもっている宗教上の穢(けがれ)を祓(ふつじょ)することとの同一視である。葬式に参列したあとの沐浴を義務づけたり、日本の神社やイスラム教寺院の前には沐浴場があり、入る前に沐浴しなければ中に入れない場合がある。現在の日本の神社にある手洗場は沐浴場の一種である。ヒンドゥー教徒にとってガンジス川の流れで沐浴することは最大の信仰的行為であり、修験道(しゅげんどう)の滝の水に打たれる修行は、肉体的苦行に耐えることと、山の清浄な水で長時間身体を清めることの二重の意味がある。

 二つには、水がもっている移行と融合の象徴的意味による。つまり、身体全体またはその一部を水に触れさせることによって、俗的状態、汚穢(おえ)の状態から、なる清浄な状態へ、あるいは、生の状態から死の状態へ、人間的でない状態から人間の状態へ移行させる力ないし媒介としての意味を水がもっていることが多い。」