反俗日記

多方面のジャンルについて探求する。

第2回。中東問題を考える。1)アラブ民族主義は地域のリアルな状況への従属変数として変節の歴史刻印。2)当地のイスラム圏には宗教原理主義に回帰する構造が内包。3)グラフで見る高出生率、若者失業の環境。

[PDF]中東を知る http://www.ritsumei.ac.jp/ir/ir-navi/common/pdf/chiiki/chiiki_text_02.pdfの全文を読んだ。
この文書は、末尾に参考文献多数を列記しただけの、中東学者さんたちの見解を大学院生のようなヒトたちが、簡単に取りまとめているもので、なるほどなと感心するところは、冒頭の次のような視点だけしかない、と判明した。
   ↓
最初の2.中東研究の学び方
(1)中東を知るための鍵たる要素
A.アラブという概念 
W。特に赤色強調部分はアラブ=中東近代史 とイスラム社会を根っこで理解できる基本視座であり、このような視点は、Wが集めた膨大な資料の中にはなく、パット視野が広がった気がした。
手間がかかるがこだわっていく。

キーワード <アラブ>→中東近代史を読み解く際の鍵。 <イスラム>→、中東社会を知るための鍵
>アラブ民族主義は
*もともと、東方問題(オスマン帝国の弱体化に付け入った欧州諸国のバルカン、中東進出により生じたギリシア独立、クリミア戦争、オーストリアによるボスニア・ヘルツェゴビナ併合等の一連の国際紛争)をめぐって、
*<宗教的対立を越えてアラブ民族としての一体性>を説いた<キリスト教徒の知識人達にその淵源>を辿れる。
 
W。<キリスト教徒の知識人達にその淵源>は、あえてここで突き出すことはない。
中東社会に根付いたイスラム教の教義、習俗にどっぷりつかった側にとって、アラブ民族主義という世俗的イデオロギーによって、中東イスラム圏、アラビア語圏、の領域を統一的にカバーする契機は希薄であった。
アラブ民族主義で地域統合ができない理由は、それ以前の問題として、ムハマドから数えて4代目の正統カリフ
アリー - 世界史の窓の時代に、その正統性をめぐって、多数派スンニ派と少数派であるが、戦略的要所であるイランイラクでは多数派のシーア派の大きな亀裂が走り、宗派対立構造が生まれ、政教一致の宗教であるイスラム教に分裂の巨大な要因が発生していおり、アラブ民族主義の政治基盤は時々の政治軍事状況に従属変数、ぜい弱的可変的なものにしている。
 
宗教問題は大に苦手で、具体的即物的にしか論じられないが、例えば、前回の記事の当該箇所の第一次大戦時のオスマントルコ包囲網=現地のトルコからの独立を舞台にした「アラビアのロレンス」を挙げると、こういうことになる。
 
 ドイツオーストリア側に立って、英仏露、(米)と戦うオスマン帝国 - Wikipediaにとって、背後の中東地域の叛乱は、地続きの真後ろからの逆襲となり、当然にも、中東地域の統一的反乱は絶対に回避したいので、分断工作に出る。
コレにたいして、イギリス=アラビアのロレンス側は、分断工作を避けるために、中東地域の民族主義と云うネットをかぶせ、ソレを前面に押し立てて応戦する、政治力学が働く。
この政治力学を端的にあらわした政治イデオロギーがオスマントルコ支配から脱した大アラブ民族国家の大風呂敷であり、ソレは当時の世界覇権国家イギリスの勢力圏下への研究成果でもあった。
 
>他方こうしたロレンス=イギリス側の民族主義イデオロギーの狭量なプッシュを受けて側のフセイン、
(A)ファイサル1世 - Wikipedia(初代シリア王在位:1920年3月11日 - 1920年7月25日)、初代イラク国王(在位:1921年8月23 - 1933年9月8日W。当時は混然一体の領域国家。シリアはフランス統治へ。分割されたのはサンク(英)、ピコ(仏)条約以降である。
ファイサルはシオニズム指導者ハイム・ヴァイツマン(初代イスラエル首相)とファイサル・ヴァイツマン合意を締結した。ファイサルはバルフォア宣言を受け容れることになる。サッスーン・エスケルのように閣僚にもユダヤ人が多くいたW。アラブ民族主義は、当地のおかれたリアル政治の要請によって、非常に可変的人工政治イデオロギーであり、普遍性に大きなる疑問がることが分かる)や
 
サウジアラビア国王(在位:1932年 - 1953年)「サウード家によるアラビアの王国」を意
イメージ 1
 
 
←ā illā-llāhu; muhammadu rasūlu-llāhi)
(アラビア語:アッラーの他に神はなし、ムハンマドはアッラーの使徒なり)
 
 
←W。下の剣はサウード家の象徴である。
ワッハーブ派 - Wikipediaマームとしてはアブドゥルアズィーズ2世、サウジアラビア国王としてはアブドゥルアズィーズ1世と呼ばれる。」
 
「法学的には、イスラム法学派のうち厳格なことで知られるハンバル(885年没)派に属す。
W。簡単にいえば正統カリフ時代の権力の世俗統治とイスラム教義の区別したカリフの政治判断に対して、ムハマドの昔に還れと、強烈な政教一致を主張した。
今日でもイスラム原理主義の原点になっている教え?である。
世界一の石油大国、地域の軍事大国、ワッハーブ派 - Wikipedia、サウード家によるアラビアの王国」がイスラム原理主義の総本山のような形になっている。したがって、イスラム原理主義は地域の貧しく圧迫された人々の教義とばかりは云えず、地域の支配層の支配体制護持のための教義ともなりえる。
 キリスト教の宗教改革をイスラム教のい当てはめると、ムハマド、以降の正統カリフ時代への回帰という宗教原理主義に行き着いてしまう構造になっている。
それ以外のものは、自然発生的な世俗化。宗教教義の建前と実生活の本音の使い分けが庶民の間に浸透していくだけである。
どうしてそうなるのか?
イスラム教の生まれた環境、原点をリアルに比較検証すればすぐわかることである。
 
キリスト教はローマ帝国の世俗権力と教権は最初から綱引き状態で、政教一致は最初から歯止めがかかっていた。
 
仏教。もっとも古いこの宗教は個人修養主義であり、組織的に政治権力を握ることを正統化する教義は含まれていない。
イスラム教は強烈な政治指向を内包する政教一致の政治宗教である。
 
20世紀前半のエジプトで生まれたムスリム同胞団 - Wikipediaもこの流れの中に位置づけられる。
 
>時間不足で結論を急ぐ。
アラビアのロレンス=イギリス、フランス、(ロシア)が対オスマントルコ包囲統一戦線を背後に拡張するために、実現する政治基盤も、イデオロギー的条件もなかった大アラブ民族主義構想の大風呂敷を、これら中東地域の即席王権支配者に打ち出した事に対して、アラブ側の回答は、イスラム教の宗派性の強化であって、決して地域の民族主義的大同団結の方向に向かわなかった。
だから駄目なんだ、と云うことではなく、コレが広域地域の歴史、宗教政治経済の実際からもたらされる帰結であった。
 イラン「革命」はこの文脈においてしか理解できない。
「革命」後追放されたのはシャーと旧体制の強力な支持者だけではなく、リベラル派左翼も追放され、亡命した両者が、フランスで顔を合わせたというのは中東史の皮肉な側面である。
 
>エマニュエルトッドによれば、中東地域の紛争の根本原因は遅れた近代化の生みの苦しみであるという。
政教一致の宗教原理主義を内包するイスラム教が政治の代替えになっている時期が長引けば、バランス感覚ある政治の実行の障害になり、混乱は続く。そのことによって一番被害を受けるのは、地域の弱者たちである。
国内が外部勢力の生み出す動乱の地と化しているシリアでは、コネ、体力、財力の付き果てて難民にさえなれない人たちが大勢生み出されているのではないか。
>なお、エマニュエルトッドの「帝国以降」に掲載されている資料によれば、
>イスラム圏では、従妹同士の結婚率が異常に高い。
>出生率に大きく影響を与える識字率と産児制限の進捗具合が早い国々で「アラブの春」が発生している。
      1981年           2001年
アルジェリア 7,3             3,1   (進捗 4,2)←社会形態の激変を示す。長期紛争。
リビア    7,4              3,9   (進捗 3,4)←3,9で内戦
 
シリア    7,2              4,1   (進捗 3,1)←4,1で内戦
チュニジア 5,0              2,3   (進捗 2,7)
 
エジプト   5,3              3,5   (進捗 1,8)
イラク    7,0              4,1    (進捗 2,9)←4,1で外部勢力の介入招く
サウジアラビア7,2            5,7    (進捗 1,5)←イスラム原理主義が国是。
イラン    5,3              2,6    (進捗 2,7)←国家統一を保っている原因は近代化にある
    
トルコ    4,3              2,5    (進捗 1,8)
 
 
 
>(1)参考資料
◆激動する中東と地域研究
W。文書、中程。
(A)中東北アフリカ諸国の15-24歳人口の比重    (B)中東諸国の都市農村人口比( % 、2007年)
( % 、2005年)                      (省略)
アルジェリア 23   34         
バハレーン 15    22
エジプト 21      34
イラン 25       38
イラク 20       36
ヨルダン 20      33
クウェート 15     21
レバノン 18      29
リビア2 3        34
モロッコ 18       32
オマーン 21      33
パレスチナ 19     38
カタール 14      18
サウジアラビア19  31
シリア 23        38
チュニジア 21     31
トルコ 18        28
アラブ首長国 17   23
イエメン   21 42
 
 (A)の解説
*中東諸国において、青年人口は2035年まで増加の見通し。
1950年代から1980年代まで、高い出生率が続いたこの地域では、青年人口の比重が減少傾向に転じるのに長い期間を要する。←W。原理主義、行動主義に走り易い人口動態。
*このような緩慢な人口転換のパターンのため、中東では、労働力人口の増加が長いこと続くことになる。
*中東は、世界のなかで最も労働力人口増加率が高い地域。
             ↓
W。若者に職が与えられない。失業問題。
極論すれば、民間兵士になったり、政治的団体食いぶちを得る可能性が絶えず身近にある!このような普遍的困難状況に外部勢力の介入、武器資金ルートが形成されている、と見る。
 
(B)の解説
*中東諸国のなかで、人口大国はエジプト、トルコ、イラン。それ以外の国々は人口3000万人以下の人口小国。
中東は、都市人口比が高い特徴をもつ世界平均の都市人口比は49.4%であるのに対して中東の大半の国々では70%を超える。
 
 
W。都市に集住せざる得ない環境、若者人口が多い。流浪化するのは当たり前で、その水路は政治的希求の方向に開けれており、安易に武器を手にする人間も多数生まれるだろう。
 
例外は、エジプト(都市人口率40%)、イエメン、スーダン(都市人口率35%)、シリア(都市人口率50%)。
 
W。シリア総人口(約2000万人)の農村人口が多いのは、意外だった。
国土の人口扶養力が高いことや、アラブの大義に国家政策として忠実であったために、軍事負担が重なり、民事政策の遅れがあった、と見る。
前者と後者が重なって、国内紛争家の住民の耐久力と、政治的不満の要因となって紛争が長期なしているのだろうか。
 
(2)資料 
大中東圏構想の虚像と実像 https://www2.jiia.or.jp/RESR/column_page.php?id=4
       公益法人 日本国際問題研究所 
「W。いわゆるアラブの春事態とその後の推移、現シリア情勢を読みとくカギがここにある。
           ↓
>アラブ各国には、民主化を求める知識人や勢力が、もちろん存在する。
彼らの一部には、既に「米国による民主化圧力」を歓迎する例も見られる。
しかし、彼らによる内発的な民主化要求が、米国追従と批判されてしまう危惧も存在する。
*「大中東圏構想」に対しては、反対派と賛成派がいるというよりも、アラブ人一人一人の意識のなかに「米国の言いなりになるのは嫌だ」という考えと、
*「きっかけは何であれ、民主的な国になりたい」という考えが同居していると理解した方が、現実に近いと思う。
>それゆえ、現に存在する民主化の必要性と、中東和平やイラク情勢などから来る対米不信・批判との間の深い溝を、どう埋めていくのかという問題が、今後の「大中東圏構想」の最大課題となろう。
W。先ず何より、筆者が冒頭で指摘しているように「(W。米国の)大中東構想の実態は、実質的な中心はこれらの「民主的改革」ではなくて、むしろ教育や職業訓練、貿易投資の促進、小規模起業家への支援などといった「社会的、経済的改革」にあることは明らかである。
社会経済開発において中東地域を特に重視するものと評価すべきものなのである。」
W流にいえば、米国政府主導のグローバル資本向けの適正市場環境を中東地域に創出するこであって、「民主的改革」は完全に二義的政治目標であるから、
「現に存在する民主化の必要性と、中東和平やイラク情勢などから来る対米不信・批判との間の深い溝を、どう埋めていくのかという問題」のリアルな解決策は米欧の政策と、中東現地の政治軍事情勢から、限定されていくる。
 
この参考資料の引用による解説は次回に続く。