エマニュエル、トッド他「<帝国以後と日本の選択」藤原書店2006年刊所収、トッドVSルヴェル(哲学者、フランス学士院会員)対談。
<米国が健全だったなら欧州統合は不要だった。>の項
ルヴェル発言の引用。 >W。常々、主張しているように日本の戦後右翼と欧州の右翼の政治内容が違っている。
日本韓国の大方の戦後右翼の出自は特殊で米国育成、子飼い。ただし、正常な者もいる。
同時に戦後日本に左翼も存在しない。
戦後の日本とヨーロッパの政治風土の違いは大きい。
次の発言は参考になる。
「9、11はある種の反アメリカ主義を強化しました。攻撃後の数日間は、フランス政府のもっと反アメリカ的閣僚ですら、アメリカがアフガニスタンで軍事作戦を展開することは不可避かつ必要で正統なものと考えていました。
ところがまもなくアメリカが侵略者とみなされるようになったのです。
ちょっと湾岸戦争のときに起きたことと似ています。
このことはアフガニスタンの時も起こりました。
みなによって支持された最初の時期ーー<みなによってというのは正確ではない、なぜならフランス国民戦線の事務所や(W。極右といわれている。総選挙で、一定の支持率を維持している)いくつかの郊外では(貧困層、移民の密集する公営住宅群がある地域)9月11日のその日のうちに祝杯が挙げられた。>ーーが過ぎると、侵略者の意味に逆転が起こったのには驚かされました。」
ウィデイペギアの解説を素直に読めば、近衛=ボナパルチストの規定は間違っていないことが理解できる。
あくまでも知性は論理的正確さを求め、そこで安易、情緒的に庶民を持ち出す思考パターンでは思想的核心が得られない。
前日の記事でも指摘した敗戦前後の安全地帯にいられた経歴から堀田善衛は単なる庶民でなかった。
ぶった切ると1945年3月18日27歳にして、大空襲焼け野が原にのこのこと吉田兼好の現場主義の如く、訪れることができる立場において、真になし得ることは、庶民目線は大切なことではあるが、寄りかかることではなく、真相を探求すること。1971年発表の「方丈記私記」の当該箇所では不十分。
ただし、彼の青春時代は完全閉塞社会であり、45年3月18日27歳の青年の思考パターンもその影響を受けている。
彼は遅れてきた青年だった。コレは今の若者立ちにも通じることであるが、現在の知性はもっと悲惨である。
近衛文麿 ウィディペギア引用。
「1891年(明治24年)10月12日 - 1945年(昭和20年)12月16日)
五摂家当主。
父の篤麿はアジア主義を唱え、東亜同文会を興すなど活発な政治活動を行っていた。ところが、1904年(明治37年)に、篤麿は41歳の若さで死去。文麿は12歳にして襲爵し近衛家の当主となるが、父が残した多額の借金をも相続することになった。近衞の、どことなく陰がある反抗的な気質はこのころに形成された、と後に本人が述懐している。
泰明尋常小学校、学習院中等科を修了後、華族の子弟は学習院高等科にそのまま進学するのが通例だが、当時旧制一高の校長であった新渡戸稲造に感化され、一高を受験して進学。
五摂家当主。
父の篤麿はアジア主義を唱え、東亜同文会を興すなど活発な政治活動を行っていた。ところが、1904年(明治37年)に、篤麿は41歳の若さで死去。文麿は12歳にして襲爵し近衛家の当主となるが、父が残した多額の借金をも相続することになった。近衞の、どことなく陰がある反抗的な気質はこのころに形成された、と後に本人が述懐している。
泰明尋常小学校、学習院中等科を修了後、華族の子弟は学習院高等科にそのまま進学するのが通例だが、当時旧制一高の校長であった新渡戸稲造に感化され、一高を受験して進学。
続いて東京帝国大学(戦後の東京大学)で哲学を学んだが飽き足らず、高名な経済学者であり、当時急速にマルクス経済学に傾倒しつつあった河上肇(主著『貧乏物語』)に学ぶため、京都帝国大学(戦後の京都大学)法学部に転学した。
この1年間の交流を通して、社会主義思想の要点を学び、深く共鳴している。これがのちに政権担当時の配給制などに結びつく。
この1年間の交流を通して、社会主義思想の要点を学び、深く共鳴している。これがのちに政権担当時の配給制などに結びつく。
在学中の1914年(大正3年)には、オスカー・ワイルドの『社会主義下における人間の魂』を翻訳し、「社会主義論」との表題で第三次『新思潮』大正三年五月号、六月号に発表したが、『新思潮』五月号は発売頒布禁止処分となった
<政界へ>
1916年(大正5年)、
1916年(大正5年)、
1918年(大正7年)に、
雑誌『日本及日本人』に論文「英米本位の平和主義を排す」を執筆。
1919年(大正8年)の
パリ講和会議には全権西園寺公望に随行し、見聞を広めた。
また五摂家筆頭という血筋や、貴公子然とした端正な風貌(当時の日本人では類い稀な長身で、身長は約180cmだったといわれる[要出典])に加えて、対英米協調外交に反対する現状打破主義的主張で、大衆的な人気も獲得し、早くから首相待望論が聞かれた。1933年(昭和8年)貴族院議長に就任。
また五摂家筆頭という血筋や、貴公子然とした端正な風貌(当時の日本人では類い稀な長身で、身長は約180cmだったといわれる[要出典])に加えて、対英米協調外交に反対する現状打破主義的主張で、大衆的な人気も獲得し、早くから首相待望論が聞かれた。1933年(昭和8年)貴族院議長に就任。
1933年(昭和8年)には
近衛を中心に政策研究団体、ブレーン・トラストとして後藤隆之助を中心に昭和研究会が創設される。この研究会には後にゾルゲ事件の首謀者として絞首刑に処せられた尾崎秀実も参加していた。
帰国後記者会見の席上で、「ルーズベルトとハルは、極東についてまったく無知だ」と語った。
岡田啓介の後継首相として初めての大命降下があったが、この時は健康問題を理由に辞退している。
新体制運動を唱え、第2次近衞内閣の治世下にて大政翼賛会を設立した。
さらに、日独伊三国軍事同盟や日ソ中立条約を締結した。
また、戦争末期には、独自の終戦工作も展開していた。
>>「方丈記私記」から抜粋開始 後の批判的検討記事作成のため番号とタイトルをつける。
1)戦後公表された近衛上奏文。深川富岡町現場描写と彼の思考には欠かせない部分。
「私は兼実にいう<日本国というものが、兼実の心持としては、彼ら貴族エスタブリッシュメントに限られたものでたったろう。
一般人のことなどは殻ら日本国に入りはしない。
とにかく当時の上層部が何を考えていたかまざまざと見る思いがさせられるものであり、一種の傑作であるとさえ想う。
コレによると、少壮軍人の多数も、右翼も左翼も、官僚も、みんな共産主義者であり、
近衛文麿上奏文=<そもそも満州事変、支那事変を起こし、コレを拡大して遂に大東亜戦争まで導きいれるは軍部革新派であり、これら軍部内一味の狙いは、必ずしも共産革命にあらずとも、コレを取り巻く一部官僚及び民間有志は意識的に共産革命にまで引きずらんとする意図を内蔵しており>
という訳である。
資本家と貴族を除いた他は、活発な人々は誰も彼の共産主義者だということになるのである。」
<一億総玉砕を叫ぶ声>さえが<遂に革命の目的を達成せんとする共産分子なりとにらみおり候>となるに及んでは疑心暗鬼、悲惨というほかない。
しかも
「<このことは、過去10年間、軍部、官僚、右翼、左翼の多方面に渡り交友を有せし不肖が、最近静かに反省して到達した結論>だという。」
その非常識滑稽は、社会から斥けられたアウトローか、犯罪者のようなゆがんだ社会観に近い。
近衛氏は共産革命を防止し、国体と称するものを守るためのみ、戦争終結を急いだ。
そしてこの国体と称するものも、要するに自分たちと天皇ということにほかならぬと想われる。
<敗戦だけならば、国体上はさまで憂うる用無しと候>という訳で国民の苦悩、<生活の窮乏、労働者発言権の増大>などは、<共産革命達成>の道具にさえならなければ、さまで憂うる必要なしと。
アカである。」
2)「日本の一切が焼け落ちて平べったくなり、階級制度のまた焼け落ちて平べったくなる、という不気味で、しかもなお一面においてさわやかな期待の感。」
「あの頃に、空襲で家を焼かれた人々が、
<焼けてコレであたしもさっぱりしました>とよく言っていたのは、そこにはやはり何ほどかの異様な期待の感があったからでなかったろうか。」
「けれども、そういう国民生活の全的崩壊、階級制度の全的崩壊という、いわば平べったい夢想、あるいは平べったい期待というものが、近衛氏とは逆の意味で、
これまた如何に現実離れした、甘いものに過ぎなかったかということを円実によって思い知らされるのに、そう長い時日はかからなかった。
4)方丈記引用ー羽なければ、空をも飛ぶべからずー
過酷な長い氷河期に人類に刻印されたDNAの痕跡は科学技術など諸々の発展や環境、条件変化に対応できない?
「1945年3月18日朝早く、私は洗足のK君の家をでて電車を乗り、なくなれば歩いて深川を目指した。(W。自由主義的インテリ青年のたまり場。白井浩二などその方面で出世した面々ばかり。文系知識青年に多くの戦死者がでたため一種の世代的な過疎状態が生じ、生き残った同世代は重宝がられた。需要と供給の関係である。)
「深川に知り合いの女が一人いたからである。その激甚な空襲をへて、生きている見込みはまずなかった。」
「平べったく、一切が焼け落ちてしまっていた。
合流火災が隅田川を飛び越えた、それはこの広い川沿いに方々で、右岸から左岸へ、左岸から右岸へと火が飛びこえた、と聞かされていた。」
ということは、多くの場合に、そこの住民が全滅したことを意味したであろう。行きながらの大量ふんさつである。」
>>続く