反俗日記

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陳舜臣 中国ライブラリー「中国歴史の旅」を歴史年表に沿って解題する

  陳舜臣 中国ライブラリー 中国歴史の旅
W。日中韓の20世紀の並列歴史年表が欲しいのだが、ネットでは今のところ適当なものが見つからず。~継続追求課題~


 日露戦争の【外貨調達】 ヨーロッパ、アメリカのユダヤ金融が中心
「~日露戦争開戦前年の1903年明治36年)の一般会計歳入は2.6億円であり、~ 結局日本は1904年から1906年にかけ合計6次の外債発行により、借り換え調達を含め総額1万3000ポンド約13億円弱)の外貨公債を発行した。この内最初の4回、8200万ポンドの起債が実質的な戦費調達資金であり、あとの2回は好条件への切り替え発行であった。完済したのは1986年(昭和61年)である。
国の一般・特別会計によると日露戦争の戦費総額は18億2629万円とされる
(高橋)是清(これきよ)は4月にイギリスで、額面100ポンドに対して発行価格を93.5ポンドまで値下げし、日本の関税収入を抵当とする好条件で、イギリスの銀行家たちと1ヶ月以上交渉の末、ようやくロンドンでの500万ポンド外債発行の成算を得た。またロンドンに滞在中であり、帝政ロシアを敵視するドイツ系のアメリカユダヤ人銀行家ジェイコブ・シフの知遇を得、ニューヨークの金融街として残額500万ポンドの外債引き受けおよび追加融資を獲得。
~キーワード。英・仏ロスチャイルドアメリユダヤ金融ドイツユダヤ金融~
日露戦争の戦費は(戦費17億円は国家予算6年分外債8億、9億内債増税)。
 
>W。日露戦争、日比谷焼き討ち事件の日本国民の反応について、数年前のウィキペデア解説文では、戦争=賠償金で儲かるという安直な排外主義→『日清戦争と比較にならないほど多くの犠牲者や膨大な戦費(対外債務も含む)を支出したにも関わらず、直接的な賠償金が得られなかった。そのため、世論の非難(日本内部)が高まり、暴徒と化した民衆』に対する痛烈な批判と陸奥宗光の日本の将来に対する危惧が載っていた
今回確認するとそのような観点の文言は削除され、すべてが政府や新聞が詳しい情報を国民に知らせなかった、ことに原因がある、とされている。
 下線部分は、当時の状況を今日風な視点から解釈した仮定である。
そういえば、司馬遼太郎日露戦争の戦後処理について、国民に情報をキチンと伝えなかった、ことに大きな誤りがあった、と発言している。
誤解を恐れずに云えば、情報を伝えても、聴く耳をもつ土台があったかどうか?
情報公開をするような、政治体制であったかどうか? 
  
→??議定書の実効的内容と歴史推移の結果と真反対の解説。恥を知れ!こんな歴史に対する大嘘解説がよくできるものだ。条約文の文言とそれを好都合に解釈した実効支配の実態は違う。
日本による、韓国施政忠告権や臨検収用権など、日本側に有利な条項もあるが、反面、日本政府は、韓国皇室、韓国の独立及び領土を確実に保障し、片務的防衛義務を負うなどとしており、一方的に日本に有利なものとはなっていない。」
    ↑
日本支配層の日米安保論とおなじ文脈→片務安保から日本も責任分担とか国際貢献(双務)の美辞麗句←いいように利用されるということだ。上記の日韓議定書の解説から類推して、おおよそのところがわかるだろう。集団自衛権関連の法整備=米世界戦略の自衛隊下請けと日本国民収奪の分け前日米支配層で分配。
 
1919年5月4日 五四(ごし)運動→日本米騒動http://ja.wikipedia.org/wiki/1918%E5%B9%B4%E7%B1%B3%E9%A8%92%E5%8B%95解説OK。 【1918年辛亥革命】    
3月2日 - コミンテルン(第3インターナショナル)創立
3月23日 - イタリアベニート・ムッソリーニが「戦士のファッショ(後のファシスト党)」を
 


   引用、  陳舜臣 中国ライブラリー 中国歴史の旅  W。日本の21カ条要求を巡る日中の動向
「日本の大熊内閣は、この既成事実を突きつけ、ドイツの山東省権益の継承のみならず、満蒙権益の強化や合弁、顧問その他についての独占的優先権を、袁世凱の北京政府に要求したものです。
 要求は全部で21カ条ありました
 
W。次の項目は省いてもよいが、東アジア軍事同盟内のアメリカの立ち回り方として参考になる
「そもそもに日本の参戦は、日英同盟を表面の理由にしていますが、大隈首相は閣議で、「わが国のシナにおける権利を伸長する』と説明しています。コレが本音だったのは言うまでもありません。」
 
中国人はコレを【第二の日韓議定書】と受け止め、大きなショックを受けました。
 
日露戦争開戦と同時に、日本は日韓議定書に調印しました。
1904年のことで、
はじめは財政外交の顧問の派遣を決めたのですが、やがて顧問が実権を握ります。


  
     日韓議定書の解説文当該箇所の引用  
「施政忠告権
韓国政府は、施政の改善に関し、日本政府の忠告を容れる事」
 
 W、要は軍事的優位に基づく実行支配力の問題。日本が韓国領土や王家を守るということは、圧倒的な力関係の優位の中では、政治的軍事的に支配するということに直結する。
それを片務的義務を日本は負ったなどというのは、黒を白と言いくるめることだ。
この関係を李王朝と民衆側から見ると、<理念的には>外国勢力に介入させない政治的軍事的力をつけ駆使すること、これ以外の道はなかった。が、近代化への遅れは決定的で選択肢は無かった。帝国主義時代の歴史発展段階=反植民地の戦いの問題になってしまった。
 
W、日韓議定書の他の項目は日本が守ってやる、第三国の力を借りて抜け駆けを許さない、という項目である。そうすると、政治権力の中枢を掌握するための施政忠告権を強化し、各種のリアルなハードルを適時、越えたら、自ずから、朝鮮植民地化の道が開ける。子供でもわかる論理である。コレが解っていて、大嘘をついているのが、ウィキペディア日韓議定書の解説文である。こんな現代史のキーポイントを鵜呑みにしていくと、とんでもない歴史解釈が完成する。
そんな見解は通用しない地域も多い、と知らなければならない。

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    翌年1905年、日本は韓国の外交権を完全掌握し、2年後に、
1907年、韓国の内政全般が、日本の伊藤博文統督のもとに置かれ、その3年後の
1910年8月に、韓国は日本に併合(W用語?)されました。
 
21か条の要求提出はその4年半前にすぎなかったのです。(W。年表の勘違い。21カ条要求は1919年)
中国人は直ぐ目の前に、一つの生々しい亡国を見せ付けられたことになります。
併合ー亡国。その発端の議定書。
この韓国の前例に、中国に知識人が危機感を持ったのは当然のことでしょう。
しかも数年前から文学革命の動きがあり様々な新思想が、切実なものとして中国青年に受け入れられつつありました。」
  
 次の事態も実にリアルで、今日的に参考になる。小手先の手練手管に注目。力には通用しなかった
袁世凱は朗詠と引き伸ばし作戦に出ました。
始め日本側は特に中国の外交部を通さずに、直接、袁世凱に要求を提出し、コトを極秘にするように希望したのです。
 コレが新聞に漏れましたが、その『亜細亜日報』という新聞は袁世凱御用新聞でしたから、故意にもらしたのは想像にかたくありません。
 
 秘密漏洩は列強の干渉を期待しての作戦でしょうが、そうは問屋がおろさないのです。
列強は自分たちの利害に関する項目については関心を示しましたが、それ以外については冷淡でした。
日本は列強からの紹介に対しては、『その項目は要求ではなく希望に過ぎない』と弁解したものです」
 
 5月7日、日本政府は5月9日午後6時と期限を切って、最後通牒を発し、中国政府は5月8日に受諾を決定しました。
中国の世論は悲憤に沸きかえり5月7日を『国恥記念日』とすることにしたのです。毎年、この日は実質的に『抗日デー』となりました。」
   
     半植民地状態における帝国主義と買弁の関係
「その後~(袁世凱の後継者が)鉱山採掘権や鉄道施設権などを抵当に、日本からしきりに金を借りましたが、これは南方の護法勢力を鎮圧する軍事費にあてる為です。(W。典型的な買弁の行動様式。)
>大隈首相は21か条というを鳴らし、後継の寺内首相は借款という飴をなめさせたことになります。」
 
 英米仏伊日の5大国が、牛耳るヴェルサイユ講和条約会議に半植民地国家は無力。
アメリカの別行動は中国大陸権益への新参者として、将来の分け前獲得への布石
以降、中国に深く食い込んだアメリカと急速に権益拡張する日本の利害は衝突するようになる
なお、ロシアは革命中。敗者ドイツは手かせ足かせ状態。
 
「(第一次世界大戦における戦勝国の一員として)中国は既にに受諾した21か条の協約の無効を宣言して欲しいと申し入れました。
最後通牒という異常な状態で、脅迫による受諾という理由でした。
 しかし、日本はすでに各国に働きかけを行い、アメリカ以外の三国から支持の密約を取り付けていました。  ヴェルサイユ講和条約会議は、英米仏伊日の5大国が、大抵のことを決めてしまう仕組みになっていたのです。小国のか細い主張も、5大国会議を通じて出なければ、取り挙げてもらえません」 

 参考資料 毛沢東  日本帝国主義に反対する戦術について(一九三五年十二月二十七日) 2014/7/20(日) 午後 8:02引用   W。上記の陳舜臣の21カ条要求を巡る中国情勢を、1、伸張する日本帝国主義の動向。2、中国人民の戦い、3、帝国主義相互の争いという主要要素に分類して、動態的均衡的に捉えると次のようになる。
 
「当面の情勢の基本的特徴は、日本帝国主義が中国を植民地に変えようとしていることである。
周知のように、ほぼ百年らい、中国はいくつもの帝国主義国が共同で支配する半植民地国であった。
中国人民の帝国主義にたいする闘争と帝国主義国相互間の闘争によって中国はなお半独立の地位をたもっている」
       
  毛沢東は続いて、その後の中国の半植民地、半独立の経緯を的確に描いている。
「1)第一次世界大戦は、ある期間、日本帝国主義に中国をひとりじめする機会をあたえた
だが、中国人民の日本帝国主義反対の闘争と他の帝国主義国の干渉によって、当時の売国奴のかしら袁世凱が署名した日本にたいする屈服と投降の条約二十一ヵ条は、無効終わらざるをえなかった。
 
2)1922年には、アメリカの招集したワシントン九ヵ国会議で条約がむすばれて、中国はふたたびいくつかの帝国主義国が共同で支配する状態にもどった
 
3)ところが、まもなく、こうした状況にもまた変化がおきた。
1931年9、18の事変で、中国を日本の植民地にかえる段階がはじまったのである。
(W。満州国樹立を中国を日本の植民地にかえる段階が始まった、とターニングポイントとしている)
ただ、日本の侵略の範囲がしばら東北四省にかぎられていたことから、人びとは日本帝国主義者がおそらくそれ以上前進することはあるまいとおもっていた。
 
4)こんにちでは事情がちがっている。
日本帝国主義者は、中国中心部に進出し、全中国を占領しようとしていることを、すでにはっきりとしめしている。
いま日本帝国主義は、全中国をいくつかの帝国主義国がわけまえにあずかる半値民地の状態から、日本が独占する植民地の状態に変えようとしている
(W。日本帝国主義満州国樹立は世界恐慌脱出への対応の要素が強いが、
それ以降の、カイライ満州国エリアからの進出は、(イ)軍国主義イデオロギー軍部の政治主導強化、(2)戦争で大儲けする強欲な資本、(3)戦争景気に沸く国内の世論、の複合動因によるものである。
 
 結局は日本資本主義の資本蓄積過程の、後進性、脆弱性、底の浅さが、根底にあっての、満蒙戦線拡大、日中戦争突入であった、と考える。この大きな奔流は政府の政策、外交交渉でコントロールできるものでなかった。惰性が付いた巨石が坂路を転がり落ちるのを、止める術は無かった。
 
 1920年代から財政に占める軍事関連費の割合は40%を超えていた。
 
確かにファナティックな国体主義者が30年代に入って、急速に政治権力を得たが、例え政党政治家が政権の座にあったとしても、同じ道を辿ったと見る。軍国、国民世論という要素も考慮しなければならない。)

「19世紀後半以降、歩兵は射程距離の長いライフル銃を装備するようになった。これにより弾幕射撃の威力と精度が増し、ナポレオン戦争の時代まで勝敗を決する地位を占めてきた騎兵突撃が無力化された
一方で、第一次世界大戦において初めて本格的に投入された飛行機戦車などの兵器は、性能や数量がいまだ不十分であり、戦場において決定的な役割を果たすまでには至らなかった。第一次世界大戦における戦場の主役は、攻撃においても防御においても歩兵だった。
このような防御側優位の状況の中、西部戦線では塹壕戦が生起した。
スイス国境からイギリス海峡まで延びた塹壕線に沿って数百万の若者が動員され、ライフル銃や機関銃による弾幕射撃の前に生身の体をさらした。こうして、それまでに行われた国家間の戦争に比べ、死傷者の数が飛躍的に増加した。また、塹壕戦を制する目的で、第一次世界大戦では初めて化学兵器(毒ガス)が使われた。」
W。その後、ヨーロッパ戦線に参戦した主要国は、人的被害の多い塹壕を張り巡らせた防衛陣地→集団突撃、を克服する戦術、兵器を追求する。火力、航空機による敵陣に徹底的なダメージを与えた後に、戦車、装甲車を先頭に歩兵の前進、敵一掃、地域占拠。
 
第二次世界大戦の主戦場ヨーロッパ戦線に派兵していない日本は、第二次世界大戦の教訓に学んで、兵器と戦略の改良を進めた欧米列強に後れを取っていた。ノモンハン事変(1939年)で体験していたが、急速にかえれるはずも無く、そのままにしていた。中国戦線の相手は半植民地の軍閥である。日本が強敵と真正面から総力戦をしたのは太平洋戦線が初めてだった。兵器の質と戦争のやり方が違いすぎた。