反俗日記

多方面のジャンルについて探求する。

キーワード主権回復の日の探索。戦後衆議院選挙に見る民衆史の実像と江藤淳の指摘するGHQ検閲問題。

  日記の続きをやらねば。佳境に入っているところだ。
 
 
 
<主権回復の日>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%BB%E6%A8%A9%E5%9B%9E%E5%BE%A9%E3%81%AE%E6%97%A5をキーワードに切り込むことにしている。
 
 
アベ政権4月28日を主権回復の日と決定した。
「日本の完全な主権回復し国際社会復帰60年の節目を記念するための政府主催の記念式典を開くことが、2013年3月12日に閣議決定され2013年4月28日に日本政府主催で行われた。」
 
>ところが、例の、2013年、臨席した天皇皇后の祝辞一切なし、
>式典終了後、退席する後ろ姿にに向かって、列席者の一部から、<天皇陛下万歳!>の三唱が沸き起こり、続いて列席者が唱和するという事態が生じている。
 
 
 翌年の2014年の4,28デーは中止した。
引用 産経ニュース。
サンフランシスコ講和条約が発効して日本が独立した際、沖縄や奄美群島などは米軍の施政下に置かれた経緯があり、式典開催に対し沖縄などが強く反発していた。
 政府はこうした経緯を踏まえ、当面は式典の開催は昨年に限る方針。式典後に行われた昨年7月の参院選自民党は「今後も節目の年に開催する」(総合政策集)と表現を後退させ、今年の式典開催を見送るのかが焦点となっていた。」
 
W.「沖縄や奄美群島などは米軍の施政下に置かれた経緯があり」(サンフランシスコ条約第三条だったと思う。①島津藩→②明治維新による沖縄県→③米軍施政権下という問題だけではなく、日本とアメリカにわたる戦後政治体制のあり方=安保体制とその今後の自衛隊の米支配層の利益に基づく世界戦略の下請け運用にかかわる大問題である。
なお、昔、4月28日(4,28ヨン、ニッパー)は、ベトナム反戦日米安保と沖縄を貫く、<沖縄デー>とされ、10,28国際反戦デーと並ぶ、一年を通じての最大の大衆行動の日されていた。
 
 
4月28日を<主権回復の日する根拠は、(W、アメリカ軍)総司令部~(General Headquarters) の頭文字(文字通り日本の総司令部だったということであるGHQ進駐軍という通称~の日本占領統治史及び太平洋戦争関連年表によれば次の通り。
 
理解を深めるために必要な一連の年表を押さえておく。
 
まずこの日を押さえる。
 
>1943年(昭和18年) 11月22日-26日エジプトカイロ英米中首脳会談(カイロ会談)。
 
フランクリン・ルーズベルト米大統領ウィンストン・チャーチル英首相、蒋介石中国国民政府主席による首脳会談を受けて、12月1日に発表された『カイロ宣言』」
 
>「蒋は会談で、ルーズベルトの問いに答え、
イ)天皇制の存廃に関しては日本国民自身の決定に委ねるべきだと論じた。
米国が起草した宣言案を英国が修正し、
ロ)日本の無条件降伏と、満州台湾澎湖諸島の中国への返還(W.この点について後に詳しく)朝鮮の自由と独立などに言及した宣言が出された。
 
カイロ宣言の対日方針は、その後連合国の基本方針となり、ポツダム宣言に継承された。」
 
1945年(昭和20年) 2月クリミア半島ヤルタ英米ソ首脳会談(ヤルタ会談)。
>1945年(昭和20年)ポツダム会談、前後の短期間の次の政治軍事過程を踏み込んで押さえておく必要がある。」以下~のヤルタ会談関連記事。
 
**
なお、米軍のヨーロッパに第二戦線が、ノルマンジー上陸作戦まで、遅れた原因は、広大な太平洋戦域の日本軍との戦いという二面作戦を余儀なくされていたことを書き忘れた。
 **
ノルマンジー上陸作戦後の米軍の軍事行動についても、ウィキペディア解説やハリウッド映画とはかなり違っている。
>延べ200万人も動員して、パリ解放まで2ヶ月半も要したことに疑問がある。最前線では、ポーランド人部隊など米軍以外の部隊が徴用された。この辺のアメリカ軍の特性と誇大宣伝の歴史性は内田樹「街場のアメリカ論」に詳しく論じられている。
 **
 
7月16日 アメリカが原子爆弾の実験に成功し、マンハッタン計画完成

             ↓

7月25日 米国、原爆使用を決定し投下命令を下す。
             ↓

7月26日ドイツのポツダム英米ソ首脳会談、ポツダム宣言発表、日本これを黙殺。 2015/1/31(土) 午後 6:40

 
「併せてアメリカとソ連の間でヤルタ秘密協定を締結し、ドイツ敗戦後90日後のソ連の対日参戦および千島列島樺太などの日本領土の処遇も決定し、現在も続く北方領土問題の端緒となった。」
W。算数の問題~5月8日の90日後って、何月日日?7月上旬まで参戦しなくては、東欧戦後処理の約束の見返りを果たすことはできなかった。」
の記事が肝心なヤルタ会談の米ソ密約を飛ばしているのは
関東軍の57万人のシベリア抑留とともに日本降伏後のソ連軍の次のような動向に目を奪われてものだろう
しかし客観的には、あったことをなかったことにし、GHQ日本統治史を後景にする役割を果たしている
ソ連は崩壊した。ロシアにかつての力はない、(ウクライナ失陥)。今はアメリカと東アジアを重点的に考えるとき。
8月16日  ソ連軍、南樺太に侵攻開始(28日占領)。大本営、停戦命令を出す。
9月5日  ソ連軍、千島列色丹島を占領。ソ連軍が北方四島の占領を完了。 
 
なお、ポツダム会談とポツダム宣言尖閣北方領土問題にもかかわる問題である。
    ポツダム宣言  内容
カイロ宣言の条項は履行されるべき。又日本国の主権は本州、北海道、九州及び四国ならびに吾等(米英ソ華)の決定する諸小島に限られなければならない。」
W。カイロ会談)の蒋介石発言→(ロ)日本の無条件降伏と、満州台湾 澎湖諸島の中国への返還
W。「澎湖諸島は、台湾島の西方約50kmに位置する台湾海峡上の島嶼群。」
W。カイロ会談の蒋介石(2年後に台湾に亡命するとは思わなかった)に、中国大陸から250km程度離れた岩礁尖閣島の帰属に関心はなかった。
フサイン、マクマホン協定で、フサインパレスチナ地方の帰属に関心がなく、そのまま放置していたことの超小型版。 尖閣岩礁帰属は蒋介石によって放置されたのである。
その時点の米英にしても、これらの岩礁の存在は視野になかったし、仮にあったにしても、軍事的価値はなかった。従って、米英側も尖閣放置。 
放置状態の尖閣岩礁帰属問題が政治によって、ダウンロード→インストロール→クリック使用の道を辿った歴史的結節点は、日米安保体制の強化=日本自衛軍の米軍世界戦略の肩代わりと引き換えに、日本国家権力機構への米国政府の沖縄施政権移譲(毛沢東共産党時代)を、日本国家権力機構及び自衛軍の拡大強化の道程と勝手に読み込み、北方領土4島帰属問題と同じく、尖閣に経済力に慢心した日本帝国主義的領土意識(コレは基本的に戦後、眠っていた戦前の帝国主義意識の浮上。日本政治史の特徴的パターンである。)が及ぶようになった時点である。
1945年 (昭和20年) 9月18日、朝日新聞への二日間の発行停止を命令 (SCAPIN-34)。
9月18日言論統制 のためのプレスコードが出される。 
 
9月27日 昭和天皇 GHQ本部へ行幸。密談が執り行われる。
 
1946年 (昭和21年)
1月4日  軍人、戦犯、軍国主義者及び同傾向政治家などの公職追放を指示。
3月6日   日本政府、「憲法改正草案要綱」(戦争の放棄、象徴天皇主権在民)を公表。

5月3日  極東軍事裁判東京裁判)開廷。
11月3日  日本国憲法公布。
 
1947年(昭和22年)
5月3日  日本国憲法施行。
 
W。この検閲問題を評論家江藤淳は晩年大きく取り上げた。
 
  確かに敗戦直後に時期の総司令部統治下のマスコミの出生の秘密と特権付与という痛いところついている。以降、江藤隠しといわれる事態が生じた、と一部でされているが、戦前の戦争遂行の柱であったマスコミ報道を放置していたら、GHQの占領統治と諸改革の障害になる、と判断したのだろう。
 
  戦前日本の支配体制の変革にはアメリカ軍事力よる日本軍壊滅の「暴力革命」が必要だった、というのが、「政友会と民政党」を読み終えての、実感であった。
 
戦前支配層は自ら大改革を実行する根拠と力量を完全に喪失していた
単にあそこがここが悪いの改革や修正は、戦後日本の出発にとって適切なものでなかった。
その意味での「暴力革命」であった。
内外環境に従属した「革命の変質」は古今東西、普遍的事柄であり得る。
>また、敗戦にもかかわらず、日本国民の大方の政治意識はほぼ戦前のままから変化しなかった事実も次の国政選挙の事態で裏付けられる
 
その意味でも検閲(ムチ)~頑強な戦犯、正力松太郎経営読売←社内労組の力でもけん制~は必要だったが、それと一体の特権付与(アメ)は災いだった。
 マスコミ報道の論調によって、戦前の異常な支配体制への従順体質が緩和された意味合いがある。  
 
 江藤淳のような歴史的要因を無視した一般的自由論には大いに疑問がある。
戦後民主主義の否定の大きなアイテムとして彼はこの論理を駆使しているが、そのような方向からの戦後民主主義の評価は、間違いである。
 ごっこ>という戯言で、<片付けるのは大間違い>である。
  この点において後にあげる白井聡の記述を批判する。民衆のリアルな戦いをとりこんでいない。
どこの場であろうと、<ごっこ>的豊富なバリエーションがなければ、大衆運動は成り立たない。
 
 たとえば、ゲーム論で使われている<政治ゲーム>という概念を適応するとどのような景色が見えるか?
祝祭の空間であり、反面では参加者はゲームに命をかける場合が多々ある。
 それが歴史における民衆像ではなかろうか。
 が、この方面から論点を深めていくと戦後民主主義のぜい弱性に突き当たるという意味では、一理はある。

    
 
   
第22回衆議院議員総選挙 - Wikipedia帝国議会選挙方式を採用されている。
46年4月。 有権者一人につき二人又は三人に投票ができる制度。
W。不思議な現象がある。無効票が10%弱出現、女性の有効投票率の低さ  72.08% (前回比-11.08%)
  • 男性:78.52% (前回比-4.64%) 
  • 女性:66.97%
白票や無効票を除いた実質投票率:63.38%
日本自由党1350万574624.36141(4)http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/4/40/R100.pnghttp://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/e/e1/R30.pnghttp://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/c/c0/R10.pnghttp://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/a5/R01.png
日本進歩党1035万053018.6794(6)http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/2/21/R50.pnghttp://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/e/e1/R30.pnghttp://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/c/c0/R10.pnghttp://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/b/b9/R03.pnghttp://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/a5/R01.png
日本社会党992万493017.9093(8)http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/2/21/R50.pnghttp://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/e/e1/R30.pnghttp://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/c/c0/R10.pnghttp://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/b/b9/R03.png
日本協同党179万97643.2514(0)http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/c/c0/R10.pnghttp://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/b/b9/R03.pnghttp://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/a5/R01.png
日本共産党213万57573.855(1)http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/1/1a/R05.png
自由党、進歩党、協同党は戦前の保守政党の流れをくむ政党。
>与党VS野党は249:99
敗戦後の日本の骨格が決まる大切な時期にしては、野党の議席は少なすぎる。
 
 
        第23回衆議院議員総選挙 47年4月
天皇の天命による吉田内閣の日本国憲法の施行を直前にして自らの正統性を世に問う目的で行われた。
   選挙結果 投票率  67.95% (前回比-4.13%)
  • 男性:74.87% (前回比-3.65%) 
  • 女性:61.60% (前回比-5.37%)
白票や無効票を除いた実質的投票率66.89% 白票無効票は前回より増加。
党派別獲得議席
与党  255野党  協同党は自民党に合流、151議席
255http://upload.wikimedia.org/wikipedia/ja/3/38/B100.pnghttp://upload.wikimedia.org/wikipedia/ja/3/38/B100.pnghttp://upload.wikimedia.org/wikipedia/ja/9/91/B50.pnghttp://upload.wikimedia.org/wikipedia/ja/6/6a/B05.png
日本自由党7,312,52426.73131http://upload.wikimedia.org/wikipedia/ja/3/38/B100.pnghttp://upload.wikimedia.org/wikipedia/ja/d/d6/B30.pnghttp://upload.wikimedia.org/wikipedia/ja/3/3e/B01.png
民主党6,960,27025.44124http://upload.wikimedia.org/wikipedia/ja/3/38/B100.pnghttp://upload.wikimedia.org/wikipedia/ja/9/95/B10.pnghttp://upload.wikimedia.org/wikipedia/ja/9/95/B10.pnghttp://upload.wikimedia.org/wikipedia/ja/d/d9/B03.pnghttp://upload.wikimedia.org/wikipedia/ja/3/3e/B01.png
199http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/4/40/R100.pnghttp://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/2/21/R50.pnghttp://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/e/e1/R30.pnghttp://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/c/c0/R10.pnghttp://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/1/1a/R05.pnghttp://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/b/b9/R03.pnghttp://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/a5/R01.png
日本社会党7,176,88226.23143http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/4/40/R100.pnghttp://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/e/e1/R30.pnghttp://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/c/c0/R10.pnghttp://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/b/b9/R03.png
国民協同党1,915,9487.0031http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/e/e1/R30.pnghttp://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/a5/R01.png
日本農民党214,7540.784http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/1/1a/R05.png
日本共産党1,002,8833.674http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/b/b9/R03.pnghttp://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/a5/R01.png
諸派1,174,6624.2917http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/c/c0/R10.pnghttp://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/1/1a/R05.pnghttp://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/a5/R01.png
国民協同党保守政党の流れで、現実にその後自民党に合流した。
 
1948年 昭和23年) 12月3日 GHQ対日自立復興の9原則を発表(対日政策転換。逆コースの始まり)。半島情勢は緊張の度を深める。
          ↓
関連項目
 
1949年 (昭和24年)11月1日 
国務省、「対日講和条約について検討中」と声明。講和案に賠償・領土割譲が無いことが報道される。これ以降、国内では西側との「単独講和論」と東側を含めた「全面講和論」が対立(世論調査では全面講和が優位)。
1950年 (昭和25年) 6月6日 マッカーサー日本共産党中央委員24名を公職追放
6月25日 朝鮮戦争勃発(- 1953年)。在日占領軍が大韓民国を支援するため出動

7月24日 GHQ/SCAP、日本共産党幹部逮捕と日本新聞協会代表に共産党員の追放を勧告(レッドパージ)。

8月10日  警察予備隊令を公布。総理府の機関として、警察予備隊が置かれる。

9月14日 米トルーマン大統領、対日講和と日米安全保障条約締結交渉の開始を指令。
 
1951年 (昭和26年)
9月8日  サンフランシスコ講和会議で日本国との平和条約を調印(ソ連は未署名)。続いて日米安全保障条約に調印。
1952年 (昭和27年)
2月28日 日米地位協定締結。
4月28日 日本国との平和条約が発効、日本の主権回復。GHQ/SCAPの占領が終わるが、占領軍のうち米軍部隊は条約第6条a項但し書き、及びこれを口実に締結された日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約に基づき在日米軍に衣替え。
****
「この条約によって正式に、連合国は日本国の主権を承認した。国際法はこの条約の発効により日本と、多くの連合国との間の「戦争状態」が終結した。」
 
国際法→「国際社会(「国際共同体」を規律するをいう。国際私法と対比させて国際公法ともいわれる
国家がその主権において自国内に制定する「国内法」と対比される
>W.日米にわたる政治軍事支配構造において、国内に永続敗戦の政治思想、論理が刷り込まれているとしたら、日本国民の方からアメリカに従属する道を選択しきたともいえる。
 

<主権回復の日>に関連する次のような項目をネット上で収集した。
ほとんどが無駄な努力でコレを読むと頭が混乱するばかりだったが、一応、<主権回復の日>に関連情報を書き出しておく。
 
野田毅  主権回復の日について
支離滅裂なところが目立つ。
 
4月の「主権回復の日」、政府式典見送りへ 辺野古移設で沖縄に配慮  産経ニュース
 
主権回復式典、安倍首相が式辞に込めた天皇陛下の思い   産経ニュース
W。式典のくわしい内容が報道されている。
 
主権回復の日に何を考えるべきか  日経新聞社説
http://www.nikkei.com/article/DGXDZO54486670Y3A420C1PE8000/
「気になるのは行事の前史だ。1997年に「主権回復の日」の政府式典開催を求める学者らが集会を開いた。趣意書には「占領軍即席の憲法」との表現がある。参加したのは、先の戦争は聖戦で、東京裁判は不当な断罪と考える人たちが多かった」。
政府式典がこの延長線にある行事だと