反俗日記

多方面のジャンルについて探求する。

PDF]世界の今 混迷するアラブ情勢の今~青山弘之ホームページ~。アラブの春5年・第1部/上 脆弱な民主主義 「優等生」 - 毎日jp。資料に基づくイスラム原理主義批判。

 どのような宗教や政治思想でも「原理」主義は偏狭独善性、暴走破壊性を秘めているというのが、体験的感想である。
理由はいくつかある。
その原理は「  」付きの原理であること。原典の教義、主義の独創的体系的な再解釈をしているので、それなりに時代状況に適応する訴求性、急進性、原理性がある。ただやみくもに原典回帰をしているだけであれば、偏狭独善性、暴走破壊性パワーのイデオロギー的原動力にはならない。
とはいっても「原理」主義は普遍性のある宗教や思想が、各時代状況の対して柔軟に適応し、実際上再解釈されてきたことを、厳しく否定する。ソレらは教義の根本からの逸脱をみなされ、時には激しく断罪される。
 
 
 「イスラム原理主義」岡倉徹志著を読んでいると、中東イスラム教の歴史において、原理主義の発生する根拠、ターニングポイントに気づく。想像するに著者は中東イスラム教に非常にシンパシーを抱く人であるので正直に告白してくれている。
 
なお、アラブの春以降の当該国の混迷状況をイスラム原理主義の問題に還元するのは、逆立ちした議論であるという中東専門家の貴重な意見がある。正しい!いままネット上で閲覧した中東情報で一番、腰が据わっており、しっかりしている。ジャーナル、かつ政治的練度、完成度が高い。
 
上記の基本視点に立った最新情報は
 
もともと、「反俗日記」の基本視座は社会経済状況を中心に据えた経済決定論に傾きがちであり、、政治や宗教イデオロギーは二次的に扱いすぎるので、そうした経済決定論と当地への不公平偏見を克服するためには、中東地域のイスラム教の在り方に切り込まざる得ない、と云う矛盾がある。
 
少なくとも、中東へのリアルな視線の出発点が1970年代にあるものにとって、<アラブの春>は冷静きわまる観察対象以外の何物でもなかった。とどのつまりはグローバル資本制下にあって、国家権力がどこにあるのか、その構成要素はどうなっているのか、基本理念、基本政策はどうなのか、が自分にとって、問題であった。
天安門広場の事態もあれば、ソ連東欧崩壊も念頭に置かなくてはならないのではないか。
TPPも安保法制も創価学会公明党の政権参加も、米国キリスト教原理主義ネオコン世界戦略、ウクライナ情勢も全部、中東情勢に密接に関連している。それが、全地球一体化と云う現実である。
 
ただはっきり云って、アラブの春には関心がなかった。以前からの歴史的推移を実感している者にとって、具体的状況まで予測できなかったが、そこで発生していることがどこ向かうか大体大きな流れがわかっていた。
この地域の側は物理的にも政治思想的にも主導的決定力にかけている。従属性が強い。東アジアの政治経済軍事と比べるとすぐ分かることである。
そして記事を書きだして痛感するのは、やはり頑迷なところに落ち込んでしまった中東イスラム原理主義(広い意味でいえば、トルコ以外の中東全域で主流の宗教思想はイスラム原理主義)が、寄り道をできるだけ少なくして、前に進むべき政治の邪魔をしている、と云うことであり、そのことをはっきり指摘するのは間違いでない。
 
毎日新聞  2016年01月15日 03:42)
「2015年12月、民主化要求運動「アラブの春」の先駆けとなったチュニジアの「国民対話カルテット」にノーベル平和賞が贈られた。~」
W。この種の紛争で何度も見た光景だなぁ~。
「、「アラブの春」が伝わったエジプトでこの時期、革命で誕生したイスラム政党が世俗派の支持を得た軍事クーデターによって転覆したことだった。『エジプトのようになることを防がねばならない』。ガンヌーシ氏は対立するカイドセブシ氏とのトップ会談を決意した。
 8月15日、パリの高級ホテル~。W?
「後に、政治色を排したテクノクラート(官僚主導)内閣の組閣や憲法制定などの政治日程(ロードマップ)の合意につながり、アンナハダは政権を手放すことになった。このロードマップが、労働組合や人権擁護組織など主要4団体から成る「国民対話カルテット」から提示されたものだった。~
 
「「アンナハダが態度を軟化させなければ、(カルテットの)ノーベル賞の受賞はなかった」と振り返る。ただ、アンナハダの譲歩の背景には、治安悪化の責任を追及する厳しい国内世論もあった。~」
「、15年2月にニダチュニスを最大与党とする連立政権に加わった。革命後初の本格政権の発足だった。
 だが、新政権は早くも危機にひんしている。ニダチュニス内部の主導権争いが表面化、大量の離党騒ぎに発展したからだ。サビー・ベンフラジ議員は「党幹部の頭には権力争いしかない。ベンアリ政権と何も変わらない」として、3月に新党を結成する構え。ニダチュニスの分裂で、アンナハダが第1党に返り咲いた。
 再び巡ってきたチャンスだが、ガンヌーシ氏は次期選挙で勝利しても、世俗派との連立を継続する考えだ。」
「、「アラブの春の優等生」を取り巻く厳しい現実を示している。~」
 
     *過激派戦闘員に6000人*
ISなどイラクシリアに渡った戦闘員の出身上位5カ国 米国のスーファン、グループ2015年発表
米テロ対策専門企業「スーファン・グループ」W。どう云う計算をしているかわからんが。
チュニジア      6000人 ←W。総人口 1067万人 神奈川県の人口900万人 
居住域は南半分サハラ砂漠で8万平方キロ←北海道約8万平方キロ。北海道に神奈川県の人口をばらまいた中から、6000人の流浪戦闘員排出。経済的な原因が大きく影響しているのだろう。
サウジアラビア   2500人 ←W。       約2900万人原油生産の富は、軍事費と支配者どもの浪費へ
ロシア         2400人
トルコ         2100人 ←W。      約7560万人 人口が少ない割に存在感。地域の主導権握って                      
                                       きた歴史
ヨルダン       2000人  ←W。  約6300万人意外に多い! エジプト約8200万人 イラン7700万 
 
      *強権倒れ、IS拡大*

イスラム原理主義」岡倉徹志著を読んでいると、中東イスラム教の歴史において、原理主義の発生する根拠、ターニングポイントに気づく。著者は中東イスラム教に非常にシンパシーを抱く人であるので正直に告白してくれている。
>まず、中東イスラム教の歴史において、原理主義の発生する根拠を正直に書いてくれている個所の引用。
 
イスラム原理主義への回帰 P88
 
イスラム原理主義と云われる信徒たちは、自らを原理主義者と云っているわけがない。
W。サウジアラビア原理主義に含めることができるので、本人たちが、どのように自称しようと、原理主義は中東のイスラム教の特徴とみなすことができる。なおパキスタンにもそういう傾向が支配的である。
 
彼らは現代イスラム教<社会>(W。社会としているところの注目!社会への敵意内在)が退廃しきっており(W。何を持って退廃とするのか。はたまた退廃は排除すべきなのか。1千夜一夜物語はどうなる。原理主義アッバース朝イスラム繁栄時代を否定し、存在しない架空の過去回帰の近代宗教思想である。)
その社会を茶手直すために何よりもまず初期イスラム社会が退廃しきっており、その社会を立て直すためにまず、初期イスラム社会に回帰しなければならないと説いたのである。
 イスラムの歴史を振り返ってみると、イスラムの原理、原点への復帰を即す運動が、ムハマド世界のイスラム世界を襲った危機、大混乱の度に登場している。
原理への復帰は極めて周期的であることを特徴としている。

 
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上記のイスラム原理主義理解の間違いを指摘できる資料。
 
 
第4回神戸大学国際文化学部公開講座・ひょうご講座「グローバリゼーションを問う
 ー地域文化からのまなざしー」2003年11月1日
3-1 ゲルナーのC特性群とP特性群
  ○C特性群
      1)現世、来世におけるハイエラーキー志向
      2)司祭、儀礼的職能者、諸聖霊の活動
      3)知覚可能な象徴、イメージへの宗教の具象化
      4)儀礼、神秘的行為の盛況
      5)特定の個性への忠誠
  ●P特性
      1)厳格な一神教
      2)ピューリタニズム
      3)聖典と読み書き能力の強調
      4)平等主義
      5)霊的仲介者の欠如
      6)儀礼的放縦の制限、中庸と覚醒した態度
      7)情緒よりも規則遵守を強調
  3-2 イスラームと「近代」
●ファダメンタリズム--------------------------イスラム主義として捉えられている
      ○近代西洋なるものとの対立
      ○反動、復古、伝統主義などの特徴
      ○初期イスラームへの強い指向性
      ○原点指向性は、18世紀のワッハーブ主義、19世紀から20世紀にかけての
        サラフィー主義と同じ
  ●イスラームでは前近代においてはC特性が目立ったが、近代になってからはP特性が
    強調されるようになってきた、という議論

**

  シーア派スンニ派の歴史  W。ここで原理主義発生の歴史的ターニングポイントを明らかにできる
P95
「しかしアッバース朝は次第に富におぼれ(W。「千夜一夜物語」のエロスと権力と暴力の世界か)9世紀にいると退廃的傾向を見せ始めた。
>その中で827年、第7代カリフ、マァームーンはコーランの教えより理性の優位を主張するムーダバラ教義をアッバース朝イデオロギーにとりいれた。
 
>マァームーンは、この教義を実践するために「審理法廷」(W。注1)を作り上げたがコーランシャリーアに反するものであると、王朝内にごうごうたる非難の渦を巻き起こし、ムハマド、イブン、ハンバルがその先頭に立ってイスラムの原点への復帰を訴えた。
 
ハンバル学派 - Wikipedia(注2)はのちに
サウジアラビアワッハーブ派 - Wikipedia(注3)に影響を及ぼした。
 
>現代スンニ派原理主義者はこの人物、ハンバルを彼らの『始祖』とみなしている。
 
W。アッバース王朝の拡大と繁栄によって、巷ではイスラムの教えと法で収まりきらない事態が生じていたから
審理法廷」が必要になったのだと思う。Wの感覚では、真っ当な方途であり、たとえ当時の環境で否定されようとも、近代のイスラム教徒たるものは、そうした○反動、復古、伝統主義などの特徴 ○初期イスラームへの強い指向性を至上とすべきでなかった。宗教「改革」が歴史的に存在しない過去の理想郷への回帰になっている。
イスラム原理主義には偏狭な宗教反動思想が内在している。
 
****
審理法廷」(W。注1
 
「最初に生まれた神学を「ムータジラ派」と呼ぶ。この名前は神学の創始者の名前ではなく、「身を引く」とか「離れ去る」という意味のアラビア語にもとづく。創始者は誰か確定していないが、ワーシル・イブン・アター(748年没)あたりから始まったとされる。
 
>~とにかく、それまでのイスラームの『コーラン』と『ハーディス』万能の考え方から距離を置く考えを明確に打ち出した人々のことをいうようである
 
>その考えの新しさは、「理性」を重視する点である。重視するだけでなく、真理の基準として「理性」を認め、その絶対的権威を確立したとも言われる。
 
~従来は真理といえば神の啓示と予言者の言行に依る以外にこれに達する途はなかった。
 
>ところがムアタズィラによって始めて理性の自律が認められ、それによってイスラーム思想は哲学的思索の路に踏み出すことになった。
 
真理はコーランとスンナの外にも至るところに在るギリシャ思想、ペルシャ思想、インド思想、キリスト教ユダヤ教、形は何であれ、およそ理性の正しくすぐれた行使のあるところ真理は在る。かくて彼らはイスラーム以外の思想伝統にも真理の発露を見、それを探究した。この事実がイスラーム自身の思想発展にいかばかり強力な推進力となったかは想像にかたくないであろう」(『イスラーム思想史』、pp.56-57)
 
 
 
このような考え方が、アッバース朝前期からイスラーム界に広がり、回教暦22年には、第7代カリフ・マームーン(在位813~833年)がムータジラの教義を公認する法令を発布するに至り、同派の勢力は絶頂に達する。
 
*同派の活動は8世紀半ばから約2世紀にわたり、最盛期には6つの分派を包括する強大な神学上の学派を構成して、大小無数の書物が市場に溢れていたという。(上掲書、p.54)
人間を罪深いものとして創造し、その人間が悪行を犯したからといって、責任を人間に転嫁するような不当なことはされない
人間の行為はすべて人間によって創造されるのであり、したがってその行為の責任が人間に帰せられるのである。」
 
 
アッバース朝の最盛期 http://blog.goo.ne.jp/kantosekaisi/e/0f1066c8ae36b2c3be9fa82ee0651ed6
引用   W。この解説は分かり易く、<審理法廷>の歴史的背景を説明している。ハンバル法学は宗派主義に通じる。
「アッバース朝は「イスラム帝国」(W。帝国は諸属性の包摂。ローマ帝国を想起)と呼ばれるように、アラブ人の特権は廃止され、ムスリム間の平等が実現した時代です。
そのため、カリフは多民族帝国にふさわしく、民族を超越する存在であることが求められました。
これをカリフの神格化ととらえることができます。
 
>アッバース家第2代カリフのマンスールのとき、カリフの神格化が進み、さらに彼の手によって「平和の都(マディーナ=マッサラーム)」と言う名の都市バグダッドが建設されました。W。一説では150万人口
アラブ人至上主義の世界が終わり、イスラム教世界としてひとつにくくることができるイスラム文化圏が成立したわけです
 
同じ8世紀には中国の唐が「東アジア文化圏」を確立していたので、同時期にユーラシア大陸の東と西で、強大な文化圏が成立していたことになります。
西のバグダッドと東の長安はともに100万人の人口を持つ国際都市でもありました
 
 
 
2)ムウタズィラ派の主張
 神学的に見ると、ムウタズィラ派は神の属性を否定している
「心で神を知る」ことだと解釈している。つまり、神を直接見ることはあり得ないとの主張である。
このように神の属性を比喩的な表現と解釈しすべての属性を否定したW。イスラム帝国は普遍的世界的であろうとした。
 
>神の正義についても、神が悪を創造することはなく、人間に行動を創造する力を授けているので、人間が悪を行なったならば、その責任は人間にあると主張した。
 
ムウタズィラ派はもう一つ重要な主張を行なった。
それは「クルアーン被造物」説である
アッバース朝初期(827~48 年)にこの説が時のカリフ・マアムーンに認められ御用学派となった。
しかしムウタズィラ派の教説に従えば、被造物はいつかは壊れるものであるから、クルアーンもいつか無くなることになり、クルアーンは永遠の奇跡であるアッラーの言葉であるとのイスラームの教義に反するとの、反論を受けることになった。
この「クルアーン被造物」説を徹底的に否定した学者が先述したハンバル学派の創始者アフマド・イブン・ハンバルである。
結果的に、ムウタズィラ派は「クルアーン被造物」説が受け入れられず衰退していった
 
**********
この法学派はアフマド・イブン・ハンバル(855年没)を起源とするが実質的には彼の弟子たちによって始められた。ハンバル法学は非常に厳格・保守的で、特に教義や儀式に関する問題を扱う。ハンバル学派は主にサウジアラビアで流行しているが、近年では英語圏の人々に教える授業や教科書によって西方諸国でも復活しつつある。イスラームの聖地であるマッカマディーナでもおもな法学派である。
 
イブン・ハンバルはクルアーンに述べられていることを字義通り解釈することの重要性を強調し、これらの主張に反駁を繰り返している。
 
     <永遠なものの消滅> 
W。宗教哲学として原始的俗的で大衆に分かり易いのではではないだろうか。
永遠とは神であり神は一つであるために神の他には永遠なものは存在しない、というジャフム派やムウタズィラ派の説にイブン・ハンバルは反対した。
地獄天国は神が永遠であるようにしたので永遠だとイブン・ハンバルは考えていた。(つまり永遠性の根源は神にあり、被造物の永遠性は神からの付与によってはじめて成立する 。
 
     <見神>
W。カルヴァン派の予定説に似ているのか。
この世では神を直接見る事は不可能とされていたが、天国の人々は神からの恩典によって神を直接見ることができ、神は彼らに自分を最もたたえるようにさせたとイブン・ハンバルは信じた。しかしイブン・ハンバルはこの世界での見神は認めなかった。
来世に限って神に愛されたものには見ることができるようになるという。ムウタズィラ派とジャフム派はこの「見神」を天国でのものまで全面的に否定した。
 
   クワルーン(コーラン)
イメージ 1クルアーンは神の言葉であり、神の言葉は創造されたものではないので、クルアーンは創造されたものではなく、そしてクルアーンは神の言葉あるいは発言であり、神の啓示でもあると。対して、ムウタズィラ派やジャフム派は、読んだり触れたりできるクルアーンは他の創造された生物や存在と同じく創造されたものだと考えていた。クルアーンは確かに物であるが、他の物とは違って創造されたものではないとイブン・ハンバルは主張した。
 
   評価
 佐藤優は、イスラム過激派の95%以上は、ハンバル学派の出身であるとしている[2]。佐藤は、当学派について、『コーラン』や『ハディース』に世の中の全てのことが書かれているとし、世の中が一番正しかったのは、ムハンマドが生きていた6世紀の頃であり、時代が経れば経るほど退化するという思想であると述べている。
また、ハンバル学派のムスリムが多数を占めるサウジアラビア国家の目的は、「6世紀の当時に世界を変える(戻す)」であるとしている←W?
 
  ワッハーブ派注3
 
*資料 サウジアラビア問題関係資料
 
イメージ 3(1) オイルマネーで潤うレンティア国家、サウジアラビアの苦悩 ... 資源が枯渇するよりも、原油需要減少の危機感。
 
■ シリアより影響が大きいサウジアラビアの財政赤字 
原油価格が40ドルを切っていますが、中東の雄と言われるサウジアラビアの財政が均衡するのは107ドル/1バレルだとか現在の原油価格ではサウジアラビアは財政赤字に陥ります。
■ シェール潰しのはずが・・・ 
原油安の原因はサウジを始めとする産油国の利益を度外視した増産に有ると言われています。その目的はアメリカのシェール企業潰しだという意見を目にしますが・・・ここら辺は少し怪しいかと・・・。

イメージ 4>確かにシェール起業の採算ラインは70ドル/バレル程度なので40ドルではとても利益が出ません
>その為、シェール企業は効率の良い油井に生産を集中して原価を下げています
>現在、アメリカの生産を続けている油井は最盛期の1/3に減少していますが、日量平均は900万バレルとそれ程減少はしていません

>一方、シェールビジネスはウォール街から資金調達していましたが、これが難しくなっています。
>そこで、手持ちの株や有価証券などを売り払いって急場を凌いでいます。
>原油も価格が少しでも改善した時に先物市場でヘッジ売りをして利益を拡大しています。

*このヘッジ売りが原油価格の上値を抑えてしまうので、原油価格は安値を脱する事が出来ない。

結果的にシェール企業も青色吐息ですが、原油安の継続はサウジアラビアやロシアなどの産油国の経済や財政を等しく圧迫しています
 
 
「イスラム原理主義」  岡倉著  
ムスリム同胞団 ~現代原理主義の出発点 P106引用
イメージ 2W。この解説を読めば、現代原理主義団体と理解する方が正しいようである。 ハンバルはの系譜に属する宗教思想と見てよいが、ハンバル法学派をさらに卑俗、大衆的にした半世俗的教義である。
「~~エジプトの小学校教師ハサン、バンナー(1906年~1949年によって創設された。
イギリスの庇護を受け、腐敗政治の頂点に立っていた王政~からエジプトを救うためには~~
>イスラムの聖典コーランとハディースに基づくイスラムの基本に回帰する以外にない。
>つまりイスラム教の原理原点に立ち返帰らなければならないと主張した。
>ちなみにムスリム同胞団は
神はわれ等が目標、預言者は我らの指導者。コーランは我らが憲法。
*闘争は我らが道。
*神のために死すことは我らの願いの中でも最も高尚なこと。
*神は偉大なり神は偉大なり」と云う信条を掲げていた。」
 
  近代ヨーロッパの弊害
バンナーは当初
「アッラーは人間の方で自分の状態を変えない限り,,決してある民族のあり様を変えたりなさらない」と云うコーランの教えに基づく原理主義の立場から精神修養的な活動を展開した。
誰にも明かり易い教義であったため、ムスリム同胞団は官吏、学生、商店主、農民の間にまたたく間に浸透していった。
Wその後アラブ書庫いくに広がった。
1945年ごろからしだいに政治色を強める一方で、イギリス人や親イギリス的な政府要人に対するテロ活動を開始した。
 
>バンナーによればヨーロッパはエジプトを占領したばかりでなく、軍隊はイスラムに異教徒の習慣、言語、科学宗教を持ち込みヨーロッパ物質文明とそ手がもたらした近代化は格差を拡大させ、「アッラーはの前では平等である」イスラム社会を崩壊の危機に落としいれた。
バンナー暗殺後(1949年)
 
サイイド・クトゥブ - Wikipediaは、アメリカ滞在中、~西欧文明に嫌悪感を抱き、~全ての社会的、政治的問題の解決に回答を与えるのはイスラム以外にないと確信した。
 
クプトのキー概念は7世紀にイスラムが登場する以前にアラビアを覆っていたジャーヒーリーア(無知、多神教の社会)であった。
西欧文明であろうと、イスラムであろうとジャーヒーリーア(無知、多神教の社会)に陥った社会を急激に変革するためには絶対的な神の支配を受け入れることであり、そのため的うとのジハードを行わなければならないという考えだった
 
W。ナセル政権への参加の願いは、裏切られてぎられてしまい、1954年ナセル暗殺未遂事件、を口実にした弾圧。
1965年国家転覆陰謀発覚、同胞団はほぼ全員逮捕。
11年間の獄中生活の間に多くの書書をあらわし、
イラン革命のホメイニ、様々な同胞団から分かれたエジプト原理主義暗殺グループに影響を与えた。
 
    <原理主義が成長した背景>
W。1967年対イスラエル6日間戦争の大敗北によるアラブの大敗、1970年ナセルの急死によるアラブ民族主義の失墜。
 
    <アイデンティーの危機>
W。危機は上記の理由であるという。
W。1970年代後半以降、中東各国がこの危機を乗り越えるためによりどころを求めたのがイスラム。
「全体的なアイデンティー危機の結果、支配階級の支配の正当性を持ちえない危機に陥った。
W。サダトはイスラムに自らの支配の正当性を見出した。同胞団は、反支配階層、反西欧、アラブ国家社会主義への対抗軸として復権した。
さらに、中東強権支配に体制は政権維持のために政権に対する敗退勢力を弾圧し、コレに対してイスラム原理主義は反支配階層、反西欧的傾向を一気に強めてるにいたった。
 
    <西欧化する化イスラム世界>