前回もまたまた、最後の詰めの部分がアップされなかった。余計な画像や記事のコピペがあったことも事実。
そういうことで、前回の記事の末尾に白井聡「永続敗戦論」のエピローグで、彼がたまたま、コペンハーゲンのムスリム系の青年の運転するタクシーに乗った時の、その激しやすい青年とのシーンを長々と引用し、日本とイスラム圏との関係の到達点を指し示しているところを記事にし、今の事態を前にすると一種の神がかり的な予言でもあった、と締めくくった。
記事を書きあげた後、後藤さんが殺害されてしまっていることを知って、<日記>に立ち返ると、アップされていなかった。
(記事省略)
日本的政治観は多くの識者の指摘にもかかわらず、日常生活レベルにしみ込んだ論理的整合性理解していない。その指摘が、ギリギリの局面を想定し、一般的な日本文化ー風土論、他の異質な文化圏との比較論として展開されているところに限界が生じるのではないか。であれば、そういう日本的文化ー風土に居直ってしまうことも可能になる。
そのタクシー運転手の単純素朴な発言内容も、良くも悪くも日常性レベルの太い論理が貫かれている。
良くも悪くも論理的整合性はある。
そのちょっとした体験を、記憶の中から引っ張り出し、エピローグの三つのシーンの一つに持ってきている。
永続敗戦<論>の典型を<物語るシーンとしてチョイス>しているところに、今回の事態を前にしての偶然の一致ではない、予言を見た。
政治論に対する基本的な評価の姿勢として、すでに起こってしまった事への解釈はしかたながない。材料はそれだけしかないのだから。
しかしその材料の使い方によって、これから起こることへの予想、ないしは予想に使える材料を提供できるものである。
文脈の中にそうしたものを埋め込めないものは、理論的な手法を用いても、まともに相手にするに値しないと考える。
例にあげて悪いが、Uさんというエコノミスト兼政治評論家がいる。最初は相手にしていたが、政治評論家としては失格者とみなしている。
「永続敗戦論、戦後日本史の核心」の落とし所は、近衛文麿の昭和天皇への上奏文と、http://www.geocities.jp/yu77799/siryoushuu/konoe/jousoubun.htmlそれが敗戦前後の<国体>に与えた影響を、真正面から論じたものであった。わたしの上奏文への読み込み方も、堀田善衛の文学的視点からの評価ではなく、正面から国体とのかかわりを問題にするものであった。
「永続敗戦論~戦後史の核心~」の末尾において、国体とその行動への制約要因とするのは、政治思想的なごまかし、日和見、後退はなく、それまでの記述を締めくくるにふさわしい<王道をいく>結末だった。
「永続敗戦論~戦後史の核心」は、自らチョイスした論点について正面から問題点を明らかにして、最後まで云いきっている。そこに政治思想に至る王道がそこに開けるのである。
「永続敗戦論~戦後日本の核心~」エピローグ、193ページ半ば、から195ページいっぱいのシーンとその時の白井聡の反応は、リアルなイスラム圏の過去の日本の対西洋大戦争に対する素朴な共感と戦後日本への誤解と日本人としての複雑な心境をリアルに描いるもので、なるほど、あれからあまりにも長い時間が経ちすぎているにもかかわらず、我々も知っているこの種の誤解は本当なんだなと思う。
しかし世界史の視点から順序立てて考えてみると、日本の西洋に対する戦争へのイスラム圏庶民の素朴な共感も、根深いものがあるな、と感じる。
中世初期のフランス地域から始まったレコンキスタもあった。十字軍遠征もあった。それ以前の古代ギリシアからローマまでさかのぼり、さらにその前までさかのぼれば、話は混乱するが、中世の日本語でいうところの大航海時代が始まるまでの、その方面での先進地域は、ヨーロッパ世界ではなく、イスラム世界であった。
東アジア地域のように、各々が基本的に引きこもり要因の強い、地域風土と違って、戦争を極限とする相互交流の中で、中世先進イスラムと後進ヨーロッパ世界は実存していたのである。
そのイスラム圏とヨーロッパ世界の交流のなかで、立場の逆転が徐々に起こり(オスマントルコのヨーロッパ侵入が頂点)、ヨーロッパが近代に入って以降、立場は完全に逆転した、というか、新大陸の発見以降のニューフロンティアによって、砂漠の多い荒涼として富の源泉に乏しい地域としてイスラム圏は植民地支配の危機はあったものの、ヨーロッパ世界からまともに相手にされなくなったというのが真相だろう。
しかし、もう一度世界史の視点に立ちもどると、イスラム圏は、古代の中国文明の影響を受けて発展した東アジア地域に匹敵する固有の高度な文明圏であるという潜在性は保持したままだった。何周も周回遅れではあっても、いずれは近代に到達する歴史的必然性があった。
イスラム圏は世界史によくある先進地域は後進地域に没落するという歴史の逆転現象を典型的に体現した地域だった。封建性を色濃く残したまま、世界史の躍動する中心地域から、完全な周辺地域に移行し、近代に突入して、富の源泉を求める中心地域から放置され、政治的冒険主義の活躍する土壌を提供するばかりで、荒廃していったのだ。西洋中心史観ではないつもりだ。
そんな完全周辺地域としてのイスラム圏が、一気に世界史の中心に引き寄せられたのは、第二次世界大戦後の油田の開発によるものである。第二次世界大戦前この地域の油田の生産量の占める割合は大きなものではなかった。映画デビットリーン監督の「アラビアのロレンス」に実情は描かれている。
このような歴史構図は、それまでの世界史の見出せない特殊なものである。
加えて、ユダヤ人への西洋世界の差別と大虐殺、シオニズム運動から、イスラエルの建国によるイスラム教とユダヤ教の発生地域を同じくする宗教対立まで、発火剤とするようになり、世界覇権のリアルポリテックスの集中する政治軍事舞台となり、この地域の低強度戦争状態を維持することが世界覇権の利益に直結する事態がある。
戦後世界史からみて、この地域ほど戦争状態が恒常化している地域はほかに見当たらない。
この地域をめぐる世界覇権の政治と軍事の方程式には、解はないのであって、<油>の途切れるまで燃え盛っていくであろう。
かつては富の源泉なく近代世界から放置された地域に、<あぶら>という富の源泉であると同時に紛争発火の燃料を得た。
しかも、<あぶら>に満腹した国と、そうでない国が、地域に同居している。同じ宗教の派閥で争って、まとまれないのも当然である。陰謀政治の渦巻く舞台であり、云うところ<正義>も次第にグロテスクなものになりつつある。
白井聡「永続敗戦論」の195ページは、様々な解釈と創造力の可能な問題を含んでいる。
そうであるがゆえに、深くて幅広い、これからの、日本とイスラム圏の関係に対する予言、及び日本政治の今後の進路のアウトラインさえ指し示すものとなっている。
たとえば、この予言的想念を下敷きに2020年東京オリンピック開催の事態を想定すると、その時点の日本が、好んで世界化するという意味合いも持つのだから、白井聡の指摘するような日本国内のセキュリティー問題の出来だけでなく、日本の世界的なセキュリティーが課題に上ると考えて当然だろう。
コレがグローバル資本と多くの世界人民の利害の対立を内包しているところに、対イスラム圏の意味を超えた根源性を見出す。
>それは見せかけの新冷戦体制の構築とその争闘という、あまりも大きなごまかしに決しておさまるものではない。グローバル支配層の利益は相互反発しつつたがいに依存し、一致している。分け前の問題での対立はある。
どうして<自称イスラム国>に世界の主要国から、傭兵的参戦者が、こんなにも増えたのだろうか?
一説にはイギリス、フランス、中国は三ケタ。、総勢、万体のへ市がイスラム国に兵士として参戦している。
ここにグローバリズムとその資本制の基本矛盾と対立物の原理法則次元の生成という現実が<体現>されている、と見る。
こういう現実に背を向ける、理解できない引きこもり日本ではないのか!
そいう思考ルートからすると、日本の対西洋戦争というあまりにも膨大な血を持って購った、「歴史的財産」において、イスラム圏との対立に積極的に参戦するいわれは全くない。
今求めれれているのは、日本歴史を清算するのではなく、統合し、今に適応することである。
そういった意味でのリアリズムの外交政治である。
アベに対する批判はきちんとすべきだ。
主権回復の日の集会におけるアベ演説は、現実政治の政策が戦前の浪漫派文学の感性をモチベーションにしたものであることを自認したものであって(「美しい国へ」のアベの現実政治の問題を美しい世界の物語にすり替えるどうしようもないところである!)、このような政治感性のものが政権をつかさどることは、アメリカでいえば、キリスト教原理主義者が大統領になったに等しいものである。ブッシュの半覇権国家アメリカでさえ、黒人大統領のオバマの修復を呼んだが、日本政治にそのシステムはセットされていないのである。そういった意味で、日本政治はフレキシブルでない。
参考資料
2015/02/02 「憎悪と恐怖が煽られ、狂気の正義が膨らんでいく」”I am not Abe”発言の真意とは 岩上安身が元経産官僚・古賀茂明氏に聞く(動画)
くわえて東アジの動乱の要素は消えるはずがなく加速する。
日本人の本来のメンタリティーは、このような時代に冷静な判断を下せるほどフレキシブルではない。
何かと古き良き日本の過去に幻想するのは勝手だが、この点についてい為政者は熟考すべきだし、何よりも人々が、備えるべきである。
白井聡の「永続敗戦論」の最大の欠陥は、その人々の備え、の核心において、認識の深化と知性⇔知識としているように思えるところである。
もちろん肝心なことである。
しかしそれ以上の次元で、リアルな政治と軍事は動いてきた。
それに対する人々の対処の仕方は、今までの経験とその延長線上にしかない。その面で「発明」はなかった。
さらに言えば、本人も自覚しているであろうが、日本の破局事態とその後を想定しても、支配層の支配は打ち倒されない限り、継続するのである。
世界戦争と米軍事力によっても、白井の指摘通り支配層の歴史は継続してきたのである。
増して、今後そういった次元の既存の秩序の破壊が、想定できないとすればどうなるか。
余計な政治的危機感は持つべきでなく、邪魔になるというのは自分の基本スタンスである。
カタストロフィーや革命が想定されない時代的推移を前提にすれば、戦後民主主義は否定すべきものではなく、取り込み活用するものである。否定する仕草の代替えになるものあるのかないのかと、リアルに見極める必要がある。
これからのグローバリズムの歴史の推移においてそのようなものの収斂される先は決まっている。例に事欠かない。
死の間際に書き綴った私小説を読めば実に低劣なかつての特権への未練が見てとれる。
それもたいしたものでない、から嗤わせる。
安岡章太郎「海辺の光景」への家族論からの批判は、江藤の死に様において無効であり、空虚で単に批評言語として綴っただけのものである。
個人として死を決行したものとって、その時点で、家族も国家も抽象的存在に化し遠い存在であるはずだ。
国家、民族、家族を便利で安易な政治的よりかかりの絶対道具として使用しているのである。
ならば、その地金の部分を表に出して、評論活動をするのが、政治思想を深めることにつながると考える。
引用。198ページ
「本書は『敗戦の罪をもっぱら問題にするばかりで、<戦争そのものの犯罪性。(ひいては国家そのものの本性的暴力)を問うていないのではないか、と。
~それを前提としてあえてこのような議論を展開した理由を記しておこう。
それは、わかりやすく言えば、<物事の順序>を守らなければ積極的な結果が出るはずがない、そしてげんに出ていない、と考えたからである
~戦争責任の追及という概念にはいくつかの層がある。カールヤスパースは~四つの層に分類した。
前者から後者になるにつれて抽象度が高くなり要求される倫理性の質が高度になる。
刑法上の罪。政治上の罪。道徳上の罪。形而上学的な罪。
~
勝てるはずがないとわかっていた戦争に、なんとなく突っ込み、自国民の生命をまるで顧みみることなく、自国民を破滅の淵に追いやった指導層の責任<負けたことの責任>という最も単純明快な責任さえも、実に不十分な仕方でしか問われなかった。」
「狭義の日本国民の犠牲や不幸に対する責任すらまともに追求することのできない社会が、より高度に抽象的な責任を引き受けられるはずはない。
時速100キロに満たないど真ん中のストライクを打てない打者が、150キロの難しいぼるを打てるずがないのと同じことである。」
<「故に本書の議論の構えが国民国家の枠組みの限界を乗り越えるどころか強化しかねない、という批判が出てくるとすれば、それは無効である。
戦争責任のイロハのイを飛び越して、一挙に高度な次元における責任追及へと進む議論が、今この国と社会が抱えている問題の適切な解決に資することができるとは、私には思われない。」
しかし。結果としてこの日本では、そのような論法を使うことは、過去の反政府の運動の在野の運動の清算に直結していく現実があったのではないか、ということだ。
たとえば、
小沢一郎の政治的軌跡を追えば、結局、戦後民主主義のよって来る基盤を荒らしまわった軌跡であると総括できる。彼に期待をかけて、政治アパシーにおちいった層はかなり存在すると思う。また、維新の党などの支持者と元小沢支持層とかぶっているだろう。
小沢氏の支持者の大半は、街頭デモさえなかなか立ち上がろうとしない人たちである。鳩山由紀夫氏に支持者がいるとしても同じような事態であろう。
どうしてなんだろうか?
代議員制にげたを預けているという、次元に限らない、小沢氏の政治思想にある問題、あるいはそうした政治思考のパターンには、もともと、大衆行動、市民運動を内在できない本質があるのだろうと考える。
数の論理、と彼流の議会制民主主義の理解もあるがそれだけではないと考える。あの人の政治活動の実態をを見ると、戦前の政党党政治家にあまりにも似すぎている。
リアルな大衆行動のモチベーションは、戦後民主主義を継承して取り入れた中でしか、日本では発生しえないというのが、わたしの政治的な判断である。
それを様々な言説を駆使して否定する手法がその政治思想の根幹をなしているから、大衆行動はその政治に内包できない。大衆行動とは庶民一個人にとって<自立>の側面があるが、小沢氏の云うは自立の説教である。
白井聡の「永続敗戦論」への批判としては濡れ衣をかぶせるようだが、彼がこの本で使った論法を拡張すれば、そのような批判は成立するし、この本のそのような側面は読み方によれば、意図しない大きな欠陥につながる。