反俗日記

多方面のジャンルについて探求する。

第2回、<想像の共同体>。吉本隆明著「共同幻想論」1968年初版、河出書房新社刊行。~国家と家族、国民国家、ナショナリズムを理解するためのメモ~

 

shakaigaku.exblog.jp

 ベネディクト・アンダーソン『想像の共同体』は歴史的事実を学者的に仕分けし、結論の項目を導き出しているが吉本「共同幻想論」は国家、家族、共同体を理解するためのユニークな建付けの議論である。

 議論の枠組みの設定の仕方に独創性があり、読者をハッとさせるところがある。

ところが過去の吉本理論に接した限りの感想は、家構えは人目を惹く、立派なものでも家の中が伽藍洞である場合が多かった。吉本理論は難解といわれる所以は実証性に欠けているところにあるようだ。詰めが甘い。

反俗日記で良寛を特集したときも吉本が仏教の古代宗教性をキリスト教儒教イスラム教と対比したとき、地理学(地政学)的観点と歴史性を混合させて議論しているところに感心したが、結局、ズバリと言い当てているように思える用語的な規定はあってもその規定が実証されていないところに不満を持った。

*****

 アンダーソンの「想像の共同体」のネットに出ている一番簡潔、適切な解説文はコレである。しかしその議論は吉本とは逆にハッとさせられるところがない。

 唯一、今使える儀燐的枠組みは以下のところである。

引用

「  国民意識の起源

出版資本主義によって流通することになった特定の俗語(出版語)の流通は、その言葉によって「国民」というものが想像される基盤となりました。たとえばルターの翻訳と著作の流通は、「ドイツ語」をはなす「ドイツ国民」というものを想像させることになりました。ではこの共同体を想像させる基盤のうえにどのようにナショナリズムは展開していったのでしょうか。意外なことにその端初は新大陸にあったのです。

   ナショナリズムの変遷

ナショナリズムはまず最初、クレオールナショナリズム、として生まれました。

 

ぎゃくに、本国との行き帰りをしている人間は、けっして新大陸「アメリカ人」にはなれっこないのだ、我々クレオールこそが「アメリカ人」なのだという、裏返しの「誇り高き」アイデンティティをもたらしたのです。そしてその誇りが独立戦争W。アメリカ革命戦争と理解すれば伝播先のフランス革命との思想政治論的なつながりが解る!を戦いぬき、そのために死をも厭わぬ行動の起動力となったのです。
 また新聞はその行政区である地方クレオール印刷業者 によって担われ、紙面は植民地行政の報道するため、この植民地の行政区が1つの単位として人びとに受け止められました。
 こうしたクレオールナショナリズムの現象は、スペインの植民地だけでなく、ポルトガルの植民地(ブラジル)でも、そしてイギリスの植民地(アメリカ)でもまったく同様でした。

>W.コレで米国流儀の民主主義が国体化しているという丸山真男の指摘が筋道をもって理解できる。

 かつての日本が大戦末期に天皇制を植民地,半植民地に押し付けたと同じ位相だが

>より過激より根源的に雑種混合的であるがゆえに米国は国家統一に米国流民主主義を国体化するだけではなく、20世紀最新の覇権国家として暴力強制的及び文化的に他国に移植しようとする

ただされだけであればイデオロギーと制度の強要の範囲に収まるが、グローバル資本制の新自由主義市場を当該国に移植し、貢物をかすめ取ろうとしている。コレは民主主義の仮面をかぶった帝国主義(グローバル金融寡頭制支配)そのものである。EU帝国主義の概念が当てはまる。

  

   俗語ナショナリズム

~W.作用と反作用で世界は変わっていく~W.そのとき戦争は結節点的役割を果たしてきたのは火を見るよりも明らか。人類は氷河期のメンタリティー、フィジカルから抜けきっていない!⇒地球の現段階は所詮「猿」の惑星!

*****

引用文に戻る

大陸での動き旧大陸に影響をもたらしました。

俗語によって地域区分されます。たとえば、イタリア語やポルトガル語と大差ないスペイン語言語学者の活躍によって独立の言語として確立し結果スペインという地域が確定されました。⇒W。アメリカ大陸のクレオール国民国家の形成ヨーロッパ大陸に反作用し、フランス革命に少々される国民国家が形成された際に、南米大陸とスペンインを通底した見方は、新しい歴史の見方である。

  封建制から絶対王政への移行は、官僚中間層の増大

W。反俗日記

中国⇒美国。これ以外に表音表現はない

日本⇒米国(べいこく)=アメリ

中国でももともとは「米」の字が使用されていたらしい。

@日本にはそれが伝わってきたのである。

1860年をさかいに、中国では「美」の字が使用されることが多くなったという。

つまり、日本のほうが古い表記が生き残っているのである。

W。なぜなんだ?⇒古い表現は縁辺部に残って、中心部は新しい表現に変わった。

アホ・バカ分布図 - Wikipedia

>W。上記の視点は自分の歴史の見方(民衆史観)ではない!雑学は排除し(民衆史観)の視点で一貫すべきだった。

なぜ中国のほうは変わってしまったのか

上海語(北京中国語と上海語は大きく~昔は通じないほど~違うらしい)や北方の方言この時代、北京語は標準語になっていなかったのか?

中央集権国民国家形成期~~欧米侵略によって清王朝は<絶対主義的王朝>への変質を迫られた。

>日本の徳川幕藩体制下でも絶対主義権力化によって欧米に備えるしかなかった。明治いしんは絶対主義政治への転回だった。天皇を担ぎ出した勢力が幕藩体制への勝利は絶対主義イデオロギー上も優越していた。徳川公武合体でも良かったというのは、絶対主義政治の中心核に徳川旧体制を置く完全な間違いである。日本の絶対主義政権が天皇制でなくてはならなかったのは、覇権長期維持のために天皇制の残存を許した徳川封建体制が決定したようなものだ。~~の統一的な教育政策によるものでは「米」の字はmiと発音していた。それよりは、北方方言のmei、あるいは上海語でmeと発音する「美」の字のほうが、アメリカの「メ」の音に発音が近くなる

1860年ころから、中国語の翻訳語の基準が上海に移ったために表記法が変わり、それが現在の日中の違いにも反映されているということだ

********

引用文に戻る

大陸での動きは旧大陸に影響をもたらしました。

~~

「俗語を読み書きできる読書人の増大するとどうじに、俗語教育(ドイツ語教育やイタリア語教育などなど)が増大します。こうして俗語言語によるまとまりが「国民(民族)」として意識されるようになると、アメリカ独立やフランス革命「国民による国家の樹立」という、「国民国家」の枠組みで解釈するようになりました。⇒W。この見方は納得できない。欧米人の自己歴史の美化ではないのか?

 

 公定ナショナリズム

W。動態的(リアル政治)分析であり、感心した。

こうしたナショナリズムの盛り上がりにたいして、上からのナショナリズムがおこなわれました。本来ならナショナリズムに趨勢によって排除されたり周辺に 追いやられる権力集団が先手を打つことで民衆からのナショナリズムの盛り上がり応戦したのです。ここでは、国民と王国という本来なら矛盾するものが、その矛盾を隠蔽されて結合されます。⇒W。フランス革命後のルイ=ナポレオン/ナポレオン3世

W.

どこの近代国家にもこういう民衆ナショナリズムの上からの簒奪傾向(強弱や形態は違うが)はある。

引用文 W.以下は的確過ぎるほど!

たとえば、プロイセン王国によるドイツの統一は、辺境の地にあり、ロシアにまで食い込んでいたプロイセンという田舎の王がドイツの皇帝に化けました。⇒W。イタリア国王も元サルジニア国王の成り上がり。

またフランス語を話していたロマノフ王朝の「ロシア化け」してロシアの皇帝になりました。⇒W。ロシア化は知らなかった。日本人はロシアの歴史を知らない。たぶん欧米人もしらないのではないか?なぜならば、ロシアは古代中国史でいうヨーロッパの<中原>~黄河中流域平野部~に進出したのは第二次世界大戦のときの地上戦でナチスを追ってベルリンを占領したときが最初であった。

日本では忘れられた存在だった天皇が日本帝国の皇帝となり、さらに、その帝国は朝鮮人、台湾人、満州人を取り込みました。

*******

W。参考資料 ~マルクストロツキーを引用しているところを見るとE・H・カー - Wikipedia の系譜のロシア観である。英文の教科書に推奨されている。

アイザック・ドイッチャー - Wikipedia程緊張感はない。トロツキー3部作。

トロツキーの「わが生涯」は最高傑作。

book.asahi.com

近代日本の天皇制国家と同じく地政学的優位性~周辺が半近代~があった。

引用

1613年~1918年。ロマノフ王朝

1613年にロマノフ朝が成立して以来、ロシア帝国は1日につき55平方マイル(142平方キロメートル)の速度で領土の拡大を続けた。年間にすれば、実に2万平方マイル(5万平方キロメートル)の割合で拡大したことになる。

 19世紀末、ロシア帝国は地球の陸地面積の6分の1を支配下に収めたが、そこで止まらず、さらに版図の拡大を続ける勢いを示していた。帝国領土の拡大はロマノフ朝にとっていわば血の伝統だったのである。」⇒大ロシア主義は近代化の遅れたアジアでの日本の近代化=資本主義化、侵略帝国主義化と軌を一にする。いずれにせよ世界の近代化、資本主義化の周辺、過疎地域での<領域>拡大であった。きっちり拡張した領域内の統治は不可能だった。

イヴァン4世 - Wikipedia

イワン雷帝 (映画) - Wikipedia

イワン雷帝』(イワンらいてい 原題:Иван Грозный)は、1944年から1946年にかけて制作されたソ連映画セルゲイ・エイゼンシュテイン監督。

W。大衆動員、物理力を駆使した黒澤明的映像美はあった。最も黒沢が影響を受けているのかもしれない。一部は国策映画かな?

W。2部が禁止されたのは宮廷官僚への粛清が出てくるからだ。

W。

戦艦ポチョムキン - Wikipediaは世界映画史に残る傑作。無声映画の良さも出ている。民衆蜂起。弱いものが団結すれば勝てる。舞台はウクライナオデッサ港に臨む大階段のコサック兵による虐殺。オデッサ沿岸に浮かぶ戦艦ポチョムキンの乗組員の叛乱。最後の場面で戦艦に勝利の旗が上がる。チャップリン映画など斜に構えて話にならない。

“イワン雷帝”ことイヴァン4世の生涯を描いた作品。全3部構成で制作される予定であったが、第1部は時の権力者ヨシフ・スターリンから高く評価されたものの、第2部はスターリンを暗に批判した内容であったため上映禁止となり[1]、第3部は完成されなかった。第2部のラスト数分がカラー映像になっている。

  植民地ナショナリズム

第1次世界大戦後の植民地において、「若き」現地エリートによるナショナリズムが生まれました。たとえば、ベトナムインドネシア、アフリカの諸国。彼ら現地エリートは植民国をおこなった教育と官僚制度のなかで教育をうけエリート官僚となり、そうして独立の担い手となったのです。

             時間不足で次回へ