最終章 二大政党の解党とその後。
1、虚構の挙国一致 引用
政友会の本音は小山完悟~が語っている。以下の小山日記(1937年8月3日)は政友会の基本的な立場を伝えている。
「盧溝橋事変の勃発にあたり、政府(W,近衛文麿内閣)のとりたる、いわゆる挙国一致の鼓舞の態度は、我々より見れば、いささか青天のへきれきにして、シナに対して、国論の一致の姿勢を示さんと欲して、~これがために、一般民衆の対支強硬態度を不必要に扇動し、現地軍を刺激して、さらに強気を失するし激論をいよいよ燃え上がらしむる傾向は、遺憾に堪えず」。
1937年7月7日中国北京郊外の盧溝橋(W,橋は現在も存在、北京市の中心部から南西約20km、現在の東京に例えると中央本線吉祥寺、三鷹付近の感覚。)で勃発した偶然的な軍事衝突は(W?首都中心から20kmに日本軍進駐、偶然も何もあったものではない。東京郊外20kmに戦時下で外国軍隊が進駐してきたら、どうなるか!その場合、日本側は偶然の軍事衝突とは言わない!歴史を教訓として、この感覚を身につけないから、今回のようなアベ中東訪問ー人質事件は起こる。)4日後に現地で停戦協定が結ばれながら、どちらの国も守ろうとせず、拡大する。W,当たり前のリアル軍事。
国論は対中強硬論でまとまる。挙国一致が実現する。
このような展開は政友会の望むところでなかった。(W,もうこの時点で、政治ことばと実情のかい離は大きすぎた。著者は文字と情緒を歴史として書き写しているだけだ。)たとえば元外交官のキャリアと情報網から、日中関係の悪化を実感していた芦田均は7月10日の段階で政府が『やる決心だな』と直感した。~
戦争拡大は政友会にとって不本意だった。W。所詮、近衛内閣と同根。
しかし、不拡大現地解決の基本方針(W.政府の主導性放棄だ!)にもかかわらず、国内の強硬論を背景に、戦争は長期化していく。
国内の相克の解消を唱えて政権の座に就いた近衛文麿は~
W。中華民国政府相手にせず、がこの時期の近衛の戦争方針である。
よって、7月10日の元外交官の芦田均の「やる決心だな」を云う直感が出てくる。
対中華民国政府強硬論の近衛文麿の「転向」が起こるのは「太平洋戦争に突入し、戦局の先行きが怪しくなって以降である。→近衛文麿(天皇)上奏文全文S45年2,14及び、堀田善衛「破滅型近衛上奏文について」、伊藤隆 『昭和期の政治』
→http://www.geocities.jp/yu77799/siryoushuu/konoe/jousoubun.html
→http://www.geocities.jp/yu77799/siryoushuu/konoe/jousoubun.html
<太平洋戦争の年表>からみた近衛上奏文1945年2月14日。
1944年(昭和19年)
3月8日 日本軍、インパール作戦開始。 3月31日 古賀峯一連合艦隊司令長官が殉職(海軍乙事件) 4月17日 - 12月10日 大陸打通作戦 6月15日 米軍、サイパン上陸(サイパンの戦い。7月7日日本軍玉砕、在住 日本人1万人死亡)。 6月16日 米軍、中国大陸から北九州へ初空襲。 6月19日 マリアナ沖海戦
1945年(昭和20年)
3月10日 東京大空襲 3月12日 名古屋大空襲 3月14日 大阪大空襲 3月16日 神戸空襲 3月25日 名古屋大空襲 4月1日 - 6月23日 沖縄戦 4月5日 ソ連、日本に対して翌年期限切れとなる日ソ中立条約を延長しないと通達。小磯国昭内閣総辞職 4月6日 菊水作戦発令 4月7日 戦艦大和沈没 鈴木貫太郎内閣成立。
*1945年(昭和20年)9月2日←戦艦ミズーリ号艦上での、いわゆる降伏文書=休戦協定(停戦協定)署名の年月日9月2日はグーグル太平洋戦争年表に記載されていない。ミズーリ艦上の署名式典の画像は、よく知られているマッカーサーの厚木飛行場到着の画像に代表される格好になっている。しかし、大昔の歴史教科書には載っていた記憶がある。今の教科書には載せられていないと思う。
いずれにしても、<マッカーサー連合国軍最高司令官の厚木飛行場到着<画像>は、「天皇及び日本国政府の国家統治の権限は本降伏条項を実施する為適当と認める処置を執る連合国軍最高司令官の制限の下に置かれる」と云う当時の国家権力構成の実体を示している(GHQ=アメリカ。日本の絶対防空権突破に実際に血を流したのはアメリカ軍)、のに対して、
ミズーリ艦上の降伏文書=休戦協定(停戦協定)~<画像>は
「連合国側は連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサーのほか、アメリカ合衆国代表チェスター・ニミッツ、中華民国代表徐永昌、イギリス代表ブルース・フレーザー、ソビエト連邦代表クズマ・デレヴャーンコ 、オーストラリア代表トーマス・ブレイミー 、カナダ代表ムーア・ゴスグローブ 、フランス代表フィリップ・ルクレール、オランダ代表コンラート・ヘルフリッヒ 、ニュージーランド代表レナード・イシット が署名した」という意味で、の当時の主要連合国軍の首脳がが出そろったものであり、<日本政府と日本軍の連合国への敗北>象徴である。
白井聡の「永続敗戦論~戦後史の核心~」の指摘する通り、この不記載は、いわゆる降伏文書署名=休戦協定(停戦協定)署名~~この<敗戦というまぎれもない歴史の事実>をないことにするかのように、<終戦と意図的に云いかえると>、敗戦状態の持続=永続敗戦状態継続という政治的な読み込みが可能になる。
>ようやく気付いてサ条約締結とと安保受忍の日を<主権回復の日>などとして天皇を読んで万歳を参照しているようである。←ドイツのサルまね?
ミズーリ号艦上で日本側代表が署名したのは、休戦協定、停戦協定。
戦時の休戦状態、停戦状態を土台に戦前国家権力構造の実体の継承に他ならない天皇と日本政府、の上に位置するGHQ占領権力の絶対的権限が実質として成立した。
このような非常時特権を有する軍事権力は、休戦状態の継続という戦時状態においてしか成立しないものである。なぜならば、休戦(停戦)状態によってGHQ占領権力の絶対性と政策的フリーハンドが保証されるからである。極めて論理的かつ純法律な措置である。
現在の一例。朝鮮半島の北緯38度休戦(停戦)ラインの固定。 これによって、在韓米軍は韓国軍を指揮下になる。なぜならば、朝鮮戦争は休戦(停戦)状態にあり、朝鮮戦争を主体的に推進した米軍の戦後の地位は休戦(停戦)状態にあるから、実質的に保証される。 仮に、北朝鮮と韓国が(米中の立会いのもとでもいいから)、終戦文書に署名すれば、在韓米軍の存在理由は希薄になる。何のために韓国にいるんだ、という話になる。
そうすると、戦後史の潮流の過程 GHQ時代(冷戦構造)→朝鮮戦争→サンフランシスコ講和条約締結、日米安全保障体制→改定日米安保体制→高度経済成長→プラザ合意(日本バブル崩壊)→冷戦体制崩壊→低経済成長時代→東日本大震災~福島原発事故 において、当然にも、日米安保体制下の在日米軍基地とアメリカ政府と支配層の日本における実質的な立ち位置が、問題にされる。
仮にそれが的を射た指摘であるとすると、
この最大級の転置に気付かなかった原因は、冷戦体制を後ろ盾とする1950年代後半からから実質的に始まり、 1990年の日本バブル崩壊まで30年も続いた高度経済経済成長とその後の経済好調にある。経済の中に政治と軍事の実相が埋もれて漏れていたのである。
アメリカ経済の相対化と冷戦体制崩壊、グローバリズムの進展、新興国経済の伸長によって、1950年の朝鮮戦争時の逆コースの時期にあらわになった、日本国憲法下における、天皇とアメリカの転置が再現されるようになったのである。
>事実上、アメリカの下に日本は再編されることになった、と想定すると全貌が分かりやすくなる。
乱暴にこの再編過程を推進している真っ最中のアベ政権だからこそ、中東駆け足歴訪(二千九百億円ばらまき)人質事件を招いているのだろうか。
しかし、この問題の深刻さは、シナリオを描いたのは官僚だということにある。官僚の劣化も進行しているようだ。
それで事態は発覚し、こう着状態に陥ると、首相の資質問題に焦点をすり替えている感もある。
1945年(昭和20年)
9月2日 日本政府が戦艦ミズーリで降伏文書調印。GHQ指令第一号(陸海軍解体、軍需生産の全面停止等)が出る。 9月8日 連合国軍、東京を占領する。以後、都内の建物600箇所以上を接収。 9月10日 「言論及ビ新聞ノ自由ニ関スル覚書」(SCAPIN-16) 発令。連合国軍が検閲を始める。 9月15日 東京・日比谷の第一生命館を接収。
W。どこの占領権力も検閲はやるもの。
1946年(昭和21年)
1948年(昭和23年)
11月30日 政令201を受け国家公務員法改正。公務員の団体行動権を否定(労働基本権#日本の公務員の労働基本権)。 12月8日 民政局次長チャールズ・ケーディス大佐が対日政策転換を阻止するため帰国(昭電事件の余波から逃れる為と噂される)。 12月18日 GHQ/SCAP、対日自立復興の9原則を発表(対日政策転換。逆コースの始まり)。 12月23日 東条英機ら旧指導者7人に死刑執行。
1949年(昭和24年)
9月15日 シャウプ税制使節団、税制の抜本的改編を発表。(詳細はシャウプ勧告を参照) 11月1日 米国務省、「対日講和条約について検討中」と声明。講和案に賠償・領土割譲が無いことが報道される。これ以降、国内では西側との「単独講和論」と東側を含めた「全面講和論」が対立(世論調査では全面講和が優位)。
W。引用
「この条約によって正式に、連合国は日本国の主権を承認した