世界史の窓
ドイツの遅れとナポレオン戦争の衝撃
1792年9月、ヴァルミーの戦いでフランス軍に敗れ後退した。反撃に転じたフランス軍はライン川を越えてドイツに侵入、占領地では主権在民・封建課税と特権の廃止などの社会変革を宣言、革命理念がドイツ内に持ち込まれることとなった。
ドイツ国民国家への機運
①神聖ローマ帝国の消滅
②ナポレオン支配下のドイツ
プロイセンの改革
ナポレオンの支配によって、貴族の封建的特権の廃止、内閣制度などの官僚制政治体制、営業の自由、そして人権と自由という近代社会の理念がドイツに持ち込まれ、ドイツ社会には大きな衝撃となり、民族の統一と社会の改革は必須の課題となった。ナポレオンはドイツにおいて、国民国家形成の「触媒」の働きをしたと言うことができる。
改革は農民解放をはじめに、内閣制の確立、地方自治、営業の自由、関税の撤廃、国民軍の創設、教育改革など多岐にわたり、プロイセンの政治と社会・経済の近代化。
ウィーン体制下のドイツ・ドイツ帝国の成立
1814~15年、ナポレオン戦争後のヨーロッパの秩序
フランス革命とナポレオン戦争後のヨーロッパを、それ以前の状態に戻すこと
その頃日本は ウィーン会議が開催されていた1814~15年の日本は江戸時代、将軍徳川家斉の文化11~12年に当たる。各地に飢饉が広がり、打ちこわしが起こった。
1840年代にはドイツの産業革命が進展し、ドイツの鉄道の普及も進んだ。
ドイツ統一問題の難航
1848年革命がフランスの二月革命をはじめとして全ヨーロッパに波及、
ベルリンとウィーンでは三月革命が起こり、メッテルニヒは失脚、ウィーン体制が崩壊した。ただちにドイツでは選挙によって選ばれた代議員によって1848年5月、フランクフルト国民議会がが開設され、ドイツ統一が討議された。しかし議会はプロイセン王国を中心とした小ドイツ主義か、オーストリア帝国を含む大ドイツ主義か、というドイツ統一問題で難航し、オーストリアを含まないでのドイツ国家建設を結論としたがプロイセン国王がそれを拒否したため、統一は実現しなかった。このころ、文学者であり言語学者であるグリム兄弟は、民話の中にドイツ国民意識の底流を見出そうと、民話の収集に努め『グリム童話』を刊行している。
ビスマルクの登場
1862年、ユンカー出身のビスマルクが首相に就任した。彼はプロイセン王国をドイツ統一の主役とすることに成功した。彼は軍備を増強して1864年にデンマーク戦争をしかけて領土を拡張し、1866年の普墺戦争ではオーストリアと対決してドイツ連邦を解体に導き、ドイツ統一の主導権を握り、1867年に北ドイツ連邦を結成した。 ビスマルクはさらにフランスを挑発して1870年、普仏戦争でナポレオン3世のフランス軍を破り、アルザス・ロレーヌを獲得し、パリに入城しさらに1871年1月8日、ヴェルサイユ宮殿でヴィルヘルム2世の皇帝即位式を挙行してドイツ帝国を成立させた。
1888年、ヴィルヘルム1世が死去し、ヴィルヘルム2世が即位すると、社会主義者鎮圧法の廃止、独露再保障条約の廃棄など新たな方針を打ち出し、1890年3月にビスマルクが辞任(実質的な罷免)し、プロイセン時代から入れれば30年近く続いたビスマルク時代は終わり、ヴィルヘルム2世による「新航路」といわれる時期となった。
ドイツ(6) 第一次世界大戦
ヴィルヘルム2世の世界政策は、イギリスとの帝国主義と対立、さらにオーストリアとの同盟関係からバルカンでのロシアと対立し、イギリス・ロシア・フランスなどと戦う第一次世界大戦に突入した。
ヴィルヘルム2世の世界政策
ドイツ帝国ではビスマルク時代の軍国主義のもとで軍備優先の重工業化が進み、19世紀末に一気に第二次産業革命に突入し、帝国主義に達した。そのようなドイツ資本主義の急速な発展を背景に、ヴィルヘルム2世は従来のビスマルクの施政を改め、「新航路」に転換させた。その外交政策は、ビルマルク外交的な他国との同盟関係を重視するものではなく、ドイツ独自の積極的な世界政策にのりだし、海外植民地の獲得を目指した。しかし列強による植民地分割はすでに進んでおり、ドイツのこの動きは列強間の緊張を高めることとなった。バルカン方面から西アジアに進出を狙ってバグダッド鉄道を建設しようという3B政策は、イギリスの3C政策と衝突し、アフリカのモロッコを巡ってはフランスとの間で二度にわたるモロッコ事件が起こった。またバルカン侵出はロシアの南下政策と鋭く対立した。
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W。
大日本帝国憲法1889年(明治22年)。大日本帝国憲法発布まで作成者たちの動向。ドイツ帝国憲法を参照した大日本帝国憲法事情が明快な基本視座によって、まとめられている。上記の世界史の窓、ドイツ編に示されたドイツ近代化、資本制導入、第一次第二次産業革命から、第一次帝国主義戦争に至る金融寡頭制帝国主義が先発資本主義国の世界市場の分割とぶつかる政治軍事経済の歴史的推移を押さえておくこと。
こういった歴史視座に立てば、第二次帝国主義戦争に至る日本帝国主義の政治軍事経済の歴史的推移は、第一次帝国主義戦争におけるドイツ敗北の図式を後追いした、ように見える。この類推からいえば、ドイツ帝国憲法下でドイツ敗北と同じく、
>第二次帝国主義戦争における日本敗北は大日本帝国憲法とそのレジュームの敗北であったといえる。
ゆえに大日本帝国憲法の根幹の改変は避けられなかった。また、日本の植民地獲得戦争を必然化した大日本帝国憲法下のレジュームがもたらした国内市場の狭隘化は打破しなければならなかった。
引用
そして、1889(明治22)年2月11日、大日本帝国憲法が欽定憲法として、明治天皇が黒田首相に手渡すカタチで発布されました。
(欽定憲法・・・・天皇が制定した憲法のこと。因みに民定憲法とは、国民が作った憲法。)
ここにアジア初の近代憲法を持つ国が誕生しました。
明治維新以降、欧米諸国に対抗するべく近代国家樹立を目指してきた日本は、ここでようやく立憲体制の樹立という1つのピリオドを打ったのです。
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「日本はなぜ、ドイツの憲法を手本にしたのか」に触れながら、大日本帝国憲法が発布されるにいたるまでのストーリーを紹介していこうと思います。
天皇を通じて国会開設を約束した政府は、憲法作成に乗り出します。その際、政府の最大の目的は、「天皇の権限を利用して、人民を支配すること」です。一方、国内では自由民権運動が盛り上がりを見せ、フランス流の自由党、イギリス流の立憲改進党が結成されました。これに対抗するべく政府はドイツの君主制の強い憲法に着目し、その目的を果たそうとしたのです。
1、「明治政府がドイツに強い興味を示したのは、岩倉使節団として欧米を視察した時に遡ります。岩倉らは、アメリカ、イギリス、フランス、ロシア、イタリア、そしてドイツの視察をしました。」
2、
岩倉らが欧米を視察した1871年、プロイセンはビスマルク首相の強いリーダーシップによりフランスとの戦争(普仏戦争)に勝利。プロイセンはドイツ帝国として成立しました。
「万国公法よりも力の理論」を説くビスマルクは、国家の統一に必要なのは、鉄と血、つまり兵器と兵士であるとする鉄血演説を行いました。
岩倉使節団員の大久保利通や木戸孝允、そして伊藤博文はこの演説に強い感銘を受けます。日本が今後、軍事国家を目指すのは、このドイツ帝国を範にしているからなのです。
3、
岩倉使節団が帰国した後、1870年代半ばから、政府に対し、憲法の制定や参政権を求めて国内で自由民権運動が盛り上がってきます。次第に民権派は、どのような国会で、どのような憲法を作るかを具体的に提起していきます。
一方、政府内部では、「開拓史官有物払い下げ事件」の世間への暴露は、参議・大隈重信と民権派が手を組んで行った陰謀ではないかと疑いが湧きあがります。
4、国会開設の勅諭1890年明治22年によって民権運動は議会内政党運動に収れんされていく。←W。
1881(明治14)年、政府は大隈を罷免。(明治14年の政変)同時に、1890(明治23)年を期して国会を開設することを約束した国会開設の勅諭を明治天皇の名前で宣言しました。
5、
国会開設が決まったところで、板垣退助を党首としたフランス流の自由党、さらに政府から追放された大隈重信を党首としたイギリス流の立憲改進党が結成されます。両者は、当時、既に民主国家として成立していたフランスやイギリスをモデルとした政治形態を謳う政党です。
6、
一院制で主権在民(国民主権)、さらに君主のいない共和制のフランス、ニ院制で君主の権限が制限されている立憲君主制のイギリス。この両者をモデルとした憲法を作ってしまうと天皇の権限が著しく低下するだけでなく、人民に主導権を奪われてしまうと危惧した政府は、民権派に対抗するべくドイツの君主制の強い憲法をモデルに憲法草案を作成することに決めました。
(君主とは、西洋では国王のことを指し、日本では天皇のことを指します。)
7
岩倉具視は、伊藤博文にドイツ帝国へ憲法調査に向かうよう命令します。
こうして伊藤博文らは憲法調査のためにドイツに向けて1882(明治15)年3月14日、横浜を出港した。憲法調査団の中には、皇室制度などを調べるために西園寺公望なども随行します。
伊藤ら一行は同年5月2日、イタリアのナポリを通って、16日にベルリンに到着。翌1883年2月まで滞在することになります。
到着して間もなく、伊藤はビスマルク首相に面会を求めて言いました。
「我々は、憲法調査のために欧州にやってきた。ベルリンはその拠点にしたい」
面会に応じたビスマルクは答えます。
「出来る限りの協力は惜しまない。」
ビスマルクはドイツ法曹界の最高権威であるベルリン大学教授のグナイストや、ウィーン大学のシュタインなどからドイツ憲法の概要について講義を受けました。
(ウィーン大学・・・当時、オーストリアは1866年の普墺戦争でプロイセンに敗れ、ドイツの支配下に置かれていた。)
伊藤らは、体系的な法体系を学ぶためにグナイストやシュタインからプロイセン憲法の概論について講義を受けます。
さらに、グナイストの紹介で、ドイツの国法学・行政学者でベルリン市裁判所判事であるアルベルト・モッセから講義を受けます。モッセの講義内容は非常に充実おり、伊藤らはプロイセン憲法制定の歴史、国王の地位、国民の要件、選挙制度、政府と議会の関係、司法、警察、財政、地方自治などの講義を受けました。
モッセは後の1886年(明治19)年、お雇い外国人として来日し、内務省法律顧問として就任。日本の地方自治制度の起草において活躍します。
8、
憲法調査団一行は、1883(明治16)年8月3日に帰国します。
翌1884(明治17)年から伊藤はプロイセン憲法を手本に本格的な憲法草案を書き始めました。憲法草案はドイツ人顧問ロエスエルの指導のもと、何度も加筆修正を加えながらどんどん起草されていきます。
9
翌1885(明治18)年、内閣制度が発足され、伊藤は、初代内閣総理大臣に就任します。それに伴い、今後、日本の立憲体制はどんどん整備されていきます。
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1888年には、先程のモッセの指導のもと、山縣有朋を中心に市制・町村制が制定されるなど地方自治制度も確立していきます。
同年、憲法の番人とよばれた枢密院が設置されます。伊藤は黒田清隆に内閣を譲り、枢密院の議長として憲法作成の最終段階に入ります。
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そして、1889(明治22)年2月11日、大日本帝国憲法が欽定憲法として、明治天皇が黒田首相に手渡すカタチで発布されました。
(欽定憲法・・・・天皇が制定した憲法のこと。因みに民定憲法とは、国民が作った憲法。)
ここにアジア初の近代憲法を持つ国が誕生しました。
明治維新以降、欧米諸国に対抗するべく近代国家樹立を目指してきた日本は、ここでようやく立憲体制の樹立という1つのピリオドを打ったのです。
その後、日本は憲法発布に伴い、立憲体制をどんどん整備します。そして1889年、大日本帝国憲法が発布されたことで、アジア初の近代憲法を持つ国となった日本は各地で祝賀イベントが開催されました。しかし、憲法の規定する帝国議会は人々の望んだ主権在民(国民主権)とは程遠く、後の大正デモクラシーを引き起こす原因になるのでした・・。