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1155
賀茂御祖<かものみおや>神社(下鴨神社)正禰宜惣官である鴨長継次男として誕生
慈円誕生
この頃、諸国飢饉
近衛天皇崩御。後白河天皇即位
1156 崇徳上皇・後白河天皇の間で保元の乱勃発
敗者、崇徳上皇は讃岐へ配流、
1158 後白河天皇、二条天皇に譲位し、院政開始
〃 「平治の乱」勃発
〃 源義朝(38歳)、尾張で長田忠致に殺害さる。3月、源頼朝を伊豆に配流
〃 父長継、従4位に叙せらる
1161 長明、従五位下に叙せられる 長明6歳
1162 藤原定家誕生
1166 京都で大火
1168 高倉天皇即位。平清盛出家入道
1172 この頃(翌年とも)、父鴨長継死去。 人生、暗転
長明17歳
1173 親鸞誕生
賀茂御祖神社の禰宜鴨祐季、延暦寺と土地争い。祐季失脚。長明、鴨祐兼との後任争いに敗北 W。長明20歳
1177 京都大火。樋口富小路より出火
1180 安徳天皇(3歳)即位
京都につむじ風
〃 福原遷都。11月26日、再度京都へ遷都
源頼朝、挙兵。この頃、長明、福原を視察W長明25歳
〃 源頼朝軍、平維盛軍と「富士川の戦い」、勝利を収める
〃 源頼朝と義経、駿河国の黄瀬川で対面
1181
平清盛死去(64歳)
この年、諸国飢饉。京中に餓死者多数
養和と改元。引き続き諸国大飢饉
1182 寿永と改元
〃 この年、引き続き諸国大飢饉。京中に餓死者数万人
1183 平家都落ち。木曽義仲、入京。この頃、長明、俊惠に入門か?
1184 元暦と改元
〃 京中に群盗横行
http://parad.sakura.ne.jp/Konjaku/Konjaku2903/Konjaku2903.htm
今昔物語集 人知れざりし女盗賊の話
〃
長明、祖母 の家を出るW長明29歳
1185 源義経、壇ノ浦にて平氏を破る
〃 京都に疫病大流行
〃 京都に大地震
〃 頼朝、諸国に守護地頭を置く
〃 西行、大仏勧進の旅の途次頼朝と会談。平泉へ。長明は伊勢へ旅
1187 藤原俊成、「千載和歌集」撰進する。長明の歌1首入集
〃 奥州の藤原秀衡死去
1189 源義経、衣川で藤原泰衡の襲撃を受け死去(31歳)
1189 源頼朝、奥州に出陣し藤原氏を平定
1190 西行、死去(73歳)
1192 後白河法皇死去(66歳)
〃
源頼朝、征夷大将軍になる。鎌倉幕府
〃 源実朝生誕
〃
慈円が天台座主に就任
1198 後鳥羽天皇譲位し土御門天皇即位。
1199 源頼朝死去(53歳)
1200 長明、 「百首和歌」・「三百六十番」歌合の歌人に選ばれ、歌壇で活躍
W長明45歳
1201
〃 和歌所設置。長明、 和歌所寄人に抜擢さる。この 年、
>長明の歌壇活動最盛期を迎える
1204 この頃、河合神社の禰宜職就任を鴨祐兼の反対で実現せず。長明、大原へ隠遁 出家。W長明49歳
1208 長明、大原から 「方丈記」の舞台=日野に転居 W長明53歳
1211 長明、飛鳥井雅経と共に鎌倉に行き、源実朝に対面して歌論を講ず。この頃『無名抄』執筆と伝 W長明56歳
「1170~1221。41歳で長明と鎌倉同行。源頼朝・義経兄弟が対立した際に義経と親しかった父・頼経が配流され、雅経も連座して鎌倉に護送される。だが、雅経は頼朝から和歌・蹴鞠の才能を高く評価され、頼朝の息子である頼家・実朝とも深く親交を結んだ。その結果、頼朝から猶子として迎えられ、更に鎌倉幕府政所別当・大江広元の娘を正室とするなど重んじられた。建久8年(1197年)に罪を許されて帰京する際には、頼朝から様々な贈物を与えられた。
鞠会で優れた才能を発揮して、上皇から「蹴鞠長者」の称号を与えられた。後に雅経は飛鳥井流蹴鞠の祖とされ、『蹴鞠(しゅうきく)略記』などを著した。また、鎌倉幕府の招きによって鎌倉へ度々下向し、3代将軍になった実朝と藤原定家・鴨長明との間を取り持っている。」
〃 「方丈記」なる W長明57歳
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1214 『発心集』成立と伝えられる W長明59歳
↑飛鳥井雅経 - Wikipedia参照。長明の立場が分かる
@長明年譜を検討した結果、「方丈記」鴨長明への従来の見方が変わった!
貴族の風流、粋きものとして人生を全うしたヒトであった。本物の出家はしていない、俗人が聖なるものを方丈庵で希求していた。
このような中途半端な立場ゆえに、「方丈記」末尾の正直な吐露が生れた。己の実存的な日和見立場を自覚すればするほど、成仏への願望は高じた。その探究の証が、「発心集」である。そういった長明の意識の流れを総括したのが「発心集」である。
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1216 鴨長明死去、享年64歳 W西暦に換算すると62歳のはずなのだが?
〃 1源実朝、渡宋を計画。陳和卿に造船を依頼
1217 実朝計画の渡宋のための舟が浮かばず、断念
1218 この頃迄に「宇治拾遺物語」成る
1219 源実朝、鶴岡八幡宮において甥の公暁に刺殺さる
1219 承久と改元
1242 藤原定家死去(80歳)
>反俗日記でよく取り上げる今昔物語集
引用
「原文が成立してから直ぐ写本として作られたと考えられる鈴鹿本は、京都吉田神社の神官をしていた鈴鹿家が所有していたもので、天保時代までは「奈良人某」の所有であった。1920年(大正9年)鈴鹿家の鈴鹿三七の『異本今昔物語抄』という小冊子によって世に知られることになる。現在のこの本の写本の全てはこの鈴鹿本からの写本である[1]。鈴鹿本は1996年6月27日に国宝に指定された。鈴鹿本は現在京都大学付属図書館に所蔵され、全文のカラー映像が訳文とともに、インターネット公開されている。」
「年代
11世紀後半に起こった大規模な戦乱である前九年の役、後三年の役永保3年(1083年)に関する説話を収録しようとした形跡が見られる(ただし後者については説話名のみ残されており、本文は伝わっていない)事から、1120年代以降の成立であることが推測されている。一方、『今昔物語集』が他の資料で見られるようになるのは1449年のことである[2]。 成立時期はこの1120年代~1449年の間ということになるが、地の重大事だったはずの歴史的事件を背景とする説話がいっさい収録されていないことから保元の乱、平治の乱、治承・寿永の乱治承4年(1180年)から元暦2年(1185年)にかけての6年間にわたる大規模な内乱など、12世紀半ば以降の年代に生きた人ならば、驚天動地の重大事だったはずの歴史的事件を背景とする説話がいっさい収録されていないことから上限の1120年代からあまり遠くない白河法皇・鳥羽法皇による院政期に成立したものと見られている[3]。」←W。「方丈記」のような」実録見聞録ではなくネタ本を基に作成されているので、成立年代は幅広いものになるが、今回アップした鴨長明関連年譜にある⇒
1184 義仲、征夷大将軍を拝命。義仲、義経らに破れ粟津にて戦死(31歳)
1184 元暦と改元
〃 京中に群盗横行⇔W。今昔物語の一話に群盗の女首領にかどわかされる若侍(軍事貴族)の名作が載っているところから、長明とほぼ同時代を生きた作者のよるもの、と思われる。
〃
長明、祖母 の家を出るW長明29歳
作者
「作者についてはっきり誰が書いたものであるかは分かっていない。」
W、長明「方丈記」「発心集」の簡潔でハードボイルドタッチの文体に似ているところがある。
日本中世の「日本人」のメンタリティーは織豊時代以降、特に江戸封建圧迫によって変質(特に庶民)した。従順忍耐が美徳になり生き生きとした躍動性が消え失せた。
労働奴隷状態と集団生活が封建搾取に都合の良い生産性と独立性を獲得して言った歴史過程である一方で、己たちの生活を維持するために体制に従順し忍耐強く生きることが美徳となった。
長明関連年譜を拾い出している際に気づいたことがある。
重大天変地異があると年号を変えることが厄払いになっていたのである。
天皇家も実によく政治に携わっている。
引退しても院政を敷いて白河天皇のように長らく政局に直接関与していた。
その結果、以降の天皇は台頭する武士勢力に島流しにされたり、疎んじられたり。
歴代天皇の年譜を調べていないが、天皇制が武士封建軍事権力によって、歴史の片隅に追いやられて以降、和暦1時代①天皇が封建権力側から求められ、天皇側もそれに従わなければ業態が成り立たなくなった(文化風習家制度の要素で食いつなぐ方途もあった)。
>以上の事柄を踏まえ現在に適応してみると、これからの時代の天皇家のはたす役割が透けて見る。
アルカイックな中世伝統への回帰である。それは日本のこれからの政治状況において天皇のはたす政治的役割が好むと好まざるに関わらず大きくなっていることの証左である。
天皇家を話題にすることで日本国民の深層心理は安置され、目先の混乱、後退から目を背けることができるのである。日本支配層は敏感にこの日本国民の深層心理を政治的に利用しようとしているし、庶民マスコミ側もそういう話題に逃れたがる衝動に駆られている。
日本支配層はグローバル資本制の荒海にもまれた時代状況下で中世的な天皇制の伝統形式を持ち出している。
他方、庶民は近代国家成立以降の天皇制国民国家に米国流生噛りの民主政を接ぎ木するメンタリティーにある。
こういった時代状況下でWは、兼好法師の生きて実作苦闘した、ハードボイルドな行動性、無常性、人間が嘆きの自覚する<モノ>だった時代精神を自分のものにしようとする。
無常を突き抜けるのだ!サバイバルの含意は究極の所にある。
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ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは*、かつ消えかつ結びて*、久しくとゞまりたるためしなし。世中にある人と栖と、又かくのごとし。
たましきの都のうちに*、棟を並べ、甍を争へる*、高き卑しき人のすまひは、世々を経て尽きせぬ物なれど、是をまことかと尋 ぬれば、昔しありし家はまれなり。或は去年焼けて今年作れり。或は大家滅びて小家となる。住む人も是に同じ。所もかはらず、人も多かれど、古見し人は二三十人が中に、わづかに 一人二人なり。朝に死に、夕に生るゝならひ、たゞ水の泡にぞ似たりける。
不知*、生れ死ぬる人、 いづかたより来りて、いづかたへか去る。又不知、仮の宿り*、誰が為にか心を悩まし、何によりてか目を喜ばしむる。その主とすみかと、無常を争ふさま、いはば朝顔の露に異ならず*。或は露落ちて花残れり。残るといへども、朝日に枯れぬ。或は花しぼみて露なほ消えず。消えずといへども、夕を待つ事なし。
第3段
私は、父方の祖母の家を継ぎ、長く祖母の家に住んだ。その後、 段々に縁が薄くなり、私の立場も弱くなって、偲ぶ人々も多く思い出多い家だったが、そこに住むことがかなわぬこととなり、30歳ごろ、よく考えて一つの庵を作 ることにした。
これを以前の家と比べると、その広さは10分の1。居間だけの狭い家で、それ以上の大きな家を作ることはできなかった。わずかに、土塀を作りはしたが、門を作るまでの活計が無かった。竹を柱にした車入れ を作ったが、場所が鴨川に近かったので、水害の心配もあったし、また盗賊の襲撃も不安であった。
何事も、住みにくい世を耐え忍びながら生きてきて、30年。この間に無数のつまづきを経験して、身の不運を悟るには十分であった。こうして、50歳を迎えて、出家遁世した。もとより、妻子も無いのだから捨てる縁者 も無い。身に肩書きも無ければ、執着すべきものも無い。こうして、5年の歳月を大原山の雲の下で過ごしたのであった。
さて、人生の終わりの60歳に近づいて、なお、余生を送る家を作ることとなった。これはまるで、旅人が一夜の宿を作るような愚かさであり、老いた蚕が繭を作るようなものなのである。しかし、これを先の家と比べてさえも百分の一にもならない小さなものだ。このように、私にとっては、歳を重ねるにつれて栖はどんどん小さくなっていったのである。この家の様子はといえば、世の常のものとは全く似ていない。広さはといえばわずかに方丈、高さは7尺ほど。ここに定住しようというのではないから土地は買わない。土台を組んで、屋根を葺き、柱の継ぎ目は掛け金で止めた。もし、ここが気に入らなければ、簡単に他所に移転するためである。移築するといっても、いかほどのわずらわしさも無い。牛車につむとしてもせいぜい2台分、その代金以外には必要なものは無い。
こうして、日野山の奥に身を隠して、東側に三尺ほどのひさしを付け、そこを柴を燃やす場所とした。南側には、竹のすのこを敷き、その西側に閼伽棚を作り、北側には障子を隔てて阿彌陀の絵像を安置し、その側に普賢菩薩像を掛け、前には法華経を置いた。東の壁際に乾燥させた蕨を敷いて、寝床とした。西南の壁には竹の吊り棚をしつらえて、黒い皮行李を三つ置いた。これらの中には、歌集・楽書・往生要集などの抄物を納めた。部屋の隅には琴と琵琶、それぞれ一張を立てかけた。これらは、いわゆるおり琴であり、またつぎ琵琶という、あれである。仮の庵はかくの如くである。
その周囲の様子について語れば、まず南に懸樋がある。岩を使って、水をためるようにした。林の木は手近にあるので、薪は豊富にある。名を外山という。『古今集』の「深山には霰降るらし外山なるまさきの葛色つきにけり」にあるようにまさきの葛が生い茂っている。谷はうっそうと樹木に覆われてはいるが、西の方角は開けている。それゆえ、西方浄土の照見を邪魔しない。
春は藤の花に覆われる。浄土からの便りのように甘く匂う。夏は郭公の声を聞く。その声は、死出の旅路の道案内を語っているようだ。秋はひぐらし蝉の声を聞く。はかないこの世を愛しんでいるように鳴く。冬は雪を見る。その積もっては消え、消えては積もる雪は、そのまま私の人生の罪障に他ならない。もし、念仏にも飽きて、読経に身が入らないような気分の日には、これを休み、怠る。修行を妨げるような人がいない代わりに、怠っているのを見られては困る人もいない。修行としての無言を守るなどというのでなくても、話す相手がいないのだから、口業は守られている。懸命に戒律を守るなどとしなくても、破る べき境界が無いのだから、破ろうとしても破れはしない。
舟の航跡をこの身のはかなさに寄せて思う朝には、巨椋池を行き交う舟を眺めて、満沙弥の歌「世の中を何に譬えむ朝ぼらけこぎ行く舟の跡の白波」の風情を味わい、楓の葉が風に揺れる夕べには、白楽天の『琵琶行』に詠まれた尋陽の江を想像して、源都督にならって琵琶を弾く。もし、興がのってきたらば、しばしば松の枝に吹く風の音に合せて、秋風楽を奏で、水の音に合せて流泉の曲を弾く。芸は拙いが、人の耳を楽しまそうというのではない、自分で演奏し、自分で詠じ、自分を慰めようというのだ。
また、麓に一つの小屋がある。山守がいて、そこに子供がいる。時々、やって来る。もし、所在無い時には、彼を友として遊ぶ。彼は10歳、私は60歳。その年齢は大層離れているが、無聊を慰めることに支障は無い。或るときはちがやを抜き、岩梨を採り、零余子を集め、せりを摘む。また、或るときは山裾の田んぼに行って、落穂を拾って穂組みを作る。
もし、うららかな日には、峰に登ってはるかに故郷の空を眺め、木幡山、鳥羽、羽束師を見る。景勝に持ち主は無いのだから、美しい景色を眺めるに支障は無い。歩くのに差障りが無い、遠出をしたくなったら、ここより峰づたいに炭山を越え、笠取山を過ぎ、岩間寺に詣でたり、石山寺にお参りする。或いはまた、粟津のまで歩を進めて、蝉丸の住居跡を訪れ、大戸川を越えて猿丸大夫の墓を訪れる。帰り道には、季節に応じて桜を見、紅葉を狩り、ワラビを採り、木の実を拾い、これを仏に供えたり、家への土産にしたりする。
もし、夜がしずかなら、窓の月に故人を偲び、猿の声に涙を流す。叢の蛍は、遠くの槙島のかがり火と入り乱れ、暁の雨は木の葉に吹く嵐と似る。山鳥のほろほろと鳴く声を聞けば、父か母かと驚く。峰の鹿が馴れて近くまでやってくることからも、世間から離れた時間に驚く。ある時には、老いの目覚めに起こされたときには、埋火をかきおこしてこれを友とする。深山というわけではないので、ふくろうの声もしみじみと聞こえ、山中の興趣は、季節によって尽きることは無い。いわんや、自然の趣を深く思い、深く知ろうとする人には、私が思うよりもっと多くのものを感ずるはずだ。
第4段
そもそも、ここに住み始めた頃には、ほんの暫くと思っていたのだが、すでに5年を経過した。仮の庵といいながら、ここももはやふるさととなってきて、軒には朽ちた木の葉がつもり、土台には苔も生えた。事のついでに都の事を聞くと、私がこの山に入ってからも、多くの高貴のお方が死んだ。まして、そういう身分でない人々は数を尽くして知ることを得ない。度々の火事によって消失した家々もまた幾許であったことであろう。ただこういう仮の庵こそ、何事もなく安心だ。狭いとはいえ、夜寝る場所が無いわけではない。昼に座る場所も無いわけではない。一身が住まうに何の不足も無い。ヤドカリはできるだけ小さい貝を好むという。これは、変事があることを恐れてのことだ。ミサゴは荒磯にいる。これは、人が怖いからだ。私もまたこれに同じ。物事を知り、世の無常を知れば、無益な願いは持たず、右往左往はせず、ただ閑静をのみ望み、悩みの無いことを楽しむ。
すべて、世人が家を作るのは、必ずしも、自分のためにするのではない。場合によっては、妻子や眷属のために作ったり、或いは親しい者や友人のために作る。また或いは、主君や師匠のために作り、財宝や牛馬のためにも作ったりする。
私は、いま、自分のためにだけ庵を結んでいる。人のために作ったのではない。なぜかといえば、この無常の世にあって、家族もなく、仕えてくれる使用人もいない。だから、広く作っても宿す人がいない、住まわせる人が居ない。
そもそも、人の交友というものは富んでいるものを優遇し、親しい者を優先する。必ずしも、情が厚いとか、正直などを好むわけではない。だから、楽器や自然を友として生きるのが一番だ。従者は、恩賞を沢山くれる人やよく面倒を見てくれる人を重んじる。優しくいたわってくれるとか、心安い人とかを願うのではない。だから、従者を持つのではなく、自分自らが自分の従者となるのが一番だ。
どのようにして自分自身を従者とするかといえば、やるべきことがあったらすべからく自分の体を使ってやる。くたびれことがあっても、他人を従えて、人に気を配るよりこの方が気が軽い。もし、歩くことが必要であれば、自分から歩く。歩くことは、苦しいといっても馬だ、鞍だ、牛だ、牛車だと悩むよりはましだ。
いま、体を二つの用に用いる。手という従者、足という乗り物、これらは私の言うことをよく聞いてくれる。体は、心が苦しいときには休ませる。気分が満ちているときには、これを使う。使うといっても、酷使するのではない。だから、物事が憂鬱だといっても、心が動揺することは無い。まして、常に体を動かし、常に働くのは、かえって体を養生することになる。どうして、無益に休む必要があろうか。人を苦しめるのは罪業なのだ。これは他者の力によって解決するものではないのだ。
衣食についてもまた同様だ。ふじごろも、あさぶすまは、そのまま着る。野のよめなや木の実、これらによって命をつなぐ。人と会わないのだからおのれの姿の貧しさを恥じるまでもない。食べ物が少ないのは自分の努力が足りないのだから、これは甘受するしかない。
すべてこのような楽しみを、くだくだと豊かな人に向かって言うのではない。ただ、私の一身上に起こったくさぐさを、昔と今とについて語ったまでだ。
それ、三界はただ心一つ。心が安穏でないのであれば、どんな宝も意味がなく、宮殿楼閣もなんの希望にもならない。いま、私はこのさびしい住まい、方丈の住まいをこよなく愛している。時として、都に出て、おのれの身の貧しさを恥じることがあるといっても、ここに帰ってくれば、人々が俗塵に心を乱していることを憐れにさえ思う。
もし、こういう私の言を疑うのなら、魚や鳥のことを思え。魚は水に飽きることはない。そんなことは魚でなければ分からない。鳥は林を恋する。そんなことは鳥でなければ分からない。閑居もまた同じ。住まずして、これが分かるはずがない。
流布本による補充
このようにして、遁世し、出家してからというもの、他人への恨みも消え、生きていくことの恐れも無くなった。命は天にまかせ、それを愛しむことも無いかわりに、生きていることを嫌悪する心も失せた。身は浮雲のように思うことにして、期待せず、不足とも思わない。一生の楽しみは、畢竟、昼寝のようなものに過ぎず、さればこそ望むものと言ったら、日々に美しい景色を眺めることだけとなった。
( 第五段)抑一期の月影傾きて
さて、月影西に傾いて、わが余命も残すところ後わずかとなった。もはや、三途の闇に向かわねばならぬ。今となって、何をぐたぐた言う事があろう。仏の教えるところ によれば、何事にも執着するなという。草庵を愛するのも、この閑寂さにこだわるのも、往生のさまたげになるという。つまらぬ楽しみなどを書き連ねて、あたら残り少ない時間を無駄にするには及ばない。
閑な朝、そんなことを考えながら、自分の心に尋ねてみた。「お前が世を遁れ て山中に入ったのは、心を治め、仏道を開くためであった筈だ。しかるに、お前は、姿は聖人のようでいながら、心は濁悪そのもの。住居ばかりは、浄名居士に似せたものの、その修業の行いはあの魯鈍な周利槃特にも及ばない。これは、お前の貧賤の因果の応報か、はたまた煩悩の故の狂気か。」 と。
こう自らに問うてみても、何も答えは返ってこない。不請と言われる阿彌陀仏を口に出して呼んでも見たが、それとても二三遍して止めにした。・・・・
ときに、建暦二年の三月晦日、私こと僧門の蓮胤、日野外山の草庵においてこれを記す。
wacwac読了後
少なくとも自分よりもお気楽な立場のヒトだったのだ、なぁ~、と。
しかし、結語は誠実。訳知り顔で通すことをしなかった。自分を見つめる冷静なもう一人の自分を持っている現代に通じる本物の文人である。こうした吐露をしながら2年後には「発心集」を編んで仏心にけりをつけようとした。
行動しリアリズムに徹した隠者の文人である。散文精神がある。日本のいわゆる純文学の源流は「方丈記」「徒然草」であった。
大災害、政治危機という社会性と純粋<私>の追求が仏法希求を接点に二元的に両立させている手法は今を生きるものとして注目すべきところである。世界観(コア)がなければ社会と<私>を橋渡しできない。
グローバル資本主義者は社会性と<私>を繋ぐ物神崇拝というコアがある。
古代ギリシア、ローマと中国文明の決定的な差異は観念世界への希求であった。
観念世界への激しい希求がヨーロッパ文明を唯物的にも発展させてきた、という逆説が成り立つ。
〃 「方丈記」なる W長明57歳
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1214 『発心集』成立と伝えられる W長明59歳
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1216 鴨長明死去、享年64歳 W西暦に換算すると62歳のはずなのだが?